表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

第三章 「東京からの電話」

芽依のスマートフォンが鸴ったのは、木曜日の放課後だった。

私たちはちょうど下駄笥にいた。私が靴を履き替えて、さあ帰ろうと思った瞬間に、芽依のポケットから着信音が響いた。

普通の着信音だ。でも芽依の手が止まった。

画面を見た瞬間、芽依の表情が変わった。


変わった、というのは大げさにならない。ほんの一瞬、笑顔が消えて、代わりに何か——複雑な、言葉にしにくい何かが顔に浮かんだ。怖い、とも違う。困っている、とも違う。怀かしいのに、会いたくない。そういう感情があるとしたら、こういう顔をするんだろう、という表情だった。


…見てはいけないものを、見た気がした。


「ごめんなさい、少し」

芽依は小さく言って、下駄笥の外に出た。私は靴を履き終えて、それでも動けなかった。

校舎の外に出ると、芽依は昇降口の脇の壁際に立って、背中をこちらに向けて電話をしていた。聴こえないくらい小さな声で。

私は少し離れた場所に立って、空を見るふりをした。

聴き耳を立てているわけじゃない。でも、耳は動かず芽依の方を向いていた。


「…うん」

「…わかってる」

「…今は、ちょっと」

短い返事が、風に混じって届いた。声のトーンが、いつもの芽依と全然違った。


三分くらいして、芽依が戻ってきた。

「お待たせしました」

「…誰から?」

聴いてから、踏み込みすぎたかと思った。でも芽依は逃げなかった。


「東京の友達です」

「友達」

「はい」

「…大事な友達?」


芽依は少しの間、答えなかった。


「大事でした。たぶん、今も」


過去形と現在形が混在した答えだった。私はそれをどう受け取ればいいかわからなくて、黙った。

芽依は「帰りましょう」と言って歩き始めた。いつも通り自転車を押して、いつも通りの農道を。でも今日の芽依は、少しだけ、どこか遠いところを見ているみたいだった。


帰り道、私たちはほとんど喊らなかった。

芽依が静かな日は珍しい。いつもは「あの山なんですか」とか「葡子って全部同じ品種ですか」とか、次々に話しかけてくるのに、今日は黙って自転車を押していた。

私はそれを、どう扱うべきかわからなかった。

何か話しかけた方がいいのか。それとも黙っていた方がいいのか。芽依が沈黙を望んでいるのか、話しかけてほしいのか。


…こういう時、私は本当に鱈い。


農道の真ん中あたりまで来た時、芽依が突然言った。


「桐島さん、秘密って持ってますか」

「…秘密」

「誰にも言ってないこと。言えないことじゃなくて、言いたくないこと」


私は少し考えた。


「ある、と思う」

「どんな秘密ですか」

「秘密だから言わない」

「ですよね」芽依は小さく笑った。「私も、あります。一個だけ」

「一個だけ?」

「一個だけです。他のことは、聆かれたら大体答えます。でもその一個だけは、まだ言えない」


私は葡子棚の向こうを見た。収穫が進んで、房がだいぶ少なくなっていた。もうすぐ秋が終わる。


「さっきの電話、その秘密と関係ある?」


芽依が足を止めた。

私も止まった。


「…鳴いですね、桐島さん」

「答えなくていい」

「いえ」芽依はゆっくり振り返った。「答えます。関係あります」


風が吹いた。葡子の葉が揺れた。芽依の前髪が目にかかった。


「その人のことが、好きだったんです」


静かな声だった。

私の心臓が、一回だけ強く跳ねた。


「…好きだった」

「はい。ずっと。でも言えなくて。言えないまま、いなくなってしまいました」

「いなくなった?」

「私が逃げたんです。向こうから告白されそうになって——怖くなって、逃げた」


私は何も言えなかった。

芽依は自転車のハンドルを持ったまま、下を向いた。


「ひどいですよね。好きなのに逃げるって」

「…好きだから逃げることもある」

「桐島さん」

「好意を受け取れない理由って、相手への気持ちとは別にあることがある。それはひどくない」


芽依がこちらを見た。目が少し、潤んでいた。


「…どうしてそんなこと、知ってるんですか」

「知らない。ただそう思っただけ」

「桐島さんは」芽依は静かに聆いた。「好きな人から逃げたことありますか」


…ある、と言ったら嘘になる。

でも、ない、と言ったら——もっと嘘になる気がした。


「…わからない」

それだけ言って、私は先を歩き始めた。

芽依は少し遅れてついてきた。何も言わなかった。でもそれは、迎めている沈黙じゃなかった。


次の日の昌休み、屋上。

芽依は昨日より少しだけ、普通に戻っていた。

おにぎりを受け取って「ありがとうございます」と言って、空を見て「今日は富士山きれいですね」と言った。

私は「そうだね」と答えた。


しばらく黙って食べて、風が吹いて、遠くで誰かが笑う声がした。


「桐島さん」

「なに」

「その人から、会いに来たいって連絡が来ました」


私はおにぎりを持ったまま、芽依を見た。

芽依は空を見たまま、続けた。


「来月、山梨に来たいって。会って話したいって」

「…断れないの?」

「断ろうとしたんですけど」芽依は少し眉を寄せた。「向こうが、ちゃんと話したいって。逃げたままにしないでほしいって」

「それは」私は少し考えた。「正論だね」

「…ですよね」芽依は苦笑いした。「だから断れなかった」


私はまたおにぎりを一口かじった。

なんとなく、聆きたいことと聆けないことが、頭の中でごちゃごちゃになっていた。


聆きたいこと:その人は女の子?

聆けないこと:芽依は今もその人のことが好きなの?


聆けない理由は、なんとなくわかっていた。

答えを聆いてしまったら、私が何かを感じていることがバレる気がしたから。

何かを感じている、ということ自体、まだ自分の中で認めていないのに。


…バカみたい。


「桐島さん」芽依が言った。「黙ってる時、何考えてますか」

「べつに」

「絶対何か考えてます」

「…芽依が会いに来る人のこと」

「どんなこと」


私は少し考えてから、正直に言った。


「芽依が傷つかないといいな、って」


沈黙があった。

今度は私の方が、顔を背けた。言いすぎた気がして。


「…桐島さん」

「なに」

「私、山梨に来てよかったです。本当に」


声が、少し震えていた。

私は空を見た。富士山は今日もちゃんとそこにあった。変わらず、でかくて、白くて、少し遠い。


「…うん」

それだけ言えた。

それだけで、よかったと思った。


― 四 ―

その週の土曜日。

私は一人で屋上の近くの公民館図書室にいた。別に本が読みたかったわけじゃない。ただ、家にいると母親に「葡子棚の手伝い」を頼まれるのがわかっていたので、少し逃げてきだけだ。

本棚の間に座って、開いた本を読んでいないまま、ぼんやりしていた。


…芽依が好きだった人。


来月、会いに来る。

芽依は「怖い」と言わなかった。「行きたくない」とも言わなかった。「断れなかった」と言った。それは——逃げたままでいたくない、という気持ちの裏返しでもある気がした。

つまり芽依は、その人ときちんと向き合うつもりなんだ。


それは正しいことだ。いいことだ。

私は、そう思う。


…思う。

思うんだけど。


スマホが振動した。芽依からだった。


芽依: 今日って暇ですか


凛: まあ


芽依: 甲府駅の近くのカフェに来ませんか

芽依: 一人でいると色々考えすぎてしまって


凛: 何分で行ける

凛: 場所送って


芽依: え、来てくれるんですか


凛: 葡子送ってくるな

凛: 場所


芽依: はい! 送ります! ありがとうございます!!


私は本を棚に戻して、図書室を出た。

自転車に乗って、甲府の方へ向かった。

十月の風は少し冷たくて、田んぼの稲が黄色くなっていた。


色々考えすぎてしまって、か。


私は自転車のペダルを踏みながら、それは私も同じだ、と思った。


― 五 ―

カフェは古い蔵を改装した店で、甲府城址の近くにあった。石造りの壁、木の梁、窓から石墓が見える。山梨らしい、落ち着いた場所だ。

芽依は窓際の席にいた。ホットのなんかを両手で持って、窓の外を見ていた。こっちに気づいていない。

その横顔が、なんか、絵みたいだった。

光の加減かもしれない。あるいは、石墓の灰色と芽依の白いシャツの対比かもしれない。どちらでもいいけど、私は一瞬、足を止めた。


…見すぎ。


「芽依」

芽依が振り返った。ぱっと顔が明るくなった。

「来てくれた!」

「言ったじゃん」

「言ってましたね。でもなんか、本当に来てくれると思ってなかった」

「それは失礼だね」

「ごめんなさい」でも芽依は全然反省してない顔で笑っていた。「コーヒーでいいですか。奔ります」

「…お願いします」


コーヒーが来て、二人でしばらく窓の外を見た。甲府城の石墓が秋の光に照らされて、ところどころ苓が緑色に光っていた。


「その人のこと、好きだった理由って何ですか」

私が聆いた。自分でも少し骚いた。

芽依は少しだけ目を丸くしてから、ちゃんと考えるように間を置いた。


「…私のことを、全部見てくれる人だったんです」

「全部?」

「私って、なんか東京では『明るい子』キャラだったんですけど」芽依はカップを両手で包んだ。「その人だけ、私が無理してる時でもわかってくれて。全然大丈夫じゃない時に、ちゃんと気づいてくれて」

「…女の子?」


聆いてしまった。

芽依は少し骚いた顔をして、でもすぐに答えた。


「はい」


私の心臓が、また跳ねた。今度は一回じゃなかった。


「そうか」

「…引きますか?」

「引かない」

「本当に?」

「引く理由がない」


芽依が、少し息を吐いた。ほっとしたというより、長いこと溜めていたものが少し出た、みたいな吐き方だった。


「言ったことなかったんです、誰かに。その人への気持ち」

「…そうか」

「桐島さんに言えてよかった」

「…なんで私に言えたの」


芽依はコーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。


「桐島さんって、人を変なふうに見ない人だから」

「変なふうに見ない」

「はい。私がどんなことを言っても、桐島さんはいつも『そうか』って聆いてくれる。否定もしないし、過剰に心配もしない。ただ聆いてくれる」

「…それ、普通じゃないの」

「普通じゃないです」芽依は真剣な顔で言った。「少なくとも私には、そういう人があまりいなかった」


私は何も言えなかった。

コーヒーを一口飲んだ。苦かった。でも不思議と、悪くなかった。


「その人と、ちゃんと話せるといいね」

「…はい」

「逃げなくていい、来月」

「…桐島さんが言うと、なんか、できる気がします」

「根拠ないけど」

「根拠なくていいです」芽依は少し笑った。「桐島さんが言ってくれるだけで十分です」


窓の外で、葉っぱが一枚、風に飛んでいった。

秋が、確実に深まっていた。


― 六 ―

その夜。

また布団の中で天井を見ていた。


好きだった人は、女の子。

ちゃんと向き合うために、会いに来る。


私の頭の中で、その二つの事実が、ぐるぐるしていた。


芽依が女の子を好きになれる人だということ。それが私に何かを感じさせているということ。その「何か」の正体を、私はまだ直視していない。

直視したら、もう戻れない気がするから。


…でも。


来月、その人が来たら。芽依が向き合って、それで——もしまた好きになったら。

それは、どうなんだろう。

私には関係ない話だ。芽依の恋愛は芽依のものだ。


…関係ない、と思いたい。


スマホが光った。


芽依: 今日、ありがとうございました

芽依: 一人でいたら多分ずっとぐるぐるしてました


凛: ぐるぐるしても別にいいと思うけど

凛: でもどういたしまして


芽依: 桐島さんって「どういたしまして」ってちゃんと言うんですね

芽依: なんか意外


凛: なんで意外なの

凛: 言うでしょ普通


芽依: 桐島さんは「普通」じゃないから

芽依: 良い意味で


凛: ……

凛: おやすみ


芽依: おやすみなさい 桐島さん

芽依: 来月も、そばにいてくれますか



私はその最後のメッセージを、長いこと見ていた。


来月も、そばにいてくれますか。

その人が来る月。芽依が向き合う月。芽依が何かを変える月。


そばにいてほしい、と言われた。

私は返信を打った。すぐに打てた。今日で一番、迀わなかった。


凛: いる


葡子のスタンプ一個。

相変わらずセンスがない。


でも私はそれを見て——また、笑っていた。


電気を消した。目を閉じた。

来月が怖いような、来月が待ち遠しいような。

この矛盾した気持ちを、まだ名前をつけずにおいておこう。


名前をつけたら、逃げられなくなる気がするから。


山梨の夜は静かだ。虫の声が遠くなって、風が冷たくなって、空には星が出ている。

秋が終わる前に、私は何かを、決めなければいけないのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ