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第一章 葡萄畑の転校生

「助けてください、私、道に迷いました」

見知らぬ女の子が私の前に現れたのは、九月の夕暮れのことだった。

ちょうど家の近くの農道——左右を葡萄棚に挟まれた、地元民しか使わないような細い道を、私は自転車でのんびり走っていた。夕焼けが山の稜線を赤く染めて、空気が少しだけ甘くなる時間帯。収穫前の葡萄の匂いって、こんなにも濃いものだったっけ、なんてぼんやり考えていたところだった。

だから、突然目の前に人が現れた時、危うく自転車ごと突っ込むところだった。

「っ……!」

急ブレーキ。砂利が跳ねて、タイヤがずるっと滑った。なんとか転ばずに止まれたのは、純粋に運が良かったからだと思う。

「ご、ごめんなさい!」

女の子が慌てて飛びのいた。スカートのすそが揺れて、土ぼこりがふわっと舞い上がった。

私は息を整えながら、その子をじっと見た。

制服だ。でも私の学校のじゃない。白いブラウスに紺のスカート——どこかの私立の制服だろうか。髪は肩のあたりで緩く結んでいて、前髪が目にかかりそうになっている。息を切らして、頬が上気して、スカートの裾には泥がついていた。

それでも、夕焼けを背にして立つその子は——信じられないくらい綺麗だった。

……最悪。こういう出会い方、好きじゃないのに。

「あの」私はようやく口を開いた。「どこ行きたいの」

「え?」

「道に迷ったって言ったでしょ。どこに行きたいのか、わかんないと案内できない」

「あ、あの……明倫高校、ってわかりますか?」

「わかる。私の学校だから」

女の子は目を丸くした。

「え、本当ですか!」

「本当。でも今の時間に行っても誰もいないよ。何しに行くの」

「明日から転校するんです。それで事前に場所を確認しておきたくて……でも、地図を見ながら歩いてたら、いつの間にか全然違う方向に来てしまって」

言いながら、女の子はスマートフォンを見せてくれた。地図アプリが開いていて、現在地を示すアイコンが、学校から見事に反対方向の農道の真ん中にある。

「……相当迷ったね」

「はい」うなだれた。「本当に方向音痴で。東京ではあまり困らなかったんですけど、ここって目印になるものが少なくて」

「目印ならたくさんあるけど。あの山が甲斐駒で、あっちが——」

「山、全部同じに見えます」

「……なるほど、重症だ」

私はため息をついてから、自転車を押して立ち上がった。

「送ってく。学校の正門まで。それ以上は知らない」

「え、いいんですか?」

「ついてきて」

というわけで、私は見知らぬ女の子の自転車——近くのコンビニで借りてきたというレンタル自転車——を押しながら、暗くなりかけた農道を歩くことになった。

「お名前、聞いてもいいですか」

「桐島。桐島 凛」

「桐島さん。私、白石 芽依といいます。よろしくお願いします」

「ん」

「……素っ気ないですね」

「そういう人間なので」

芽依——白石芽依、と頭の中で繰り返した——は少し笑ったみたいだった。「みたいだった」というのは、私が前を向いたまま確認しなかったからだ。笑ってると思ったのは、気配でわかったから。

葡萄棚の間を歩きながら、私たちはそれほど多くを話さなかった。芽依が時々「あの山は何ですか」「ここって畑ですか」と聞いてきて、私が短く答える。それだけだった。

学校の正門に着いた時、空はもうほとんど暗くなっていた。

「ここです、ここ!」芽依が嬉しそうな声を上げた。「助かりました、本当に。ありがとうございます」

「どういたしまして」

「桐島さんも明倫の生徒さんなんですよね。もしかして明日、同じクラスになるかもしれませんね」

「どうかな」

「だといいな、と思います」

言い方が、なんかまっすぐすぎた。

私は少しだけ芽依の方を見た。夜になりかけの空を背にして、芽依は微笑んでいた。目が細くなって、ちょっとキツネみたいな顔。

「……おやすみ」私は自転車にまたがった。「気をつけて帰って。ここからコンビニまでは一本道だから、右に曲がらないで真っ直ぐ行くだけ」

「右に曲がらない。わかりました」

「絶対に右に曲がらないで」

「……そんなに念押しします?」

「あなたのことが心配」

言ってから、少し後悔した。なんか過剰だ。

芽依が「ふふ」と笑った。

「桐島さん、優しいんですね」

「別に」

「優しいと思います」

「普通のことしただけ」

「その普通のことが、私には嬉しかったです」

……なんで、そういうことをはっきり言えるんだろう。

私はもう一度「おやすみ」と言って、今度こそペダルを踏んだ。後ろから「おやすみなさい!」という声が追いかけてきた。

家に帰って、お風呂に入って、布団に入ってからも、なんとなくその声が耳に残っていた。

嫌な感じじゃなかった。それが少し、厄介だと思った。


翌朝。

教室のドアが開いた瞬間、黒板の前に立っていた担任の大森先生が言った。

「みんな、今日から転校生が来ます。仲良くしてください」

ざわ、とクラスがざわめいた。

先生に続いて入ってきた女の子を見た瞬間、私の中で何かが「あ」と言った。

白石芽依だった。

昨日より少しだけちゃんとした制服姿で——うちの制服に着替えて——彼女は黒板の前に立った。昨日の泥んこのスカートじゃなくて、ちゃんとアイロンのかかった格好だったけど、前髪が目にかかりそうなのは同じで、目が細くなって笑うのも同じだった。

「白石 芽依です。東京から来ました。よろしくお願いします」

ぺこり。

短いけど、丁寧なお辞儀。それだけ。

クラスの女子たちが「かわいい」「東京の子だって」と囁き合う声が聞こえた。男子の方もそれなりにざわついていた。

私は視線を自分のノートに落とした。

関係ない。昨日たまたま会っただけだ。これからも特に絡む必要はないし、芽依だって自分なりに新しいクラスに馴染んでいくだろう。そういうもんだ。

「白石さん、席はそうだな……」

先生が名簿を確認するのを、私はノートの端を無意識にシャーペンでなぞりながら待っていた。

「桐島の隣にしよう。桐島、案内してやってくれ」

……どうして。

顔を上げたら、芽依と目が合った。

芽依が——本当に嬉しそうに——目を細めた。

「昨日の人だ」

「……奇遇だね」

「運命ですね」

「偶然、って言いなおして」

芽依は笑いながら私の隣の椅子を引いた。スカートを直して、椅子に座って、机の上に筆箱を置いて——そういう動作がなぜか全部、妙に丁寧だった。

「よろしくおねがいします、桐島さん」

「……よろしく」

こうして白石芽依は、私の隣の席になった。


昼休みになると、私は教科書とお弁当を持って屋上に向かった。

屋上に出る扉は、ちゃんと鍵がかかってる——ように見えるけど、実はかんぬきが少し緩んでいて、コツを知ってれば簡単に開く。これを知っているのは、たぶん私だけだ。一年の時に偶然発見してから、ずっと一人で使っている。

扉を押し開けると、秋の空気が顔に当たった。

甲府盆地を囲む山々が、三百六十度、絵みたいに並んでいる。手前に低い山、奥に高い山、一番奥に富士山。晴れた日の昼間、ここから見る景色は、私が知る中で一番好きな景色だ。

給水タンクの陰に座って、お弁当を開く。今日は梅おにぎりが二個と、卵焼きと、ちょっとだけ母の作った筑前煮。

一口食べた時、後ろで扉の音がした。

振り返った。

芽依が、ちょっと息を切らして立っていた。

「……なんで知ってるの、ここ」

「一組の、加藤さん、という方に聞きました」芽依は息を整えながら言った。「桐島さんって昼は一人で屋上にいるって」

「加藤に聞いたの」

「はい。桐島さんと仲良くなりたかったので」

また、まっすぐな言い方をする。

「……勝手に来ていい場所じゃないんだけど」

「ごめんなさい。でも、どうしても桐島さんにお礼が言いたくて。昨日のこと、ちゃんとお礼できなかったから」

「昨日は十分言ってた」

「足りない気がして」

芽依は少し迷うような顔をしてから、私の横——ちょうど二人分座れるくらいのスペースに——座った。許可した覚えはなかったが、止める間もなかった。

「お弁当は?」と私は聞いた。

「購買、混んでて。タイミング逃しました」

「……」

私は少しの間、自分のお弁当を見た。梅おにぎりが二個入っている。いつも二個作るのは——

……べつに、理由なんてない。なんとなく二個作っちゃうだけだ。

「一個あげる」

「え、でも——」

「もう話しかけないで」

そう言いながら、おにぎりを差し出した。

芽依は少しの間そのおにぎりを見て、それから受け取った。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

しばらく、二人とも何も言わなかった。風が吹いて、芽依の前髪が揺れた。遠くで体育の授業をやっている声が聞こえた。

「桐島さん」

「話しかけないでって言った」

「少しだけ」

「……なに」

「ここ、好きなんですか?この景色」

私は山の方を見た。

「まあ」

「いい景色ですね。東京では、こんなに遠くまで見えなかったから」

「東京が恋しくない?」

「少しは」芽依は正直に言った。「でも、今はここも悪くないって思ってます」

「一日で?」

「出会い次第で、場所の印象って変わると思うので」

また、そういうことを言う。

私はおにぎりを一口かじって、遠くの富士山を見た。今日は裾野まではっきり見えて、空気が澄んでいるのがわかった。

「芽依」

「はい」

「……食べ終わったら帰って。ここ、私の場所だから」

「はーい」

素直に返事をして、芽依はおにぎりを頬張った。

なんか、思ったよりずっとおいしそうに食べていた。

……帰れって言ったんだけど。

でも、不思議なことに、それ以上「帰れ」とは言えなかった。

風が気持ちよくて、空が広くて、隣で芽依が黙っておにぎりを食べていて——

なんとなく、悪くなかった。

そのことが、少しだけ——厄介だと、思った。


夕方、芽依は「また明日!」と言って帰った。

私は「うん」とだけ言った。

下駄箱で靴を履き替えながら、なんとなく考えた。

明日も、おにぎりを二個作ろうかどうか。

……なに考えてるんだろう、私。

自転車に乗って、家路をたどる。葡萄棚の間の農道を、昨日と同じように走りながら、昨日と少しだけ違う気持ちで。

夕日が山を染めて、空気が甘い匂いをはらんで、山梨の九月が、静かに終わっていく。

白石芽依。

あなたって——一体、何者なんだろう。

その答えを、まだ私は知らない。

でも、なぜか——知りたいと思っていた。

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