第2話 婚約破棄、予定調和を壊す
学園の春は、例年どおり華やかに始まった。
王都の中央に建つ王立学院は、貴族の子女と才ある平民を等しく集め、政務と学問の両輪を担う場所だ。講堂の白い壁には陽光が差し込み、桜に似た薄桃色の花びらが舞い込んでいる。
その舞台に立つのは侯爵令嬢セレスティア・オズボーン。
三年前の記憶を抱え、ただ一度きりの巻き戻りを経て戻ってきた彼女は、目の奥に硬い決意を宿していた。
処刑台で聞いた群衆の罵声と、王子の冷笑。あの惨劇を二度と繰り返すつもりはない。
社交の季節、火種の予感
学院の新学期は、歓迎舞踏会や親睦の茶会といった社交行事から始まる。貴族の家同士が婚約の布石を打ち、勢力を示す場でもある。
セレスティアは前時間軸で、まさにこの季節に足をすくわれた。
「王子に媚びた視線を送った」とか、
「聖女候補を嫉妬で陥れようとしている」とか。
小さな囁きが幾重にも尾を引き、やがて「断罪劇」という見世物にまで肥大化した。
だが今、彼女にはそれが見えている。
光る尾。
人の言葉が生まれ、誰に伝わり、どこで太くなるか。
それが細い糸のように視界に揺れている。
そして最初の発火点は、やはり——王子の幼馴染の取り巻きと、聖堂付きの書記官。
彼らが交わす何気ない会話が、やがて「聖女候補リリアンを陥れようとする悪役令嬢」という物語をでっちあげるのだ。
(正面から否定しても無駄。噂は燃料を与えるほど広がる……なら、燃えない環境を先に敷けばいい)
セレスティアは、冷静に策を立てた。
学園新聞、検証欄の新設
学院の片隅にある新聞編集部。
紙とインクの匂いに包まれた狭い部屋で、若い生徒たちが活字を並べていた。
「検証欄を新設しましょう」
セレスティアは机に手を置き、はっきりと言った。
「検証欄?」と部員たちがざわめく。
「意見と事実を分ける欄よ。『誰が言った』『どの場で起きた』『出典は何か』。噂は好き勝手に走るけれど、検証があれば燃えにくい。紙面の半分を、それに充てましょう」
最初は退屈そうな顔だった編集部員たちも、彼女の話を聞くにつれて目を輝かせていく。
彼らは新しい遊び道具を渡された子どものように、「面白い!」と声を上げた。
セレスティアは続ける。
「寄稿は当分わたしがやるわ。出典は開示する。反論が来たら同じ紙面で受ける。……印刷は王都の活版工房に頼めば、もっと早く綺麗に刷れる」
そう言いながら、彼女は懐から小冊子の試作を取り出した。
『祈りの透明化』。
寄付金の流れや奇跡の実績を誰にでも分かる言葉で記した冊子。
「こんなふうに、“見える形”にするのよ」
部員たちはページを覗き込み、頷いた。
名誉保全の誓約書
次にセレスティアが向かったのは学院長室だ。
前時間軸で彼女がもっとも恐れたのは「公開断罪劇」。学園の中心で、衆人環視のもと侮辱されるあの惨劇。
それを封じるために、彼女は一枚の文書を差し出した。
「名誉保全の誓約書です。学内で行われる公開の場において、個人の人格と名誉を損なう演出を禁止する条項を設けてください。違反した場合の手続きも記してあります」
学院長は眉を上げ、紙をしばらく眺めた。
「随分と鋭いな。三年前の君はもっと大人しかったと記憶しているが」
「見えるものが増えたので」
「……ふむ。検討しよう」
紙は机の引き出しに収められた。
この一手で、少なくとも舞台を利用した断罪劇は封じられる。
王子との距離
その間にも、王子エドモンドの取り巻きたちはあれこれと仕掛けてきた。
廊下を塞ぎ、微笑みを浮かべながら囁く。
「オズボーン嬢、殿下がお呼びよ」
セレスティアは涼やかに応じた。
「では、公的な書面で頂戴するわ。ちょうど、わたくしも婚約の再協議をお願いしているところですもの」
取り巻きの顔がひきつる。
囁きの尾が、一瞬細くなったのを彼女は見逃さなかった。
公的な場では礼を尽くす。だが、私的接触は避ける。
この徹底が、噂の火種を奪う。
無表情の監察卿
その夜。
印刷工房の灯りに照らされた路地に、黒い外套の影が立った。
「……監察卿」
「夜は治安が悪い」
ルシアン・ヴァルハイト。若き監察卿。
彼は冷たい灰色の瞳でセレスティアを見つめ、低く告げた。
「学園新聞の検証欄、効果を確認した。尾ひれが削がれている」
「退屈でしょう?」
「退屈は治安の友だ」
セレスティアは口元を緩めた。
「わたしには噂の流れが見えるの。尾の一本一本が」
「……報告は受理する。ただし、即座には信じない」
「それでいいわ。証拠で語る」
彼は黙って頷いた。
その無表情の奥に、ごく小さな温度が見えた気がして、セレスティアの胸が微かに疼いた。
婚約披露会の衝突
そして迎えた婚約披露会。
大広間には豪奢な装飾と花々が溢れ、王子エドモンドは得意げに立っていた。
周囲には「婚約は揺るぎない」と言わんばかりの虚栄の笑みが並ぶ。
だが、セレスティアは一歩前に進み、澄んだ声で言い放った。
「殿下。わたくしは本日、王国法第五章に基づき、婚約の再協議を正式に要求いたします」
ざわめきが広がる。
エドモンドの顔色が変わり、周囲の貴族たちが息を呑んだ。
予定調和は崩れた。
断罪されるはずの“悪役令嬢”が、自らの権利で反撃に出たのだ。
火花が散る。
王子の苛立ちと、セレスティアの静かな眼差しが交差する。
その場の片隅で、ルシアンがただ一度、極小に頷いた。
それは「次も支える」という無言の宣言に思えた。
終幕
こうして、婚約披露会は混乱のうちに幕を下ろした。
囁きの尾は混線し、燃え広がらない。
予定調和は壊れ、物語は新しい道へ踏み出した。
セレスティアは心の奥で呟いた。
(これでいい。これが、やり直す意味)
彼女の歩む道は、もう誰の筋書きでもない。
——第2話 了——




