第二章 屋上は二人には少し狭すぎる
問題はここからだ、と私は思った。
白石芽依が転校してきてから、ちょうど一週間が経った。
一週間で、芽依は私の日常にいくつかの「ノイズ」を埋め込んだ。朝のホームルームが始まる前に「おはようございます」と言ってくる。数学の授業中にわからないところがあると肘でつついてくる。昼休みは屋上に当たり前のように現れる。放課後、帰り際に「また明日」と言う。
どれも小さなことだ。
でも積み重なると、なんか、じわじわくる。
……気のせいだと思いたい。
火曜日の昼休み。今日も私は屋上にいた。
今日も芽依が来た。
今日のお弁当箱には、おにぎりが二個入っていた。
「桐島さん」芽依は私の隣に腰を下ろしながら言った。「最近ずっと思ってたんですけど」
「なに」
「ここ、二人で食べると少し狭くないですか」
私は給水タンクと金属フェンスの間の空間を見回した。確かに、私一人なら余裕があるこのスペースは、二人並ぶとちょうどぴったりで、肩が触れそうな距離になる。
「……最初からそう言えば良かった」
「え?」
「狭いなら来なければいい、ってこと」
芽依はしばらく考えてから言った。「でも、それだと桐島さんと一緒に食べられないじゃないですか」
「そうだね」
「嫌じゃないですか、一人の方が好きでしたか」
私は空を見た。今日は雲が多くて、富士山は半分隠れていた。それでも裾野のあたりが少しだけ見えていて、なんとなくそこだけに目をやった。
「……別に、嫌じゃない」
「やった」
「喜ぶとこじゃない」
「嬉しいから喜びます」芽依はにこっとした。「正直に言ってくれてありがとうございます」
「正直も何も、事実を言っただけ」
「桐島さんって、照れ隠しが下手ですよね」
……下手、って何。
私はおにぎりを一口かじって、黙った。反論する言葉が見つからなかったのは、たぶん、反論できなかったからだ。
問題が起きたのは、その日の放課後だった。
帰り支度をしていたら、後ろの席の田中さんに声をかけられた。田中さんは私のクラスで一番活発な女子で、誰とでもすぐ仲良くなれるタイプだ。
「ねえ桐島、白石さんって桐島と仲いいの?」
「……仲いいかどうかはわからないけど、まあ話す」
「そうだよね〜、毎日屋上行ってるって聞いたよ。ねえ、白石さんってどんな子?なんか近寄りがたくて、なかなか話しかけられないんだよね」
私は少し考えた。
「近寄りがたくはないと思う。話しかけたら普通に話してくれる」
「でもなんか、クールじゃない?スカッとした感じで」
「……私から見たら全然クールじゃない」
「えー、そうなの?」
「うん。めちゃくちゃグイグイくるよ」
田中さんが目を丸くした。「桐島がそれ言うの、相当だね」
「……どういう意味」
「だって桐島自身がクールじゃん」
私は鞄を持って席を立った。
「クールじゃないし、芽依もクールじゃない。ただ人見知りなだけだと思う」
「芽依って呼んでるじゃん!」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
田中さんは目を輝かせて「仲いいじゃん!」と言った。私は「そんなことない」と言い残して教室を出た。
……いつから名前で呼んでたんだろう。
廊下を歩きながら、ちょっとだけ考えた。芽依のことを「芽依」と呼んだのはいつからだったか。気がついたら呼んでいた気がする。芽依の方は最初から「桐島さん」と呼んでいたし、私は最初「白石さん」と呼んでいたはずなのに。
……いつの間にか。
そういうことが、少しずつ増えていた。
翌日の昼休み。屋上。
「桐島さんって、好きな人いますか」
唐突すぎて、おにぎりを持ったまま固まった。
「……なんで急に」
「昨日、三組の男子が私に聞いてきたんです。桐島さんのことが気になってるって。告白したいから、フリーかどうか探ってきてって」
「……なんで芽依に頼んでるの」
「私も不思議でした。なんか、最近私ってクラスで使いやすいポジションになってる気がします」芽依は苦笑いした。「まあそれはいいとして。どうなんですか」
私はしばらく考えた。
「いない」
「じゃあ告白されたらどうしますか」
「断る」
「どうして?」
「興味ないから」
「男子に?」
少しだけ間があった。私は富士山の方を向いたまま言った。
「男子に」
また少しの間があった。今度は少し長い沈黙だった。
芽依が何を考えているのか、横顔を見ないとわからなかった。見ようとしなかった自分がいた。
「……そうですか」
芽依の声が、なぜかほんの少し柔らかくなった気がした。
「桐島さんって、好きな人いたことありますか。男女問わず」
「いたら教えると思う?」
「教えてほしいです」
「なんで」
「わかりません」少し間があった。「でも聞きたいんです。桐島さんのこと、もっと知りたいから」
心臓が、うるさくなった。
こういう時に、言葉が出てこない。普段はわりとはっきり物を言える方だと自分では思っているのに、芽依に対してだけ、時々言葉が詰まる。
「……覚えてない」
「嘘くさいです」
「気のせい」
「顔が少し赤いです」
うるさい。
私は残りのおにぎりを一口で食べて、空を仰いだ。雲が流れて、富士山が少しだけ顔を出した。
四
放課後、帰り道。
いつもは一人で帰る農道を、今日は芽依と並んで歩いていた。芽依の自転車はまだレンタルのままで、なぜかそのまま使い続けている。
「東京はどんなとこだった?」
私から話しかけるのは珍しかったのか、芽依が少し驚いた顔をした。
「……広くて、うるさくて、人が多くて」少し考えてから続けた。「でも孤独になれる場所でした」
「孤独になれる場所?」
「うまく言えないんですけど」芽依は自転車のハンドルをぎゅっと握った。「人がたくさんいるから、逆に自分が透明になれるっていうか。誰も私のことを見てないから、ちょっとだけ、楽だった」
私は葡萄棚の向こうに目をやった。秋の光が葉っぱを透かして、黄緑色に染めている。
「……ここは見られる?」
「はい」芽依は素直に言った。「田舎って、人の目が細かいですよね。良くも悪くも」
「慣れる」
「桐島さんは、ここが好きですか」
少し考えた。
「……好きだと思う。嫌いになれない、と言った方が正確かもしれない」
「どう違うんですか」
「好きは選ぶこと。嫌いになれないは、離れられないこと」
芽依がこちらを見た。
「桐島さん、詩人みたいですね」
「普通のことを言っただけ」
「普通じゃないです。少なくとも私には思いつかなかった言葉です」
また、まっすぐなことを言う。
私は先を歩くふりをして、少しだけ顔を背けた。
「芽依は」私は前を向いたまま言った。「東京のこと、嫌いになれる?」
長い沈黙があった。
自転車のタイヤが砂利を踏む音だけが続いた。遠くで烏が鳴いた。
「……それ、難しい質問です」
「答えなくていい」
「いえ、ちゃんと答えたいんですけど」芽依は少し息を吸った。「東京を嫌いになれるかどうかより、私が東京を好きだったかどうかも、まだわかってないので」
まだわかってない。
その言葉が、なんかひっかかった。過去形じゃなくて、現在形で「まだわかってない」というのが。
東京を出てきた理由が「家の事情」だと言っていた。でも今の言い方は、もう少し複雑な何かを含んでいるように聞こえた。
「芽依」
「はい」
「東京に、何か置いてきたの」
芽依の足が、一瞬止まった。
私も止まった。振り返ると、芽依は俯いていた。前髪が風に揺れて、その表情が少し隠れた。
「……置いてきた、というより」芽依はゆっくり言った。「逃げてきた、の方が正確かもしれません」
その言葉は、思ったよりずっと重かった。
私は何も言えなかった。何を言うべきかわからなかった。芽依はすぐに顔を上げて、いつものように笑った。でも今日の笑顔は、少しだけ形が違った。
「ごめんなさい、変なこと言いました。気にしないでください」
「……気にする」
「え?」
「気にしないでって言われたら余計気になる」
芽依が少し目を丸くしてから、今度は本物の笑顔になった。
「桐島さんって、やっぱり優しいですね」
「優しくない」
「優しいです」
「ただの好奇心」
「どっちでもいいです。嬉しいから」
また、そういうことをはっきり言う。
私は自転車を押し直して、歩き始めた。芽依も並んで歩き始めた。
夕日が山を染めて、二人の影が農道に長く伸びた。
五
その夜。
布団の中で天井を見ながら、芽依の言葉を反芻していた。
逃げてきた、の方が正確かもしれません。
東京から逃げてきた。何から逃げてきたのか、芽依は言わなかった。私も聞かなかった。
聞けなかった、の方が正確だ。
……なんで聞けなかったんだろう。
普段の私なら「関係ない」で済ませる話だ。他人が何から逃げてきたって、私には関係ない。それが一週間前の私の考え方だったはずだ。
でも今は、気になって眠れない。
芽依が何から逃げてきたのか。東京に置いてきたものが何なのか。あの時一瞬止まった足が、何を物語っていたのか。
スマートフォンが光った。
芽依: 今日、変なこと言ってごめんなさい。
芽依: でも、桐島さんには、いつか全部話せたらいいなって思ってます。
芽依: 準備ができたら。
私はしばらくその文章を見た。
三回。五回。十回。
準備ができたら。
その言葉は、「まだ話せない」という意味だ。でも同時に、「いつか話す」という意味でもある。
どっちを先に受け取るべきかわからなくて、私はまた天井を見た。
返信を打とうとした。やめた。また打った。また消した。
結局、三十分後に送ったのはこれだけだった。
凛: 謝らなくていい。
凛: 準備ができたら、聞く。急かさない。
しばらくして、返信が来た。
芽依: ありがとうございます。桐島さんって、本当に優しい。
凛: 違う。
芽依: 優しいです。おやすみなさい、桐島さん
私はスマホを枕元に置いた。
電気を消した。
目を閉じた。
芽依は何から逃げてきたんだろう。
その答えが怖いような、怖くないような。
知りたいような、知らない方がいいような。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
私は芽依に、「準備ができたら話して」と言った。
それは嘘じゃない。
でも本当のことを言うと——準備ができるまで、待てる自信が、あんまりなかった。
山梨の秋が、静かに深まっていく。
葡萄棚の葉が色づき始めて、空気がもう少しだけ冷たくなって、この町が少しずつ変わっていく季節の中で。
私の中の何かも、少しずつ、変わり始めていた。




