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第10話 公開誓約——“推し”から伴侶へ

 王都広場は、朝の鐘が一たび鳴るたびに、石畳の上の影を短くしていく。

 かつて処刑台がそびえていた正面には、今や市民掲示板が立ち、掲示の上には透明なアーチが架かって陽光を返す。アーチは、どこから見ても空の色を映す。誰のものでもない空。

 掲示板の左右には新品の欄外板が固定され、侮辱の禁止・反論権・訂正の手順が、子どもの背丈でも読める大きさで刻まれていた。


 わたし——セレスティア・オズボーンは、木箱から巻いた紙束を取り出した。『名誉保全条例(最終稿)』。角を軽く叩き、風の向きを読み、短い釘で掲示板の中央に四隅を留める。

 紙は、暮らしの盾。

 盾は、重い。

 だから短い言葉で。


「——読み上げます。一文ずつ」


 広場を囲む人々が、息をそろえて静かになる。洗濯桶の音も、屋台の鍋の泡も、紙の音に耳を貸した。王都は“ざまぁ”を叫ぶのではなく、“読む”ために集まっている。


『名誉保全条例(最終稿)』——誰でも読める版


第一条 公衆侮辱の禁止

 誰かの名誉を、公開の場で刃にしない。


第二条 反論権の保障

 **“誰が・いつ・どこで・何を”**を書き、一文で返す権利を、すべての人に。


第三条 訂正の手順

 誤りは、見出し一行・本文五行・欄外三項で直す。長さは一紙を越えない。


第四条 閲覧と透明

 **閲覧は治安を守る。帳簿は入(青)・出(赤)・渡(黄)**の三色で示す。


第五条 子どもの名誉

 子どもの名は、賛辞でも侮辱でも消費しない。写真は許可と目的を明記。


第六条 罰ではなく修復

 謝罪・訂正・再発防止を一文で示し、最初の紙の隣に貼る。


第七条 台所の比喩

 感想は砂糖、事実は塩。砂糖は半分まで、塩はひとつまみで深く。


欄外——覚えやすい三点

 > 侮辱禁止/反論権/訂正手順(一文で、短く、続ける)


 読み終えた時、石畳の上に小さな風の輪が広がった。輪の中心に、透明のアーチが空の色を落とす。

 わたしは紙の端を撫で、懐中時計の蓋に親指をかけた。

 時計の内側には、金の文字で、「一度だけ」。

 ——蓋は開く。

 文字は、もう重石ではない。

 巻き戻りは一度きりだったけれど、やり直しは何度でもできると知ったからだ。最初から組み直す手順は、暮らしの側にある。


 人の波が左右に切れて、監察卿ルシアン・ヴァルハイトが前へ出た。黒い外套は陽に艶を失い、襟元に紙粉が一粒、光った。

 彼は壇にも上がらず、掲示板の脇に立った。真ん中を紙に譲る立ち位置。

 灰色の瞳が、数字ではなく人を見ている。


「——一文で」

 彼は短く前置きし、声を置いた。


「私たちは噂をゼロにはできない。だが、尾を透明にすることはできる。」


 拍手は、大きくないが、長く続いた。

 ルシアンは続ける。三点だけ。


「一、閲覧は治安を守る。」

「二、説明は熱を奪い、手順を残す。」

「三、真名で呼ぼう。賛辞を救済とは呼ばない。」


 わたしは隣で、彼の息継ぎの間の長さを数え、声の高さのわずかな震えを聞いた。無表情の盾は、今、人の温度で内側から薄く歪んでいる。

 そして、その歪みを仕事で支えるのが、わたしの役目だ。


 広場の端で、王太子エドモンドが静かに立ち、遠くから拍手を送っていた。

 彼の外套は簡素で、側近の椅子はどこにも見えない。

 空洞に音を鳴らす練習は、まだ途中だろう。それでも、今の拍手には台本の匂いがしなかった。仕事の音だった。


 リリアンは、療養院の聖務員の腕章で子どもたちを連れてきて、掲示板の下に読み書きの席を作っていた。彼女の声は湯気の温度で、「誰が・いつ・どこで」をゆっくりとなぞっていく。

 マリアベルはいない。彼女は別の町で、洗い場と夜番の名前札を掛け替えながら、映えない暮らしを始めていると聞く。渡っている暮らしだ。


 広場の奥に、茶菓子売りの屋台が並ぶ。“始まりのパン粥”、焦げ端のビスケット、ミルクティー(塩ひとつまみ)。

 甘い匂いは、人の肩から角を落とし、言葉の刃を丸くする。


     ◇


 式次第は、紙の裏に一文ずつ印刷してある。

 > 『名誉保全条例 最終掲示』

 > 『監察卿の三点』

> 『婚約手続(公開・簡略)』


 わたしたちは、最後の紙に進む。

 婚約手続は、仕事の言葉で書かれている。

 > 一、双方の氏名を一文で。

 > 二、持参するものは短く三点。(署名/証人/印)

 > 三、欄外に「恋は最後」の但し書き。


 ルシアンが手袋を外すと、紙の匂いと金属の無臭が交わった。

 机に置かれた婚約書は、白金の留め具で綴じられている。

 欄外には、小さな**“&(アンド)”の印影——印刷活字で打った&**だ。

 仕事と私(&)。

 説明と暮らし(&)。

推しと伴侶(&)。


「——セレスティア・オズボーン」

 わたしは自分の名を、一文で言った。誰の娘でもなく、わたし自身の名として。

 ペン先が紙に触れる音は、活字が鉛に沈む音によく似ている。

 次に、ルシアン・ヴァルハイト。

 彼は短い筆圧で書き、余白を尊重する癖のとおり、欄外に小さな点を三つ打った。


 証人は二人。

 学園長と、市民監査会の洗濯女。

 洗濯女は、手を拭いてから、指で印を押した。**「重い紙だねえ」**と笑う。

 重いのは、続ける重さだ。


 ルシアンが小箱を開き、簡素な白金の指輪を出した。

 指輪には、ごく小さな**&の彫り。横倒しの糸結びみたいに可愛い。

 彼は、わたしの左手薬指を一瞬だけつつき**、それからそっと通す。

 契約書に署名する時、ここが空いていると無駄に気が散る——あの不器用な告白を、今日は手順に変える。


「君の正義は、私の居場所に」

 灰色の瞳の底に、仕事の光。

 言葉は短いが、長く続く。

 わたしは息を吸って、答える。


「私の推しは、私の伴侶に」


 拍手。

 花びら。

 紙片。

 子どもの声。

 油灯の光が透明アーチに跳ね返り、王都の空に薄い虹を描いた。


     ◇


 式は、長くはしない。短く、太く、覚えられる。

 王太子エドモンドは、人垣の外で帽子を取って頭を下げ、短く拍手をした。

 それを見た古着商が呟く。「映えない殿下は、渡っているね」

 鍛冶屋の少年が笑う。「覚えられる殿下でもある」

 誰もざまぁを叫ばない。ざまぁはもう、説明の後に来る安堵の別名になったから。


 式が終わると、広場の片隅で**「暮らしの透明化」の臨時号が配られた。

 見出しは三本。

 > 『名誉保全条例・施行』

 > 『公開誓約の手順(誰でも版)』

 > 『今日の台所のメモ:祝いの日の砂糖』

 下段には、“茶菓子当番表”の初回分**。

 セレスティアの名前が木札で下がり、ミルクティーと焦げ端のビスケットが書き添えられている。

 「甘いものは世界を丸くする」——わたしは欄外に一文を書いて、笑う。


     ◇


 午後、新しい印刷工房に人々が戻っていく。

 梁はまだ若く、壁は白く、推し札は柱に揺れる。

 印刷室では、活字が箱に収まり、版木の削り屑が木の匂いを出す。

 帳簿の厨房では、三色の鉛筆が並び、**“渡ったもの棚”**に写真の枠が増えた。

 標準掲示板は入口に立ち、欄外が太い。


 わたしたちは、仕事に戻る。

 推し活は、仕事に戻るといちばん長持ちする。

 ルシアンは監察卿の机に座り、一文の報告を三通だけ書いた。

 > 「閲覧は治安を守る」

 > 「反論は一文で足りる」

 > 「賛辞は救済ではない」

 それから、机の端に置かれた茶菓子当番表に目をやり、まぶただけで笑う。


「当番、わたしが次です」

「職掌上、控えめに甘く」

「塩をひとつまみ」

「深くなる」


 見習いたちが二回、二回と合図を送り、配達に出ていく。

 ルーは版木を抱え、ジョノは見出しの活字を、ニアは給金袋を、ミラは砂糖を。

 二人一組。間は、常に埋める。


 リリアンは読み書き教室に戻り、黒板の前で**“誰が・いつ・どこで”を子どもたちと唱和する。

 マリアベルから手紙が来た。洗い場の当番表の写しと、“渡ったもの”の小さな写真。

 > 「映えません。でも、渡りました」

 短い一文**が、強い。


     ◇


 夕映えの頃、わたしたちは屋根に上がった。

 透明アーチが遠くに見え、市民掲示板の紙が風にめくれないよう、角を短い釘で留めているのが分かる。

 わたしは懐中時計の蓋をもう一度開き、**「一度だけ」**の文字に指を当てた。


「意味、変わりましたね」

「欄外に移した」

「欄外、ですか」

「“巻き戻しは一度だけ。だが、やり直しは何度でも”。欄外にあると、本文が読みやすい」

「あなたの欄外、好きです」

「君の本文は、もっと好きだ」


 わたしたちは、ミルクティーを分け合い、塩をひとつまみ。

 甘さは、深くなる。

 恋は、最後に沸く。

 鍋の底で、小さな泡が上がった。

 **&**の印が、指に触れて冷たい。冷たさは、やり直しの定規になる。


「約束を、一文で」

 わたしが言うと、ルシアンは目を細めた。

「君の正義は、私の居場所に」

 わたしは頷き、続ける。

「私の推しは、私の伴侶に」


 二回、二回。

 路地の見張りが平常を伝える。

 紙は乾き、活字は沈む。

 王都は、少しだけ平らに見える。


     ◇


 翌朝、“茶菓子当番表”の前で、わたしは自分の名前の札を裏返した。

 済の印。

 次はルシアン。

 欄外に、小さな絵を描く。白金の輪に**&。

 「仕事と私(&)」。

 「説明と暮らし(&)」。

 「推しと伴侶(&)」。

 紙は、結び目になる。

 暮らしは、その結び目を指で確かめる。

 恋は、その隣で、同じ温度で続く**。


付録:公開誓約の読み方(欄外)


見出しは一行で——目的を示す。


本文は五行まで——誰が・いつ・どこで・何を・どうする。


欄外は三項で——侮辱禁止/反論権/訂正手順。


一文で返す訓練を続ける。


台所のメモ——祝いの日も塩ひとつまみ。甘さが深くなる。


 ざまぁの余韻は、優しさの中で薄くなり、暮らしの手触りが胸の奥に厚く残った。

 透明のアーチは、今日も空を映す。

 市民掲示板は、今日も紙を受けとめる。

 名誉保全条例は、今日も欄外で短く光る。

 印刷工房は、今日も台所のメモを貼り替える。

 推しは、伴侶になり、

 正義は、居場所になった。

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