表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

第六章 「好き、の次の日」

「好き」と言った。

その翌朝、目が覚めた瞬間から、すでに後悔の波が来ていた。


後悔、というのは正確ではない。言ったことを消したいわけではない。ただ、昨日の夕方の農道の記憶が、朝の光の中でやたらと鮮明に蘇ってきて、その鮮明さが少し、恥ずかしかった。

布団をかぶった。


……言ってしまったものは仕方ない。


起きた。顔を洗った。お弁当を作った。おにぎりは二個作った。梅と、昆布と。梅は芽依の好みで昆布は私の好みで、気がついたらそういう配分になっていた。

いつから知っていたんだろう、芽依の好みを。


自転車に乗って、山梨の朝の空気を吸った。冷たくて、少し甘くて、葡萄の残り香がする。葡萄の収穫はもうずっと前に終わっているのに、この辺りの空気には年中どこかそういう匂いが残っている。

富士山は今日も、普通にそこにあった。


普通に、か。


昨日の私は農道の真ん中で「好きだ」と言って、芽依も「好きです」と言って、それから二人で笑って、何事もなかったように並んで歩いて帰った。

何事もなかったように、とは言えないかもしれない。ただ、特別なことは何も起きなかった。手を繋いだわけでも、泣いたわけでも、飛び跳ねたわけでもない。ただ、笑っていた。

それで良かったと思う。

でも、今日の顔の作り方がわからない。


学校に着いて、下駄箱で靴を履き替えていたら、後ろから声がした。


「おはようございます、桐島さん」

「……おはよう」


振り返ったら芽依だった。いつも通りの制服。いつも通りの前髪。いつも通りのキツネみたいな目。ただ、頬が昨日より少しだけ色づいていた。外の寒さのせいか、それとも別の理由か、判断がつかなかった。


「今日も屋上、行きますか」

「行く」

「良かった」

「なんで良かったの」

「いてくれる確認したかったので」


……いてくれる確認。


なんだそれと思ったが、不思議と嫌ではなかった。私は「行くから」とだけ言って、教室に向かった。芽依が後ろをついてきた。

朝のホームルームが始まって、授業が始まって、私はいつも通りノートを取った。芽依はいつも通り一つ前の席にいた。

ただ、一度だけ、芽依が振り返った。目が合った。芽依が小さく笑った。私も小さく笑い返した。

それだけで、何か、十分な気がした。


昼休み、屋上。


今日のお弁当を開いたら、芽依が「梅だ」と言った。

「好きでしょ」

「好きです。わかってくれてるんですね」

「なんとなく」

「なんとなくって言うけど、ちゃんと覚えてくれてる」


芽依が嬉しそうに言うから、私は富士山の方を向いた。返す言葉が見つからない時、富士山が役に立つ。


「桐島さん」

「なに」

「昨日のこと、夢じゃないですよね」


少し考えた。昨日の農道、芽依の横顔、冷たい風、笑った顔。


「夢じゃない」

「良かった」

「また良かった」

「だって昨日から何度も確認してしまって。夢だったら困るので」

「困らなくていい。夢じゃない」


芽依がおにぎりを一口食べた。


「桐島さんって、改めて言うとすごいですよね」

「何が」

「屋上に来て、おにぎり分けてくれて、道で正直に言ってくれて」

「全部普通のことしかしてない」

「普通じゃないです」

「普通だって」

「……じゃあ桐島さんにとっての普通が、私には全然普通じゃなかったってことで」


少し間があった。芽依が続けた。


「東京にいた時、こういう普通、なかったから」


さらっと言った。でも重さがあった。さらっと言えるようになったということは、もう少し整理できてきたのかもしれない。


「東京の話、してもいい?」

「はい」

「いつでもしていい。急かさないけど」

「わかってます」芽依は少しだけ目を細めた。「それも、ありがたいです」


風が吹いた。葡萄棚の乾いた葉が音を立てた。富士山が雲の隙間から顔を出して、すぐまた隠れた。


「桐島さん」

「うん」

「名前で呼んでもいいですか」


……名前。


「どうぞ」

「凛、さん」


少し間があった。


「さんはいらない」

「……凛」


初めて自分の名前が、違う音に聞こえた。名前なんて毎日呼ばれているのに、芽依の口から出ると、どこか遠くの言葉みたいに聞こえた。

悪くなかった。


「芽依」

「はい」

「こっちも呼ぶ」

「……うれしいです」


放課後、田中さんに捕まった。


「ねえ桐島、最近なんか雰囲気違わない?」

「そう?」

「なんか顔が、穏やか? いつもより口角上がってる気がする」


口角。言われてみると確かに、今日一日、何度か顔が緩んだ自覚がある。授業中に芽依の後ろ頭を見ていた時とか、昼休みに名前を呼ばれた時とか。


「気のせいじゃない」

「気のせいじゃない、って認めるんだ」

「……別に否定する理由もない」


田中さんが目を丸くしてから、にっこり笑った。


「白石さんと何かあった?」

「何もない」

「絶対ある」

「何もない」

「顔が赤いよ桐島」


私は「寒いから」と言って、さっさと下駄箱を出た。後ろから田中さんの笑い声が聞こえた。


外に出たら、芽依が自転車のそばで待っていた。当たり前みたいに、普通の顔をして。


「待ってたの」

「はい」

「言ってくれたら一緒に出たのに」

「でも田中さんと話してたから」

「聞こえてた?」

「少し」芽依は少しだけ笑った。「口角って言われてました?」


私は何も言わずに自転車を押し始めた。芽依が隣を歩いた。


「凛」

「なに」

「今日、お顔は普通でしたよ。全然わかんなかったです」

「……そう」

「でも、なんか、いつもよりあったかかったです。ちょっとだけ」


……あったかかった。


そういう言い方をする子だ、この子は。見たものをそのまま言葉にする。

嫌いじゃない。むしろ好きだ。


「芽依」

「はい」

「今日のご飯、うちで食べる?」


芽依が少し驚いた顔をしてから、目が細くなった。


「……いいんですか」

「いい。母親が昨日からレシピ実験してて、食べる人間が足りないって言ってたから」

「建前が上手ですね、凛は」

「建前じゃない」

「……うれしいです」


うちの母は、芽依を見た瞬間に「かわいい子!」と言って、それから三十分、農業と料理の話を一方的に話し続けた。芽依はずっと笑顔でうんうんと聞いていた。


私はその横で黙って夕食を食べた。


食後、私の部屋で二人になった。芽依は部屋を見渡してから「思ったより本が多いですね」と言った。

「読むから」

「どんな本が好きですか」

「山とか自然の描写が多いやつ」

「凛らしい」

「凛らしいってどういう意味」

「根っこが深そうな感じ」


根っこが深そう。変な言い方だと思ったけど、なぜか否定できなかった。


「芽依は?読む?」

「都市の話が多いです。東京を舞台にしたやつとか」

「故郷が恋しい?」


芽依は少し間を置いた。部屋の窓の外、山のシルエットが暗闇に浮かんでいる。


「……故郷というか、慣れ親しんだ景色が、かな。山梨も好きになってきてるけど、たまに、東京のビルとか人混みとか、ふっと懐かしくなる瞬間があって」

「それは普通のことだと思う」

「そうですかね」

「新しい場所に来ても、全部忘れる必要はない」


芽依が私の方を向いた。


「……凛って、なんか、ちゃんとしてますね」

「ちゃんとって何」

「人の気持ちの置き場を、わかってる感じ」


それは褒め言葉なのか、それとも観察なのか。芽依の言葉はたまにそういう、どちらとも取れる言い方をする。


「わかってるわけじゃない。ただ、自分がそうだから」

「山梨が好きで、でも山梨しかないわけでもなくて?」

「……まあ」


芽依が少し笑った。それから膝を抱えて、部屋の隅の本棚を眺めた。


「ねえ凛」

「うん」

「私がここにいる間、もっとたくさん話してもいいですか。こういう話」

「こういう話って」

「東京のこととか、穂乃果のこととか、私がまだ上手く言えないこととか」


私はしばらく考えた。

考えるまでもなかった。


「いい」

「……ありがとう」

「ただし、急かさない代わりに、こっちも急かさないでくれ」

「凛も話すことがあるんですか」

「少しくらいは」


芽依が「うれしいです」と言った。三回目の「うれしいです」だったが、毎回少しずつ形が違った。今日一番やわらかい声だった。


芽依が帰ったあと、一人で部屋に戻った。


机の上のスマートフォンを見た。通知はない。芽依から「今日はありがとうございました」というメッセージが来たのは、さっき玄関で見送ってから五分後のことだった。


芽依: 今日はありがとうございました。ごはん、おいしかったです。

芽依: お母さんも、すごく楽しかったです。

芽依: また来ていいですか。


凛: いい。

凛: 母が喜ぶから。


芽依: 建前が上手ですね。


凛: ……おやすみ。


芽依: おやすみなさい、凛。

芽依: また明日。


「また明日」という言葉が、なんかいつもより重かった。重い、というのは悪い意味じゃない。ちゃんとした重さがある、という意味だ。


電気を消した。

布団に入った。

窓の外、山梨の夜空に、星がいくつか出ていた。


昨日と今日で、何かが変わった。でも何が変わったか、うまく言葉にならない。

ただ、一つだけわかることがある。


明日、また屋上に行く。芽依が来る。おにぎりを二個持っていく。それだけで、なんかもう、十分な気がした。


……悪くない。


山梨の冬が、静かに深まっていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ