2.人魚を買った夜
鱗が光を返し、長い尾がゆっくりと水中に揺れる。
その体には鎖が絡み、ガラスの床に繋がれている。喉元には石の嵌め込まれた鈍い金属の輪。“沈声の魔導具”もついていた。声帯にかかる音と魔力をまとめて潰すための首輪だ。
肩口には、刻印が焼きつけられており、それはこの国で“所有”を意味する従属紋章……奴隷印。消せない焼き傷。
彼の美しい身体の中で唯一、生きていない部分だった。
水の中の人魚、青年がゆっくりと目を開ける
反射した光に濡れた瞳。その眼差しには、恐れも希望もなく、ただ“知ってしまった者”の静けさがあった。全てを投げ出すような、どうでも良いとも言いたげなそんな諦めの色。その諦めは、無知ではなく学習だ。人間という生き物に対する学習だった。
(……人間じゃなければ奴隷にしていいって考え方が、まず終わってんだよね!!!)
内心、声が跳ねた。おっと内なる私、落ち着きたまえ。
扇の陰で指先が震える。うっかり扇骨を折らないように、力を逃がす。
昔、庭師が運び損ねた彫像をとっさに抱えて割らずに済ませたとき、護衛に「お嬢様は怪力でいらっしゃる」と真顔で感心されたのを思い出した。ちなみに庭師は腰を抜かしてた。
今は、その力を一箇所に集めない。分散、分散……。怒りは顔に出さない。頬の皮に笑いの輪郭を描き、瞳に適度な潤みを置く。
司会役が、胸を張って壇上に進み出た。
磨かれた靴音が高く響き、彼の指先に魔力が走る。声には拡声の魔術が乗せられ、会場の隅々まで行き渡った。
「伝承の存在、海の歌い手。皆様、これほどの“真品”は滅多にございません!帝国学士院の鑑定により、雌雄は“雄”、年齢は二十前後、稀少性は帝国等級で“第一級”指定。
魔力反応は水と光の領域に強く、歌声には催眠・治癒・洗浄などの副効果があると推定されております。ああ、ご安心を!勿論、今は魔導具により封じられてます。
そして見てください、この姿を。あの肌の透明さ、髪の輝き、まるで光そのものを映したかのような鱗。生きた芸術——!」
言葉の最後を大袈裟に伸ばした彼の笑みは絹のように滑らかで、しかしどこか毒を含んでいた。
会場の貴族たちの視線が、一斉に水槽へと集まる。
「“声”なら楽器にもいいか?」
「人魚の肉には不老の効能があるとか。試してみるのも一興だな!」
「治癒ができるなら、闘技場の決闘奴隷の回復役にでもすればいい」
「闘技場の興行主が泣いて欲しがるぞ」
軽い笑いが場を渡る。彼らは自分が残酷だとは思っていない。だから最悪なのだ。悪意の自覚がない分だけ、本当に質が悪い。彼らにとって亜人の命はただの消耗品だ。この国の人間の手に渡れば、すぐに使い潰される。
(……地獄すぎる)
なんでこんな世界に転生してしまったんだ……。剣と魔法、ファンタジー要素にときめいたのも今は昔の生まれてすぐの頃だけ。周囲の様子を見ていて、アレ?なんかココやっべーのでは?となった。
現代日本で一般人をしていた私としては頭を抱えるしかないような価値観とかが次々出てくる出てくる。
周囲の人間達から感じる立ちのぼる下衆な熱気にハッとする。いけない、トリップしてた。
ふと、青年が私を見た。
見た、と思った。
私が勝手にそう思いたかっただけかもしれない。けれど、視線がほんの一瞬、こちら側で止まった気がした。水越しの瞳は、遠い星に似ている。届かないと思えば美しく、届くと知れば怖ろしい。
私は扇を半分閉じ、羽根の陰で小さく微笑んだ。磨き上げられた完璧なお嬢様の笑い方。頬の角度、目の湿度、すべて計算通りに。
(いいよ。私が、あなたを取り戻す)
目の届く範囲ではあるが、やれる事はしたい。偽善かもしれないけれど。それは衝動ではなく、決意だった。あの水槽に沈められた瞳の光を、もう一度この世界に引き上げるための。
隣から、父の指がわずかに動いた。制止の合図。
私は足先で小さく床を叩く。従う気はない。
司会役が両手を広げた。彼の指先に、金の砂のような光が集まり、空中に数字の枠を次々浮かべていく。入札の魔術式。声を出さずとも、魔力と番号で意思表示できるタイプだ。富裕層に大変好まれる。
「お待たせいたしました、第二部、“海棲奴”のオークションを開始いたします!最低額は金貨三十から、以降は任意の倍額刻み。また、念のため入札中は抑制の魔術を強めます。……準備はよろしいですか?」
司会役の男が指を鳴らすと背後の魔術陣が淡く光り、水槽の周囲に張りめぐらされた結界が静かに脈打った。空気が、わずかに重くなった。青い光が一瞬強まり、水槽の内側で鎖が音を立てて軋む。
青年の体が小さく跳ね、鱗が波のように光を返した。痛みのせいか、息を吐くたび泡が揺らぎ、淡い光を滲ませながら水面へと昇っていく。
司会者も観客も、その苦痛を当たり前のものとして見ていた。
父が横でわずかに身を乗り出した。表情は動かない。けれどその仕草だけで会場の空気がさらに冷たくなる。
私は視線を水槽から外さなかった。指先がわずかに震える。背筋に冷たい汗が伝う。これは緊張じゃない、“嵐の前”の空気だ。静かすぎて、音の一つ一つが刃みたいに耳に刺さる。
司会役の口元がゆっくりと笑みに開いた。張り詰めた空気を切り裂くように、声が響く。
「それでは、開幕」
会場の空気が、一瞬、止まった。
金貨三十。光の数字が宙に浮かんだ瞬間、周囲の貴族たちが次々と魔力を走らせる。数字が跳ねるたび、水槽の外側を覆う魔術陣が淡く輝く。
青年の肩がわずかに痙攣する。抑制の符が強まっている。息をするたび、水中に細かい光が血のように散った。泡のひとつひとつが青く光りながら、消えていく。
(だめだ、長くもたない)
喉の奥がひりついた。この国の“見世物”はどれも悪趣味だ。苦しむ姿に値札をつけて笑う、それを“文化”とか“上流の嗜み”とか呼ぶんだから、もう救いようがない。反吐が出る。
誰もが優雅な顔をして、地獄を娯楽にしてる。まるで人間の皮を被った魔物だ。
私は息を詰める。次々挙がる数字の群れのなか、私の番号だけが沈黙していた。
父がわずかに首を傾ける。その仕草ひとつで、言葉など要らなかった。視線が問う、「やめろ」と。
そこにあるのは怒りでも心配でもない。ただの秩序だった。揺らぎを嫌う氷のような視線。私ではなく、“場の形”だけを見ている目。彼の中では、この瞬間すら“崩れてはならない風景”の一部なのだ。
ああ、この国の“正しさ”は、やはり死んでいる。
私は笑顔のまま、数字を一つだけ跳ね上げた。
白金貨。
──────その瞬間、会場全体が、まるで風を失った湖のように静まり返った。
白金貨。
帝国通貨の最上位。皇帝の御用金としてしか鋳造されず、一般流通はほとんど存在しない。
記念式典でさえ金貨十枚が限度なのに、その三倍以上の価値を一枚で賄う。白金貨一枚で、下級貴族の屋敷が三つ、領地が一つ、兵士百人が十数年は雇える。
それが、わずか一呼吸で投げ出された。
魔術式の数字枠が震え、光が波紋のように広がる。
周囲の貴族たちは、口を開いたまま動けない。誰かが扇を落とし、誰かが息を呑んだ。沈黙が、広間の空気を薄く引き延ばしていく。
導灯の光がふっと揺れた。会場を包む結界が、わずかにざわめいた気がした。まるで、この場の理そのものが「何かが壊れた」と告げているように。
司会役の男が一瞬言葉を詰まらせたあと、慌てて笑いを張り直す。
「な、なんと……侯爵令嬢セイラ様、白金貨! これは……見事なお覚悟でございます!」
“覚悟”ときた。
そう、狂気と紙一重の金額に、他人は名前をつけたがる。彼らは理解できないものに、意味を貼らずにはいられない。
父の横顔がこわばる。だが止めない。彼も社交の面子を守るため表では動けないのだ。“貴族の娘が趣味で珍獣を買う”。そう見せれば、今はまだ、誰も疑わない。父の視線が一度だけ私を射抜いた。言葉にせず伝わる意味はただ一つ。
“これで家の名に傷がつけば、容赦はしない。”
(知らん、知らん。私はもう“理想の娘”をやめてやる)
やがて、競りは静まった。誰も私を超えようとしない。金銭の問題ではない。ここで私に競るのは、“侯爵家の令嬢に喧嘩を売る”のと同じ意味だからだ。観客の関心は値段よりも“この娘、何を考えている?”に移った。
ざわめきが広間を流れる。香水の匂いに混ざって、微かな嘲笑が漂った。私は、別に笑われても構わない。
せいぜい吠えてろ雑魚ども。んっんー!ごほん。
「落札!落札!侯爵家ご令嬢、セイラ様!」
拍手。それは祝福ではなく、好奇と侮蔑の入り混じった音。打ち鳴らされる手のひらのひとつひとつが、鎖の音に聞こえた。
私は笑顔を保ったまま、水槽へ歩み寄る。青い光が肌に反射して冷たく感じた。透明な壁に映る自分の顔は、まるで他人の顔みたいに静かだった。司会役が恭しく鍵を差し出す。
「恐れながら、この鎖と沈声の首輪は所有者の魔力に反応して解除されます。契約魔法の印をこちらに」
彼が差し出すのは、白磁の小皿。月光のような光沢を帯び、縁には金の符が細かく刻まれていた。血を垂らせば、魔力契約が成立する。奴隷商の常套魔法“命令権の譲渡”。
私は唇を湿らせ、微かに笑った。
(こっちはこっちで、魔法の基礎くらい知ってるっての)
私は扇の骨を一本、そっと折った。そこにはこっそり仕込んでおいた“術式の逆転”が刻まれている。奴隷契約の魔術を表向きの支配契約から、裏で“解放の契約”にすり替えるための仕掛けだ。この血が皿に落ちれば、帝国の理は「主従の契約が結ばれた」と認識する。でも、実際には彼の自由が戻る。
指先に微かな痛み。血の匂いが、鉄と花の中間みたいに甘く鼻を刺した。
「丁寧なご説明、痛み入りますわ」
小皿に、爪先でほんの少し血を滲ませる。紅が白磁に落ち、淡い光が弾けた。鎖が静かに外れ、水面がひとひらの風に揺れた。
「……!」
青年が顔を上げる。その瞳が一瞬、揺れた。濡れた髪が水中でほどけ、光がその間を滑っていく。私は微笑みながら、指先をガラス越しにそっとかざした。その動作は“魔力印の刻印”のように見えるが、実際には抑制術式の解呪。魔術を通して伝わる気配が、かすかに震えていた。確かに、息づいている。
「お名前は?」
司会役が、当然のように問う。その声音には、感情の欠片もなかった。“所有物”には、買い主が名を与える。それがこの帝国の慣わし。名を持つことは、生きる証ではなく、支配の刻印を意味する。
私は答えなかった。名を与えるつもりなど、初めからない。彼は「もの」じゃない。
だから、私はただ、囁いた。
「……もう、大丈夫。息して」
青年の喉がわずかに動いた。沈声の首輪がぱきりと音を立てて割れた。その瞬間、水槽の中に魔力の奔流が走った。水が光を帯び、青白い粒が無数に舞い上がる。泡が連鎖するように弾け、空気を打つような音が広間に響いた。
「──ぁ、……」
微かな声。それだけで、空気が震えた。低く、澄んだその響きは、水を通して会場全体に広がる。歌のようで、祈りのようで、生き物の声ではない何かに近い。
魔力の流れが乱れ、天井の星空が波紋のように揺れる。導灯が一斉に瞬き、青い花弁の光が吹雪のように散った。
「なっ……! 魔力が共鳴している!?」
「馬鹿な、抑制の術を強めていたはずだ!」
ざわめきが広がる。貴族たちの声が泡立つように重なり、会場の空気が熱を帯びていく。
それでも私は動かない。
ガラス越しに揺らめく水の光が頬を照らす。ただ、彼の声を聞きながら、微笑みを保ったまま、司会役に向き直った。
「……お引き渡しは後ほどで結構ですわ。生き物の扱いには慣れておりますので」
「も、もちろんでございます、セイラ様」
男が深々と頭を下げる。その背筋が、汗に濡れていた。観衆はもう、私を“奇異な令嬢”として囁き合っている。「頭がどうにかなったか?」「美しい」「あれが銀の血統だ」など、ざらついた声が幾重にも交わりまるで熱を帯びた砂嵐のように空気を揺らした。それでいい。笑われても構わない。私の胸の奥では、魔力の風が静かに渦を巻いていた。
(あなたを檻から出す。絶対に)
青年の青い瞳が、水のゆらめきの向こうからこちらを見た。その目はまだ怯えていたけれど、ほんの少しだけ、光を取り戻していた。
その微かな光が、暗い海を割る最初の朝日みたいに見えた。
土日でしたので、本日も更新させていただきました!




