Case.3 荳我ク贋ソョ莠
タクシーの中には、音が多すぎる。
エンジンの微かな振動。
雨粒がフロントガラスを叩く音。
ワイパーがガラスを拭う規則正しいリズム。
営業所から飛んでくる無線。
客のスマホの着信音。
どれも、夜のあいだじゅう、途切れずに続く。
三上修二は、そのどれにも、もういちいち驚かない。
運転席に座って十数年。
古暮市内の道路は、目をつぶっても走れるくらいになっていた。
ただ、一つだけ、慣れない音がある。
午前二時の少し前、
無線機のスピーカーから、ときどき紛れ込む、聞き覚えのないジングルだ。
チャラララ、チャララ。
古いラジオ番組みたいな、妙に古臭いメロディ。
営業所の誰に聞いても、「そんなもの流してない」と首を振る。
整備に出しても、「異常なし」で返される。
それでも、ときどき聞こえる。
今夜も、その時間が近づいていた。
◇
「二十五号車、聞こえるか? 駅前ロータリー、もう一台欲しいんだが」
ダッシュボード下の無線機から、営業所の声が飛んできた。
「二十五、了解。あと五分くらいで着きます」
短く応答して、マイクをフックに戻す。
車体の横に貼られた「古暮個人タクシー」の文字が、
街灯を受けて一瞬だけ白く光る。
雨は小降りになっていた。
梅雨の終わりかけ。
アスファルトの上には、水たまりがまだあちこちに残っている。
フロントガラスの向こうに、踏切の赤いランプが見えた。
古暮駅東口の手前にある、例の踏切だ。
十六年前、「連鎖事故」が起きた場所。
トラックが線路に乗り上げ、そこにタクシーと私家用車とコンビニが巻き込まれ、派手に燃えた。
ニュースでは何度も映像が流れた。
今でも特集を組まれるくらいには、「事件」として扱われている。
だが、古暮でタクシーをやっている人間にとって、その事故は「事件」であると同時に、「身内の話」でもある。
死んだ運転手のうち一人は、
三上の先輩だった。
◇
信号が青に変わる。
遮断機が上がるところを見計らって、静かに踏切を渡る。
線路の脇には、小さな慰霊碑が建っている。
花と缶コーヒーがいくつか供えられていた。
その脇に、注意喚起の看板が立っている。
《この踏切では、十六年前に連鎖事故が発生し、多数の死傷者が出ました。》
その下に、小さく企業名が刻まれている。
《田縞運輸株式会社》
その名前を見るたびに、
三上は胸のどこかが重くなる。
事故のあと、田縞運輸はあちこちに寄付をしまくった。
学校の体育館。
駅前の時計塔。
慰霊碑。
この町は、加害者と寄付者の名前を、同じ看板に並べるのが好きらしい。
なかったことには、していない。
でも、きれいに飾り直している。
どちらにせよ、あの夜に踏切の中で燃えたタクシーは戻ってこない。
三上は、その事故のとき、まだ二十五歳だった。
古暮タクシー勤務。
あの事故で死んだ先輩・高梨の直属の後輩。
本来なら、その夜あの踏切を渡っていたのは、自分だった。
◇
夜九時。
『三上、悪い。今夜、娘の熱がさ……』
点呼前の喫煙所で、高梨が申し訳なさそうに頭を下げた。
『シフト変わってくれないか? 俺が明日昼出るからさ』
例年より早く始まった熱帯夜。
蚊取り線香の煙が、灰皿の上で細く揺れる。
『いいですよ。どうせ一人だし、夜のほうが楽ですし』
そのときは、本当にそう思っていた。
昼の時間帯は、渋滞が多いし、クレームの多い高齢者の乗客も多い。
夜のほうが、酔っ払いは面倒だが、道路は空いているし、車を流しているだけで拾える客が多い。
それに、高梨には小学生の娘がいた。
三上には、まだ家庭もなかった。
『助かる。埋め合わせはする』
『そんな、大丈夫ですって』
気軽に受けた。
その結果、自分は生き残り、高梨は炎の中で死んだ。
そのことを、「仕方のないこと」と割り切れるほど、
三上は厚顔ではなかった。
だからといって、誰かに詳しく話したこともない。
あの夜、実際にどの車がどのタイミングで踏切に入ったのか。
公式な記録と、現場の証言と、噂話はすべて少しずつズレている。
ズレているが、最終的には「なかったこと」にされる部分が必ず出てくる。
事故の直前、無線で「もう一本乗せてこい」と声をかけたのが誰だったのか。
踏切の警報機に不具合があったのかどうか。
そのあたりの話は、
書類とニュースの中では、上手にぼかされていた。
◇
駅前ロータリーは、思ったより混んでいた。
終電を降りた客が、タクシー乗り場に並んでいる。
個人タクシーと会社の車が、順番に客を拾っていく。
三上は列の最後尾につけた。
目の前に、営業所時代の同僚の車がいる。
今はそれぞれ個人になったが、互いの番号くらいは覚えている。
「おう、二十五。今日も出てんだな」
先に一台を出してから、無線で声が飛んできた。
「お疲れさまです」
「今日さ、あの事故の日だろ。気をつけろよ」
「毎年言ってません?」
「言うよ。こういうのは、言っとかないとな」
軽口のわりに、
声の奥に薄い緊張が混じっている。
十六年前に死んだのは、高梨一人じゃない。
乗客も、他社のドライバーも、コンビニの店員も死んだ。
生き残った人間はみんな、自分だけが助かった理由を、言葉にできないまま抱えている。
三上も、その一人だ。
前のタクシーが客を乗せて走り出し、三上の番になった。
「お待たせしましたー」
ドアを開けると、スーツ姿の男がひとり、ふらつきながら乗り込んできた。
ネクタイは緩んでいるが、酒臭さはそこまで強くない。
「古暮中央病院まで……」
声はよく通るが、抑揚が妙に少ない。
「かしこまりました」
メーターを倒し、車を発進させる。
◇
中央病院までは、駅から十五分ほど。
踏切を渡り、川沿いの道を抜けていく。
車内には、小さなラジオが流れている。
普段は交通情報や天気予報を聞く程度だが、客が話しかけてこないときは、適度な雑音として便利だ。
『──続いては、深夜のニュースです』
パーソナリティの声が、どこかで聞いたようなトーンに感じて、三上はボリュームを少し絞った。
踏切が近づく。
赤信号。
遮断機が下りている。
ベルが鳴り、ランプが点滅する。
列車が通過するあいだ、
タクシーはゆっくりと停止した。
線路の向こうに、慰霊碑が見える。
花束の影と、缶コーヒーの銀色が、ヘッドライトに浮かび上がっている。
後部座席から、男の声がした。
「……あの夜も、こうやって止まってりゃよかったのにな」
「え?」
バックミラー越しに客を見る。
男は窓の外をじっと見ていた。
眼鏡の奥の目は、妙に赤い。
「ニュースでやってたろ。“連鎖事故から十六年”って。あそこ、ちょうど見てたんだ」
「……そうですか」
反応に困る話題だった。
あの事故の話題は、
この町では、タクシーの中で一番避けたいテーマだ。
「運転手さん、あのときもう会社にいました?」
「いえ、その日は……」
思わず言いかけて、黙る。
その日は休みだった。
そう言うこともできる。
実際、「あの夜休みだった」と嘘をついたこともある。
だが、今日はそれを言う気にはなれなかった。
「自分は、違う車に乗ってました」
どこまで本当か、どこから嘘か、自分でもよく分からない答えだった。
遮断機が上がる。
青信号。
車を発進させる。
バックミラーに映る客の顔は、相変わらず、窓の外を見ていた。
◇
病院に着くと、客はメーターを一瞥してから、黙って料金を払った。
「お大事に」と口に出しかけて、それが場違いな言葉だと気づき、三上は「ありがとうございました」に言い換える。
男は振り返らずに、エントランスの自動ドアの中に消えていった。
ドアが閉まる直前、
横顔だけが一瞬見えた。
どこかで見たことがあるような気がした。
ニュースの画面の中とか、
昔の葬式の写真の中とか。
だが、思い出せない。
メーターをリセットし、
無線に「回送」と告げる。
時計を見ると、午前一時四十八分だった。
◇
病院の駐車場で少し時間を潰し、
そのまま駅のほうへ戻ることにした。
患者の付き添いや、夜勤明けの看護師がたまに拾える。
無線もそろそろ次の指示を飛ばしてくるだろう。
フロントガラスの外、街の灯りは少しずつ減っていく。
車内のラジオから、ジングルが流れた。
チャラララ、チャララ。
三上は、反射的にボリュームを絞った。
その瞬間、音の出どころがラジオではないと気づく。
無線機のスピーカーから、同じメロディが流れていた。
「……またか」
思わず小さく呟く。
営業所の周波数のはずなのに、ときどき混信なのか何なのか、意味のわからない音が割り込んでくる。
特に、午前二時前後に多い。
『……深夜二時を少し回りました』
無線機から、低い声がした。
営業所のオペレーターとは違う、
落ち着いたトーン。
『ここからの三十分は、“午前二時のリクエスト”』
聞き覚えのある番組名。
どこかのラジオ局の深夜番組の電波が混じっているのだと、そういうことにしていつもやり過ごしている。
だが、今夜は、それがいつもよりはっきり聞こえた。
『パーソナリティの、黒瀬です』
名前も、聞いた覚えがある。
誰がそう言ったのか。
どこで聞いたのか。
はっきりと思い出せないのに、舌に乗せてみるとしっくりくる名前。
黒瀬。
無線機のボリュームを絞っても、声の大きさは変わらなかった。
ノブを完全にゼロにしても、相変わらず同じ声が聞こえる。
音量の問題ではない。
スピーカーからではなく、車内の空気そのものから響いてきているような感じだった。
『さて、今夜も眠れない皆さんからの、小さな本音を預かっていきましょう』
いつも通りのフレーズ。
『まずは、最初のリスナーさん』
ほんの少しの間。
『今、二十五号車の運転席に座っている、あなた』
三上は、思わずブレーキを踏んだ。
車は、人気のない交差点の手前で止まった。
周りに他の車はいない。
信号は青だが、走る気にはなれなかった。
メーターの上の「25」の表示が、
フロントガラスに反射している。
『マイクを持たなくて大丈夫です。ここでは、あなたの声は、そのまま届きますから』
黒瀬の声は、営業所の無線のつもりで話しかけているとは思えないほど、落ち着いていた。
『今夜は、“事故にまつわるリクエスト”を集めています』
冗談じゃない、と心のどこかで思う。
『十六年前、この町で起きた連鎖事故』
フロントガラス越しに、踏切の赤いランプがまた見えた気がした。
実際には、そこから離れているはずだ。
『あの夜、本来ならあの踏切に入っていたはずだった運転手さん』
言葉が、背中のほうから刺さる感じがした。
『あなたが、シフトを代わったお相手は、高梨さんという名前でしたね』
頭の奥で何かが軋む。
その名前を、三上は営業所の外で口にしたことはなかった。
家族にも、友人にも話していない。
タバコの煙の中で、あのとき交わした会話を思い出す。
『助かる。また今度奢る』
『いいですよ』
軽い調子で受けた自分。
『……誰から聞いたんですか』
口が勝手に動いていた。
返事は、すぐに返ってきた。
『この番組は、リスナーの方からの情報と、街に残っている“記録”をもとに放送しています』
どんな記録だ。
『事故当時の報道、救急の記録、裁判資料。そして、慰霊碑の裏に刻まれた名前』
慰霊碑の裏。
そこには、死者の名前と合わせて、遺族会や関係者の名前が小さく刻まれている。
三上も、数年に一度は名前を探しに行った。
そこに高梨の名字を見つけるたび、胸が重くなった。
『あなたは、その中に、自分の名前がないことを、ほっとしたり、腹立たしく思ったりしてきました』
「やめろよ」
声は、狭い車内にだけ響いた。
『事故のあと、あなたは報告書に、“あの日は休みだった”と書きましたね』
報告書。
ドライブレコーダーの記録。
出退勤簿。
全部、あらためて書き直させられた。
二十五号車の夜勤は、高梨。
自分は日勤。
そういうことになった。
『会社も、保険も、そのほうが都合がよかった』
田縞運輸のトラックと、タクシー会社と、踏切の管理会社。
責任の所在を、なるべく単純にしたかったのだろう。
「高梨がいたタクシー」「田縞運輸のトラック」「不運な私家用車」。
三上の名前は、そのどこにも出てこない。
『なかったことにされたのは、事故だけではありません』
黒瀬の声は、淡々としている。
『“そこにいたはずの運転手”も、まるごと、なかったことにされた』
ハンドルを握る手が、じっとりと汗ばむ。
『そのことを、あなたはずっと引きずってきた』
否定できなかった。
◇
『この番組は、そういう“引きずっている人”のための、小さなリクエスト番組です』
聞きたくない言い回しだった。
『あなたに一度だけ、選択していただけることがあります』
何を、と問う前に、説明が続けられる。
『十六年前のあの夜。あの踏切の上にいた、四つの“席”のうち、一つを空席にすることができます』
四つ。
『田縞運輸のトラックの運転席』
『高梨さんが座っていたタクシーの運転席』
『後部座席に乗っていた、あの若い夫婦の席』
『あなた自身の席』
最後だけ、妙にゆっくりと言われた気がした。
『どのシートを、“最初から誰も座っていなかったこと”にしますか』
意味が、すぐには飲み込めなかった。
「……どういうことだ」
『文字通りの意味です』
黒瀬の声は、笑っていなかった。
『そこに座っていた人間は、この世界から“いなかったこと”になります』
事故で死ななかったことになるのか。
そもそも、その夜そこに向かわなかったことになるのか。
どちらにせよ、「なかったことにする」という点だけは共通している。
『タクシーの中で、あなたは何度も考えました』
踏切の前で、高梨を思い出す夜。
慰霊碑の前で、名前を撫でる指。
テレビで事故特集を見たあとに、消したくなる映像。
『“誰か一人でもいなければ、こんなことにはならなかった”』
たしかに、一度や二度はそう思ったことがある。
トラックの運転手が、少しでも慎重だったら。
若い夫婦が、そのタクシーに乗らなければ。
高梨が、シフトを代わってくれと言わなければ。
──自分が、あの申し出を断っていれば。
『あなたが選んだ席は、そのときから決まっているのではありませんか』
十五年前。
慰霊式のあと、
高梨の妻と娘の姿を遠くから見たとき。
三上は心の中で、「あの夜、自分が死ねばよかった」と、確かに思った。
思ったが、それは口に出すにはあまりにも安っぽい自己犠牲だと思って、そのまま飲み込んだ。
『今ならまだ、やり直せます』
その囁きは、あまりにも甘かった。
やり直すとは、何を。
過去を。
死亡者の数を。
ニュースの内容を。
それとも、自分の立場を。
『選択は一度きりです』
脳内で、四つの座席が浮かんでは消える。
田縞運輸のトラックの運転席。
高梨の運転席。
タクシー後部座席の若い夫婦の席。
自分自身の運転席。
『声に出さなくてもけっこうです。心の中で、座席をひとつだけ、指さしてください』
ふざけるな、と叫ぶ理性の声と、もし本当にできるなら、という卑怯な期待が、胸の中で絡まる。
もしトラックがいなければ。
もし若い夫婦が別のタクシーに乗っていれば。
もし高梨がその夜出勤していなければ。
そのどれも、「あり得たかもしれない世界」だと思えてしまう。
だが、それを選んだとき、
その人たちの人生全体が、「なかったこと」になる。
田縞運輸の運転手には家族がいた。
若い夫婦には、生まれなかった子どもがいたかもしれない。
高梨には娘がいた。
そう考えたところで、
最後の選択肢に目が行く。
自分自身の席。
自分が、最初からタクシードライバーをしていなかった世界。
あの夜、そもそも出勤していなかった世界。
高梨がシフト交代を頼まなかった世界。
自分がいなければ、誰か別の人間が二十五号車に座っていたのだろうか。
そういう仮定は、いくらでもできる。
ただ、そのどれも、自分という存在を犠牲にした上での話だ。
それで、本当に何かが良くなるのかどうか。
『時間切れが近づいています』
黒瀬の声が、わずかに楽しそうになる。
『どれか一つだけ、お選びください』
ワイパーがガラスを拭う音が、やけに大きく聞こえた。
三上は、目を閉じた。
雨の夜。
踏切の赤いランプ。
高梨の笑顔。
タクシーの中で眠っていた若い夫婦。
脳裏に浮かんだ最後の光景は、
高梨の娘が、葬式のときに持っていた小さなランドセルだった。
あのとき、自分が思った言葉。
──俺が、替わればよかったのに。
それを否定できるだけの理屈を、この十六年で用意できなかった。
三上は、心の中で、自分の席を指さした。
自分が、運転席に座っている位置。
二十五号車の、ハンドルの後ろ。
◇
何かが、「カチ」と切り替わる音がした。
実際に聞こえたのか、脳内だけなのか、判別がつかない。
フロントガラスの外の景色が、一瞬、白い光に塗りつぶされた。
まぶたを閉じているはずなのに、光は容赦なく瞼を透き通ってくる。
次の瞬間、耳をつんざくような警報音が鳴った。
カン、カン、カン、カン。
踏切の音。
赤いランプ。
遮断機が降りる。
ブレーキを踏もうとしても、足が動かない。
というか、足という感覚そのものがない。
自分の視点は、運転席の外側に浮かんでいた。
真っ黒い夜の中、白いタクシーが踏切に頭を突っ込んでいる。
運転席は、誰もいない。
後部座席には、若い夫婦がまだ眠っている。
線路の向こうから、ヘッドライトの光が近づいてくる。
その脇を、大型トラックの車体がかすめていく。
轟音。
火花。
金属が歪む音。
光と音が、ごちゃ混ぜになって押し寄せる。
タクシーは、無人のまま、
トラックと一緒にコンビニのガラスを突き破り、炎に包まれた。
その光景を、どこか遠くから、ただ眺めるしかできない自分。
無線機からは、誰かの叫び声が聞こえている。
『二十五号車、応答しろ! 二十五!』
返事はない。
運転席には誰もいないのだから。
◇
光が、ふっと消えた。
気づくと、三上はもとの運転席に座っていた。
ワイパーが、規則正しくガラスを拭っている。
雨は小降りだ。
エンジン音。
エアコンの風。
タクシーメーターの小さな電子音。
すべてが、さっきまでと変わらない。
ただ一つを除いて。
無線機の上。
そこに貼られていたはずの番号プレートが、
空白になっていた。
「25」の数字が消えている。
代わりに、うっすらと粘着テープの跡だけが残っていた。
『……お選びいただき、ありがとうございました』
黒瀬の声が、どこからともなく響いた。
『これで、あの夜、二十五号車には運転手はいなかったことになりました』
わざとらしいくらい、はっきりした説明。
『若い夫婦は、別のタクシーに乗りました』
『トラックは、ブレーキが間に合いました』
『コンビニは燃えませんでした』
連鎖事故は起きなかった。
その代わり、
踏切付近で起きた「車両の故障」は、小さな記事にもならないまま処理されたのだろう。
高梨も死ななかった。
田縞運輸の名前が全国ニュースに躍ることもなかった。
この町の慰霊碑も、
最初から建っていないかもしれない。
『あなたの選択は、多くの人を救いました』
それは、たしかにそうかもしれない。
だが、その代わりに、
何が「なかったこと」になったのか。
『あなたが今まで過ごしてきた十六年間は、ここでは存在しません』
その一言で、背筋を冷たいものが這い上がった。
「……ふざけるな」
思わず声が出た。
無線機のマイクを掴んで、「営業所」と呼びかけようとして、手が止まる。
呼び出す相手が思い出せない。
営業所の名前。
所長の顔。
同僚たちの車両番号。
さっきまで、ついさっきまで、当たり前に知っていたはずなのに、全部が、霧の向こう側にあるみたいにぼやけている。
ダッシュボードの上には、営業許可証のプレートがはめ込まれている。
薄い金属板に、運転手の名前が刻まれているはずだ。
三上は震える手で、それを持ち上げた。
そこには、何も書かれていなかった。
ただの銀色の板。
名前も、番号も、会社名もない。
自分の名字が、
頭の中からすっぽり抜け落ちる感覚があった。
「三上修二」という音の並びが、意味のない記号みたいに遠ざかっていく。
◇
携帯電話を取り出す。
ロック画面には、時刻と日付だけが表示されている。
ホーム画面。
電話帳。
履歴。
上から順にスクロールしていくが、
どの名前にも見覚えがない。
「娘」「元妻」「母」といったラベルのついた登録はない。
自分のものらしき写真フォルダも、ほとんど空っぽだ。
「……俺、結婚、してたか?」
自分に問いかけて、答えが返ってこない。
高梨の葬式で見た小さなランドセル。
その横に立っていた自分の姿を、うまく思い出せない。
さっきまで「事実」だった記憶が、急速に夢の断片みたいな質感に変わっていく。
無線機から、黒瀬の声がした。
『ここは、“あなたが代わりに死ねばよかった世界”です』
言い方があまりにもあっさりしていて、余計に腹が立った。
『あなたは、十六年前の事故で亡くなりました』
そんな事実はない、と言い返そうとして、
口が動かなかった。
『高梨さんは、今もどこかで別のタクシーを走らせています』
その光景は、妙に自然に思えた。
『田縞運輸の名前は、全国ニュースには出ませんでした』
だったら、この会社は今も普通に運送業を続けているのだろう。
『あなたのことを覚えている人は、今、この車の中にしかいません』
つまり、自分自身しか覚えていない。
その自分の記憶も、今まさに崩れかけている。
信号が、いつの間にか赤になっていた。
ぼんやりしているあいだに、何台か車が横を通り過ぎていく。
ふと見ると、対向車線を走るタクシーの車体に目が留まった。
古暮タクシーのマーク。
車体番号「25」の文字。
運転席には、見覚えのある後ろ姿が見えた。
窓越しの一瞬。
目が合ったような気がする。
だが、その車はすぐに角を曲がって見えなくなった。
『……そろそろ、お別れの時間です』
黒瀬の声が、軽くなる。
『“午前二時のリクエスト”、本日の最初のリスナーは、これにて終了です』
「待て」
マイクを握りしめる。
「待てよ。だったら、俺はこれからどうすりゃいいんだ」
『どうもしなくて構いません』
返事はあまりにも素っ気なかった。
『もともと、ここでは“いなかった人”なのですから』
ラジオのジングルが流れる。
チャラララ、チャララ。
それきり、無線機からは何の音も聞こえなくなった。
◇
タクシーを路肩に寄せ、ハザードを点ける。
エンジン音だけが続く。
ハンドルから手を離し、シートにもたれかかる。
深呼吸を一つ、二つ。
頭の中は、ひどく静かだった。
感情が追いついていない。
怒りも、悲しみも、安堵も、どれも中途半端な位置で止まっている。
ただ、外の世界が少しずつ「見慣れないもの」に変わっていくのだけは分かった。
道路標識。
コンビニの看板。
バス停の時刻表。
どこか微妙に違う。
見覚えのあるフォントと、見覚えのないロゴが混じっている。
踏切の脇を見る。
慰霊碑はなかった。
その代わりに、「徐行」の標識が立っているだけだ。
線路脇に供えられていたはずの花束も、缶コーヒーもない。
事故は、起きなかったのだ。
その代わりに──。
タクシーのルームミラーを見る。
そこに映っていたはずの自分の顔が、ぼやけている。
輪郭はあるのに、目鼻立ちが焦点を結ばない。
鏡に顔を近づけても、同じだった。
自分の顔が。
自分の年齢が。
自分がどんな人生を歩んできたのかが。
すべて、霧の中のようにあやふやになっていく。
ハンドルに置いたはずの両手の感触も、
だんだん薄れていく。
指の数が分からない。
足が床に触れているかどうかも曖昧になる。
自分の身体が、座席と一緒に、少しずつ薄くなっていく。
◇
最後に、
耳に残ったのは、無線機のスイッチが切れる小さな音だった。
カチ。
それから、誰かの声。
『こちら古暮タクシー。二十五号車、います?』
返事はない。
『あれ、二十五なんて元からいたっけ? 番号振り直したか?』
『二十四の次は二十六だろ。何言ってんだ』
そんなやり取りが、
遠ざかるように聞こえた気がした。
やがて、それも聞こえなくなった。
◇
古暮市内のどこか。
午前二時を少し過ぎた踏切の脇で、
一台のタクシーが、エンジンだけをかけたまま、無人で停まっていた。
ハザードも、ヘッドライトも消えている。
ダッシュボードの上には、空白の営業許可証のプレートと、
番号の剥がれた小さなスペースだけが残されている。
無線機のスピーカーから、
微かにジングルが漏れた。
チャラララ、チャララ。
『──続いてのリクエストは、“消えてほしい住所”をお持ちの方から』
黒瀬の声が、
誰もいない車内の空気を揺らした。
その声に応える者は、そこにはいない。
もともと、「いなかった」のだから。




