第七章 「芽依の嘘の、本当のところ」
十二月に入って、山梨は本格的に冷えてきた。
朝、自転車で学校に向かうと、葡萄棚の間を吹き抜ける風が耳を刺すようになった。手袋をしていても指先が冷たくなる。富士山の頂は真っ白で、もう完全に冬の山の顔をしていた。
それでも屋上に行くのをやめなかった。
芽依も来た。
二人で肩をくっつけて、冷たい空気の中でお弁当を食べた。それだけのことが、なんだかやめられなくなっていた。
ある火曜日の昼休み、芽依がいつもより口数が少なかった。
食べている間も、いつもなら「それ何のおかずですか」とか「今日の空、富士山がくっきり見えますね」とか、そういう小さな言葉を出してくるのに、今日は黙ってお弁当箱を見ていた。
……何かあった。
私は聞くべきか迷って、結局聞かないことにした。芽依が話したい時は話してくれる。それはもうわかっている。
ただ、黙って隣にいた。
それで十分だということも、もうわかっていた。
昼休みが終わる少し前、芽依がようやく口を開いた。
「凛」
「うん」
「一つだけ、聞いていいですか」
「聞いてから判断する」
芽依が少し笑った。私のこの返し方を、もう気に入っているらしい。
「私のこと、知りたいと思いますか。全部じゃなくていいから、もう少しだけ」
少し間があった。
「思う」
「……全部じゃなくていいですか」
「急かさないって言った。全部じゃなくていい」
芽依がお弁当のふたをゆっくり閉じた。
「じゃあ、今日の放課後、少し時間もらえますか」
「ある」
「ありがとう」
芽依の声が、いつもより一段低かった。
二
放課後、学校の裏の自転車置き場ではなく、芽依は「駅の方に行きたい」と言った。
小淵沢駅まで二人で自転車を走らせた。十二月の午後四時はもうほとんど夕暮れで、山の稜線が橙色に縁取られていた。駅前の小さなベンチに並んで座った。人はほとんどいない。遠くで電車の音がした。
芽依がリュックから手帳を出した。古びた手帳で、カバーの角が少し擦れていた。
「これ、高一の時から書いてるんですけど」
「日記?」
「日記というか、思ったことを書く場所。ちゃんとした文章じゃなくて、その日感じたことをそのまま」
芽依は手帳を開かなかった。ただ、膝の上で表紙を撫でていた。
「東京にいた時、私、自分に嘘をついていたんです」
静かな声だった。電車の音が遠ざかって、また静かになった。
「穂乃果のことが好きだって、気づいていたのに。ずっと前から。でもそれを認めるのが怖くて、友達として好きなだけだって自分に言い聞かせてた」
「……穂乃果さんが告白してきた時は?」
「その時に初めて、直視した感じがしました。あ、私も同じ気持ちだったんだって。でも同時に、それを認めたらもう取り消せないって思って」
取り消せない。
「怖かった?」
「怖かったです。穂乃果のことを好きだって認めることより、その先が怖くて。うまくいかなかった時に、長年の関係が全部変わってしまうのが」
「それで逃げてきた」
「逃げてきました」
芽依は手帳の表紙をもう一度撫でてから、ゆっくりと開いた。真ん中あたりのページを見せてくれた。細かい字がびっしりと書いてある。
「これが、山梨に来てすぐの頃のページです。読まなくていいんですけど、こんなにごちゃごちゃしてました」
見ると、文章というより言葉の断片が並んでいた。「逃げた」「ごめん」「でも」「わからない」「なんで」「こわい」。そういう言葉が行と行の間に詰め込まれていた。
「最近のページは?」
「最近は」芽依はもう少し後ろのページを開いた。「違います」
見ると、今度は長い文章になっていた。
「屋上が好き」「梅のおにぎり」「凛が待っていてくれた」「富士山が見える」「山梨に来て良かった」。
そういう言葉が、ちゃんとした文章の中に収まっていた。
私は何も言えなかった。
言う必要がなかった。
「……変わりましたね、私」
「変わった」
「凛がいてくれたから」
「私は何もしてない」
「してます。ただそこにいてくれる、っていうのが、私には一番大事なことだったから」
夕暮れの光が、芽依の横顔をオレンジ色に染めていた。風が吹いて、芽依の前髪が揺れた。手帳のページがぱらぱらとめくれて、また静かになった。
「もう一つ、言っていいですか」
「言っていい」
芽依が手帳を閉じた。ゆっくりと、私の方を向いた。
「穂乃果への気持ちと、凛への気持ちは、同じじゃないんです」
予想していなかった言葉だった。
「……どう違うの」
「穂乃果のことは、ずっと一緒にいた人だから好きで、変わってほしくなかった。凛のことは、変わっていく場所に一緒にいてほしい」
変わっていく場所に、一緒にいてほしい。
「……それ、どっちがいいとかじゃないから」私は正直に言った。「どっちも、大事な気持ちだと思う」
「わかってます」芽依は小さく頷いた。「でも、凛に聞いてほしかっただけです。誰かに言葉にして言いたかった」
「言えた?」
「言えました」
「じゃあ良かった」
芽依が少しだけ笑った。泣きそうな笑顔だったが、泣かなかった。
「凛って、時々すごくちょうどいい言葉を言いますね」
「普通のことしか言ってない」
「普通のことがちょうどいいんです。大げさじゃないから」
遠くで電車の音がした。今度は近づいてくる方向だった。
三
帰り道は二人とも、それほど多くを話さなかった。
でも沈黙が重くなかった。言葉を尽くした後の静けさというのは、こういう感じなのかもしれない。
農道に差し掛かった時、芽依が自転車を降りてハンドルを手で持ちながら歩き始めた。私もつられて降りた。自転車を押しながら並んで歩く。葡萄棚の向こうに富士山がかろうじて見えた。山頂の雪が夕焼けを反射して、ほんのり桃色に光っていた。
「凛は、山梨から出ようと思ったことありますか」
突然の質問だった。
「ある」
「え、あるんですか」
「高一の時、少し。東京の大学に行って、違う場所で生きてみたいと思った時期があった」
「今は?」
私は少し考えた。葡萄棚の向こうに富士山が見える。この景色は、ここにしかない。
「今は、出ることも出ないことも、どちらでもいいかなと思ってる。出たら出たで、別の景色があるだろうし。でも今はまだここにいたい」
「今は、っていうのが正直ですね」
「今が変わるかもしれないから」
芽依が「そうですね」と言った。その言葉には、何かを納めるような響きがあった。
「凛」
「うん」
「私も、今はここにいたい」
今は、という言葉の使い方が私と似ていた。先のことは言わない。でも今はそう思っている、という意味の「今は」。
それで十分だった。
四
その夜、芽依からメッセージが来た。
芽依: 今日、話せて良かったです。
芽依: ずっと誰かに話したかったことだったから。
凛: 聞けて良かった。
芽依: 凛って、感想を言わないですね。「大変だったね」とか「つらかったね」とか。
凛: そういう言葉、なんか違う気がして。
芽依: 違わないです。でも、凛がそう言わないのも、ちょうどよかったです。
芽依: ただ聞いてくれる人って、なかなかいないから。
凛: 芽依が話してくれるから聞いてるだけ。
芽依: ……凛。
凛: なに。
芽依: 一つだけ聞いていいですか。
芽依: 私が穂乃果のことを話すの、嫌じゃないですか。
少し考えた。
凛: 嫌じゃない。
凛: 芽依の大事な話だから。
芽依: 嫉妬とか、ないですか。
また少し考えた。正直に言う方が、芽依には伝わると思った。
凛: ゼロではない。
凛: でも、それより芽依が全部話せた方がいいと思ってる。
凛: 嫉妬を優先したら、芽依の話し場所がなくなる。それの方が嫌。
しばらく既読がつかなかった。
三分くらい経ってから、返信が来た。
芽依: ……ありがとうございます。
芽依: そういうことが言える人、初めてです。
凛: 普通のことだって。
芽依: 普通じゃないです、凛にとっても。
芽依: だからありがとう。
返し方がわからなくて、スタンプを送ろうとしたが適当なものがなくて、結局こうなった。
凛: おやすみ。
芽依: おやすみなさい。また明日、凛。
「また明日」という言葉は、昨日より少しだけ重かった。
でも今日はもう、それが嫌じゃなかった。
五
翌朝。
学校に着いて、ホームルームが始まる前に、芽依が振り返って小さな紙切れを渡してきた。
「なに」
「手帳に書いてたやつ、昨日のやつ。凛に渡したくて、手で書いてきました」
細い字で、こう書いてあった。
変わっていく場所に、一緒にいてほしい人がいる。
下に一言だけ添えてあった。
それが凛です。
私はその紙を二つ折りにして、教科書の間に挟んだ。
「ありがとう」
「照れてますか」
「照れてない」
「顔が赤いです」
「寒いから」
「教室の中ですよ」
芽依が笑った。私は前を向いた。耳が少し熱かった。
先生が入ってきて、授業が始まった。
私は教科書を開きながら、さっきの紙のことを考えた。
変わっていく場所に、一緒にいてほしい人。
私も、たぶん、そう思っている。
まだ言葉にする勇気はないけれど。
でも、この紙を捨てようとは全く思わなかった。
山梨の冬は、まだ続く。
富士山は今日も、普通にそこにある。
それが、今は一番大事なことだった。




