Case.4 古暮市・第三南自治会・第四班
回覧板の順番は、だいたい、決まっている。
班長の家から始まり、隣の家、その隣の家。
角を曲がって、道路の向こう。
最後に公園前の家で一周して、また班長のところに戻ってくる。
古暮市・第三南自治会・第四班。
全十軒。
そのうちの一軒が、佐伯奈央の家だ。
紙の回覧板なんて、今どき廃れつつあるらしいが、
このあたりの高齢者の多い住宅街では、まだ現役だった。
自治会のお知らせ。
資源ゴミの日程変更。
町内会費の徴収。
祭りの告知。
たいした内容じゃない。
仕事帰りにポストを覗いて、クリアファイルに入った回覧板があると、少しだけ溜息が出るくらいだ。
それでも、回しておかないと後で班長に「止まってますよ」とやんわり言われるし、
順番を飛ばしたりすると近所の目がうるさい。
だから奈央は、どれだけ忙しくても、回覧板だけは一応目を通してから、次の家のポストに入れるようにしていた。
──あの紙が挟まるようになるまでは。
◇
六月の終わり。
湿気を含んだ夜風が、アパートの廊下をべたつかせていた。
スーパーのレジのバイトが終わって帰ってきた奈央は、郵便受けを覗いて、小さく「あ」と声を漏らした。
透明のクリアファイルに入った板。
“古暮市第三南自治会 第四班”の印刷。
ガムテープの跡がところどころ黄ばんでいる。
今日も回覧板が来ていた。
鍵を開けて部屋に入り、買い物袋をキッチンに置く。
「お腹すいた……」
つぶやきながら、制服の上着を脱ぐ。
居間のちゃぶ台に回覧板を置き、その上に財布とスマホを放り出す。
息子の遼は、もう布団の中だ。
小二の男の子には、夜十時は遅すぎる。
それでも、奈央の帰りを待っていることが多い。
しかし今夜は、電気を消した寝室から小さな寝息だけが聞こえていた。
静かすぎる部屋。
冷蔵庫のモーター音がやけに耳につく。
湯を沸かす前に、奈央は回覧板を開いた。
上の紙は、いつものゴミ出し日程の訂正だった。
その下に、もう一枚紙が挟まっている。
見慣れない書式。
コピー機から出てきたばかりのような真新しい白。
《防災ラジオ試験放送のお知らせ》
見出しを読んで、眉をひそめる。
『このたび古暮市では、災害時における情報伝達手段として、防災ラジオの整備を進めております。つきましては、試験放送を下記の日程で実施いたしますので、深夜ではございますが、お時間の許すご家庭は、ラジオまたはラジオアプリをご用意の上、受信状況の確認にご協力ください。』
以下、日付と時間が書いてある。
《〇月〇日 午前二時〜二時三十分》
今日の日付だった。
「……午前二時?」
思わず声が出る。
こんな時間に、誰がわざわざラジオなんてつけるのか。
自治会長の思いつきか、市の担当の趣味か。
紙の下段には、細い罫線が引かれている。
《第四班 受信確認欄》
家ごとに、番号と苗字が並んでいる。
一番上は班長の「杉原」。
次に「斎藤」「三輪」「佐伯」──奈央の家。
そして「田島」「中谷」「古賀」「森」「高田」「角田」。
全部で十軒。
どの名前も見覚えがある。
いつも回覧板の当番表で見てきた順番だ。
杉原と斎藤の欄には、すでにボールペンで小さくチェックが入っていた。
『受信しました』『聞きました』
と、それぞれ違う字で書き添えてある。
「聞いたかどうかまで書くの……?」
呆れ半分、苦笑い半分で独り言を漏らす。
チェック欄の横には、ご丁寧にこんな注釈が印刷されていた。
《※受信の可否にかかわらず、ご家庭でラジオをご用意いただける場合は、チェック欄にご署名ください。》
ご署名。
単なる確認なのに、随分と大げさな言い方だった。
奈央は一瞬迷ってから、ペン立てからボールペンを抜き、「佐伯」の横に雑な字で「〇」と書いた。
ラジオなんて持っていないが、スマホでアプリくらいは開けるだろう。
どうせやるなら、協力したほうが角が立たない。
そう思ったのだ。
紙を元通りクリアファイルに戻す。
明日の朝、出勤前に田島さんの家のポストに入れておけばいい。
そのときの奈央は、深夜二時の試験放送そのものよりも、翌朝の弁当の具材のほうがよほど気がかりだった。
◇
夜。
遼を起こさないようにそっと布団を抜け、リビングの照明を落とす。
キッチンのデジタル時計は、一時五十七分を指していた。
「……ほんとにやるのかな」
自分も、何をやっているんだろうと思う。
明日も朝から学校の準備とバイトだというのに、こんな時間にラジオの試験放送を聞こうとしている。
静かな部屋。
窓の外から、遠くの道路を走る救急車の音がかすかに届く。
スマホでラジオアプリを起動する。
普段、家事をしながら音楽を流すことはあっても、深夜番組を真面目に聞こうとしたことはない。
アプリの検索欄に「古暮」と打ち込む。
「古暮市防災ラジオ」と書かれたチャンネルが一つだけヒットした。
再生ボタンを押す。
ザザ、と短いノイズ。
続いて、無音。
ボリュームを上げる。
それでも、何も聞こえない。
時計は、二時を回っていた。
「あれ?」
試験放送はちゃんと始まっているのだろうか。
イヤホンを挿してみる。
耳に押し込んだ瞬間、小さなジングルが鳴った。
チャラララ、チャララ。
古いラジオ番組のオープニングみたいな、どこか懐かしいメロディ。
続いて、声が降ってきた。
『……深夜二時を少し回りました』
低くて落ち着いた声。
男とも女ともつかない、中性的なトーン。
『ここからの三十分は、“午前二時のリクエスト”』
番組名を告げる声に、奈央は眉をひそめた。
防災ラジオではない。
普通の深夜番組のようだ。
アプリでチャンネルを確認する。
《古暮市防災ラジオ(試験放送)》
間違いなく、その表示になっている。
「え、なにこれ」
耳元の声は、気にせず続けた。
『パーソナリティの黒瀬です』
黒瀬。
聞いたことのない名前だ。
『この番組は、眠れないあなたからの“小さな本音”を、お預かりするリクエスト番組です』
災害も避難も関係なさそうな口上だった。
奈央は、イヤホンを外そうとして、手を止める。
その次の一言が、耳に引っかかったのだ。
『まずは、今夜最初のリスナーさんに、お声がけしましょうか』
一拍の間。
『古暮市第三南自治会・第四班にお住まいの、お母さん』
心臓が、ひとつ跳ねた。
イヤホンから手を離す。
コードが頬をかすめて、だらりと垂れた。
声は、スマホからではなく、部屋の空気そのものから聞こえているような気がした。
『そう、回覧板の“佐伯”の欄に印をつけてくださった、あなたです』
ちゃぶ台の上に置きっぱなしだった回覧板。
その中にある、防災ラジオのお知らせの紙。
自分が書いた「〇」の印。
奈央は、反射的に部屋を見回した。
キッチン。
窓。
テレビの上。
天井の隅。
どこにも、人の気配はない。
あるはずもない。
遼は寝室で眠っている。
ドアは閉まっている。
それでも、誰かに覗かれているような気配が、背中を撫でた。
「……防災ラジオじゃないの?」
声に出すと、黒瀬と名乗った声が、くすりと笑った気がした。
『防災にも、いろいろな種類がありますからね』
言っていることはよく分からない。
『最近は、紙の回覧板も少なくなってきました』
『でも、あなたの班は、まだ律儀に使い続けています』
その言い方には、どこか懐かしさを含んだ皮肉が混じっていた。
『回覧板の“順番”って、不思議だと思いませんか』
奈央は、返事をしなかった。
代わりに、頭の中で「不思議?」と繰り返す。
『班長から始まって、時計回りに、ぐるりと一周する』
『順番が変わることは、ほとんどありません』
『そして、“抜けた家”があったとしても、回覧板は必ず、一周して元に戻ってくる』
抜けた家。
奈央は、自分の班の家並みを思い浮かべる。
杉原、斎藤、三輪、佐伯、田島、中谷、古賀、森、高田、角田。
十軒。
十枚の屋根。
十本の玄関チャイム。
どの家も、ある。
はずだ。
『もし、その順番の中から、一軒だけ“なかったこと”にできるとしたら、どうしますか』
胸の奥が冷たくなった。
黒瀬の声は、淡々としている。
『回覧板が回ってこない家』
『自治会費を払わなくていい家』
『ゴミ出しの当番も、草むしりの手伝いも、祭りの準備も、何も回ってこない家』
それはつまり、この町内から完全に「浮いた」家だ。
『近所付き合いも、うるさい隣人も、苦情も文句も、全部届かない』
そんな家は、むしろ羨ましいくらいだ。
でも、それは同時に、この町のどこにも「そこに住んでいる人の名前が載らない」ということでもある。
『あなたには、ちょっとした“理由”がありますね』
黒瀬の声が、わずかに柔らかくなった。
『たとえば──隣の家の、若い夫婦のこととか』
奈央は、息を呑んだ。
斎藤さんの家。
奈央の家の一つ隣。
共働きの夫婦で、
生後三ヶ月の赤ちゃんがいる。
赤ちゃんの夜泣きは、仕方がない。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、バイト終わりでクタクタの身体で布団に入った直後に、隣から赤ん坊の泣き声が壁越しに響いてきたとき、奈央は枕に顔を押しつけて「うるさい」と呟いてしまった。
自治会の回覧板でも、顔を合わせるたびに笑顔で会釈を交わす。
赤ちゃんを抱く斎藤さんの奥さんの姿を見て、「かわいいですね」と声をかけたこともある。
それでも、心のどこかで思ってしまう。
──どうして、うちにはいないんだろう。
遼は八歳。
それ以上子どもを作る気力も余裕もない。
父親はいない。
泣き声を聞きながら、天井の染みを見つめているとき、何度か、こんなことを考えた。
──どこか別の場所で泣いてくれればいいのに。
『嫉妬じゃない、と自分で言い聞かせてきましたね』
「……やめて」
声が震えた。
『単にうるさいだけだ、と』
『疲れているだけだ、と』
言い訳の一つ一つを、黒瀬の声は軽くなぞっていく。
『でも、もし、その家の名前が、回覧板からそっと消えたとしたら』
佐伯の欄。
その上の「三輪」とその下の「田島」の間にある「斎藤」。
あの苗字が、印刷から消える光景を想像してしまった自分に、奈央は愕然とした。
「そんなこと、考えてない」
『そういうことにしておきましょうか』
昨日、似たような言い回しをどこかで聞いたような気がする。
気のせいかもしれない。
『この番組は、“消してほしいもの”を小さく受け付けるリクエスト番組です』
番組の趣旨が、さっきと変わっている気がした。
『回覧板の順番から、ひとつだけ抜きたい家がある方』
『名簿の中から、そっと消えてほしい名前がある方』
胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚。
『あなたの班からも、一件だけ、そういうリクエストが届いています』
「……誰の?」
聞きたくなかった。
けれど、気づいていた。
自分以外に、そんなことを考えそうな人がどれだけいるか。
『それを読むのは、わたしの仕事ではありません』
黒瀬は、ほんの少し笑って言った。
『読める人は一人だけです』
紙の擦れる音がした。
ちゃぶ台の上の回覧板。
クリアファイルの中で、紙がひとりでに震えたように見えた。
奈央は、吸い寄せられるようにそれを手に取った。
防災ラジオのお知らせの裏。
真っ白なはずの余白に、ボールペンの細い線が見えた。
自分の字だった。
『夜泣きうるさい 少し静かにしてほしい』
怒鳴り込むほどではない。
でも、伝えずにいるのもストレスになる。
そう思って、ふいに裏側に書いてしまったのだ。
回覧板が戻ってきたら、そのとき班長に直接相談しよう。
そのつもりで書きかけた。
途中で、「やっぱりやめておこう」と思って、上からぐちゃぐちゃと線を引いて消した。
はずだった。
だが、そこに書かれている字は、きれいに読める状態で残っていた。
「……消した、はず」
指先が震える。
『回覧板に書かれた、最初のリクエストです』
黒瀬の声が、遠くから届いた。
『“なかったこと”にしたつもりでも、紙は覚えています』
心の中の吐き出せない愚痴。
裏に走り書きされた文字。
それらは、紙の繊維の中に残っている。
『だからこそ、この番組に届いた』
ジングルが小さく鳴った。
『リクエスト内容は、“斎藤家の消音”』
耳鳴りがした。
『この場合、手段はふたつあります』
黒瀬の声は、急に事務的になる。
『一つは、“音を消す”』
『もう一つは、“音の出どころそのものを消す”』
前者は、防音工事か何かの話だろう。
後者は──。
『さて、どちらが自然でしょうね』
奈央は、胸の奥が冷たくなるのを感じて、頭を振った。
「違う。そんなつもりで書いてない」
『どういうつもりで書いたかは、紙には関係ありません』
淡々とした声。
『結果だけが、こちらに届きます』
番組の向こうとこちらの境界線は、紙の繊維一枚ぶんしかないらしい。
『安心してください。これは、あなたひとりに責任を負わせるための放送ではありません』
むしろ、と黒瀬は続けた。
『あなたは、まだ選べる立場にいます』
「……選ぶ?」
『“なかったこと”にする対象を、ですね』
目の前の回覧板。
名前の並び。
杉原、斎藤、三輪、佐伯、田島……。
『斎藤家を回覧板の順番から外すか、それとも、別の家を代わりに外すか』
別の家。
脳裏に、田島家の奥さんの顔が浮かんだ。
自治会にうるさいお節介。
子どもの声にすぐ苦情を言ってくる人。
体育館を建てたあの運送会社の親戚だと、ことあるごとに自慢する人。
次に、中谷家。
夜遅くまでバイクの音を立てる息子。
古賀家。
草むしりに参加しないことを陰で噂されている老人。
どの家にも、「消したい」と言えるほどの恨みはない。
ないはずだ。
だが、「斎藤家」という選択肢を避けようとすると、
他の名前が自動的に候補としてせり上がってくる。
『回覧板の欄に、ひとつだけ、名前が消える余地があります』
「やめて」
奈央は、紙を握りしめた。
文字が手の中でくしゃくしゃになる。
それでも、ペンで書かれたインクは滲まない。
『どの家に、その“余白”を回しますか』
余白。
この町から、「なかったこと」にされる余地。
『班長さんは、今夜もちゃんとラジオを聞いてくれていますよ』
その情報は、必要だったのだろうか。
『班長さんの欄には、すでに署名が入っています』
杉原。
あの頑固な老人。
『順番を守ることにはうるさいですが、“いない家”のことは、案外あっさり忘れてくれる人です』
胸の中を、冷たいものが這い回る。
『選択しないという選択もあります』
黒瀬の声が、少しだけ柔らいだ。
『その場合は、最初に書かれたとおり、“斎藤家”から処理されます』
処理。
あまりにも無機質な言葉だった。
奈央は、紙を見つめたまま固まった。
〈夜泣きうるさい 少し静かにしてほしい〉
自分の書いた文字。
あのとき、この一行で誰かを呪うつもりなんて、微塵もなかった。
ただの愚痴。
ただの疲れ。
それが、今、目の前で「選択肢」になっている。
『時間は、多くありません』
黒瀬が、軽くせかすように言った。
『この番組は三十分で終わりますから』
奈央は、指先に力を込めた。
紙が、ぐしゃりと小さく折れる。
その音が、イヤホンなしの耳にまで届いた気がした。
「……全部、なかったことにできないの」
自分でも驚くほど、声は小さかった。
回覧板も。
署名欄も。
愚痴も。
『残念ながら、それは受け付けていません』
黒瀬の気配が、少しだけ遠ざかる。
『“なかったこと”にできるのは、いつもひとつだけです』
いつも、ひとつだけ。
そのルールは、最初からずっと同じだと、どこかで誰かが言っていた気がする。
奈央は、そのことを知らないはずなのに、なぜかそう思った。
◇
翌朝。
目覚ましの音と同時に、遼が布団の中でもぞもぞ動いた。
「ママ、おなかすいた」
「はいはい」
いつもの朝。
冷蔵庫から卵を取り出し、フライパンに火をかける。
昨夜のことは、夢だったのだろうか。
ちゃぶ台の上には、たたまれた回覧板が置かれていた。
防災ラジオのお知らせの紙は、きちんと表に出されている。
裏面の愚痴の文字は、何度見てもそこにある。
紙の下の受信確認欄に目を移す。
杉原、斎藤、三輪、佐伯──に、すべて小さな印がついていた。
自分が書いたものだけではない。
斎藤の欄には、小さな丸と「ok」の文字。
三輪の欄には、「聞こえました」と丁寧な字。
斎藤家も、ラジオを聞いていたということだ。
昨夜、自分が何を選んだのか。
奈央は、それをはっきり覚えてはいなかった。
紙を見つめていると、遼がちゃぶ台に顔を出した。
「ママ、それなに」
「回覧板。お隣さんに回すやつ」
「ふーん」
遼は興味なさそうに、卵焼きに箸を伸ばした。
朝食を終え、学校の支度をさせる。
ランドセルを背負わせ、玄関で靴を履かせる。
ドアを開けると、朝の光が廊下に入ってきた。
斎藤さんの家の玄関の前には、小さなベビーカーが置いてある。
ドアの隙間から、赤ちゃんの泣き声が少し聞こえた。
昨夜と同じ音。
何も変わっていない。
奈央は、胸の奥に溜めていた息を、ゆっくり吐き出した。
「行ってらっしゃい」
「いってきます!」
遼の背中が階段を駆け下りていく。
その足音が消えるのを待ってから、奈央は回覧板を手に取り、隣の家のポストにそっと入れた。
◇
その日の夕方。
スーパーのバックヤードでシフト表を確認していると、
スマホに班長からの着信が入った。
「はい、もしもし」
『ああ、佐伯さん。今大丈夫かい』
低い声。班長の杉原だ。
「はい」
『今朝、回覧板、斎藤さんのところに回してくれたろ』
「……はい」
『その後、中谷さんのところに回ってなくてね』
「え?」
『どこかで止まってるみたいなんだ。悪いけど、斎藤さんの家、見てきてくれないか』
胸の奥に、小さな不安が走った。
「……今は仕事中なので、夜でもいいですか?」
『ああ、構わないよ。ただ、あそこの奥さん、最近ちょっと疲れてるみたいだからね。様子見がてらでいいんだ』
「……分かりました」
電話を切ったあと、奈央はシフトボードを見つめた。
今日のバイトは二十二時まで。
帰りに隣の家のポストを覗くくらいなら、できる。
でも、そのとき、扉の向こうで何を見てしまうのか。
それを考えると、胃のあたりがじわりと重くなった。
◇
夜。
遼をじいじの家に預けている日は、帰りが少し遅くなる。
アパートに戻る頃には、すでに日付が変わっていた。
廊下の蛍光灯が、じんわりと白い光を落としている。
斎藤家の玄関の前に立つ。
ポストを覗くと、
回覧板のクリアファイルがそのまま入っていた。
朝、奈央が入れた位置のまま。
紙の端が、少しだけ折れている。
インターホンを押すべきか迷う。
中から物音はしない。
赤ちゃんの泣き声も聞こえない。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
ノックをしようとした瞬間、
後ろから声をかけられた。
「あ、佐伯さん」
振り向くと、田島さんの奥さんが買い物袋を提げて立っていた。
「あ、こんばんは」
「こんばんは。回覧板、止まっちゃってる?」
「はい……。中谷さんのところに行ってないって、班長さんから電話が」
「ああ、あそこのお宅ねえ」
田島さんは、少し眉をひそめて斎藤家の玄関を見た。
「最近、全然顔見ないから、引っ越したのかと思ってたわ」
「え?」
「あれ、言ってなかったかしら。ほら、あそこ、若い夫婦いたでしょ? 赤ちゃんいたお宅」
いた、過去形。
「この間の自治会のとき、班長さんが言ってたじゃない。『空き家が一軒、出ました』って。あそこだって」
「……え?」
耳がおかしくなったのかと思った。
田島さんの表情は、本気で驚いているようには見えない。
事務的な情報を伝えているだけ、といった顔だ。
「ほら、回覧板の当番表からも消えてたでしょ? 見てなかった?」
田島さんは、奈央の手元のクリアファイルを覗き込む。
奈央は、震える指で受信確認欄をめくり、その下の当番表の紙を引き出した。
第4班 回覧板当番表。
杉原、三輪、佐伯、田島、中谷、古賀、森、高田、角田。
そこに、「斎藤」はなかった。
最初から、その名前が印刷されていなかったかのように、
氏名欄の順番が詰められている。
「……え?」
朝見たときには、確かにあった。
そんな記憶が、じわりと反発する。
白い空白に、「斎藤」という文字が浮かび上がるような錯覚。
それを見てしまった自分のほうがおかしいのか。
「ほらね。空き家扱いだから、もう当番は回さなくていいって」
田島さんは、あっさり言ってのける。
「引っ越すなら挨拶くらいしてってもよさそうなもんだけどねえ。最近の若い人は……」
「……いつ、引っ越したんですか」
奈央の声は、自分で聞いてもかすれていた。
「いつって……結構前じゃなかったっけ? ねえ?」
田島さんは、誰もいない廊下の後ろを振り返る。
返事を期待したわけではないのだろう。
ただの癖だ。
「あたし、ああいう夜泣きの音苦手だからさ、いなくなって静かになってほっとしたけどね」
その一言が、奈央の耳に、妙に重たく響いた。
──いなくなって静かになって、ほっとした。
それは、自分が枕に顔を押しつけて呟いた言葉と、ほとんど同じだった。
◇
部屋に戻ったあとも、奈央はしばらく玄関で立ち尽くしていた。
靴も脱がず、鍵も閉めず。
ただ、廊下の蛍光灯の光を背中に受けたまま。
やがて遼の寝息を思い出し、慌ててドアを閉める。
リビングに入ると、ちゃぶ台の上に回覧板を投げ出し、そのまま崩れるように座り込んだ。
当番表をもう一度見る。
斎藤の行が、見えない。
名前を思い浮かべようとすると、喉の奥に砂を詰められたように、音が出なくなる。
顔は思い出せる。
赤ちゃんを抱いていた姿も。
ゴミ出しのとき挨拶を交わした声も。
でも、それが「どこの誰」だったのかを言葉にしようとすると、
何かがするりとすり抜ける。
黒瀬の声が、頭の奥でささやく。
『選択しないという選択もあります』
昨夜、自分は何を選んだのか。
当番表を見る限り、「斎藤家」は、少なくとも回覧板の世界からは消えている。
現実のほうでも、近所の人たちは「あそこは空き家だ」と言う。
赤ちゃんの泣き声は、聞こえない。
代わりに、空気がやけに静かだ。
──あなたの膝の上が、いつかまた誰かの席になることを願っています。
どこかで聞いたようなセリフが、別の話の断片として頭をよぎる。
奈央は、スマホを取り出した。
時間は、午前一時五十四分。
ラジオアプリの通知欄に、小さな表示が浮かんでいる。
《おすすめの番組:午前二時のリクエスト》
指先が、勝手に画面をタップしていた。
◇
イヤホンを耳に差し込む。
布団には入らず、ちゃぶ台の前で座ったまま、再生ボタンを押す。
ジングル。
チャラララ、チャララ。
『……深夜二時を少し回りました。“午前二時のリクエスト”、黒瀬です』
何事もなかったかのような挨拶。
淡々としたメールの紹介。
他人の愚痴と、慰めと、言い訳。
番組の途中で、黒瀬がふとトーンを変えた。
『きょうは、ちょっとだけ、回覧板のお便りを紹介しましょうか』
奈央は、息を詰めた。
『“うちの町内では、紙の回覧板をまだ使っています”』
それは、誰のメールだろう。
『“誰かの名前が消えても、順番は変わりません”』
当番表の紙が、頭に浮かぶ。
『“白紙の欄だけが増えていきます”』
その言葉に、
ぞくり、と背筋が震えた。
白紙の欄。
今は斎藤の欄が詰められている。
でも、そのうち別の誰かの欄が、
何かの拍子に白紙になるのだろうか。
『“そのうち、最後に残るのは誰の名前だろうと考えてしまいます”』
ラジオの向こうの誰かの、震えた筆跡が見えるような気がした。
『そうですね』
黒瀬は、少しだけ楽しそうな声で言った。
『最後まで残り続ける名前が一つでもあれば、その回覧板はまだ“回っている”と言えるのでしょう』
どれだけ欄が空白になろうとも、それを回す誰かがいれば、制度としては生きている。
『……あなたの班では、誰が最後まで残るのでしょうね』
問いは、誰に向けられていたのか。
奈央には、自分に向けられたようにしか聞こえなかった。
◇
翌週。
回覧板は、また奈央のところに回ってきた。
今度のお知らせは、「夏祭り中止のお知らせ」だった。
天候不順と予算不足。
理由はいくらでもつけられる。
添付の紙の裏に、何が書かれているのか。
奈央は見ないようにした。
見たら、また何かを書いてしまう。
愚痴か、誰かへの文句か。
あるいは、自分自身を消したいという願望か。
そうなれば、また「リクエスト」が届く。
防災ラジオの試験放送は、それきり案内が来なくなった。
市のホームページにも、それらしい記録は残っていない。
班長に「防災ラジオ、どうなりました?」と聞いたときも、
杉原は首を傾げただけだった。
『そんな話、あったかねえ。わし、覚えてないよ』
受信確認欄に残った自分の字だけが、あの夜が夢ではなかったことを証明していた。
◇
夜。
遼を寝かしつけたあと、奈央はちゃぶ台の前に座り、回覧板の当番表を見つめた。
斎藤の名前のあった場所は、何度見ても白紙のままだ。
その下に続く、自分の「佐伯」の文字。
その一行だけが、いつか急に消えてしまうかもしれない。
回覧板が回らなくなった家。
自治会費を払わなくていい家。
誰も訪ねてこない家。
それは、今の生活から見れば、
少しだけ魅力的ですらある。
だが、その代わりに、
世界から自分の名前が消える。
遼の学校の名簿からも。
保護者連絡網からも。
卒業アルバムからも。
遼が「ママ」と呼ぶ相手の顔だけが、
ぼんやりと霧に滲む。
奈央は、ボールペンを手に取った。
当番表の一番下。
「角田」のさらに下の余白。
そこに、小さく一行だけ書いた。
『この紙を見ている誰かが、最後まで残りますように』
それが、新しいリクエストになるのかどうかは分からない。
書き終えたあと、奈央は裏返してみた。
夏祭り中止のお知らせの裏は、まだ何も書かれていなかった。
ジングルが、頭の奥で鳴る。
チャラララ、チャララ。
ラジオアプリの通知は、その夜も、午前一時五十五分に小さく光った。
《次のリクエスト……お待ちしています》
画面を、そっと伏せる。
耳を澄ます。
壁の向こうから、遠くで泣く赤ちゃんの声が、ほんの少しだけ聞こえた気がした。
それが、斎藤家の赤ん坊なのか、誰か別の家の子なのか。
もう、確かめる術はない。
ただ、回覧板の順番だけは、今も変わらず、この町をぐるぐると回り続けている。
名前の消えた欄を、静かに飛び越えながら。




