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悪役令嬢、噂の尾を掴む——処刑ルートを一度だけ巻き戻ったので、監察卿と情報改革します  作者: 妙原奇天


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第6話 幼馴染の涙と、王子の空洞

 雨上がりの学園は、石畳に薄い鏡を敷いたように光っていた。

 朝の鐘から二つ目の刻。東庭の東屋へ向かう道に、わたし——セレスティアは歩幅を合わせる。つま先が水たまりの縁を割ると、輪のなかに光の尾が波紋のように走った。囁きの筋道が、今日も街と心のあいだを行き来している。


 東屋には、既にひとりの少女がいた。

 淡いクリーム色のドレス、控えめな刺繍。顔立ちは端正で、どこか疲れている。マリアベル——王太子の幼馴染。彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばし、胸の前で手を組んでいた。張り詰めた糸のような姿勢。

 その後ろに、別の影。聖堂広報。硝子の笑顔は雨に濡れても欠けない。だが彼は遠巻きに佇むだけで、東屋には入ってこない。東屋の柱と柱のあいだに、今日のための結界——名誉保全の紙が静かに貼られているのを見て、彼は足を止めたのだろう。


「お時間をいただいて、ありがとうございます、マリアベル様」

「礼は要らないわ。あなたがわたくしを呼ぶのは、珍しいから」

「珍しいことは、いつも起きます。……座りませんか。石がまだ冷たいので、敷物を」


 わたしが布を広げると、マリアベルは息を吸い、ほんの少しだけ肩の力を抜いて腰を下ろした。指先が震えている。緊張ではない。覚悟の震えだ。

 東屋の梁には、雨粒がひとつだけ取り残され、陽に溶けかけていた。


「単刀直入に申し上げます。わたしは、最初の一言を知っています」

「……最初の、一言?」

「はい。噂の尾は、発火点で色が違うのです。今日ここで、それを再生します。怒らないでください。責めないために、確かめるだけ」


 マリアベルは瞬きをし、唇を結ぶ。

 わたしは視線を一度だけ落とし、心の奥で弦を弾くように集中する。視界の縁で、光の尾がきゅっと細くなり、東屋の床を、回廊を、庭の角を、楽師の練習室前を通って、三年前のあの日に繋がる。

 ——回廊の柱の陰。マリアベルを中心に、取り巻きが二、三人。

 最初の一言は、柔らかい声色で、しかし、刃より切れた。


「彼女、王子に媚びた目をするのね」


 その瞬間の空気の重さ、笑いの薄さ、恐れの匂いまで、尾は運んでくる。悪意は濃くない。むしろ、焦燥が汗と混ざって滲んでいた。


 わたしは再生を止め、静かにマリアベルを見た。

 彼女の睫毛が震え、頬が褪せてゆく。


「——わたくしが、言ったのね」

「はい。あなたの声でした。いちばん最初の火。あなたは、誰かに言わせたのではなく、最初はあなたが言った」

「……そう」

 彼女は喉元のネックレスを掴み、それから力なく手を離した。「覚えていないことにしていたの。わたしの一言で、あなたに火がついたって。でも、違う。覚えている。怖かったの」


 その言葉は、東屋の梁についた最後の雨滴を落とした。

 ポタ、と音がして、彼女の頬からもひと雫落ちた。


「怖かったの。捨てられるのが。殿下の隣の椅子は、わたしのために空いていると思っていた。でも、椅子は空いているほど、目に付く。人はその空席を埋めたがる。わたしも、埋めたかった。座っているふりでもいいから……。だから、“映える善行”を探して、寄付を積んで、聖堂に通って、広報に笑いかけて、台本の端に名前を忍ばせてもらって……。でも、何も……何も埋まらなくて」


 マリアベルはそこまで言うと、肩を抱くように両腕を胸に巻き、身を小さくした。

 取り巻きのいない彼女は、思っていたよりずっと若かった。

 わたしは立ち上がり、敷物の端に膝をつく。自分のドレスの裾が濡れるのも構わず、彼女の手に触れた。


「怖さは、噂で隠れません。噂は盾の形をしているけれど、風が吹くとすぐに裏返って刃になります。あなたは刃のほうを握ってしまったの」

「どうすれば、良かったの……?」

「怖いと言うことです。殿下が好きと言うことです。誰かに、待って怖いと、座れなくて怖いと、本当の言葉で言うことです」


 マリアベルは顔を覆ったまま、わたしの指を握りしめてきた。その力は強く、温かかった。


 そのとき——回廊から、早足の靴音が響いた。

 東屋の柱の影がわずかに動き、聖堂広報が距離を取る。代わりに、王太子エドモンドが姿を現した。

 完璧な笑みは剥がれ落ち、額に焦りの薄い汗。彼は状況を一目で読み違え、声を荒げた。


「セレスティア! 何をしている、彼女を泣かせるとは——」

「殿下」

 呼び止めた声は、わたしのものではない。

 ルシアン・ヴァルハイト。監察卿。

 彼は東屋の入口に立つと、一歩だけ前に出た。その一歩で、空気の重心が移る。

 灰色の瞳が、王太子をまっすぐに刺したわけではない。ただ、事実の位置を指した。


「泣かせたのは、あなたが与えた“空席の椅子”だ」

 石畳に、短い音が落ちた。

 王太子の目が見開かれ、すぐに狭まる。


「……どういう意味だ、監察卿」

「王太子という“顔”で椅子に座るのは容易い。しかし、“顔”は誰のでもよい。あなたは、誰のでもよい顔で座り続けた。だから、その隣の椅子がいつも空席になった。空席は、人を焦らせる。焦れば、噂が生まれる。噂は、座り方の練習を奪う」

「私は——私は、王太子だ」

「その言葉に、あなた自身はいるか?」


 王太子の喉が、言葉の形だけを作って止まった。

 わたしは東屋の壁に目をやり、貼ってある名誉保全の小紙を指し示した。

「ここは、誰かの顔を剥がす場所ではありません。本当の言葉を言う場所です」


 マリアベルが泣きながら立ち上がり、王太子に向き直る。

「殿下。わたし、怖かったの。あなたの隣の椅子に、わたしが似合わない日が来るのが。だから、あなたの隣に立つための善行を集めたの。集めたものの中に、あなたは一度もいなかったのに」


 東屋の外で、聖堂広報が気配を殺した。彼の笑顔は剥げ、目だけが鋭く、黒い財布の方角へと尾を伸ばしている。

 でも、今日は、彼の台本ではない。


「殿下」

 わたしは立ち上がり、裾を持ち上げた。

「婚約の終了を、正式に申し出ます。王国法第五章に基づき、再協議の手続きを経たうえで。——あなたが誰かの顔を演じなくてもいいように」

 王太子はわたしを見た。三年前の処刑台の朝に見せた、あの冷たい宝石の目ではない。濁りもなく、ただ、空洞だった。

 空洞は、風が通る。風が通れば、音が鳴る。

 彼の喉の奥から、ようやく音が出た。


「……私は、どうすれば、いい」

「座り方を練習してください。王太子の椅子ではなく、エドモンドという人間の椅子に。そこに座るあなたを、最初に見つけるのは、あなたです。次は、あなたに仕える人。賛辞ではなく、仕事で支える人」


 沈黙。

 長い、長い、沈黙。

 ルシアンは何も言わず、ただ東屋の梁の位置を一度だけ見上げた。落ちかけの雨滴はもうなく、東屋は乾いている。

 王太子は視線を逸らし、後ろを振り向き、すぐに戻した。行く先が分からない人間の顔は、ふしぎと若い。

 彼は最後まで何も言わず、踵を返し、歩き去った。背中は、大広間で見たどんな姿よりも人間らしく小さかった。


 東屋の中に、風が通った。

 マリアベルが胸に手を当て、ひゅう、と小さく息を吐いた。

 わたしは彼女の背を支え、柱の影に敷物をたたんで座らせた。砂糖をひとかけ。持ってきた乾いた焼き菓子を差し出す。

 マリアベルは噛み、ゆっくりと飲み込んだ。「甘い……」

「甘さは、泣き声の角を丸くする。今日のぶん、角を丸くしてから歩きましょう」


     ◇


 回廊を離れるとき、聖堂広報が東屋の外でわたしたちを待っていた。笑顔はもうない。薄い皮膚の下で、言葉の刃が研がれている。

「本日の出来事、記録しております」

「どうぞ。記録は、いつか説明の形で読むためにありますから」

「王太子殿下は、あなたの挑発により精神的な苦痛を」

「反論権は、いつでも使えます。“誰が”“いつ”“どこで”“どのように”。同じ紙で、あなたも」

 広報は目を細め、尾を宰相府へ伸ばし、黒い財布の影へ消えた。


 マリアベルはその背中を見送り、俯いた。

「わたし、これから……どうすれば」

「公開の場所から、非公開の場所へ」

「……え?」

「**“映える善行”から、“届く手”へ。療養院の洗い場、読み書き教室の夜番、孤児院の缝い物。名前は出ません。賛辞は来ません。“渡ったもの”が、静かに増えるだけです」

「そんなの、誰も気づかない」

「“渡ったもの”**は、履歴になります。あなたの履歴に。気づくべき人は、最後に気づきます」

 マリアベルは唇を噛み、ゆっくりと頷いた。「やってみる」

「怖いと言えるように。好きと言えるように。……練習しましょう」


 わたしはマリアベルに台所のメモを一枚渡した。

 ——“気力が戻らない日のスープ”。玉ねぎと塩と水だけ。

 スープは名もない。名がないものは、強い。


     ◇


 昼下がり。工房に戻ると、見習いたちがわたしを取り囲んだ。

「嬢ちゃん、東屋、どうだった?」

「空席の椅子を一脚、片づけたわ」

 ミラが首を傾げる。「椅子、どこに置くの?」

「倉庫。誰でも座れるかどうか、座り心地を直してから出す」

 ルーが目を丸くする。「家具職人になったの?」

「生活の家具は、工房の仕事よ」


 奥の机で、ルシアンが小さな包帯と薬瓶を出して待っていた。

「指」

「え?」

「紙の角で切っている。三カ所」

 言われて初めて、わたしは痛みに気づく。興奮が鎮まり、細い痛みが指先に戻る。

 ルシアンは無言で包帯を巻いた。動作は簡潔で、驚くほど優しい。血が沁みた部分には、指の腹でそっと圧をかけ、砂糖湯のような声で「痛むか」と問う。

「少し」

「少しは、生きている証拠だ」

「あなたの言葉、辛い砂糖ですね」

「処方箋だ」

 わたしは笑って、すぐに真顔に戻した。

「殿下は、空洞でした」

「空洞には、音が出る。彼は、その音を嫌悪してきた。だが、嫌悪だけでは埋まらない」

「埋めないで、一度、鳴らすほうがいいかもしれません」

「鳴り方を、彼は知らない」


 ルシアンは視線を落として――工房の壁に貼った**『名誉保全(一般版)』を見た。

「……“公開侮辱の禁止”。よく効く。今日の東屋で、誰も刃**を抜けないようにした。紙は、よく働く」

「砂糖も」

「砂糖は、君が持て」

 不意に、胸が熱くなる。危ない。

 わたしはカップに湯を注ぎ、視線を湯気に隠した。恋は最後。

「今日は、ミルクを多めに」

「了解した」


     ◇


 夕刻、学園の回廊。

 王太子エドモンドは、人気のない二階の遊歩廊にひとり佇んでいた。

 眼下には学生たちの笑い声、遠くからは市場の呼び声。

 彼は欄干に手を置き、手袋を外した。素手の肌に、石の冷たさ。

 彼は今日、**“王太子でない声”**を初めて聞いたのかもしれない。自分の喉から出る、乾いた音。


 彼の脳裏に、遠い日の映像が過ぎる。母の声。「王冠は空洞の杯よ。空洞だから、音が鳴る。鳴り方は、自分で覚えなさい」

 彼はその頃からずっと、完璧な音を鳴らそうとしてきた。人が喜ぶ音。賛辞が重なる音。

 だが今日、監察卿は言った。“あなた自身はいるか?”

 空洞に響く問いは、痛い。


 廊下の端に、学園新聞の号外が置かれていた。『今日、この場で起きる予定だったこと』の見出しは、もう黄ばみはじめている。

 その隣に、**『名誉保全』**の貼り紙。侮辱の禁止/反論の手順/訂正の方法。

 彼は紙を読み、指先で罫線をなぞる。

 罫線の上に、人の言葉が並ぶ。

 賛辞ではない。説明だ。

 説明は、熱を奪い、手順を残す。

 手順は、練習になる。

 練習は、椅子の座り方になる。


 彼は、はじめて心から疲れた顔で笑った。

 空洞は、悪ではない。容れ物だ。

 容れ物があるなら、埋め方を考えればいい。

 仕事で。

 賛辞ではなく。

 彼は踵を返し、階段を降りた。空席の椅子が、胸の中で小さく折りたたまれる。


     ◇


 夜更け。

 わたしは街角サロンの黒板に、いつもより大きく書いた。


“怖い”は、噂で隠れない。

“好き”は、賛辞で飾らない。

“空洞”は、仕事で埋める。


 黒板の前に、マリアベルが立った。髪はまとめ直され、化粧の色は控えめ。白いエプロンを巻いている。

「洗い場、やります」

「では、最初の仕事は——手を濡らす前に、手を温めること」

「どうして?」

「冷たい手は、自分の気持ちを鈍らせる。温かい手は、相手の気持ちもあたためる」

 マリアベルは笑って、手を擦った。かすかに赤くなる指先は、生きている。


 聖女リリアンが、慌てた息で扉を開けた。「セレスティア様、読み書き教室、人が増えました!」

「黒板を増やしましょう。チョークは——」

「三色あります!」

「完璧」


 そのとき、扉の外で二回、二回。

 合図。

 ルシアンの部下が入ってきて、小声で囁く。

「宰相府、明晩、出納の息継ぎ。場所は北棟の古い書庫」

 ルシアンが背後から歩み寄り、報告を受けると、視線だけでわたしに訊いた。

「来るか」

「行かない。ここを守る」

 彼は頷く。「真ん中で会おう」

「真ん中で」


 わたしは黒板の端に、小さく台所のメモを書き添えた。

 ——“泣いた日のミルクティー”。鍋は弱火、砂糖は少し、塩をひとつまみ。

 塩は涙を、飲みものに変える。


     ◇


 その夜、工房の屋根。

 星は薄く、風は柔らかい。

 わたしはカップを両手で包み、呼気を白く吐いて、遠くの王城を見た。窓の灯りが一斉に消える時刻。遅れて、宰相府の棟が暗くなる。

 その暗がりのどこかで、黒い財布が口を閉じ、また開くだろう。

 けれど、手順は組まれた。

 上はルシアン。下はわたし。

 真ん中で会う。

 紙で。

 暮らしで。

 説明で。

 砂糖で。


「——恋は最後」

 声に出して言う。

 言葉にすると、危うさが手順に変わる。

 ルシアンが横に座り、同じ方向を見た。距離はカップ一個。

「指、痛むか」

「少し」

「もう一度、巻き直す」

「お願いします」

 包帯が新しくなり、わたしはミルクティーを啜った。塩が、甘さを深くする。


 遠く、楽師の練習室から、ひとつの音階。

 音は、空洞に反響し、夜に溶けた。

 座り方の練習みたいに。


     ◇


 翌朝。

 工房の扉を開けると、見習いたちが揃って立っていた。

 手には、写真。

 ——読み書き教室の黒板の前で、マリアベルが子どもと並んで字をなぞっている。

 彼女の横顔は、映えていない。

 ただ、渡っている。

 わたしはその写真を壁に貼った。渡ったものの列に。

 靴、薪、石板、字。


「嬢ちゃん、殿下はどうするのかな」

 ルーの問いに、わたしは少しだけ考えてから答える。

「鳴らす。空洞の中で。賛辞の外で」

 ジョノが首をかしげた。「むずかしい?」

「むずかしいから、練習」

 ミラが笑った。「じゃあ、わたしたちは、砂糖を用意するね」

「お願い」


 工房の外で、朝の光が紙の角を磨く。

 わたしは新しい版木を台に置き、活字をひとつずつ拾っていった。

 今日の見出しは、決めてある。


『怖い』と『好き』の練習——空席の椅子の畳み方


 紙は、また誰かの壁に貼られ、誰かの台所の油の染みを受け、誰かの心の手順になるだろう。

 噂は、今日も走る。

 けれど、最初の一言は、もう別だ。


(続けよう。続くは、わたしの特技だ)


 わたしはカップにミルクを注ぎ、砂糖を少し、塩をひとつまみ。

 甘さは角を丸くし、塩は甘さを深くする。

 東屋の梁に残る水滴は、もうない。

 代わりに、黒板の端に、今日の約束が残っている。


“怖さは噂で隠れない”

“好きは賛辞で飾らない”

“空洞は仕事で埋める”


 それを読んでから、わたしは扉を開け放った。

 街の音が、今日の紙に流れ込んでくる。

 紙の匂いは、暮らしの匂い。

 暮らしの匂いは、わたしの匂い。

 ——そして、わたしたちの匂いだ。


——第6話・了——

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