表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
午前二時のリクエスト  作者: 日月 間


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/4

Case.3 荳我ク贋ソョ莠

 タクシーの中には、音が多すぎる。


 エンジンの微かな振動。

 雨粒がフロントガラスを叩く音。

 ワイパーがガラスを拭う規則正しいリズム。

 営業所から飛んでくる無線。

 客のスマホの着信音。


 どれも、夜のあいだじゅう、途切れずに続く。


 三上修二は、そのどれにも、もういちいち驚かない。

 運転席に座って十数年。

 古暮市内の道路は、目をつぶっても走れるくらいになっていた。


 ただ、一つだけ、慣れない音がある。


 午前二時の少し前、

 無線機のスピーカーから、ときどき紛れ込む、聞き覚えのないジングルだ。


 チャラララ、チャララ。


 古いラジオ番組みたいな、妙に古臭いメロディ。


 営業所の誰に聞いても、「そんなもの流してない」と首を振る。

 整備に出しても、「異常なし」で返される。


 それでも、ときどき聞こえる。


 今夜も、その時間が近づいていた。


 ◇


「二十五号車、聞こえるか? 駅前ロータリー、もう一台欲しいんだが」


 ダッシュボード下の無線機から、営業所の声が飛んできた。


「二十五、了解。あと五分くらいで着きます」


 短く応答して、マイクをフックに戻す。


 車体の横に貼られた「古暮個人タクシー」の文字が、

 街灯を受けて一瞬だけ白く光る。


 雨は小降りになっていた。

 梅雨の終わりかけ。

 アスファルトの上には、水たまりがまだあちこちに残っている。


 フロントガラスの向こうに、踏切の赤いランプが見えた。


 古暮駅東口の手前にある、例の踏切だ。


 十六年前、「連鎖事故」が起きた場所。


 トラックが線路に乗り上げ、そこにタクシーと私家用車とコンビニが巻き込まれ、派手に燃えた。


 ニュースでは何度も映像が流れた。

 今でも特集を組まれるくらいには、「事件」として扱われている。


 だが、古暮でタクシーをやっている人間にとって、その事故は「事件」であると同時に、「身内の話」でもある。


 死んだ運転手のうち一人は、

 三上の先輩だった。


 ◇


 信号が青に変わる。

 遮断機が上がるところを見計らって、静かに踏切を渡る。


 線路の脇には、小さな慰霊碑が建っている。

 花と缶コーヒーがいくつか供えられていた。


 その脇に、注意喚起の看板が立っている。


《この踏切では、十六年前に連鎖事故が発生し、多数の死傷者が出ました。》


 その下に、小さく企業名が刻まれている。


《田縞運輸株式会社》


 その名前を見るたびに、

 三上は胸のどこかが重くなる。


 事故のあと、田縞運輸はあちこちに寄付をしまくった。


 学校の体育館。

 駅前の時計塔。

 慰霊碑。


 この町は、加害者と寄付者の名前を、同じ看板に並べるのが好きらしい。


 なかったことには、していない。

 でも、きれいに飾り直している。


 どちらにせよ、あの夜に踏切の中で燃えたタクシーは戻ってこない。


 三上は、その事故のとき、まだ二十五歳だった。


 古暮タクシー勤務。

 あの事故で死んだ先輩・高梨の直属の後輩。


 本来なら、その夜あの踏切を渡っていたのは、自分だった。


 ◇


 夜九時。


『三上、悪い。今夜、娘の熱がさ……』


 点呼前の喫煙所で、高梨が申し訳なさそうに頭を下げた。


『シフト変わってくれないか? 俺が明日昼出るからさ』


 例年より早く始まった熱帯夜。

 蚊取り線香の煙が、灰皿の上で細く揺れる。


『いいですよ。どうせ一人だし、夜のほうが楽ですし』


 そのときは、本当にそう思っていた。


 昼の時間帯は、渋滞が多いし、クレームの多い高齢者の乗客も多い。


 夜のほうが、酔っ払いは面倒だが、道路は空いているし、車を流しているだけで拾える客が多い。


 それに、高梨には小学生の娘がいた。


 三上には、まだ家庭もなかった。


『助かる。埋め合わせはする』


『そんな、大丈夫ですって』


 気軽に受けた。

 その結果、自分は生き残り、高梨は炎の中で死んだ。


 そのことを、「仕方のないこと」と割り切れるほど、

 三上は厚顔ではなかった。


 だからといって、誰かに詳しく話したこともない。


 あの夜、実際にどの車がどのタイミングで踏切に入ったのか。

 公式な記録と、現場の証言と、噂話はすべて少しずつズレている。


 ズレているが、最終的には「なかったこと」にされる部分が必ず出てくる。


 事故の直前、無線で「もう一本乗せてこい」と声をかけたのが誰だったのか。

 踏切の警報機に不具合があったのかどうか。


 そのあたりの話は、

 書類とニュースの中では、上手にぼかされていた。


 ◇


 駅前ロータリーは、思ったより混んでいた。


 終電を降りた客が、タクシー乗り場に並んでいる。

 個人タクシーと会社の車が、順番に客を拾っていく。


 三上は列の最後尾につけた。


 目の前に、営業所時代の同僚の車がいる。

 今はそれぞれ個人になったが、互いの番号くらいは覚えている。


「おう、二十五。今日も出てんだな」


 先に一台を出してから、無線で声が飛んできた。


「お疲れさまです」


「今日さ、あの事故の日だろ。気をつけろよ」


「毎年言ってません?」


「言うよ。こういうのは、言っとかないとな」


 軽口のわりに、

 声の奥に薄い緊張が混じっている。


 十六年前に死んだのは、高梨一人じゃない。


 乗客も、他社のドライバーも、コンビニの店員も死んだ。


 生き残った人間はみんな、自分だけが助かった理由を、言葉にできないまま抱えている。


 三上も、その一人だ。


 前のタクシーが客を乗せて走り出し、三上の番になった。


「お待たせしましたー」


 ドアを開けると、スーツ姿の男がひとり、ふらつきながら乗り込んできた。


 ネクタイは緩んでいるが、酒臭さはそこまで強くない。


「古暮中央病院まで……」


 声はよく通るが、抑揚が妙に少ない。


「かしこまりました」


 メーターを倒し、車を発進させる。


 ◇


 中央病院までは、駅から十五分ほど。

 踏切を渡り、川沿いの道を抜けていく。


 車内には、小さなラジオが流れている。

 普段は交通情報や天気予報を聞く程度だが、客が話しかけてこないときは、適度な雑音として便利だ。


『──続いては、深夜のニュースです』


 パーソナリティの声が、どこかで聞いたようなトーンに感じて、三上はボリュームを少し絞った。


 踏切が近づく。


 赤信号。

 遮断機が下りている。

 ベルが鳴り、ランプが点滅する。


 列車が通過するあいだ、

 タクシーはゆっくりと停止した。


 線路の向こうに、慰霊碑が見える。

 花束の影と、缶コーヒーの銀色が、ヘッドライトに浮かび上がっている。


 後部座席から、男の声がした。


「……あの夜も、こうやって止まってりゃよかったのにな」


「え?」


 バックミラー越しに客を見る。


 男は窓の外をじっと見ていた。

 眼鏡の奥の目は、妙に赤い。


「ニュースでやってたろ。“連鎖事故から十六年”って。あそこ、ちょうど見てたんだ」


「……そうですか」


 反応に困る話題だった。


 あの事故の話題は、

 この町では、タクシーの中で一番避けたいテーマだ。


「運転手さん、あのときもう会社にいました?」


「いえ、その日は……」


 思わず言いかけて、黙る。


 その日は休みだった。

 そう言うこともできる。

 実際、「あの夜休みだった」と嘘をついたこともある。


 だが、今日はそれを言う気にはなれなかった。


「自分は、違う車に乗ってました」


 どこまで本当か、どこから嘘か、自分でもよく分からない答えだった。


 遮断機が上がる。

 青信号。

 車を発進させる。


 バックミラーに映る客の顔は、相変わらず、窓の外を見ていた。


 ◇


 病院に着くと、客はメーターを一瞥してから、黙って料金を払った。


「お大事に」と口に出しかけて、それが場違いな言葉だと気づき、三上は「ありがとうございました」に言い換える。


 男は振り返らずに、エントランスの自動ドアの中に消えていった。


 ドアが閉まる直前、

 横顔だけが一瞬見えた。


 どこかで見たことがあるような気がした。

 ニュースの画面の中とか、

 昔の葬式の写真の中とか。


 だが、思い出せない。


 メーターをリセットし、

 無線に「回送」と告げる。


 時計を見ると、午前一時四十八分だった。


 ◇


 病院の駐車場で少し時間を潰し、

 そのまま駅のほうへ戻ることにした。


 患者の付き添いや、夜勤明けの看護師がたまに拾える。

 無線もそろそろ次の指示を飛ばしてくるだろう。


 フロントガラスの外、街の灯りは少しずつ減っていく。


 車内のラジオから、ジングルが流れた。


 チャラララ、チャララ。


 三上は、反射的にボリュームを絞った。

 その瞬間、音の出どころがラジオではないと気づく。


 無線機のスピーカーから、同じメロディが流れていた。


「……またか」


 思わず小さく呟く。


 営業所の周波数のはずなのに、ときどき混信なのか何なのか、意味のわからない音が割り込んでくる。


 特に、午前二時前後に多い。


『……深夜二時を少し回りました』


 無線機から、低い声がした。


 営業所のオペレーターとは違う、

 落ち着いたトーン。


『ここからの三十分は、“午前二時のリクエスト”』


 聞き覚えのある番組名。


 どこかのラジオ局の深夜番組の電波が混じっているのだと、そういうことにしていつもやり過ごしている。


 だが、今夜は、それがいつもよりはっきり聞こえた。


『パーソナリティの、黒瀬です』


 名前も、聞いた覚えがある。


 誰がそう言ったのか。

 どこで聞いたのか。

 はっきりと思い出せないのに、舌に乗せてみるとしっくりくる名前。


 黒瀬。


 無線機のボリュームを絞っても、声の大きさは変わらなかった。


 ノブを完全にゼロにしても、相変わらず同じ声が聞こえる。


 音量の問題ではない。


 スピーカーからではなく、車内の空気そのものから響いてきているような感じだった。


『さて、今夜も眠れない皆さんからの、小さな本音を預かっていきましょう』


 いつも通りのフレーズ。


『まずは、最初のリスナーさん』


 ほんの少しの間。


『今、二十五号車の運転席に座っている、あなた』


 三上は、思わずブレーキを踏んだ。


 車は、人気のない交差点の手前で止まった。


 周りに他の車はいない。

 信号は青だが、走る気にはなれなかった。


 メーターの上の「25」の表示が、

 フロントガラスに反射している。


『マイクを持たなくて大丈夫です。ここでは、あなたの声は、そのまま届きますから』


 黒瀬の声は、営業所の無線のつもりで話しかけているとは思えないほど、落ち着いていた。


『今夜は、“事故にまつわるリクエスト”を集めています』


 冗談じゃない、と心のどこかで思う。


『十六年前、この町で起きた連鎖事故』


 フロントガラス越しに、踏切の赤いランプがまた見えた気がした。


 実際には、そこから離れているはずだ。


『あの夜、本来ならあの踏切に入っていたはずだった運転手さん』


 言葉が、背中のほうから刺さる感じがした。


『あなたが、シフトを代わったお相手は、高梨さんという名前でしたね』


 頭の奥で何かが軋む。


 その名前を、三上は営業所の外で口にしたことはなかった。


 家族にも、友人にも話していない。


 タバコの煙の中で、あのとき交わした会話を思い出す。


『助かる。また今度奢る』


『いいですよ』


 軽い調子で受けた自分。


『……誰から聞いたんですか』


 口が勝手に動いていた。


 返事は、すぐに返ってきた。


『この番組は、リスナーの方からの情報と、街に残っている“記録”をもとに放送しています』


 どんな記録だ。


『事故当時の報道、救急の記録、裁判資料。そして、慰霊碑の裏に刻まれた名前』


 慰霊碑の裏。


 そこには、死者の名前と合わせて、遺族会や関係者の名前が小さく刻まれている。


 三上も、数年に一度は名前を探しに行った。

 そこに高梨の名字を見つけるたび、胸が重くなった。


『あなたは、その中に、自分の名前がないことを、ほっとしたり、腹立たしく思ったりしてきました』


「やめろよ」


 声は、狭い車内にだけ響いた。


『事故のあと、あなたは報告書に、“あの日は休みだった”と書きましたね』


 報告書。

 ドライブレコーダーの記録。

 出退勤簿。


 全部、あらためて書き直させられた。


 二十五号車の夜勤は、高梨。

 自分は日勤。

 そういうことになった。


『会社も、保険も、そのほうが都合がよかった』


 田縞運輸のトラックと、タクシー会社と、踏切の管理会社。


 責任の所在を、なるべく単純にしたかったのだろう。


 「高梨がいたタクシー」「田縞運輸のトラック」「不運な私家用車」。


 三上の名前は、そのどこにも出てこない。


『なかったことにされたのは、事故だけではありません』


 黒瀬の声は、淡々としている。


『“そこにいたはずの運転手”も、まるごと、なかったことにされた』


 ハンドルを握る手が、じっとりと汗ばむ。


『そのことを、あなたはずっと引きずってきた』


 否定できなかった。


 ◇


『この番組は、そういう“引きずっている人”のための、小さなリクエスト番組です』


 聞きたくない言い回しだった。


『あなたに一度だけ、選択していただけることがあります』


 何を、と問う前に、説明が続けられる。


『十六年前のあの夜。あの踏切の上にいた、四つの“席”のうち、一つを空席にすることができます』


 四つ。


『田縞運輸のトラックの運転席』

『高梨さんが座っていたタクシーの運転席』

『後部座席に乗っていた、あの若い夫婦の席』

『あなた自身の席』


 最後だけ、妙にゆっくりと言われた気がした。


『どのシートを、“最初から誰も座っていなかったこと”にしますか』


 意味が、すぐには飲み込めなかった。


「……どういうことだ」


『文字通りの意味です』


 黒瀬の声は、笑っていなかった。


『そこに座っていた人間は、この世界から“いなかったこと”になります』


 事故で死ななかったことになるのか。

 そもそも、その夜そこに向かわなかったことになるのか。


 どちらにせよ、「なかったことにする」という点だけは共通している。


『タクシーの中で、あなたは何度も考えました』


 踏切の前で、高梨を思い出す夜。

 慰霊碑の前で、名前を撫でる指。

 テレビで事故特集を見たあとに、消したくなる映像。


『“誰か一人でもいなければ、こんなことにはならなかった”』


 たしかに、一度や二度はそう思ったことがある。


 トラックの運転手が、少しでも慎重だったら。

 若い夫婦が、そのタクシーに乗らなければ。

 高梨が、シフトを代わってくれと言わなければ。


 ──自分が、あの申し出を断っていれば。


『あなたが選んだ席は、そのときから決まっているのではありませんか』


 十五年前。

 慰霊式のあと、

 高梨の妻と娘の姿を遠くから見たとき。


 三上は心の中で、「あの夜、自分が死ねばよかった」と、確かに思った。


 思ったが、それは口に出すにはあまりにも安っぽい自己犠牲だと思って、そのまま飲み込んだ。


『今ならまだ、やり直せます』


 その囁きは、あまりにも甘かった。


 やり直すとは、何を。


 過去を。

 死亡者の数を。

 ニュースの内容を。


 それとも、自分の立場を。


『選択は一度きりです』


 脳内で、四つの座席が浮かんでは消える。


 田縞運輸のトラックの運転席。

 高梨の運転席。

 タクシー後部座席の若い夫婦の席。

 自分自身の運転席。


『声に出さなくてもけっこうです。心の中で、座席をひとつだけ、指さしてください』


 ふざけるな、と叫ぶ理性の声と、もし本当にできるなら、という卑怯な期待が、胸の中で絡まる。


 もしトラックがいなければ。

 もし若い夫婦が別のタクシーに乗っていれば。

 もし高梨がその夜出勤していなければ。


 そのどれも、「あり得たかもしれない世界」だと思えてしまう。


 だが、それを選んだとき、

 その人たちの人生全体が、「なかったこと」になる。


 田縞運輸の運転手には家族がいた。

 若い夫婦には、生まれなかった子どもがいたかもしれない。

 高梨には娘がいた。


 そう考えたところで、

 最後の選択肢に目が行く。


 自分自身の席。


 自分が、最初からタクシードライバーをしていなかった世界。

 あの夜、そもそも出勤していなかった世界。

 高梨がシフト交代を頼まなかった世界。


 自分がいなければ、誰か別の人間が二十五号車に座っていたのだろうか。


 そういう仮定は、いくらでもできる。


 ただ、そのどれも、自分という存在を犠牲にした上での話だ。


 それで、本当に何かが良くなるのかどうか。


『時間切れが近づいています』


 黒瀬の声が、わずかに楽しそうになる。


『どれか一つだけ、お選びください』


 ワイパーがガラスを拭う音が、やけに大きく聞こえた。


 三上は、目を閉じた。


 雨の夜。

 踏切の赤いランプ。

 高梨の笑顔。

 タクシーの中で眠っていた若い夫婦。


 脳裏に浮かんだ最後の光景は、

 高梨の娘が、葬式のときに持っていた小さなランドセルだった。


 あのとき、自分が思った言葉。


 ──俺が、替わればよかったのに。


 それを否定できるだけの理屈を、この十六年で用意できなかった。


 三上は、心の中で、自分の席を指さした。


 自分が、運転席に座っている位置。


 二十五号車の、ハンドルの後ろ。


 ◇


 何かが、「カチ」と切り替わる音がした。


 実際に聞こえたのか、脳内だけなのか、判別がつかない。


 フロントガラスの外の景色が、一瞬、白い光に塗りつぶされた。


 まぶたを閉じているはずなのに、光は容赦なく瞼を透き通ってくる。


 次の瞬間、耳をつんざくような警報音が鳴った。


 カン、カン、カン、カン。


 踏切の音。

 赤いランプ。

 遮断機が降りる。


 ブレーキを踏もうとしても、足が動かない。


 というか、足という感覚そのものがない。


 自分の視点は、運転席の外側に浮かんでいた。


 真っ黒い夜の中、白いタクシーが踏切に頭を突っ込んでいる。


 運転席は、誰もいない。

 後部座席には、若い夫婦がまだ眠っている。


 線路の向こうから、ヘッドライトの光が近づいてくる。


 その脇を、大型トラックの車体がかすめていく。


 轟音。

 火花。

 金属が歪む音。


 光と音が、ごちゃ混ぜになって押し寄せる。


 タクシーは、無人のまま、

 トラックと一緒にコンビニのガラスを突き破り、炎に包まれた。


 その光景を、どこか遠くから、ただ眺めるしかできない自分。


 無線機からは、誰かの叫び声が聞こえている。


『二十五号車、応答しろ! 二十五!』


 返事はない。


 運転席には誰もいないのだから。


 ◇


 光が、ふっと消えた。


 気づくと、三上はもとの運転席に座っていた。


 ワイパーが、規則正しくガラスを拭っている。

 雨は小降りだ。


 エンジン音。

 エアコンの風。

 タクシーメーターの小さな電子音。


 すべてが、さっきまでと変わらない。


 ただ一つを除いて。


 無線機の上。

 そこに貼られていたはずの番号プレートが、

 空白になっていた。


 「25」の数字が消えている。


 代わりに、うっすらと粘着テープの跡だけが残っていた。


『……お選びいただき、ありがとうございました』


 黒瀬の声が、どこからともなく響いた。


『これで、あの夜、二十五号車には運転手はいなかったことになりました』


 わざとらしいくらい、はっきりした説明。


『若い夫婦は、別のタクシーに乗りました』

『トラックは、ブレーキが間に合いました』

『コンビニは燃えませんでした』


 連鎖事故は起きなかった。


 その代わり、

 踏切付近で起きた「車両の故障」は、小さな記事にもならないまま処理されたのだろう。


 高梨も死ななかった。

 田縞運輸の名前が全国ニュースに躍ることもなかった。


 この町の慰霊碑も、

 最初から建っていないかもしれない。


『あなたの選択は、多くの人を救いました』


 それは、たしかにそうかもしれない。


 だが、その代わりに、

 何が「なかったこと」になったのか。


『あなたが今まで過ごしてきた十六年間は、ここでは存在しません』


 その一言で、背筋を冷たいものが這い上がった。


「……ふざけるな」


 思わず声が出た。


 無線機のマイクを掴んで、「営業所」と呼びかけようとして、手が止まる。


 呼び出す相手が思い出せない。


 営業所の名前。

 所長の顔。

 同僚たちの車両番号。


 さっきまで、ついさっきまで、当たり前に知っていたはずなのに、全部が、霧の向こう側にあるみたいにぼやけている。


 ダッシュボードの上には、営業許可証のプレートがはめ込まれている。


 薄い金属板に、運転手の名前が刻まれているはずだ。


 三上は震える手で、それを持ち上げた。


 そこには、何も書かれていなかった。


 ただの銀色の板。

 名前も、番号も、会社名もない。


 自分の名字が、

 頭の中からすっぽり抜け落ちる感覚があった。


 「三上修二」という音の並びが、意味のない記号みたいに遠ざかっていく。


 ◇


 携帯電話を取り出す。


 ロック画面には、時刻と日付だけが表示されている。


 ホーム画面。

 電話帳。

 履歴。


 上から順にスクロールしていくが、

 どの名前にも見覚えがない。


 「娘」「元妻」「母」といったラベルのついた登録はない。

 自分のものらしき写真フォルダも、ほとんど空っぽだ。


「……俺、結婚、してたか?」


 自分に問いかけて、答えが返ってこない。


 高梨の葬式で見た小さなランドセル。

 その横に立っていた自分の姿を、うまく思い出せない。


 さっきまで「事実」だった記憶が、急速に夢の断片みたいな質感に変わっていく。


 無線機から、黒瀬の声がした。


『ここは、“あなたが代わりに死ねばよかった世界”です』


 言い方があまりにもあっさりしていて、余計に腹が立った。


『あなたは、十六年前の事故で亡くなりました』


 そんな事実はない、と言い返そうとして、

 口が動かなかった。


『高梨さんは、今もどこかで別のタクシーを走らせています』


 その光景は、妙に自然に思えた。


『田縞運輸の名前は、全国ニュースには出ませんでした』


 だったら、この会社は今も普通に運送業を続けているのだろう。


『あなたのことを覚えている人は、今、この車の中にしかいません』


 つまり、自分自身しか覚えていない。


 その自分の記憶も、今まさに崩れかけている。


 信号が、いつの間にか赤になっていた。


 ぼんやりしているあいだに、何台か車が横を通り過ぎていく。


 ふと見ると、対向車線を走るタクシーの車体に目が留まった。


 古暮タクシーのマーク。

 車体番号「25」の文字。


 運転席には、見覚えのある後ろ姿が見えた。


 窓越しの一瞬。

 目が合ったような気がする。


 だが、その車はすぐに角を曲がって見えなくなった。


『……そろそろ、お別れの時間です』


 黒瀬の声が、軽くなる。


『“午前二時のリクエスト”、本日の最初のリスナーは、これにて終了です』


「待て」


 マイクを握りしめる。


「待てよ。だったら、俺はこれからどうすりゃいいんだ」


『どうもしなくて構いません』


 返事はあまりにも素っ気なかった。


『もともと、ここでは“いなかった人”なのですから』


 ラジオのジングルが流れる。


 チャラララ、チャララ。


 それきり、無線機からは何の音も聞こえなくなった。


 ◇


 タクシーを路肩に寄せ、ハザードを点ける。


 エンジン音だけが続く。


 ハンドルから手を離し、シートにもたれかかる。


 深呼吸を一つ、二つ。


 頭の中は、ひどく静かだった。


 感情が追いついていない。


 怒りも、悲しみも、安堵も、どれも中途半端な位置で止まっている。


 ただ、外の世界が少しずつ「見慣れないもの」に変わっていくのだけは分かった。


 道路標識。

 コンビニの看板。

 バス停の時刻表。


 どこか微妙に違う。

 見覚えのあるフォントと、見覚えのないロゴが混じっている。


 踏切の脇を見る。


 慰霊碑はなかった。

 その代わりに、「徐行」の標識が立っているだけだ。


 線路脇に供えられていたはずの花束も、缶コーヒーもない。


 事故は、起きなかったのだ。


 その代わりに──。


 タクシーのルームミラーを見る。


 そこに映っていたはずの自分の顔が、ぼやけている。


 輪郭はあるのに、目鼻立ちが焦点を結ばない。


 鏡に顔を近づけても、同じだった。


 自分の顔が。


 自分の年齢が。


 自分がどんな人生を歩んできたのかが。


 すべて、霧の中のようにあやふやになっていく。


 ハンドルに置いたはずの両手の感触も、

 だんだん薄れていく。


 指の数が分からない。

 足が床に触れているかどうかも曖昧になる。


 自分の身体が、座席と一緒に、少しずつ薄くなっていく。


 ◇


 最後に、

 耳に残ったのは、無線機のスイッチが切れる小さな音だった。


 カチ。


 それから、誰かの声。


『こちら古暮タクシー。二十五号車、います?』


 返事はない。


『あれ、二十五なんて元からいたっけ? 番号振り直したか?』


『二十四の次は二十六だろ。何言ってんだ』


 そんなやり取りが、

 遠ざかるように聞こえた気がした。


 やがて、それも聞こえなくなった。


 ◇


 古暮市内のどこか。


 午前二時を少し過ぎた踏切の脇で、

 一台のタクシーが、エンジンだけをかけたまま、無人で停まっていた。


 ハザードも、ヘッドライトも消えている。


 ダッシュボードの上には、空白の営業許可証のプレートと、

 番号の剥がれた小さなスペースだけが残されている。


 無線機のスピーカーから、

 微かにジングルが漏れた。


 チャラララ、チャララ。


『──続いてのリクエストは、“消えてほしい住所”をお持ちの方から』


 黒瀬の声が、

 誰もいない車内の空気を揺らした。


 その声に応える者は、そこにはいない。


 もともと、「いなかった」のだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ