Case.2 尾野美咲
リビングの隅に置いた小さな白い箱が、カメラだと意識するのは、外にいるときだけだ。
家にいるあいだは、そこにペットカメラがあることなど、ほとんど忘れてしまう。
充電ケーブルが差さったまま、観葉植物の陰に紛れ、静かに黒いレンズだけをこちらに向けている。
けれど、職場のデスクに座っているときや、飲み会の席でグラスを持っているとき。
スマホの画面の隅に、ふいに赤い丸がつく。
《動体検知しました》
その一行の文字だけで、尾野美咲は、胸の奥のどこかをきゅっと掴まれるような感覚になる。
部屋で留守番している――白と茶色のまだら模様の、今の猫のことを思い出すからだ。
◇
「また来てる」
金曜の夜、会社近くの居酒屋。
カウンター席に並んで座りながら、同期の由香が美咲のスマホを覗き込んだ。
「ペットカメラ? 今日三回目じゃない?」
「うん……」
画面には、さっき届いたばかりの通知が並んでいる。
《動体検知しました(20:41)》
《動体検知しました(21:03)》
《動体検知しました(21:07)》
アプリを開くと、小さな画面の中に、自分の部屋が映し出された。
薄いグレーのラグ。
テレビ台。
低いテーブル。
窓際のキャットタワー。
そのどこにも、肝心の猫の姿は見えない。
「あれ、いないじゃん。押し入れ?」
「多分、キャリーの中かベッドの下。隠れてるとき多いから」
そう言いながらも、美咲は動画の再生バーを指で戻す。
数秒前の部屋。
さっきと同じように静まり返っている。
再生を始める。
倍速のスライダーを少し動かして、早送りで眺める。
時間表示が「20:40」から「20:41」に変わる瞬間、画面の右下の影が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
カーテンの裾。
照明の反射。
それとも――。
「ほら、やっぱり何かいるから通知くるんだって」
由香が、串からネギマを引き抜きながら笑う。
「幽霊猫だったりして」
「縁起でもないこと言わないで」
「でもさ、ペットカメラってさ、そういう話多くない? 誰もいないはずの部屋で動体検知とか」
由香の声は、からかうようでいて、半分本気だ。
「うちもさ、実家の犬死んだあと、廊下にだけ反応しまくって。見に行っても誰もいないの。怖いから通知オフにした」
「……やめて、その話」
冗談に聞こえないから。
そう言いかけて、美咲はビールを一口飲んだ。
喉を通る冷たさと、
胃のあたりに落ちて広がるぬるい熱と。
その奥に、
別の何か重いものが沈んでいる。
前に飼っていた猫のことだ。
◇
実家で一緒に暮らしていた黒猫は、「クロ」という、捻りのない名前だった。
拾われたのは、火事の夜だという。
美咲がまだ小学生だったころ、近所の古いアパートが燃えた。
連鎖事故、とテレビでは言っていた。
踏切で起きた事故の火が、隣の建物に燃え移ったのだと。
アパートの住人の一人は逃げ遅れて亡くなり、
その人が飼っていた猫だけが、すすだらけのまま飛び出してきた。
それがクロだった。
家に来たばかりのころのクロは、ちょっとした物音にもびくっとして、すぐテーブルの下に逃げ込んだ。
でも、少しずつ慣れていった。
缶詰を開ける音を覚え、家族の足音を覚え、日向ぼっこの場所を覚えた。
十年近く、美咲の家には「クロのいる日常」があった。
それが終わったのは、雨上がりの夕方だった。
高校の帰り道、道路の真ん中で、黒い塊が横たわっていた。
ブレーキ痕はなかった。
見て見ぬふりをした車輪の跡だけが、濡れたアスファルトに残っていた。
クロのことを「事故死」と言うとき、美咲はいつも、喉の奥に小さな棘が刺さるのを感じる。
あのとき、玄関の鍵をちゃんと閉めていたら。
窓を開けっぱなしにしていなければ。
そんな「もしも」は、何度考えても、クロを連れ戻してはくれない。
今の猫――三歳の雌の雑種――「ミルク」を迎えたとき、
母は電話の向こうで笑いながら言った。
『また猫かあ。……でも、いいんじゃない? あんたも一人暮らし長いし、寂しいでしょ』
『名前は?』
『ミルク』
『白いから?』
『白いところもあるから』
そう説明したとき、自分でもバカみたいな理由だと思った。
クロみたいに真っ黒でもない。
かといって、牛柄というほどまだらでもない。
でも、「クロ」と「ミルク」の二つの名前は、自分の中で、どこかで繋がっている。
足りない色を、お互いに補い合うみたいに。
◇
「美咲さん、明日も出社?」
帰り際、オフィスの出口で上司に声をかけられた。
チャットやメールでは苗字で呼ばれるのに、こういうときだけ下の名前で呼ぼうとするのが、いつも気に障る。
「いえ、明日は在宅で……って、スケジュールに入れてあります」
「ああ、そうだったね。ごめんごめん。でも、何かあったらすぐ連絡するから。休日でも」
「はい」
口先だけの「はい」を残して、エレベーターに乗る。
職場のフロアが遠ざかっていく。
ガラスの向こうに広がる夜景が、自分と無関係なネオンの模様に見えた。
駅に向かう途中、またスマホが震えた。
《動体検知しました》
時間は二十二時過ぎ。ミルクなら、そろそろソファの上で丸くなっている時間だ。
歩道の端に寄り、動画を再生する。
リビングは暗い。
天井の照明は消え、窓の外の街灯が、うっすらとカーテンを透かしている。
ソファの上に、白と茶色の塊が見える。
丸くなって寝ているのだろう。
胸が、ほんの少し緩む。
その瞬間、部屋の隅で、黒い何かが横切った。
「あれ……?」
スマホを持つ手に力が入る。
キャットタワーの手前あたり。
画面の右端を、黒い影がしゅっと横切っていった。
ミルクの体色ではない。
あんなに真っ黒なものは、この部屋にはないはずだ。
動画を戻して何度か見直す。
そこだけ、画質が悪くなっているようにも見える。
由香の「幽霊猫だったりして」という言葉が、一瞬、頭の中でリフレインした。
美咲は、身震いするように肩をすくめた。
気のせいだ。
カメラのノイズか、外の車のライトか、そんなところだ。
そう決めつけることでしか、この違和感は収まりそうにない。
ホームに着くころには、通知はさらに二つ増えていた。
《動体検知しました(22:13)》
《動体検知しました(22:18)》
「……帰ろう」
電車の中で動画を開く気にはなれなかった。
◇
古暮駅に着いたころには、日付が変わっていた。
駅前のスクリーンでは、まだニュース番組が流れている。
〈十五年前の連鎖事故から、きょうで十六年になります〉
アナウンスの声だけが耳に入る。
画面を見上げることはしなかった。
コンビニで牛乳とパンを買い、アパートへの坂道を登る。
梅雨の湿気で、アスファルトはじっとりと濡れていた。
遠くで、救急車のサイレンが小さく鳴っている。
アパートの階段を上がる途中で、またスマホが震えた。
《動体検知しました》
時間は午前一時五十三分。
「……まだ起きてる?」
小さくつぶやきながら、三階の踊り場で立ち止まり、動画を再生する。
画面の中のリビングが映る。
電気がついていた。
「え……?」
出かける前、照明は消したはずだ。
タイマー機能などつけていない。
部屋の真ん中に、白い光が落ちている。
ソファの上に、ミルクの姿は見えない。
テレビ台の上の黒い長方形が、
ぼんやりと明るくなっているのが分かった。
テレビだ。
音も、小さく拾われている。
『……深夜二時を少し回りました。ここからの三十分は、“午前二時のリクエスト”、パーソナリティの黒瀬です』
「は?」
思わず、声が漏れた。
ラジオのようなイントロ。
落ち着いた低い声。
男とも女ともつかない、中性的な響き。
テレビからラジオ番組が流れている、というのも妙だった。
音楽チャンネルでもないし、そんなアプリを入れた覚えもない。
画面の中のテレビ画面は、カメラからの角度ではよく見えない。
青白い光が、ただぼんやりと揺れているだけだ。
それでも、音だけは、はっきりと拾われている。
『今夜も、眠れないあなたからの、小さな本音を預かっていきましょう』
階段の踊り場に立ったまま、スマホを握る手に汗がにじんだ。
これは録画ではない。
リアルタイムの映像だ。
今、この瞬間、自分のいない部屋で、誰かが「こんばんは」と話している。
誰もいないはずのリビングで。
◇
『さて、最初のリクエストにまいりましょう』
黒瀬の声が、少しだけ柔らかくなる。
『今夜の一通目は、とても小さなリスナーさんからです』
ペットカメラのマイクが拾う音は、テレビの音声だけではない。
どこかで、かすかな「ゴロゴロ」という喉を鳴らす音が混じっている気がした。
『部屋でお留守番をしている、小さな命からのリクエスト』
階段の踊り場に、湿った夜風が流れ込んでくる。
美咲は、ドアノブにかけた手をいったん離し、もう一度スマホに視線を落とした。
『リスナーの名前は……』
一拍の間。
紙をめくる音。
『クロ』
心臓が、ひとつ飛んだ。
スマホを持つ手に力が入る。
指先が白くなる。
『かつて、この街で、事故に巻き込まれた黒猫』
『まだ小さかった飼い主に拾われて、十年近く一緒に暮らしたあと、別の事故で命を落としてしまった、小さな黒い友だち』
そんな説明を、世界のどこができるというのか。
美咲の喉が、音を失った。
『クロからのリクエストは、とてもシンプルです』
黒瀬の声は、どこか遠くから聞こえるようでいて、耳のすぐそばで囁かれているようでもあった。
『“もう一度だけ、撫でてほしい”』
その直後、テレビのスピーカーから、猫の鳴き声が流れた。
ただの効果音にしては、やけに生々しい。
高くもなく、低くもなく、ほんの少し掠れた「ニャー」という声。
クロが、ごはんの時間に鳴いていた声に、よく似ていた。
『きっと、今も、あなたの部屋のどこかに隠れて、あなたの帰りを待っているのでしょう』
美咲は、鍵を回す手を、無意識に強く握り締めた。
ガチャリ、と音がして、ドアが少しだけ開く。
部屋の中から、柔らかい白い光と、ラジオの声が漏れてきた。
『さあ、美咲さん』
名前を呼ばれた。
下の名前まで。
ぞわっと背筋に寒気が走る。
『あなたの手は、覚えていますよ。その子を撫でていたときの温度を』
◇
部屋の空気は、少しだけ暖かかった。
照明は消えているのに、
テレビの光がリビングを青白く照らしている。
ソファ。
テーブル。
キャットタワー。
目で追ってしまうのは、どうしてもミルクの姿だ。
「ミルク」
呼びかける声が、わずかに上ずる。
返事はない。
カーテンの隙間。
テーブルの下。
キャットタワーのボックス。
どこにも、白と茶色の影は見えない。
そのかわり、
テレビの画面の中に、見慣れた部屋が映っていた。
ペットカメラのアプリと同じ視点。
天井近くから斜めに見下ろす、リビングの映像。
テレビのスピーカーから、自分の部屋の音が流れている。
まるで、部屋の中に、部屋がもう一つあるみたいだ。
黒瀬の声が、その上に重なる。
『美咲さん。あなたのスマートフォンと、ペットカメラと、テレビと。いろいろなものを少しだけお借りして、おつなぎしています』
説明口調なのに、どこか冗談めいていない。
『クロは、階段を降りることも、電車に乗ることもできません。だから、ここから、少しだけ、あなたのところに行きたいのだそうです』
テレビ画面の中で、画質が一瞬ざらついた。
ノイズの塊の中から、黒い影がゆっくりと形をとっていく。
猫の輪郭。
しっぽ。
尖った耳。
それは、ミルクの色ではなかった。
真っ黒で、少しだけ茶色い毛並みが混じったような、懐かしいシルエット。
クロ。
声に出してしまうのが怖くて、
名前は、喉の奥で止めた。
『ペットカメラの前に、手を差し出してみてください』
黒瀬の声が、優しく誘う。
『そう。あなたがいつも撫でていた、その手を』
リビングの片隅。
観葉植物の陰に、小さな白い箱が光っている。
カメラのレンズのあたりが、うっすらと赤く点いていた。
美咲は、ゆっくりと歩み寄る。
心臓の音が、部屋の中にまで聞こえてしまいそうだった。
カメラの前で立ち止まり、右手をそっと持ち上げる。
レンズを覗き込むと、小さな自分の顔と、少し離れたところにテレビの光が映り込んでいるのが見えた。
指先を、レンズの前にそっと差し出す。
『目を閉じて、深呼吸を』
言われるままに、瞼を下ろす。
部屋の中の音が遠くなる。
テレビの音。
冷蔵庫の低い唸り。
外を走る車の音。
その底に、かすかな「ゴロゴロ」が混じった。
指先に、何か柔らかいものが触れた。
「っ……」
息が漏れる。
毛の感触。
小さな頭の丸み。
ひげが、指の関節にふれる、あのざわりとした感じ。
レンズの表面越しなのに、それはあまりにも、「撫でていたとき」と同じ感触だった。
目を閉じたまま、指先をゆっくり動かす。
額から、耳の後ろ。
首筋にかけて。
クロが好きだった撫で方。
懐かしい体温が、皮膚の下まで染み込んでくるようだった。
「クロ……」
声は、自分が思っていたよりも、ずっと弱々しかった。
指先の下で、小さな身体がぐっと押しつけられる。
すり寄ってくるときの動きだ。
喉の奥で、「ニャ」と短く鳴く声がした。
涙がこぼれた。
目を閉じているのに、視界はじんわりと滲んでいく。
『ありがとう、と言っています』
黒瀬の声が、どこか楽しそうに聞こえた。
『これで、あの子は満足したはずです。もう一度だけ、大好きな人の手に触れることができた』
指先から、少しずつ感触が薄れていく。
毛の柔らかさも、重みも、ひげのざらつきも。
最後に、ぱたん、と小さなしっぽが指の甲を叩く感触がした。
それもすぐに消えた。
◇
静寂。
目を開けると、テレビは消えていた。
ペットカメラのランプも、いつの間にか光を失っている。
リビングは、さっきまでの出来事がまるごと夢だったかのように、ただの暗い部屋に戻っていた。
指先には、何も残っていない。
濡れているのは、手の甲に落ちた涙だけだ。
膝が少し笑っているのを感じて、ゆっくりとソファに座り込む。
ミルク。
そう呼ぼうとして、喉がひっかかった。
さっきから、今の猫の姿を見ていない。
ソファの下。
テーブルの陰。
キャットタワーの中。
一つずつ目で追う。
やっぱり、どこにもいない。
「……どこ行ったの」
時計の針は、午前二時を少し回っていた。
普段なら、ミルクはこの時間、寝室のベッドの足元か、リビングのラグの上で寝ている。
部屋中を探す気力は、そのときの美咲にはなかった。
明日の朝になったら、きっとどこかからひょっこり出てくる。
そう自分に言い聞かせ、ベッドに倒れ込む。
枕元のスマホの画面には、《視聴履歴:午前二時のリクエスト》の文字が残っていた。
再生ボタンに指を伸ばしかけて、そのまま手を引っ込める。
瞼の裏で、黒い毛並みの手触りが、まだ微かに残っていた。
目を閉じると、すぐに眠りが落ちてきた。
◇
翌朝。
目覚ましのアラームで目を覚まし、ぼんやりスマホを止める。
寝室のドアを開けるとき、自然と口が動いた。
「ミルク、ごはんだよ」
返事はない。
キッチンでフードの袋を手に取り、箱の収納スペースを開ける。
何も入っていなかった。
「……あれ?」
フードの袋。
おやつ。
猫用の皿。
いつもぎゅうぎゅうに詰め込まれていたスペースが、からっぽだ。
シンクの下の引き出し。
冷蔵庫の横。
キャットフードを置きそうな場所を一通り開けてみても、何も見つからない。
リビングに戻る。
キャットタワーのはずだった場所には、小さな観葉植物だけが置かれていた。
ソファの脇にあったはずの爪とぎもない。
窓際の毛だらけのクッションも、「毛だらけ」であるべきものが消えている。
代わりに、クッションはきれいに畳まれ、ソファの端に積まれていた。
「……え?」
混乱が、少しずつ形を持ち始める。
ペットカメラのアプリを開く。
《カメラが登録されていません》
昨日まで普通に映っていたはずの部屋が、アプリの中から消えていた。
設定画面を開いても、登録済みデバイスの一覧は空欄だ。
ペットカメラ本体は、リビングの隅に、ちゃんと置いてある。
電源も入っている。
ランプも点いている。
なのに、アプリには何も表示されない。
昨夜の視聴履歴を確認しようとして、美咲はふと「履歴」タブを開いた。
そこには、昨日のラジオ番組の名前は一つもなかった。
《○○ミュージックステーション》
《ニュース速報》
《お笑い○○ラジオ》
どれも、過去に聞いた覚えのある番組ばかりだ。
「午前二時のリクエスト」は、どこにもない。
胸の奥に、冷たいものがじわりと広がる。
◇
仕事は在宅勤務のはずだったが、とてもメールを読む気にはなれなかった。
スマホを握ったまま、家族のグループLINEを開く。
昨日の夜のスタンプのやり取りの上に、ふと自分の古い投稿が目に入った。
『クロ、昨日でちょうど三回忌だね』
三年前のメッセージ。
その下に、母の返信が続く。
『早いねえ。あの子、雨の日嫌いだったよね』
『うちに来てくれてありがとねって、ちゃんと言っといて』
クロの話は、何度も家族の中に出てくる。
でも、ミルクの話は――。
検索窓に、「ミルク」と打ち込む。
ヒットしたメッセージは、一つもなかった。
代わりに、「牛乳」がひっかかる。
『牛乳買ってきて』
『牛乳こぼした』
そんな他愛もない会話だけ。
震える指で、母に電話をかける。
『もしもし?』
「……あのさ」
声がうまく出ない。
喉が乾いている。
「ミルクが、いなくなった」
『ミルク?』
母は、一瞬黙り、それから少し笑ったような声になった。
『何言ってんの。ミルクは三年前に死んだでしょ』
「え?」
『クロのこと、そう呼んでたじゃない。ほら、クロって名前なのに、あんたが「ミルクみたいに甘えん坊だから」って言って。あの子のこと、まだ引きずってんの?』
耳の奥で、何かがひび割れる音がした。
「今の……猫の話してるんだけど」
『今? 猫、飼ってないでしょ、あんた。ペット不可のマンションだって言ってたじゃない』
「ペット可だよ。ちゃんと……」
言いかけて、口をつぐむ。
契約書を見れば分かるはずだ。
そう思って、慌てて玄関の棚を開ける。
ファイルの中の賃貸契約書。
《ペット飼育不可》
細い文字で、そう書かれている。
サイン欄の自分の名前が、やけに遠く見えた。
『あんた、疲れてるんじゃないの?』
母の声が、電話の向こうから心配そうに届く。
『仕事、大変なんでしょ。変な夢見ちゃったんだよ、きっと』
「……うん」
それ以上、言葉が続かなかった。
電話を切ると、膝から力が抜けそうになった。
ソファに座り込み、部屋を見回す。
どこにも、猫の気配はない。
毛一本すら落ちていない。
昨日まで、ここで猫と暮らしていたという実感だけが、自分の中に残っている。
餌やりの時間。
トイレ掃除。
爪切り。
膝の上で丸くなる重み。
それらすべてが、今この世界では、「なかったこと」になっている。
クロを撫でた、指先の感触だけを残して。
◇
夕方、同期の由香からメッセージが来た。
『今日、在宅だっけ? 大丈夫?』
『うん、大丈夫』
『なんかあったら聞くよー。例のクソ課長の愚痴とか』
『ありがと』
迷った末に、メッセージを一つ打ち足した。
『ねえ、私、猫飼ってたよね?』
既読がつくのが、いつもより早く感じられた。
『え? 前に実家で? クロのこと?』
『今の、猫』
『今? 聞いたことないよ?飼いたいって言ってたのは覚えてるけど』
スマホを置き、
深く息を吐く。
――誰も、覚えていない。
家族も、友達も。
自分以外の誰一人として、ミルクと暮らしていた時間を知らない。
美咲の中だけに、「ミルクがいた日常」と、「ミルクがいなかった世界」が、ズレたまま共存している。
部屋の隅のペットカメラだけが、静かにこちらを見ていた。
◇
その夜。
在宅勤務のメールをなんとか片付け、シャワーを浴び、ベッドに横たわる。
天井の模様を眺めながら、耳を澄ます。
爪がフローリングを鳴らす音。
小さなジャンプの着地音。
寝室のドアを前足でこする音。
どれも、聞こえない。
枕元のスマホが、かすかに震えた。
《おすすめの番組:午前二時のリクエスト》
画面の上の時計は、午前一時五十五分を指している。
「……」
指先が、自分の意思とは無関係に、通知をタップしていた。
ラジオアプリが立ち上がる。
番組アイコン。
フォロー済みのマーク。
昨夜はなかったはずの履歴が、そこにひっそりと増えていた。
《昨日:午前二時のリクエスト 第○○回》
これ以上、何を聞かされるのか。
怖さと、答えを知りたい気持ちとが、同じくらいの重さで胸の中に居座っている。
イヤホンを耳に差し込む。
再生ボタンに触れる。
軽いジングル。
それから、あの声。
『……深夜二時を少し回りました。“午前二時のリクエスト”、黒瀬です』
昨夜と同じ挨拶。
天気やニュースの話題を軽く流し、メールの一部を読み上げる。
他人の悩みを聞いているあいだだけ、自分の現実の輪郭がぼやける。
『──そして、昨日の放送をお聞きになった方へ、少しだけ、追伸を』
黒瀬の声が、トーンを落とした。
『小さな命からのリクエストは、ときどき難しい注文をつけてきます』
言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
『この世界で、“誰かに大事にされる場所”は、そう多くありません』
ゆっくりとした口調。
『ひとつの部屋で、ひとりの人に撫でてもらい、名前を呼んでもらい、写真を撮られ、ごはんをもらう』
その描写は、あまりにも具体的だった。
『そこには、たいてい、“席”が一つだけ用意されています』
ひとつの膝。
ひとつのベッドの足元。
ひとつのキャットタワー。
『昨日、その席は、少しだけ過去に遡ってしまいました』
胸の奥が、ぎゅっと縮こまる。
『あなたは、悪くありませんよ』
黒瀬の声は、妙に優しかった。
『ただ、ひとつの席を、ふたりで共有することができなかっただけです』
イヤホンの向こうで、小さな鳴き声がした。
ミルクの声にも、クロの声にも聞こえる、「ニャ」という短い音。
『新しい子は、自分から譲ってくれました』
信じたくなかった。
頭では、そんな理屈はどこにもないと分かっている。
でも、昨夜ミルクの姿を見ていないことを思い出すと、喉の奥がきゅっと締め付けられる。
『“あの人が笑うなら、それでいい”』
黒瀬は、淡々とそう言った。
『そう言っていましたよ』
涙が、またこぼれた。
そこに、本当に「言っていた」猫がいたのかどうかなんて、分からない。
でも、そうとしか思えない自分がいた。
『なかったことになったものは、どこにも行かないわけではありません』
黒瀬は、少しだけ間を置いた。
『ただ、別の番組の、別のチャンネルの、別の時間に、少しずつ姿を変えて現れるだけです』
それが、慰めなのか、脅しなのか、美咲には判別できなかった。
『だから、どうか、あまり自分を責めないように。あなたの膝の上が、いつかまた誰かの席になることを願っています』
ジングルが流れる。
次のリスナーのメッセージへと、番組は移っていった。
美咲は、イヤホンを外し、スマホの画面を伏せる。
耳の奥には、まだ「ゴロゴロ」という喉の音が残っていた。
それが、クロのものなのか、ミルクのものなのか。
それとも、両方いっしょくたになった音なのか。
目を閉じると、指先に重ねてきた小さな頭の感触が蘇る。
ひとつ前の猫も。
昨日までいた猫も。
どちらの温度も、今の自分の中には、等しく残っている。
ただ、世界のほうが、片方だけを「なかったこと」にしただけだ。
枕元の机の上。
そこには、猫の写真立ても、猫用のおもちゃも、何もない。
けれど、美咲は、そこに無意識に視線をやってから、そっと目を閉じた。
耳を澄ます。
何も聞こえない静けさの中で、自分の心臓の鼓動と、 どこか遠くで鳴る「ニャー」という幻聴だけが、夜の底にゆっくりと沈んでいった。




