第六章 「好き、の次の日」
「好き」と言った。
その翌朝、目が覚めた瞬間から、すでに後悔の波が来ていた。
後悔、というのは正確ではない。言ったことを消したいわけではない。ただ、昨日の夕方の農道の記憶が、朝の光の中でやたらと鮮明に蘇ってきて、その鮮明さが少し、恥ずかしかった。
布団をかぶった。
……言ってしまったものは仕方ない。
起きた。顔を洗った。お弁当を作った。おにぎりは二個作った。梅と、昆布と。梅は芽依の好みで昆布は私の好みで、気がついたらそういう配分になっていた。
いつから知っていたんだろう、芽依の好みを。
自転車に乗って、山梨の朝の空気を吸った。冷たくて、少し甘くて、葡萄の残り香がする。葡萄の収穫はもうずっと前に終わっているのに、この辺りの空気には年中どこかそういう匂いが残っている。
富士山は今日も、普通にそこにあった。
普通に、か。
昨日の私は農道の真ん中で「好きだ」と言って、芽依も「好きです」と言って、それから二人で笑って、何事もなかったように並んで歩いて帰った。
何事もなかったように、とは言えないかもしれない。ただ、特別なことは何も起きなかった。手を繋いだわけでも、泣いたわけでも、飛び跳ねたわけでもない。ただ、笑っていた。
それで良かったと思う。
でも、今日の顔の作り方がわからない。
学校に着いて、下駄箱で靴を履き替えていたら、後ろから声がした。
「おはようございます、桐島さん」
「……おはよう」
振り返ったら芽依だった。いつも通りの制服。いつも通りの前髪。いつも通りのキツネみたいな目。ただ、頬が昨日より少しだけ色づいていた。外の寒さのせいか、それとも別の理由か、判断がつかなかった。
「今日も屋上、行きますか」
「行く」
「良かった」
「なんで良かったの」
「いてくれる確認したかったので」
……いてくれる確認。
なんだそれと思ったが、不思議と嫌ではなかった。私は「行くから」とだけ言って、教室に向かった。芽依が後ろをついてきた。
朝のホームルームが始まって、授業が始まって、私はいつも通りノートを取った。芽依はいつも通り一つ前の席にいた。
ただ、一度だけ、芽依が振り返った。目が合った。芽依が小さく笑った。私も小さく笑い返した。
それだけで、何か、十分な気がした。
二
昼休み、屋上。
今日のお弁当を開いたら、芽依が「梅だ」と言った。
「好きでしょ」
「好きです。わかってくれてるんですね」
「なんとなく」
「なんとなくって言うけど、ちゃんと覚えてくれてる」
芽依が嬉しそうに言うから、私は富士山の方を向いた。返す言葉が見つからない時、富士山が役に立つ。
「桐島さん」
「なに」
「昨日のこと、夢じゃないですよね」
少し考えた。昨日の農道、芽依の横顔、冷たい風、笑った顔。
「夢じゃない」
「良かった」
「また良かった」
「だって昨日から何度も確認してしまって。夢だったら困るので」
「困らなくていい。夢じゃない」
芽依がおにぎりを一口食べた。
「桐島さんって、改めて言うとすごいですよね」
「何が」
「屋上に来て、おにぎり分けてくれて、道で正直に言ってくれて」
「全部普通のことしかしてない」
「普通じゃないです」
「普通だって」
「……じゃあ桐島さんにとっての普通が、私には全然普通じゃなかったってことで」
少し間があった。芽依が続けた。
「東京にいた時、こういう普通、なかったから」
さらっと言った。でも重さがあった。さらっと言えるようになったということは、もう少し整理できてきたのかもしれない。
「東京の話、してもいい?」
「はい」
「いつでもしていい。急かさないけど」
「わかってます」芽依は少しだけ目を細めた。「それも、ありがたいです」
風が吹いた。葡萄棚の乾いた葉が音を立てた。富士山が雲の隙間から顔を出して、すぐまた隠れた。
「桐島さん」
「うん」
「名前で呼んでもいいですか」
……名前。
「どうぞ」
「凛、さん」
少し間があった。
「さんはいらない」
「……凛」
初めて自分の名前が、違う音に聞こえた。名前なんて毎日呼ばれているのに、芽依の口から出ると、どこか遠くの言葉みたいに聞こえた。
悪くなかった。
「芽依」
「はい」
「こっちも呼ぶ」
「……うれしいです」
三
放課後、田中さんに捕まった。
「ねえ桐島、最近なんか雰囲気違わない?」
「そう?」
「なんか顔が、穏やか? いつもより口角上がってる気がする」
口角。言われてみると確かに、今日一日、何度か顔が緩んだ自覚がある。授業中に芽依の後ろ頭を見ていた時とか、昼休みに名前を呼ばれた時とか。
「気のせいじゃない」
「気のせいじゃない、って認めるんだ」
「……別に否定する理由もない」
田中さんが目を丸くしてから、にっこり笑った。
「白石さんと何かあった?」
「何もない」
「絶対ある」
「何もない」
「顔が赤いよ桐島」
私は「寒いから」と言って、さっさと下駄箱を出た。後ろから田中さんの笑い声が聞こえた。
外に出たら、芽依が自転車のそばで待っていた。当たり前みたいに、普通の顔をして。
「待ってたの」
「はい」
「言ってくれたら一緒に出たのに」
「でも田中さんと話してたから」
「聞こえてた?」
「少し」芽依は少しだけ笑った。「口角って言われてました?」
私は何も言わずに自転車を押し始めた。芽依が隣を歩いた。
「凛」
「なに」
「今日、お顔は普通でしたよ。全然わかんなかったです」
「……そう」
「でも、なんか、いつもよりあったかかったです。ちょっとだけ」
……あったかかった。
そういう言い方をする子だ、この子は。見たものをそのまま言葉にする。
嫌いじゃない。むしろ好きだ。
「芽依」
「はい」
「今日のご飯、うちで食べる?」
芽依が少し驚いた顔をしてから、目が細くなった。
「……いいんですか」
「いい。母親が昨日からレシピ実験してて、食べる人間が足りないって言ってたから」
「建前が上手ですね、凛は」
「建前じゃない」
「……うれしいです」
四
うちの母は、芽依を見た瞬間に「かわいい子!」と言って、それから三十分、農業と料理の話を一方的に話し続けた。芽依はずっと笑顔でうんうんと聞いていた。
私はその横で黙って夕食を食べた。
食後、私の部屋で二人になった。芽依は部屋を見渡してから「思ったより本が多いですね」と言った。
「読むから」
「どんな本が好きですか」
「山とか自然の描写が多いやつ」
「凛らしい」
「凛らしいってどういう意味」
「根っこが深そうな感じ」
根っこが深そう。変な言い方だと思ったけど、なぜか否定できなかった。
「芽依は?読む?」
「都市の話が多いです。東京を舞台にしたやつとか」
「故郷が恋しい?」
芽依は少し間を置いた。部屋の窓の外、山のシルエットが暗闇に浮かんでいる。
「……故郷というか、慣れ親しんだ景色が、かな。山梨も好きになってきてるけど、たまに、東京のビルとか人混みとか、ふっと懐かしくなる瞬間があって」
「それは普通のことだと思う」
「そうですかね」
「新しい場所に来ても、全部忘れる必要はない」
芽依が私の方を向いた。
「……凛って、なんか、ちゃんとしてますね」
「ちゃんとって何」
「人の気持ちの置き場を、わかってる感じ」
それは褒め言葉なのか、それとも観察なのか。芽依の言葉はたまにそういう、どちらとも取れる言い方をする。
「わかってるわけじゃない。ただ、自分がそうだから」
「山梨が好きで、でも山梨しかないわけでもなくて?」
「……まあ」
芽依が少し笑った。それから膝を抱えて、部屋の隅の本棚を眺めた。
「ねえ凛」
「うん」
「私がここにいる間、もっとたくさん話してもいいですか。こういう話」
「こういう話って」
「東京のこととか、穂乃果のこととか、私がまだ上手く言えないこととか」
私はしばらく考えた。
考えるまでもなかった。
「いい」
「……ありがとう」
「ただし、急かさない代わりに、こっちも急かさないでくれ」
「凛も話すことがあるんですか」
「少しくらいは」
芽依が「うれしいです」と言った。三回目の「うれしいです」だったが、毎回少しずつ形が違った。今日一番やわらかい声だった。
五
芽依が帰ったあと、一人で部屋に戻った。
机の上のスマートフォンを見た。通知はない。芽依から「今日はありがとうございました」というメッセージが来たのは、さっき玄関で見送ってから五分後のことだった。
芽依: 今日はありがとうございました。ごはん、おいしかったです。
芽依: お母さんも、すごく楽しかったです。
芽依: また来ていいですか。
凛: いい。
凛: 母が喜ぶから。
芽依: 建前が上手ですね。
凛: ……おやすみ。
芽依: おやすみなさい、凛。
芽依: また明日。
「また明日」という言葉が、なんかいつもより重かった。重い、というのは悪い意味じゃない。ちゃんとした重さがある、という意味だ。
電気を消した。
布団に入った。
窓の外、山梨の夜空に、星がいくつか出ていた。
昨日と今日で、何かが変わった。でも何が変わったか、うまく言葉にならない。
ただ、一つだけわかることがある。
明日、また屋上に行く。芽依が来る。おにぎりを二個持っていく。それだけで、なんかもう、十分な気がした。
……悪くない。
山梨の冬が、静かに深まっていく。




