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午前二時のリクエスト  作者: 日月 間


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Case.1 加宮直也

 団地のエレベーターは、夜になると機嫌が悪くなる。


 昼間は、ただの古い箱だ。

 小学生たちがランドセルを揺らして乗り込み、ベビーカーを押した母親が「閉まるよ」と声をかける。

 買い物袋を提げた老人が、ゆっくりと時間をかけて乗り降りする。


 けれど日が沈んで、廊下の蛍光灯だけが頼りになる時間になると、この銀色の箱は、ときどき、変な呼吸を始める。


 七階建ての古い団地。

 壁のペンキはところどころ剥がれ、階段の踊り場にはいつも誰かの忘れ物が転がっている。

 建て替え前の棟が、十五年前の事故で半分壊れた――そんな話を、ここに住む大人はみんな一度は口にしたことがある。


 中学一年の加宮直也は、小さいころからこの団地にいた。

 エレベーターの癖も、だいたい知っている。


 夜九時を過ぎると、階数表示がバグったみたいに点滅したり、「ピン」という短い音だけして、誰も呼んでいない階で勝手に止まったりする。

 誰かが途中から乗ってくる気配もないのに、微妙な揺れだけが伝わる夜もある。


 最初は怖かった。

 小学生のころは、夜は絶対階段を使っていた。

 でも、六年、七年と同じ場所に住んでいるうちに、そういうものなのだ、とどこかで諦めるようになった。


 古い団地には、古い団地なりの「調子」がある。

 音の鳴る配管。

 雨の日だけ濡れる場所。

 そして、夜になると機嫌が悪くなるエレベーター。


 この夜も、それが「いつもの癖」の一つで終わってくれればよかったと、後になって直也は何度も思うことになる。


 ◇


 放課後の教室は、蒸し暑くて重たかった。


 六月の終わり。

 梅雨の湿気と、人の体温と、汗のにおい。

 黒板には「中間テストまであと10日」と赤いチョークで書かれたままになっている。


「おい、加宮」


 背中に、机の角がゴン、とぶつかった。

 振り向かなくても、誰か分かる。


 田島由宇人(ゆうと)

 いつもクラスの真ん中にいて、先生の前でも平気で冗談を言う。

 笑っているときも、怒鳴っているときも、目だけはあまり笑っていない。


「また真っ白じゃん、ワーク」


 直也の机には、数学のワークブックが開きっぱなしになっていた。

 今日回収されるはずだったページには、問題文だけがきれいに並んでいる。


 提出は、放課後まで待つと言われた。

 書きかけのシャーペンが、ページの上で止まっている。


「……これからやる」


「え、今から? もうホームルーム終わってんのに?」


 田島はペンを指でくるくる回しながら、机の角をさらに小突いた。

 その拍子に、机の上の筆箱がかすかに揺れる。


 机の天板には、黒い油性ペンで描かれた落書きがいくつか残っている。「キモや」。「真面目くん」。

 上書きしようと消しゴムでこすった跡が、逆に文字を浮き上がらせていた。


「貸してよ、それ。答え写してやるからさ」


 田島は、ワークブックをひょい、とつまみ上げようとする。

 直也は反射的に、指でそれを押さえた。


「……自分でやれば?」


「は? 何で?」


「自分のワークなんだから、自分でやれよ」


 口が勝手に動いた。

 言い終わってから、自分で驚く。


 教室の空気が、少しだけ冷たくなった気がした。


 田島の笑みが、一瞬、薄く引きつる。

 けれど、それはすぐにいつものふざけた顔に戻った。


「そっかぁ」


 彼は、強くもない平手でぽん、と直也の頬を軽く叩いた。

 痛くはない。

 けれど、侮辱の記号みたいな軽さだった。


「じゃあ、気をつけなよ。加宮のワーク、明日には“ないこと”になってるかもよ?」


 ふざけ半分、本気半分の声。

 何人かの女子が苦笑し、何人かの男子はそっちを見ないようにしている。


 担任は、職員室に行くと言ってもう教室にはいない。

 黒板の前には誰も立っていない。


 直也は、黙ってワークブックを引き寄せた。

 シャーペンの芯をノックする音だけが、自分の席の周りでやけに大きく響く。


 一次方程式の問題。

 分数を含む連立。

 頭のどこかで「テストに出るぞー」という先生の声がリフレインしている。


 本当は、答えなんて分かっている。

 ノートを見返せば、一問ずつ解き方をなぞることだってできる。


 面倒くさいのは、問題そのものではなく、「提出物が出ていない」ということで、また先生と話をしなきゃいけなくなることだった。


「だってさぁ、田島んち、田縞運輸と親戚なんでしょ?」


「え、マジ?」


「お母さんが言ってた。体育館作ってもらった会社」


 隣の机から、小さな声が漏れ聞こえてくる。


 視線を向けなくても、その話題が、ここ最近何度も繰り返されているのは分かっていた。


 教室の前の壁には、体育館竣工記念の写真が額に入って飾られている。

 その下のプレートには、青いロゴとともに、


古暮こぐれ市立古暮中学校体育館 田縞運輸株式会社 寄贈》


 と刻まれていた。


 十五年前の事故のニュースのあと、その会社の名前をテレビで何度も見た。


 夜の踏切。

 傾いた線路。

 ひしゃげたタクシーと、炎を噴き上げるコンビニの看板。

 居間のテレビの前で、大人たちは声を潜めて話していた。


「でもまぁ、うちの学校は助かったんだしな」

「体育館だって建ててもらって……」

「だからって、“なかったこと”にするのはさ……」


 なかったことにする。


 その言葉は、子どもだった直也にはうまく理解できなかった。

 「なかったこと」になったのは、事故なのか、亡くなった人たちなのか。

 それとも、別の何かなのか。


 今も、よく分からない。

 ただ、あのとき大人たちが見せた、どこか後ろめたそうな表情だけが、頭の片隅にこびりついている。


 ◇


 クラスのグループLINEは、一日に何十件も通知が来る。


 ゲームの話。

 部活の愚痴。

 誰かの失敗動画。

 スタンプだけの会話。


 いつからか、直也のスマホには、そのほとんどが届かなくなっていた。


 気づいたのは、ある日、隣の席の女子に「昨日のグルチャ見た?」と聞かれたときだ。


「え、見てない」


「なんで? あんたもメンバーでしょ」


 帰宅して確認すると、チャット一覧から「1年A組」のグループが消えていた。


 検索しても出てこない。

 途中で退出したという通知もない。


 翌日、「グループってさ」と誰かに聞こうとして、やめた。

 聞いたところで、「間違えて消しただけだよ」と笑いながら言われるのが目に見えている。


 それに、そんなことで「戻して」と頼む自分を想像するだけで、吐き気がした。


 連絡事項は、先生がプリントで配ってくれる。

 テスト範囲も、黒板に書かれる。


 そう言い聞かせながら、休み時間、隣の机で光るスマホの画面に目を奪われるのを抑えられない。


 流れていくスタンプ。

 笑い合う絵文字。

 そこに、自分の名前が出てくることはない。


 ◇


 別の日、勇気を振り絞って、担任に相談したことがあった。


「田島くんが?」

 先生は、その名前を聞いた瞬間、ほんのわずかに眉を動かした。


 靴箱の砂。

 ワークに書かれた落書き。

 グループから黙って外されたこと。


 ひとつひとつを説明するのは難しくて、どこかで自分が「大げさに言っている」ような気にもなってくる。


 先生は、職員室の窓の外を一度見てから、コーヒーカップを持ち上げた。


「クラスの中のことはね、なるべく自分たちで解決してほしいんだ」


 それは、よくある決まり文句なのかもしれない。

 でも、そのあとに続いた言葉には、別の重さがあった。


「ほら、相手の家にもいろいろ事情があってね。“刺激しないほうがいい”っていうことも、やっぱりあるんだよ」


 何がどう「事情」なのかは、言われなかった。

 ただ、その言葉のあとで、先生はいつもより少しだけ小さい声で付け加えた。


「気にしすぎだよ、加宮。あまり気にすると、自分がしんどくなるだけだ」


 そのとき感じた、胃の奥が冷たくなる感じを、直也は忘れられない。


 ――気にしすぎ。


 それ以降、自分が何かを「気にしている」と気づくたびに、それを言葉にすること自体が、間違いのように思えてしまう。


 ◇


 その日の夜、母は遅番だった。


「今日、閉店作業までだから、帰るの一時過ぎる。カレー、鍋に入ってるから温めて食べてね」


 母は、線路向こうの飲食チェーン店でパートをしている。

 十五年前の事故のあとに建てられた、新しい店舗だ。


 晩ご飯のとき、テレビのニュースが連鎖事故の特集を始めた。


〈十五年前の連鎖事故から、あすで十六年になります〉


 画面には、見慣れた踏切の映像が映る。

 今は整えられた線路と、柵。

 その横に建てられた慰霊碑の前で、アナウンサーがマイクを持っている。


「……チャンネル変えよっか」


 母は、スプーンを持ったままリモコンに手を伸ばした。

 指先の動きが、ほんの少しだけ早い。


「別にいいけど」


「お母さんは、あんまり好きじゃない。同じ映像、何回も何回も見るの、やだ」


 母はそう言って、バラエティ番組に変えた。

 明るい笑い声と派手なテロップが、さっきまでのニュースを上書きしていく。


 直也は、カレーを口に運びながら、変えられてしまった画面と、テーブルの向こうの母の顔を交互に見た。


 十五年前の事故の日、自分はまだ生まれていなかった。

 でもテレビで何度も見たから、体験したと錯覚することもある。


 はっきりしているのは、あの日から、この町で田縞運輸の名前を口にするときの空気が、どこかよそよそしくなったということだけだ。


 ◇


 カレーを食べ終わると、母は制服に着替えた。

 黒いポロシャツに、名札。

 腰に鍵束をつけ、エコバッグを肩に掛ける。


「鍵、ちゃんと持ってるよね?」


「うん」


「変な時間にカップ麺とか食べないの。太るから」


「分かってるよ」


 分かっているけれど、守るとは限らない。

 母もそれを分かっているようで、出ていく直前にもう一度こちらを振り返った。


「……何かあったら、すぐ電話してね」


「何もないって」


 玄関の扉が閉まり、鍵の回る音が遠ざかる。

 共用廊下の足音が、階段のほうへ消えていく。


 テレビだけが喋り続ける静かな部屋で、直也はゲームの電源を入れた。


 テレビの画面の中で、キャラクターがジャンプし、敵を殴り飛ばす。

 ボタンを押しているあいだだけは、考えたくないことを脳の隅に追いやることができる。


 けれど、一度ゲームオーバーになったタイミングで、ふっと気が抜けた。


『加宮のワーク、明日には“ないこと”になってるかもよ?』


 田島の声が、脳内で再生される。


 ワークなんてなくなってもいい。

 最悪、同じものを買い直せば済む。


 でも、「ないことになる」という言い方が、妙に耳に残っていた。

 昨日、大人たちが事故の話で使っていたのと、同じ言葉。


 事故を、なかったことにする。

 誰かを、なかったことにする。


 チャンネルを変えられたニュース映像の残像と、机の上の落書きが、頭の中で不快な形に重なり合う。


 腹の奥が、ぐう、と鳴った。

 カレーだけでは、どうやら足りなかったらしい。


 時計を見ると、午前一時を少し回っていた。


「……」


 母に言われた言葉が、頭をよぎる。

 変な時間にカップ麺食べないの。


 でも、この静けさの中で空腹を誤魔化すのも、それはそれでしんどかった。


 直也は、ゲームのコントローラーを置き、スマホと財布をポケットに突っ込んだ。


 団地の一階の売店はとっくに閉まっている。

 最寄り駅の近くに二十四時間やっているコンビニがある。


 玄関でスニーカーをつっかけ、鍵をかける音を自分で聞く。


 扉を開けると、湿った夜気が顔にまとわりついた。

 廊下の蛍光灯が、じんわりと黄色い光を落としている。


 外階段の向こうには、暗い線路の影。

 その向こうに、母が働いている店の明かりが、かすかに見えた。


 十五年前、このあたりの夜は、火の色とサイレンの音で埋め尽くされていたのかもしれない。

 

 考えかけて、首を振る。

 今、そこに意識を向けたくなかった。


 エレベーターの前に立つ。

 〈↑〉ボタンを押すと、オレンジ色のランプがじわっと点灯した。


 しばらくして、「ウィーン」という駆動音が下から近づいてくる。

 金属同士が擦れ合うような、鈍い響き。


 扉が開くと、中はいつも通りの狭い箱だった。

 少し湿気を含んだ空気。

 天井には手入れの行き届いていない蛍光灯。


 七階のボタンを押す。

 微かな揺れのあと、エレベーターは上昇を始めた。


 二階、三階、四階。

 赤い数字が順番に点灯しては消えていく。


 ここまでは、いつも通りだった。


 ◇


 ポケットの中で、スマホが震えた。


 取り出して画面を見る。

 クラスのグループLINEではない。

 ゲームの通知でも、ニュース速報でもない。


 「データ使用量が残りわずかです」。


 キャリアからの、味気ない警告だけが表示されている。


「……はいはい」


 小さくつぶやきながら、通知を消す。

 このまま動画サイトを開けば、本当に速度制限がかかるだろう。


 代わりに、ラジオアプリのアイコンをタップした。

 最近は、勉強するときもゲームするときも、バックグラウンドで適当に流しておくことが多い。


 おすすめ番組の一覧をスクロールする。

 ニュース。

 音楽。

 トーク。

 怪談。


 その中に、見慣れないタイトルがひとつ紛れ込んでいた。


《午前二時のリクエスト》


 モノクロの古いラジオマイクの写真がアイコンになっている。

 レビューの数は少ないのに、星はすべて塗りつぶされていた。


 シリーズ一覧を見ると、最新回の配信時間が「本日・午前2時」と表示されている。

 画面の上の時刻は、一時五十何分。


 ちょうど始まるかどうか、という時間だ。


 指が、なんとなく「再生」をタップした。


 イヤホンを取り出し、片方だけ耳に差し込む。

 もう片方は胸元にぶらさがったまま。


 その瞬間。


 五階の表示が点滅し、

 数字が一瞬だけ「9」に跳ね上がった。


「え?」


 直也が顔を上げるより早く、表示は「B」に変わり、続けて、階数表示のすべてのランプが一斉にぱちんと消えた。


 エレベーターの動きも止まる。


 足元が、ふっと軽くなった気がした。


「ちょ、待って……」


 閉じるボタンを押す。

 開くボタンも、停止ボタンも、何度も叩く。


 扉はびくともしない。

 代わりに、どこか遠くで低い機械音が唸り始めた。


 鼻の奥に、薄い金属と埃の匂いが混じる。


 耳元のイヤホンからは、何も聞こえない。

 スマホの画面を見ると、ラジオアプリは再生中の表示になっていた。


 そのとき、エレベーターの天井に埋め込まれた古いスピーカーから、声が降ってきた。


『……深夜二時を少し回りました。ここからの三十分は、“午前二時のリクエスト”、パーソナリティの黒瀬です』


 落ち着いた低い声。

 性別が一瞬わからない、少し中性的な響き。


 音質は妙に生々しかった。

 スマホからの圧縮音とは違う、どこかザラついているのに、耳の奥に直接触れてくる感じ。


『まずは、最初のリスナーさんに、お声がけしましょうか』


 深夜番組のテンションにしては、落ち着きすぎている口調。

 けれど、「最初のリスナーさん」と言ったあとの、わずかな溜め。


 そこに、何かがじっとこちらを覗き込んでいる気配があった。


『今、エレベーターの中にいる、あなた』


 ぞわっ、と背筋に寒気が走る。


 心臓が、ひとつ大きく跳ねた。


『そう、あなたです。カップ麺と、紙パックのジュースを持っている、中学一年生の男の子』


 視線が、ビニール袋に吸い寄せられる。

 白いカップ麺のフタ。

 オレンジ色のジュースのパック。


 誰にも見せていないはずの、その取り合わせ。


「……やめろよ」


 思わず、低くつぶやく。

 自分の声が狭い箱の中で跳ね返り、少し遅れて耳に届いた。


 黒瀬と名乗った声は、ふっと笑ったように息を吐いた。


『大丈夫。番組にメッセージを送ってくれたリスナーの中から、“今、一番話したい人”にだけ、お声がけしています』


「メッセージなんて、送ってない」


『そういうことにしておきましょうか』


 さらりとかわされる。


 エレベーターの四隅に視線を走らせる。

 鏡には、自分の顔しか映っていない。

 天井の蛍光灯は、さっきよりも少し白く光を増したように見える。


『この番組は、眠れない夜に、ちょっとだけ“本音”をこぼしたい人たちのための、ささやかなリクエスト番組です』


 黒瀬の声は、奇妙に落ち着いていて、聞き取りやすい。

 だからこそ、余計に不気味だった。


『あなたにも、いますよね?』


 少しだけ間を置いてから。


『――消えてほしい人』


 その言葉は、静かな水面に石を投げ込むみたいに、胸の中に波紋を広げた。


 誰もいない箱の中。

 「いない」と答えたら、自分が嘘つきになる気がした。


 でも、「いる」と認めた瞬間、

 自分がとても汚い人間になってしまうような気もする。


「いない」


 短く、吐き捨てるように言った。

 舌の裏に、じわりと血の味が広がる。


『本当に?』


 黒瀬の声は、笑っていなかった。

 ただ、少しだけトーンを下げて問い返した。


『机に落書きをする人。ワークを勝手にめくる人。グループから黙ってあなたを外した人。』


 ひとつひとつの言葉が、冷たい指で胸の内側をなぞるみたいに、正確な場所を突いてくる。


『先生は、“気にしすぎだ”って言いましたね』


 脳内で、何かがぱちんと弾ける。


 職員室の匂い。

 コピー機の音。

 窓越しに見えたグラウンド。


 勇気を振り絞って、「田島が」と口にした自分。

 コーヒーカップを持ったまま、困ったように笑った先生。


 ――気にしすぎだよ、加宮。


 その一言が、あらためて胸の中をえぐった。


「やめろよ」


 今度の声は、はっきりと震えていた。


『ここには、あなたしかいません』


 黒瀬の声は、淡々としている。


『ほんの少しだけ、本当のところを、教えてください』


 エレベーターの天井にある換気口から、冷たい空気が落ちてくる。

 汗ばんだ首筋に触れて、ぞくりとした。


 頭の中に、ひとりの顔が浮かぶ。


 ニヤニヤ笑いながら、机を叩いた指。

 体育館のプレートの前で、ふざけて敬礼してみせた姿。

 「うちの親父、あの会社の会議とかよく行ってんだよね」と軽く言った声。


 田島由宇人。


 名前を思い浮かべただけで、胃のあたりがぎゅっと縮こまる。


 ――消えてしまえばいいのに。


 そんなこと、口に出したことは一度もない。

 でも、心のどこかでは、確かにそう願っていた。


『名前を、心の中で一度だけ呼んでください』


 黒瀬の声は、とても優しかった。


『口に出さなくていい。誰にも聞こえない。あなたと、わたしと、その人だけが知っていれば十分です』


 エレベーターの箱の中の空気が、じっとりと重くなる。

 呼吸がうまくできないような感覚。


 そんなことをしても、何も起こらない。

 そう思う理性的な自分と、もし何かが起きてしまえばいい、という卑怯な願望が、胸の中で絡まり合う。


 直也は、ゆっくりと目を閉じた。


 暗闇の中に、教室の風景が浮かぶ。


 列にならんだ机。

 黒板。

 窓際から二番目の列。

 真ん中あたりの席。


 そこに座る顔を、できるだけ鮮明に思い描く。


 笑っているときの顔。

 誰かのことを「雑魚」と言ったときの顔。

 靴箱の前でこちらを見下ろしていた顔。


 ――田島由宇人。


 心の中で、その名前をはっきりと呼んだ。


 その瞬間、エレベーターが悲鳴を上げた。


 ギギギ、と金属が擦れる音。

 足元がふわりと浮き、すぐにストンと落ちる。


「っ――!」


 壁に手をつく。

 ビニール袋の中で、カップ麺が鳴った。


 階数表示が、一斉に点滅する。

 「B」「9」「0」「R」。

 意味のない記号が次々と現れては消え、やがて、赤い数字は七の位置でぴたりと止まった。


 扉が、静かに開く。


 外には、見慣れた七階の廊下が広がっていた。

 白い蛍光灯。

 灰色の床。

 窓の向こうに見える線路の影。


 さっきまでの異常が、まるごと夢だったかのように、世界は何も変わっていない。


 イヤホンからは、何の音もしない。

 スマホの画面には、「接続エラー」という文字が一行だけ表示されていた。


 ◇


 部屋に戻ったあとの記憶は、ところどころ途切れている。


 ヤカンでお湯を沸かし、カップ麺に注ぎ、三分を待つ間にスマホをいじった。


 ラジオアプリの履歴を開く。

 そこに《午前二時のリクエスト》のタイトルはなかった。


 最近聞いた番組一覧にも、おすすめ欄にも、検索結果にも、その名前は見当たらない。


 英語で「request」と打ち込んでも。

 「2am」と入れてみても。

 何もヒットしなかった。


「……なんだよ」


 湯気が立ち上るカップ麺を前にして、直也は小さく呟いた。


 タイマーが鳴り、フタをはがすと、醤油の匂いが部屋に広がった。


 麺をすくって口に運びながらも、味はほとんど分からなかった。


 ――本当に「夢」だったのか。


 夢にしては、手のひらの汗の冷たさも、指先の震えも、あまりに生々しかった。


 消えてほしいと願った瞬間の、自分自身の感情の醜さも。


 半分ほど食べたところで、直也は箸を置いた。

 残りの麺は、そのまま冷めていく。


 ◇


 翌朝、目覚ましの音で目を覚ましたとき、昨夜のことは、まるで水の底の出来事みたいにぼやけていた。


 エレベーターがおかしくなった。

 ラジオが勝手に喋った。

 誰かの名前を心の中で呼んだ。


 その全部に、「変な夢だった」と思い込めば、まだ現実は平らなままでいてくれる気がした。


 制服に着替え、トーストを焼きながらテレビをつける。


 朝のニュース番組。

 天気予報のコーナーのあと、画面の隅に小さなテロップが流れた。


〈十五年前の連鎖事故から、きょうで十六年〉


 現場の踏切近くからの中継。

 アナウンサーが慰霊碑の前でマイクを持つ。

 背後の線路の向こうに、団地のシルエットが小さく見えた。


 ここから見れば、自分の棟も、あの画面のどこかに含まれているのかもしれない。


 直也は、リモコンを取ってボリュームをひとつ下げた。

 アナウンサーの声が遠くなる。


 そのとき、スマホがテーブルの上で震えた。


 クラスの連絡用グループLINEからの通知だった。


〈本日1時間目、出席番号二十五番は欠席と連絡がありました〉


「二十五……?」


 パンを皿に戻し、スマホを手に取る。


 グループの一番上に固定されている出席番号表の画像を開いた。

 一〜三十番までの名前が、縦にずらりと並んでいる。


 二十四番。

 二十五番。

 二十六番。


 二十五番の欄だけが、真っ白だった。


 印刷ミスだろうか。

 元からそうだったのだろうか。


 昨日まで、この画像をどれくらい真面目に見ていたか、自分でも覚えていない。


 でも、「欠席」と連絡があったはずの番号に名前がないという、そのちぐはぐさだけは不自然だった。


 メッセージ欄には、「誰?」「番号間違えてね?」みたいなスタンプがいくつか飛び交っている。

 誰も、「田島?」とは言わない。


 そもそも、名前の一覧のどこにも「田」の字はなかった。


 田島由――まで出かけた記憶が、スマホの画面の前で霧のように薄れていく。


 指先がじっとりと汗ばんだ。


 ◇


 学校に向かう道。

 いつもと同じ時間に家を出たはずなのに、世界全体が少しだけ違う色をしているように感じた。


 駅のホーム。

 通り過ぎる電車。

 線路沿いの空き地に建った新しいコンビニ。


 ガラス越しに、制服姿の店員たちがレジを打っている。

 カウンターには、「連鎖事故慰霊寄付金箱」が小さく置かれていた。


 事故のあとの寄付で、体育館は建った。

 それが「いいこと」なのか「悪いこと」なのか、中学生の自分には判断できない。


 ただ、「あの会社のおかげ」という言葉と、「あの会社のせい」という言葉が、いつもセットで聞こえてくるだけだ。


 学校の門をくぐり、昇降口で靴を履き替える。廊下には、体育館での表彰写真や、過去の行事の掲示物が並んでいた。


 教室のドアを開けると、いつもの朝のざわめきが、こちらに流れ込んでくる。


 前のほうでプリントを配る女子。

 後ろのほうで、バスケ部の連中がボールを指で回している。

 笑い声。

 椅子のきしむ音。

 誰かのカバンが床に落ちる音。


 そのすべての真ん中あたりに、ぽっかりと穴が開いていた。


 窓際から二番目の列。

 真ん中の段。

 そこには、机も椅子もなかった。


 床だけがむき出しになっているスペース。

 左右には普通に机が並んでいるのに、そこだけが最初から「何も置かれていません」と言われてもおかしくないくらい自然に、空っぽだった。


「……あれ」


 思わず声に出す。


 前の席に座っていた女子が、振り向いた。


「どしたの、加宮?」


「あそこ、さ」


 直也は、空白のスペースを指さした。


「机……どこ行った?」


「机?」


 彼女はきょとんとした顔でその方向を見て、次の瞬間、「あー」と笑った。


「最初からなかったじゃん、そこ。人数中途半端だから、一個だけ空き作って並べるって先生言ってたじゃん」


「……言ってたっけ」


「言ってたよー。加宮、ほんと人の話聞いてない」


 そう言って肩をすくめると、彼女はすぐに友だちのほうに向き直った。


 違う。

 そんな話、聞いた覚えはない。


 昨日まで、そこには誰かが座っていた。


 授業中、ペンを指で回していた手。

 体育のあと、ジャージのチャックを半分だけ上げていた姿。

 体育館のプレートの前で、敬礼してみせたシルエット。


 頭の中には、その断片だけがやけに鮮明に残っている。


 なのに、それが誰だったのかを言葉にしようとすると、名前だけが、するりとこぼれ落ちていく。


 黒板の上には、クラス全員で撮った集合写真が貼られていた。

 体育館の前で撮ったやつだ。


 真ん中の列の、一つ分の肩の位置が不自然に空いている。

 両隣の生徒の肩が、少し内側に入り込んでいるように見えた。


 まるで、本当はそこに誰かがいたのに、

 写真からだけ切り取られたみたいに。


 背筋に、冷たいものが這い上がる。


 ◇


 ホームルームの時間になり、担任が出欠を取り始めた。


「二十四番」


「はい」


 いつも通りの返事。


 ほんの一秒の沈黙のあと、

 先生は何事もなかったかのように次の番号を呼んだ。


「二十六番」


「はい」


 その間の「二十五」が、ごっそり抜け落ちていた。


 誰も、それを指摘しない。

 違和感を覚えているのは、自分だけのような気がした。


 一次限が始まり、教科書を開く。

 先生の声が、どこか遠くから聞こえる。


 ノートにシャーペンを走らせながらも、頭の中ではずっと、「二十五」という数字だけがぐるぐると回っていた。


 ◇


 放課後、昇降口の脇の掲示板に、古いプリントが一枚だけ貼り残されているのを見つけた。


 「十五年前の連鎖事故から十年 慰霊式典のお知らせ」


 紙は少し黄ばんでいる。

 右下には、《主催・古暮中学校PTA》と小さく印字されていた。


 白黒の写真には、踏切と慰霊碑と、その前に並ぶ人たちが映っている。

 その中に、自分たちの学校の制服に似たものも見えた。


 プリントをぼんやり眺めていると、背後でドアの開く音がした。


「加宮、まだいたのか」


 担任だった。

 ネクタイを少し緩め、書類の束を小脇に抱えている。


「あ、はい。今、帰るところです」


 直也は、プリントから目を離して振り向いた。


 喉まで出かかった言葉があった。


 ――先生、二十五番って誰でしたっけ。


 でも、その問いは、舌の奥でぬかるみに足を取られたみたいに、前に出てこなかった。


 聞いたら、何かが決定的に変わってしまう気がした。


 担任は、直也の視線の先を追い、掲示板のプリントに目を留めた。


「ああ、それ。もう剥がしていいんだった」


 プリントの端をつかみ、勢いよく剥がす。

 テープが紙を引き裂く音が、やけに大きく響いた。


「だいぶ前のだからね。……ほら、もう十六年だし」


 丸めた紙を手の中でぐしゃりと潰し、そのままゴミ箱に放り込む。


 紙が落ちる音を聞きながら、直也は、自分の胸のどこかも一緒に丸められて捨てられたような感覚を覚えた。


 ◇


 その夜、布団に入っても、なかなか眠気は降りてこなかった。


 天井の模様をぼんやりと眺める。

 時計の秒針の音が、やけに大きい。


 目を閉じると、教室の空白のスペースと、白紙になった出席番号表の欄と、クラス写真の不自然な肩の傾きが、順番に浮かんでは消える。


 ――ほんとうに、誰かいた。


 そう確信できるのに、その誰かの名前だけが、どうしても浮かんでこない。


 田島、という響きは、喉の手前までは来るのに、声にしようとした瞬間、砂になって崩れてしまう。


 名前を忘れてしまったのではない。

 名前だけが、この世界からきれいに削り取られて、自分の中に残っているのは「そこに何かあった」という空洞だけ、という感じ。


 胸の奥が、じわりと痛む。


 そのとき、枕元のスマホが、かすかに震えた。


 画面をのぞき込む。

 通知は来ていない。


 ホーム画面の上のほうに、見慣れない小さなアイコンが座っていた。


 古いラジオマイクの写真。

 《午前二時のリクエスト》。


 フォローした覚えはない。

 インストールした記憶もない。


 時刻は、午前一時五十八分。


 画面の光が、暗い部屋の天井を淡く照らす。

 指先が、ゆっくりと再生ボタンに近づき、ギリギリのところで止まった。


 怖い。

 でも、このまま何も知らないふりをして眠るのも、別の意味で怖い。


 そんな矛盾した気持ちが、胸の中で渦を巻く。


 耳をすませると、窓の外から、遠くを走る電車の音が聞こえた気がした。


 ――そのさらに下の層で、かすかなジングルが流れている。


 ……チャラララ、チャララ……。


 昔のラジオ番組のような、古めかしいメロディ。


 イヤホンは、枕元に置きっぱなしだ。

 なのに、その音は、空気の中から直接、耳の奥に染み込んでくる。


 直也は、布団を頭まで引き上げた。

 指先は、再生ボタンに触れないまま。


 目を閉じると、闇の向こうから、あの声が囁いた気がした。


『次のリクエスト……お待ちしています』


 誰に向けてなのかも分からないその一言だけが、水底に沈められた石みたいに、静かに、深く、胸の奥へ沈んでいった。


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