表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
午前二時のリクエスト  作者: 日月 間


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/4

Case.2 尾野美咲

 リビングの隅に置いた小さな白い箱が、カメラだと意識するのは、外にいるときだけだ。


 家にいるあいだは、そこにペットカメラがあることなど、ほとんど忘れてしまう。

 充電ケーブルが差さったまま、観葉植物の陰に紛れ、静かに黒いレンズだけをこちらに向けている。


 けれど、職場のデスクに座っているときや、飲み会の席でグラスを持っているとき。

 スマホの画面の隅に、ふいに赤い丸がつく。


《動体検知しました》


 その一行の文字だけで、尾野美咲は、胸の奥のどこかをきゅっと掴まれるような感覚になる。


 部屋で留守番している――白と茶色のまだら模様の、今の猫のことを思い出すからだ。


 ◇


「また来てる」


 金曜の夜、会社近くの居酒屋。

 カウンター席に並んで座りながら、同期の由香が美咲のスマホを覗き込んだ。


「ペットカメラ? 今日三回目じゃない?」


「うん……」


 画面には、さっき届いたばかりの通知が並んでいる。


《動体検知しました(20:41)》

《動体検知しました(21:03)》

《動体検知しました(21:07)》


 アプリを開くと、小さな画面の中に、自分の部屋が映し出された。


 薄いグレーのラグ。

 テレビ台。

 低いテーブル。

 窓際のキャットタワー。


 そのどこにも、肝心の猫の姿は見えない。


「あれ、いないじゃん。押し入れ?」


「多分、キャリーの中かベッドの下。隠れてるとき多いから」


 そう言いながらも、美咲は動画の再生バーを指で戻す。


 数秒前の部屋。

 さっきと同じように静まり返っている。


 再生を始める。

 倍速のスライダーを少し動かして、早送りで眺める。


 時間表示が「20:40」から「20:41」に変わる瞬間、画面の右下の影が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。


 カーテンの裾。

 照明の反射。

 それとも――。


「ほら、やっぱり何かいるから通知くるんだって」


 由香が、串からネギマを引き抜きながら笑う。


「幽霊猫だったりして」


「縁起でもないこと言わないで」


「でもさ、ペットカメラってさ、そういう話多くない? 誰もいないはずの部屋で動体検知とか」


 由香の声は、からかうようでいて、半分本気だ。


「うちもさ、実家の犬死んだあと、廊下にだけ反応しまくって。見に行っても誰もいないの。怖いから通知オフにした」


「……やめて、その話」


 冗談に聞こえないから。


 そう言いかけて、美咲はビールを一口飲んだ。


 喉を通る冷たさと、

 胃のあたりに落ちて広がるぬるい熱と。


 その奥に、

 別の何か重いものが沈んでいる。


 前に飼っていた猫のことだ。


 ◇


 実家で一緒に暮らしていた黒猫は、「クロ」という、捻りのない名前だった。


 拾われたのは、火事の夜だという。

 美咲がまだ小学生だったころ、近所の古いアパートが燃えた。


 連鎖事故、とテレビでは言っていた。

 踏切で起きた事故の火が、隣の建物に燃え移ったのだと。


 アパートの住人の一人は逃げ遅れて亡くなり、

 その人が飼っていた猫だけが、すすだらけのまま飛び出してきた。


 それがクロだった。


 家に来たばかりのころのクロは、ちょっとした物音にもびくっとして、すぐテーブルの下に逃げ込んだ。


 でも、少しずつ慣れていった。

 缶詰を開ける音を覚え、家族の足音を覚え、日向ぼっこの場所を覚えた。


 十年近く、美咲の家には「クロのいる日常」があった。


 それが終わったのは、雨上がりの夕方だった。


 高校の帰り道、道路の真ん中で、黒い塊が横たわっていた。


 ブレーキ痕はなかった。

 見て見ぬふりをした車輪の跡だけが、濡れたアスファルトに残っていた。


 クロのことを「事故死」と言うとき、美咲はいつも、喉の奥に小さな棘が刺さるのを感じる。


 あのとき、玄関の鍵をちゃんと閉めていたら。

 窓を開けっぱなしにしていなければ。


 そんな「もしも」は、何度考えても、クロを連れ戻してはくれない。


 今の猫――三歳の雌の雑種――「ミルク」を迎えたとき、

 母は電話の向こうで笑いながら言った。


『また猫かあ。……でも、いいんじゃない? あんたも一人暮らし長いし、寂しいでしょ』


『名前は?』


『ミルク』


『白いから?』


『白いところもあるから』


 そう説明したとき、自分でもバカみたいな理由だと思った。


 クロみたいに真っ黒でもない。

 かといって、牛柄というほどまだらでもない。


 でも、「クロ」と「ミルク」の二つの名前は、自分の中で、どこかで繋がっている。


 足りない色を、お互いに補い合うみたいに。


 ◇


「美咲さん、明日も出社?」


 帰り際、オフィスの出口で上司に声をかけられた。


 チャットやメールでは苗字で呼ばれるのに、こういうときだけ下の名前で呼ぼうとするのが、いつも気に障る。


「いえ、明日は在宅で……って、スケジュールに入れてあります」


「ああ、そうだったね。ごめんごめん。でも、何かあったらすぐ連絡するから。休日でも」


「はい」


 口先だけの「はい」を残して、エレベーターに乗る。


 職場のフロアが遠ざかっていく。

 ガラスの向こうに広がる夜景が、自分と無関係なネオンの模様に見えた。


 駅に向かう途中、またスマホが震えた。


《動体検知しました》


 時間は二十二時過ぎ。ミルクなら、そろそろソファの上で丸くなっている時間だ。


 歩道の端に寄り、動画を再生する。


 リビングは暗い。

 天井の照明は消え、窓の外の街灯が、うっすらとカーテンを透かしている。


 ソファの上に、白と茶色の塊が見える。

 丸くなって寝ているのだろう。

 胸が、ほんの少し緩む。


 その瞬間、部屋の隅で、黒い何かが横切った。


「あれ……?」


 スマホを持つ手に力が入る。


 キャットタワーの手前あたり。

 画面の右端を、黒い影がしゅっと横切っていった。


 ミルクの体色ではない。

 あんなに真っ黒なものは、この部屋にはないはずだ。


 動画を戻して何度か見直す。

 そこだけ、画質が悪くなっているようにも見える。


 由香の「幽霊猫だったりして」という言葉が、一瞬、頭の中でリフレインした。


 美咲は、身震いするように肩をすくめた。


 気のせいだ。

 カメラのノイズか、外の車のライトか、そんなところだ。


 そう決めつけることでしか、この違和感は収まりそうにない。


 ホームに着くころには、通知はさらに二つ増えていた。


《動体検知しました(22:13)》

《動体検知しました(22:18)》


「……帰ろう」


 電車の中で動画を開く気にはなれなかった。


 ◇


 古暮駅に着いたころには、日付が変わっていた。


 駅前のスクリーンでは、まだニュース番組が流れている。


〈十五年前の連鎖事故から、きょうで十六年になります〉


 アナウンスの声だけが耳に入る。

 画面を見上げることはしなかった。


 コンビニで牛乳とパンを買い、アパートへの坂道を登る。


 梅雨の湿気で、アスファルトはじっとりと濡れていた。

 遠くで、救急車のサイレンが小さく鳴っている。


 アパートの階段を上がる途中で、またスマホが震えた。


《動体検知しました》


 時間は午前一時五十三分。


「……まだ起きてる?」


 小さくつぶやきながら、三階の踊り場で立ち止まり、動画を再生する。


 画面の中のリビングが映る。


 電気がついていた。


「え……?」


 出かける前、照明は消したはずだ。

 タイマー機能などつけていない。


 部屋の真ん中に、白い光が落ちている。

 ソファの上に、ミルクの姿は見えない。


 テレビ台の上の黒い長方形が、

 ぼんやりと明るくなっているのが分かった。


 テレビだ。


 音も、小さく拾われている。


『……深夜二時を少し回りました。ここからの三十分は、“午前二時のリクエスト”、パーソナリティの黒瀬です』


「は?」


 思わず、声が漏れた。


 ラジオのようなイントロ。

 落ち着いた低い声。

 男とも女ともつかない、中性的な響き。


 テレビからラジオ番組が流れている、というのも妙だった。

 音楽チャンネルでもないし、そんなアプリを入れた覚えもない。


 画面の中のテレビ画面は、カメラからの角度ではよく見えない。

 青白い光が、ただぼんやりと揺れているだけだ。


 それでも、音だけは、はっきりと拾われている。


『今夜も、眠れないあなたからの、小さな本音を預かっていきましょう』


 階段の踊り場に立ったまま、スマホを握る手に汗がにじんだ。


 これは録画ではない。

 リアルタイムの映像だ。


 今、この瞬間、自分のいない部屋で、誰かが「こんばんは」と話している。


 誰もいないはずのリビングで。


 ◇


『さて、最初のリクエストにまいりましょう』


 黒瀬の声が、少しだけ柔らかくなる。


『今夜の一通目は、とても小さなリスナーさんからです』


 ペットカメラのマイクが拾う音は、テレビの音声だけではない。


 どこかで、かすかな「ゴロゴロ」という喉を鳴らす音が混じっている気がした。


『部屋でお留守番をしている、小さな命からのリクエスト』


 階段の踊り場に、湿った夜風が流れ込んでくる。


 美咲は、ドアノブにかけた手をいったん離し、もう一度スマホに視線を落とした。


『リスナーの名前は……』


 一拍の間。

 紙をめくる音。


『クロ』


 心臓が、ひとつ飛んだ。


 スマホを持つ手に力が入る。

 指先が白くなる。


『かつて、この街で、事故に巻き込まれた黒猫』

『まだ小さかった飼い主に拾われて、十年近く一緒に暮らしたあと、別の事故で命を落としてしまった、小さな黒い友だち』


 そんな説明を、世界のどこができるというのか。


 美咲の喉が、音を失った。


『クロからのリクエストは、とてもシンプルです』


 黒瀬の声は、どこか遠くから聞こえるようでいて、耳のすぐそばで囁かれているようでもあった。


『“もう一度だけ、撫でてほしい”』


 その直後、テレビのスピーカーから、猫の鳴き声が流れた。


 ただの効果音にしては、やけに生々しい。


 高くもなく、低くもなく、ほんの少し掠れた「ニャー」という声。


 クロが、ごはんの時間に鳴いていた声に、よく似ていた。


『きっと、今も、あなたの部屋のどこかに隠れて、あなたの帰りを待っているのでしょう』


 美咲は、鍵を回す手を、無意識に強く握り締めた。


 ガチャリ、と音がして、ドアが少しだけ開く。


 部屋の中から、柔らかい白い光と、ラジオの声が漏れてきた。


『さあ、美咲さん』


 名前を呼ばれた。


 下の名前まで。


 ぞわっと背筋に寒気が走る。


『あなたの手は、覚えていますよ。その子を撫でていたときの温度を』


 ◇


 部屋の空気は、少しだけ暖かかった。


 照明は消えているのに、

 テレビの光がリビングを青白く照らしている。


 ソファ。

 テーブル。

 キャットタワー。


 目で追ってしまうのは、どうしてもミルクの姿だ。


「ミルク」


 呼びかける声が、わずかに上ずる。


 返事はない。


 カーテンの隙間。

 テーブルの下。

 キャットタワーのボックス。


 どこにも、白と茶色の影は見えない。


 そのかわり、

 テレビの画面の中に、見慣れた部屋が映っていた。


 ペットカメラのアプリと同じ視点。

 天井近くから斜めに見下ろす、リビングの映像。


 テレビのスピーカーから、自分の部屋の音が流れている。

 まるで、部屋の中に、部屋がもう一つあるみたいだ。


 黒瀬の声が、その上に重なる。


『美咲さん。あなたのスマートフォンと、ペットカメラと、テレビと。いろいろなものを少しだけお借りして、おつなぎしています』


 説明口調なのに、どこか冗談めいていない。


『クロは、階段を降りることも、電車に乗ることもできません。だから、ここから、少しだけ、あなたのところに行きたいのだそうです』


 テレビ画面の中で、画質が一瞬ざらついた。


 ノイズの塊の中から、黒い影がゆっくりと形をとっていく。


 猫の輪郭。

 しっぽ。

 尖った耳。


 それは、ミルクの色ではなかった。


 真っ黒で、少しだけ茶色い毛並みが混じったような、懐かしいシルエット。


 クロ。


 声に出してしまうのが怖くて、

 名前は、喉の奥で止めた。


『ペットカメラの前に、手を差し出してみてください』


 黒瀬の声が、優しく誘う。


『そう。あなたがいつも撫でていた、その手を』


 リビングの片隅。

 観葉植物の陰に、小さな白い箱が光っている。


 カメラのレンズのあたりが、うっすらと赤く点いていた。


 美咲は、ゆっくりと歩み寄る。


 心臓の音が、部屋の中にまで聞こえてしまいそうだった。


 カメラの前で立ち止まり、右手をそっと持ち上げる。


 レンズを覗き込むと、小さな自分の顔と、少し離れたところにテレビの光が映り込んでいるのが見えた。


 指先を、レンズの前にそっと差し出す。


『目を閉じて、深呼吸を』


 言われるままに、瞼を下ろす。


 部屋の中の音が遠くなる。


 テレビの音。

 冷蔵庫の低い唸り。

 外を走る車の音。


 その底に、かすかな「ゴロゴロ」が混じった。


 指先に、何か柔らかいものが触れた。


「っ……」


 息が漏れる。


 毛の感触。

 小さな頭の丸み。

 ひげが、指の関節にふれる、あのざわりとした感じ。


 レンズの表面越しなのに、それはあまりにも、「撫でていたとき」と同じ感触だった。


 目を閉じたまま、指先をゆっくり動かす。


 額から、耳の後ろ。

 首筋にかけて。


 クロが好きだった撫で方。


 懐かしい体温が、皮膚の下まで染み込んでくるようだった。


「クロ……」


 声は、自分が思っていたよりも、ずっと弱々しかった。


 指先の下で、小さな身体がぐっと押しつけられる。


 すり寄ってくるときの動きだ。


 喉の奥で、「ニャ」と短く鳴く声がした。


 涙がこぼれた。

 目を閉じているのに、視界はじんわりと滲んでいく。


『ありがとう、と言っています』


 黒瀬の声が、どこか楽しそうに聞こえた。


『これで、あの子は満足したはずです。もう一度だけ、大好きな人の手に触れることができた』


 指先から、少しずつ感触が薄れていく。


 毛の柔らかさも、重みも、ひげのざらつきも。


 最後に、ぱたん、と小さなしっぽが指の甲を叩く感触がした。


 それもすぐに消えた。


 ◇


 静寂。


 目を開けると、テレビは消えていた。


 ペットカメラのランプも、いつの間にか光を失っている。


 リビングは、さっきまでの出来事がまるごと夢だったかのように、ただの暗い部屋に戻っていた。


 指先には、何も残っていない。

 濡れているのは、手の甲に落ちた涙だけだ。


 膝が少し笑っているのを感じて、ゆっくりとソファに座り込む。


 ミルク。


 そう呼ぼうとして、喉がひっかかった。


 さっきから、今の猫の姿を見ていない。


 ソファの下。

 テーブルの陰。

 キャットタワーの中。


 一つずつ目で追う。


 やっぱり、どこにもいない。


「……どこ行ったの」


 時計の針は、午前二時を少し回っていた。

 普段なら、ミルクはこの時間、寝室のベッドの足元か、リビングのラグの上で寝ている。


 部屋中を探す気力は、そのときの美咲にはなかった。


 明日の朝になったら、きっとどこかからひょっこり出てくる。


 そう自分に言い聞かせ、ベッドに倒れ込む。


 枕元のスマホの画面には、《視聴履歴:午前二時のリクエスト》の文字が残っていた。


 再生ボタンに指を伸ばしかけて、そのまま手を引っ込める。


 瞼の裏で、黒い毛並みの手触りが、まだ微かに残っていた。


 目を閉じると、すぐに眠りが落ちてきた。


 ◇


 翌朝。


 目覚ましのアラームで目を覚まし、ぼんやりスマホを止める。


 寝室のドアを開けるとき、自然と口が動いた。


「ミルク、ごはんだよ」


 返事はない。


 キッチンでフードの袋を手に取り、箱の収納スペースを開ける。


 何も入っていなかった。


「……あれ?」


 フードの袋。

 おやつ。

 猫用の皿。


 いつもぎゅうぎゅうに詰め込まれていたスペースが、からっぽだ。


 シンクの下の引き出し。

 冷蔵庫の横。

 キャットフードを置きそうな場所を一通り開けてみても、何も見つからない。


 リビングに戻る。


 キャットタワーのはずだった場所には、小さな観葉植物だけが置かれていた。


 ソファの脇にあったはずの爪とぎもない。

 窓際の毛だらけのクッションも、「毛だらけ」であるべきものが消えている。


 代わりに、クッションはきれいに畳まれ、ソファの端に積まれていた。


「……え?」


 混乱が、少しずつ形を持ち始める。


 ペットカメラのアプリを開く。


《カメラが登録されていません》


 昨日まで普通に映っていたはずの部屋が、アプリの中から消えていた。


 設定画面を開いても、登録済みデバイスの一覧は空欄だ。


 ペットカメラ本体は、リビングの隅に、ちゃんと置いてある。


 電源も入っている。

 ランプも点いている。


 なのに、アプリには何も表示されない。


 昨夜の視聴履歴を確認しようとして、美咲はふと「履歴」タブを開いた。


 そこには、昨日のラジオ番組の名前は一つもなかった。


《○○ミュージックステーション》

《ニュース速報》

《お笑い○○ラジオ》


 どれも、過去に聞いた覚えのある番組ばかりだ。


 「午前二時のリクエスト」は、どこにもない。


 胸の奥に、冷たいものがじわりと広がる。


 ◇


 仕事は在宅勤務のはずだったが、とてもメールを読む気にはなれなかった。


 スマホを握ったまま、家族のグループLINEを開く。


 昨日の夜のスタンプのやり取りの上に、ふと自分の古い投稿が目に入った。


『クロ、昨日でちょうど三回忌だね』


 三年前のメッセージ。


 その下に、母の返信が続く。


『早いねえ。あの子、雨の日嫌いだったよね』

『うちに来てくれてありがとねって、ちゃんと言っといて』


 クロの話は、何度も家族の中に出てくる。


 でも、ミルクの話は――。


 検索窓に、「ミルク」と打ち込む。


 ヒットしたメッセージは、一つもなかった。


 代わりに、「牛乳」がひっかかる。


『牛乳買ってきて』

『牛乳こぼした』


 そんな他愛もない会話だけ。


 震える指で、母に電話をかける。


『もしもし?』


「……あのさ」


 声がうまく出ない。

 喉が乾いている。


「ミルクが、いなくなった」


『ミルク?』


 母は、一瞬黙り、それから少し笑ったような声になった。


『何言ってんの。ミルクは三年前に死んだでしょ』


「え?」


『クロのこと、そう呼んでたじゃない。ほら、クロって名前なのに、あんたが「ミルクみたいに甘えん坊だから」って言って。あの子のこと、まだ引きずってんの?』


 耳の奥で、何かがひび割れる音がした。


「今の……猫の話してるんだけど」


『今? 猫、飼ってないでしょ、あんた。ペット不可のマンションだって言ってたじゃない』


「ペット可だよ。ちゃんと……」


 言いかけて、口をつぐむ。


 契約書を見れば分かるはずだ。

 そう思って、慌てて玄関の棚を開ける。


 ファイルの中の賃貸契約書。


《ペット飼育不可》


 細い文字で、そう書かれている。


 サイン欄の自分の名前が、やけに遠く見えた。


『あんた、疲れてるんじゃないの?』


 母の声が、電話の向こうから心配そうに届く。


『仕事、大変なんでしょ。変な夢見ちゃったんだよ、きっと』


「……うん」


 それ以上、言葉が続かなかった。


 電話を切ると、膝から力が抜けそうになった。


 ソファに座り込み、部屋を見回す。


 どこにも、猫の気配はない。


 毛一本すら落ちていない。


 昨日まで、ここで猫と暮らしていたという実感だけが、自分の中に残っている。


 餌やりの時間。

 トイレ掃除。

 爪切り。

 膝の上で丸くなる重み。


 それらすべてが、今この世界では、「なかったこと」になっている。


 クロを撫でた、指先の感触だけを残して。


 ◇


 夕方、同期の由香からメッセージが来た。


『今日、在宅だっけ? 大丈夫?』


『うん、大丈夫』


『なんかあったら聞くよー。例のクソ課長の愚痴とか』


『ありがと』


 迷った末に、メッセージを一つ打ち足した。


『ねえ、私、猫飼ってたよね?』


 既読がつくのが、いつもより早く感じられた。


『え? 前に実家で? クロのこと?』


『今の、猫』


『今? 聞いたことないよ?飼いたいって言ってたのは覚えてるけど』


 スマホを置き、

 深く息を吐く。


 ――誰も、覚えていない。


 家族も、友達も。

 自分以外の誰一人として、ミルクと暮らしていた時間を知らない。


 美咲の中だけに、「ミルクがいた日常」と、「ミルクがいなかった世界」が、ズレたまま共存している。


 部屋の隅のペットカメラだけが、静かにこちらを見ていた。


 ◇


 その夜。


 在宅勤務のメールをなんとか片付け、シャワーを浴び、ベッドに横たわる。


 天井の模様を眺めながら、耳を澄ます。


 爪がフローリングを鳴らす音。

 小さなジャンプの着地音。

 寝室のドアを前足でこする音。


 どれも、聞こえない。


 枕元のスマホが、かすかに震えた。


《おすすめの番組:午前二時のリクエスト》


 画面の上の時計は、午前一時五十五分を指している。


「……」


 指先が、自分の意思とは無関係に、通知をタップしていた。


 ラジオアプリが立ち上がる。

 番組アイコン。

 フォロー済みのマーク。


 昨夜はなかったはずの履歴が、そこにひっそりと増えていた。


《昨日:午前二時のリクエスト 第○○回》


 これ以上、何を聞かされるのか。


 怖さと、答えを知りたい気持ちとが、同じくらいの重さで胸の中に居座っている。


 イヤホンを耳に差し込む。

 再生ボタンに触れる。


 軽いジングル。

 それから、あの声。


『……深夜二時を少し回りました。“午前二時のリクエスト”、黒瀬です』


 昨夜と同じ挨拶。

 天気やニュースの話題を軽く流し、メールの一部を読み上げる。


 他人の悩みを聞いているあいだだけ、自分の現実の輪郭がぼやける。


『──そして、昨日の放送をお聞きになった方へ、少しだけ、追伸を』


 黒瀬の声が、トーンを落とした。


『小さな命からのリクエストは、ときどき難しい注文をつけてきます』


 言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


『この世界で、“誰かに大事にされる場所”は、そう多くありません』


 ゆっくりとした口調。


『ひとつの部屋で、ひとりの人に撫でてもらい、名前を呼んでもらい、写真を撮られ、ごはんをもらう』


 その描写は、あまりにも具体的だった。


『そこには、たいてい、“席”が一つだけ用意されています』


 ひとつの膝。

 ひとつのベッドの足元。

 ひとつのキャットタワー。


『昨日、その席は、少しだけ過去に遡ってしまいました』


 胸の奥が、ぎゅっと縮こまる。


『あなたは、悪くありませんよ』


 黒瀬の声は、妙に優しかった。


『ただ、ひとつの席を、ふたりで共有することができなかっただけです』


 イヤホンの向こうで、小さな鳴き声がした。


 ミルクの声にも、クロの声にも聞こえる、「ニャ」という短い音。


『新しい子は、自分から譲ってくれました』


 信じたくなかった。


 頭では、そんな理屈はどこにもないと分かっている。


 でも、昨夜ミルクの姿を見ていないことを思い出すと、喉の奥がきゅっと締め付けられる。


『“あの人が笑うなら、それでいい”』


 黒瀬は、淡々とそう言った。


『そう言っていましたよ』


 涙が、またこぼれた。


 そこに、本当に「言っていた」猫がいたのかどうかなんて、分からない。


 でも、そうとしか思えない自分がいた。


『なかったことになったものは、どこにも行かないわけではありません』


 黒瀬は、少しだけ間を置いた。


『ただ、別の番組の、別のチャンネルの、別の時間に、少しずつ姿を変えて現れるだけです』


 それが、慰めなのか、脅しなのか、美咲には判別できなかった。


『だから、どうか、あまり自分を責めないように。あなたの膝の上が、いつかまた誰かの席になることを願っています』


 ジングルが流れる。

 次のリスナーのメッセージへと、番組は移っていった。


 美咲は、イヤホンを外し、スマホの画面を伏せる。


 耳の奥には、まだ「ゴロゴロ」という喉の音が残っていた。


 それが、クロのものなのか、ミルクのものなのか。


 それとも、両方いっしょくたになった音なのか。


 目を閉じると、指先に重ねてきた小さな頭の感触が蘇る。


 ひとつ前の猫も。

 昨日までいた猫も。


 どちらの温度も、今の自分の中には、等しく残っている。


 ただ、世界のほうが、片方だけを「なかったこと」にしただけだ。


 枕元の机の上。

 そこには、猫の写真立ても、猫用のおもちゃも、何もない。


 けれど、美咲は、そこに無意識に視線をやってから、そっと目を閉じた。


 耳を澄ます。


 何も聞こえない静けさの中で、自分の心臓の鼓動と、 どこか遠くで鳴る「ニャー」という幻聴だけが、夜の底にゆっくりと沈んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ