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侯爵令嬢は人魚を買う~理に縛られた帝国で、私は秩序を壊す。  作者: 絵庭 明


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5/5

5.あたたかな時間

 (……さて、次は“食事”ね)

 


 着替えを終えたネリウスはレーネが用意してくれた長衣に身を包み、椅子に腰を下ろしていた。裾から見える脚がちょっとセクシーだな……。

まだ脚の感覚が頼りないのか姿勢を保つのに少し苦労している。けれどその顔には怯えよりも好奇心が勝っていた。

 

 私は温室の隅の簡易テーブルへ向かい、保温魔導具の器にそっと触れて温度を確かめる。湯気がふわりと立ちのぼり湿った空気の中で柔らかく溶けていく。

 


そのとき、背中のほうから控えめな声がした。


「……あの、オジョー、サマ?」


振り返ると、ネリウスが真剣な顔でこちらを見ていた。その呼びかけ方が妙に丁寧でどこかぎこちない。


「オジョーサマ、って……呼んでいい?」


一瞬、ぽかんとして……それから思わず吹き出してしまった。

どうやら“お嬢様”を名前だと思っているらしい。


「ご、ごめんなさいね、ふふ、それは名前じゃないの。“お嬢様”は呼び方よ。私の名前はセイラ」

「セイラ……?」


彼はその音を確かめるように、静かに繰り返した。

唇が丁寧に動いてまるで新しい言葉を口にすること自体を楽しんでいるようだった。


「そう。呼ぶときは“セイラ”でいいわ」

「……セイラ」


今度は少し笑って言った。その声音は柔らかく、どこか波の音に似ていて何でかくすぐったく感じた。名前を呼ばれるなんてこんなにあたたかいことだったかな?


 

私は少し照れ隠しのように器を持ち直した。

朝から印を描き詰めていて、自分も何も口にしていなかったけれど、それでも彼のほうがきっとお腹をすかせている。


「ねえ、ネリウス。食べられそうなもの、ある?人の食べ物とか……」

「……わからない。でも……試してみたい、かな」


 そのまっすぐな瞳には幼い輝きがあった。

私は頷き、レーネと目を合わせる。彼女は手際よく布を敷き器を彼の前へ運んでいく。


「これは“パン”。小麦っていう植物から作るの」

「パン……」


 ネリウスはそっと手を伸ばしてパンを持ち上げると、ふかふかの触り心地を確かめている。ネリウスの目がぱちりと瞬いた。

彼は一度私を見上げてから、恐る恐るといった様子で一口かじった。

ほんのわずかの間があって、唇から息が漏れた。


「……これ、あったかい」

 

その小さな声が思いのほか胸に沁みた。

私は笑みをこぼさないように、スープの器を差し出す。

 

「こっちは“スープ”。飲み物みたいなもので……少し甘いけど、体が温まるわ」


 器の中では、とろりとした金色の液体が湯気を立てている。優しい味わいのコーンスープは万人受けする、はず。私が好きなものだから贔屓目かもしれないが、所謂“安心の味”というやつ。こういうときに出すには、ぴったりだと思う。……たぶん。

 

 ネリウスは両手で器を受け取り、香りを確かめるようにそっと鼻を近づけた。湯気が頬を撫で、瞳の奥に淡い光が映る。


「……海の匂いじゃない。でも、きれい」


私は小さく首を傾げた。

 

「きれい……?」


ネリウスは器の向こうで小さく微笑んだ。

 

「うん。君の世界の匂いがする」


 思わず言葉を失った。スープの湯気がふわりと流れ、間に漂う。その匂いはとうもろこしとバターのどこにでもあるような甘い香り。けれど彼にはそれが私の世界の匂いとして映るのだと思うと、少し胸の奥がじんと温かくなった。


 ネリウスは少しの間ためらうように器を見つめ、意を決したようにそっと唇を近づける。

けれど次の瞬間。


「……ッ、あつ……!」


びくりと肩をすくめ、目を丸くした。


「えっ、ごめんなさい!熱すぎた?大丈夫?」

「う、うん……びっくりしただけ。水よりも、ずっと、鋭い……?」


彼は舌先を出して、少しだけ息を吹きかける。その仕草が妙に真剣で可笑しくて。

私は思わず笑ってしまった。

 

「……あなたって、本当に不思議なことを言うのね」

「そう?」

「ええ。普通は“おいしい”とか“まずい”とか、そう言うものよ」


 軽く笑いながら言うと、ネリウスは少し考えてから再び真剣な顔で首をかしげた。

 

「じゃあ……おいしい、かな。でも、“きれい”のほうが近い気がする」


私は思わず笑ってしまった。

 

「ふふ……あなたって、ほんとに詩人みたいね」

「詩人?」

「感じたままをそのまま言葉にする人のこと」


ネリウスは少し考えてからゆっくりと頷いた。

 

「そうなんだ。じゃあ、海には“詩人”がたくさんいたのかもしれないね」

「え?」

「波がね、光にあたるたび……色を変えるんだ。誰も教えなくても、ちゃんと歌ってるみたいに」


 その言葉がまるで潮騒(しおさい)みたいに静かに胸へ届いた。彼の中では世界のあらゆるものが生きている。音も、光も、匂いも。

ふと、彼が何かに気づいたように顔を上げた。

 

「……この光、海の上でも見たことがない」


 

 彼の視線の先で温室の天井に吊られた灯素が瞬いている。昼の光に混ざって半透明の光球がふわりと浮かんでいた。


「これは“灯素”。魔法の光よ。火を使わない分、安全なの。昔の人は炎で照らしてたけど、危なくてね。だから改良されたの」


私は灯素の根元に軽く手をかざし、光の加減を整える。

柔らかな輝きが少し強まり、温室の空気がほんのり金色に染まった。


ネリウスは興味深そうに手をかざした。光が指の間を透けて薄く揺れる。

彼は息を呑み、ゆっくりと目を細めた。


「星が……落ちてきたみたいだ」

「……ふふ。そう見える?」

「うん。きれいだ。きらきらして……君の髪にも、似てる」


不意の言葉に思考が一瞬止まった。

慌ててパン落としかけて慌てて持ち直し咳払いをする。ネリウスはそんな私の様子に気づいてか、くすっと笑った。

 

「海では、光るものは“命の印”だったんだ。だから……見てると、落ち着く」


 彼の声は穏やかで、静かに響いた。灯素の光が彼の頬を照らし柔らかく揺れる。

私はしばらくその光景を見つめた。この温室の中だけが世界のどこよりもあたたかい場所のように感じられた。


 


 日が傾きはじめたころ、窓の外の光が柔らかく金色を帯びてきた。

ふとネリウスが部屋の隅に簡易の仕切りの影に置かれた白いバスタブに目を向けた。猫足の縁には繊細な金細工が施され水面が灯素の光を反射してきらめいている。


「……あれ、なに?」

「お風呂ね。こう、あたたかい水が入ってて、体の汚れや疲れをとったりするの」

「水がはいってるの?」


ネリウスがぽつりとつぶやく。

椅子から立ち上がろうとして、よろめいた。反射的に私は彼の腕を取る。


「危ないわ。まだ脚が慣れてないでしょう」

「うん……でも、見たくて」


その素直な声に小さく笑みがこぼれる。もうこのやりとりもすっかり自然になってきた。


「じゃあ、運ぶわね」


私がそう言うと、ネリウスはためらいもせず腕を伸ばした。まるでそれが当たり前のように。

私は軽く息を吸い、彼の体を抱き上げる。水の香りがかすかに漂い、髪先が腕に触れる。

温室の灯素が揺れ、その光が二人の影を重ねた。


「ありがとう、セイラ」

「……どういたしまして」


淡々と答えながらも胸の鼓動が少しだけ早くなる。彼はただ静かに腕の中に収まっているだけなのに。

その穏やかさがかえって心を落ち着かせてくれなかった。


 

そっとバスタブの縁に降ろす。

ネリウスはゆっくりと手を伸ばし、指先で水面を掬った。光がその動きに沿ってゆるく流れ、指の間をすり抜けていく。小さな波紋が輪を描き、光が彼の頬を照らした。


「なんか、ぬくい?」

「そうよ。本当はお湯でもいいけど、きっとあなたには熱いでしょうから“温度保持の魔術”で水のまま少しだけ温かくしてあるの」

「ふしぎだ……水なのに、生きてるみたいだね」


その声があまりにも穏やかで胸の奥が少し熱くなった。

ネリウスはしばらく考えるように視線を落とし、それから静かに頷いた。

そして衣の裾をほどき、足を入れる。


 

水が彼の肌に触れた瞬間、きらきらと光の粒子が滲み出した。足元から光は広がり、白い肌が淡い青に染まっていく。鱗がさざめくように光を弾きながら人の脚がゆっくりと尾へと変わっていく。

その動きはまるで海が呼吸するようだった。

 

私は思わず息をのんだ。尾鰭が大きいためかバスタブからは少し出てしまっているが、ネリウスが静かに水に体を沈める。

 


「これ、好きだな」

 

小さく吐かれた声は水に溶けるように柔らかかった。

彼の尾がゆるやかに揺れるたび、水面の光が壁に反射して温室全体を青い揺らめきで包む。


「やっぱり、水のほうが落ち着くのね」

「うん。……海とはちがうけど、あたたかい」


ネリウスの頬に灯素の光が映る。穏やかなその表情には恐れも痛みもなかった。

私はそっと椅子を引き寄せ、バスタブのそばに腰を下ろした。湯気のようにゆるやかな魔力の膜が、二人のあいだを包んでいる。

 


「眠いの?」

「……ほわほわするね」


ネリウスはまぶたを閉じ、しばらくしてまた瞳を開いた。


「セイラも、入ってみる?この水、すごく気持ちいいよ」

「だめよ。お嬢様が服のまま飛び込むわけにはいかないもの」


ネリウスは小首をかしげた。

 

「なんで?」

「……なんでって、服が濡れるし──」

「うーん?」

 

そう言うやいなや彼の手が水面をすべって伸びてきた。

私が制止するより早く指先が袖をとらえる。


「ちょっ、ネリウス!」


 

ばしゃん!


 

身体が宙に浮いたかと思うと、水音と共に視界が一瞬で白く弾けた。そして感じるのは湿り気とぬるい温度。

彼はきょとんとした顔でこちらを見ている。


「あ……ごめん。引っ張ったら落ちちゃった」

「“落ちちゃった”じゃない!」

 

濡れた髪を払いながら軽く睨みつけると、ネリウスはますます困ったように笑った。

 

「でも……“ほわほわ”は伝わったでしょ」


 

つい吹き出しそうになって口元を隠す。

ネリウスも、くすっと笑った。水より柔らかな笑みだった。


「……もう。あなたって、ほんとうに……」

 

静かな笑いが波紋のように広がり、温室の空気をやさしく撫でる。

その音を聞きながら……私はふと、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 

(ああ、こんな時間が、ずっと続けばいいのに)

次回更新はまた土日くらいの予定です(予定は未定)

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