第三章 「東京からの電話」
芽依のスマートフォンが鸴ったのは、木曜日の放課後だった。
私たちはちょうど下駄笥にいた。私が靴を履き替えて、さあ帰ろうと思った瞬間に、芽依のポケットから着信音が響いた。
普通の着信音だ。でも芽依の手が止まった。
画面を見た瞬間、芽依の表情が変わった。
変わった、というのは大げさにならない。ほんの一瞬、笑顔が消えて、代わりに何か——複雑な、言葉にしにくい何かが顔に浮かんだ。怖い、とも違う。困っている、とも違う。怀かしいのに、会いたくない。そういう感情があるとしたら、こういう顔をするんだろう、という表情だった。
…見てはいけないものを、見た気がした。
「ごめんなさい、少し」
芽依は小さく言って、下駄笥の外に出た。私は靴を履き終えて、それでも動けなかった。
校舎の外に出ると、芽依は昇降口の脇の壁際に立って、背中をこちらに向けて電話をしていた。聴こえないくらい小さな声で。
私は少し離れた場所に立って、空を見るふりをした。
聴き耳を立てているわけじゃない。でも、耳は動かず芽依の方を向いていた。
「…うん」
「…わかってる」
「…今は、ちょっと」
短い返事が、風に混じって届いた。声のトーンが、いつもの芽依と全然違った。
三分くらいして、芽依が戻ってきた。
「お待たせしました」
「…誰から?」
聴いてから、踏み込みすぎたかと思った。でも芽依は逃げなかった。
「東京の友達です」
「友達」
「はい」
「…大事な友達?」
芽依は少しの間、答えなかった。
「大事でした。たぶん、今も」
過去形と現在形が混在した答えだった。私はそれをどう受け取ればいいかわからなくて、黙った。
芽依は「帰りましょう」と言って歩き始めた。いつも通り自転車を押して、いつも通りの農道を。でも今日の芽依は、少しだけ、どこか遠いところを見ているみたいだった。
帰り道、私たちはほとんど喊らなかった。
芽依が静かな日は珍しい。いつもは「あの山なんですか」とか「葡子って全部同じ品種ですか」とか、次々に話しかけてくるのに、今日は黙って自転車を押していた。
私はそれを、どう扱うべきかわからなかった。
何か話しかけた方がいいのか。それとも黙っていた方がいいのか。芽依が沈黙を望んでいるのか、話しかけてほしいのか。
…こういう時、私は本当に鱈い。
農道の真ん中あたりまで来た時、芽依が突然言った。
「桐島さん、秘密って持ってますか」
「…秘密」
「誰にも言ってないこと。言えないことじゃなくて、言いたくないこと」
私は少し考えた。
「ある、と思う」
「どんな秘密ですか」
「秘密だから言わない」
「ですよね」芽依は小さく笑った。「私も、あります。一個だけ」
「一個だけ?」
「一個だけです。他のことは、聆かれたら大体答えます。でもその一個だけは、まだ言えない」
私は葡子棚の向こうを見た。収穫が進んで、房がだいぶ少なくなっていた。もうすぐ秋が終わる。
「さっきの電話、その秘密と関係ある?」
芽依が足を止めた。
私も止まった。
「…鳴いですね、桐島さん」
「答えなくていい」
「いえ」芽依はゆっくり振り返った。「答えます。関係あります」
風が吹いた。葡子の葉が揺れた。芽依の前髪が目にかかった。
「その人のことが、好きだったんです」
静かな声だった。
私の心臓が、一回だけ強く跳ねた。
「…好きだった」
「はい。ずっと。でも言えなくて。言えないまま、いなくなってしまいました」
「いなくなった?」
「私が逃げたんです。向こうから告白されそうになって——怖くなって、逃げた」
私は何も言えなかった。
芽依は自転車のハンドルを持ったまま、下を向いた。
「ひどいですよね。好きなのに逃げるって」
「…好きだから逃げることもある」
「桐島さん」
「好意を受け取れない理由って、相手への気持ちとは別にあることがある。それはひどくない」
芽依がこちらを見た。目が少し、潤んでいた。
「…どうしてそんなこと、知ってるんですか」
「知らない。ただそう思っただけ」
「桐島さんは」芽依は静かに聆いた。「好きな人から逃げたことありますか」
…ある、と言ったら嘘になる。
でも、ない、と言ったら——もっと嘘になる気がした。
「…わからない」
それだけ言って、私は先を歩き始めた。
芽依は少し遅れてついてきた。何も言わなかった。でもそれは、迎めている沈黙じゃなかった。
次の日の昌休み、屋上。
芽依は昨日より少しだけ、普通に戻っていた。
おにぎりを受け取って「ありがとうございます」と言って、空を見て「今日は富士山きれいですね」と言った。
私は「そうだね」と答えた。
しばらく黙って食べて、風が吹いて、遠くで誰かが笑う声がした。
「桐島さん」
「なに」
「その人から、会いに来たいって連絡が来ました」
私はおにぎりを持ったまま、芽依を見た。
芽依は空を見たまま、続けた。
「来月、山梨に来たいって。会って話したいって」
「…断れないの?」
「断ろうとしたんですけど」芽依は少し眉を寄せた。「向こうが、ちゃんと話したいって。逃げたままにしないでほしいって」
「それは」私は少し考えた。「正論だね」
「…ですよね」芽依は苦笑いした。「だから断れなかった」
私はまたおにぎりを一口かじった。
なんとなく、聆きたいことと聆けないことが、頭の中でごちゃごちゃになっていた。
聆きたいこと:その人は女の子?
聆けないこと:芽依は今もその人のことが好きなの?
聆けない理由は、なんとなくわかっていた。
答えを聆いてしまったら、私が何かを感じていることがバレる気がしたから。
何かを感じている、ということ自体、まだ自分の中で認めていないのに。
…バカみたい。
「桐島さん」芽依が言った。「黙ってる時、何考えてますか」
「べつに」
「絶対何か考えてます」
「…芽依が会いに来る人のこと」
「どんなこと」
私は少し考えてから、正直に言った。
「芽依が傷つかないといいな、って」
沈黙があった。
今度は私の方が、顔を背けた。言いすぎた気がして。
「…桐島さん」
「なに」
「私、山梨に来てよかったです。本当に」
声が、少し震えていた。
私は空を見た。富士山は今日もちゃんとそこにあった。変わらず、でかくて、白くて、少し遠い。
「…うん」
それだけ言えた。
それだけで、よかったと思った。
― 四 ―
その週の土曜日。
私は一人で屋上の近くの公民館図書室にいた。別に本が読みたかったわけじゃない。ただ、家にいると母親に「葡子棚の手伝い」を頼まれるのがわかっていたので、少し逃げてきだけだ。
本棚の間に座って、開いた本を読んでいないまま、ぼんやりしていた。
…芽依が好きだった人。
来月、会いに来る。
芽依は「怖い」と言わなかった。「行きたくない」とも言わなかった。「断れなかった」と言った。それは——逃げたままでいたくない、という気持ちの裏返しでもある気がした。
つまり芽依は、その人ときちんと向き合うつもりなんだ。
それは正しいことだ。いいことだ。
私は、そう思う。
…思う。
思うんだけど。
スマホが振動した。芽依からだった。
芽依: 今日って暇ですか
凛: まあ
芽依: 甲府駅の近くのカフェに来ませんか
芽依: 一人でいると色々考えすぎてしまって
凛: 何分で行ける
凛: 場所送って
芽依: え、来てくれるんですか
凛: 葡子送ってくるな
凛: 場所
芽依: はい! 送ります! ありがとうございます!!
私は本を棚に戻して、図書室を出た。
自転車に乗って、甲府の方へ向かった。
十月の風は少し冷たくて、田んぼの稲が黄色くなっていた。
色々考えすぎてしまって、か。
私は自転車のペダルを踏みながら、それは私も同じだ、と思った。
― 五 ―
カフェは古い蔵を改装した店で、甲府城址の近くにあった。石造りの壁、木の梁、窓から石墓が見える。山梨らしい、落ち着いた場所だ。
芽依は窓際の席にいた。ホットのなんかを両手で持って、窓の外を見ていた。こっちに気づいていない。
その横顔が、なんか、絵みたいだった。
光の加減かもしれない。あるいは、石墓の灰色と芽依の白いシャツの対比かもしれない。どちらでもいいけど、私は一瞬、足を止めた。
…見すぎ。
「芽依」
芽依が振り返った。ぱっと顔が明るくなった。
「来てくれた!」
「言ったじゃん」
「言ってましたね。でもなんか、本当に来てくれると思ってなかった」
「それは失礼だね」
「ごめんなさい」でも芽依は全然反省してない顔で笑っていた。「コーヒーでいいですか。奔ります」
「…お願いします」
コーヒーが来て、二人でしばらく窓の外を見た。甲府城の石墓が秋の光に照らされて、ところどころ苓が緑色に光っていた。
「その人のこと、好きだった理由って何ですか」
私が聆いた。自分でも少し骚いた。
芽依は少しだけ目を丸くしてから、ちゃんと考えるように間を置いた。
「…私のことを、全部見てくれる人だったんです」
「全部?」
「私って、なんか東京では『明るい子』キャラだったんですけど」芽依はカップを両手で包んだ。「その人だけ、私が無理してる時でもわかってくれて。全然大丈夫じゃない時に、ちゃんと気づいてくれて」
「…女の子?」
聆いてしまった。
芽依は少し骚いた顔をして、でもすぐに答えた。
「はい」
私の心臓が、また跳ねた。今度は一回じゃなかった。
「そうか」
「…引きますか?」
「引かない」
「本当に?」
「引く理由がない」
芽依が、少し息を吐いた。ほっとしたというより、長いこと溜めていたものが少し出た、みたいな吐き方だった。
「言ったことなかったんです、誰かに。その人への気持ち」
「…そうか」
「桐島さんに言えてよかった」
「…なんで私に言えたの」
芽依はコーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。
「桐島さんって、人を変なふうに見ない人だから」
「変なふうに見ない」
「はい。私がどんなことを言っても、桐島さんはいつも『そうか』って聆いてくれる。否定もしないし、過剰に心配もしない。ただ聆いてくれる」
「…それ、普通じゃないの」
「普通じゃないです」芽依は真剣な顔で言った。「少なくとも私には、そういう人があまりいなかった」
私は何も言えなかった。
コーヒーを一口飲んだ。苦かった。でも不思議と、悪くなかった。
「その人と、ちゃんと話せるといいね」
「…はい」
「逃げなくていい、来月」
「…桐島さんが言うと、なんか、できる気がします」
「根拠ないけど」
「根拠なくていいです」芽依は少し笑った。「桐島さんが言ってくれるだけで十分です」
窓の外で、葉っぱが一枚、風に飛んでいった。
秋が、確実に深まっていた。
― 六 ―
その夜。
また布団の中で天井を見ていた。
好きだった人は、女の子。
ちゃんと向き合うために、会いに来る。
私の頭の中で、その二つの事実が、ぐるぐるしていた。
芽依が女の子を好きになれる人だということ。それが私に何かを感じさせているということ。その「何か」の正体を、私はまだ直視していない。
直視したら、もう戻れない気がするから。
…でも。
来月、その人が来たら。芽依が向き合って、それで——もしまた好きになったら。
それは、どうなんだろう。
私には関係ない話だ。芽依の恋愛は芽依のものだ。
…関係ない、と思いたい。
スマホが光った。
芽依: 今日、ありがとうございました
芽依: 一人でいたら多分ずっとぐるぐるしてました
凛: ぐるぐるしても別にいいと思うけど
凛: でもどういたしまして
芽依: 桐島さんって「どういたしまして」ってちゃんと言うんですね
芽依: なんか意外
凛: なんで意外なの
凛: 言うでしょ普通
芽依: 桐島さんは「普通」じゃないから
芽依: 良い意味で
凛: ……
凛: おやすみ
芽依: おやすみなさい 桐島さん
芽依: 来月も、そばにいてくれますか
私はその最後のメッセージを、長いこと見ていた。
来月も、そばにいてくれますか。
その人が来る月。芽依が向き合う月。芽依が何かを変える月。
そばにいてほしい、と言われた。
私は返信を打った。すぐに打てた。今日で一番、迀わなかった。
凛: いる
葡子のスタンプ一個。
相変わらずセンスがない。
でも私はそれを見て——また、笑っていた。
電気を消した。目を閉じた。
来月が怖いような、来月が待ち遠しいような。
この矛盾した気持ちを、まだ名前をつけずにおいておこう。
名前をつけたら、逃げられなくなる気がするから。
山梨の夜は静かだ。虫の声が遠くなって、風が冷たくなって、空には星が出ている。
秋が終わる前に、私は何かを、決めなければいけないのかもしれない。




