表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/10

第1話 処刑台から、ただ一度だけ戻る

 雨は、処刑台の階段を一本ずつ磨くように落ちていた。濡れた石の匂いが鼻腔を刺し、群衆の吐息は白く重なって、低い嗤いの霧になってひろがる。

 セレスティア・オズボーンは膝をつかされ、鉄の足枷が石に触れて鳴った澄んだ音に、ふっと笑いそうになる。奇麗な音だった。最後に聴く音がこれなのだと思うと、やけに筋が通っている気がした。


「偽りの聖女に対する嫉妬と、毒殺未遂。罪状は二つ。王太子殿下の御前において断罪とする」


 儀礼的な宣言。読み上げる侍従の声は湿っていて、言葉の端は雨に溶けた。

 近くで、ドレスの裾が擦れる音。金糸の刺繍。セレスティアの婚約者だった男——王太子エドモンドが、形だけの視線を落とした。瞳は曇った宝石のように滑り、何も見ていない。


(ええ、もういいの。あなたが見なくても)


 静かなやさしさで、自分に向けてうなずく。胸の痛みはとっくに擦り切れて、今はただ、空虚の底に薄い膜が張っているだけだ。

 群衆のざわめきが高まる。石畳にかかる布がめくれ、刃が見える。

 その瞬間——視界の片隅に、細い光が走った。


 光る尾。

 囁きが——ひとつの単語が——線になって、石畳の隙間を滑っていく。線は角を曲がり、露店の葡萄酒樽をくるりと回って、新聞売りの少年の靴先に触れ、そこからまた別の線に分岐した。

 “彼女は王子を誘惑している”という囁き。

 “聖女の杯に粉を落とすところを見た”という囁き。

 “やっぱりな、あの瞳つき”という囁き。

 光る尾は絡まり、結び目をつくり、次の路地へ、教会の掲示板へ、宮廷の廊下へと伸びていく。

 それは、噂の流れだった。

 誰が最初に言ったのか、誰が増幅させたのか、誰が沈黙で賛成したのか——すべて、光の線の密度と方向で分かる。

 セレスティアは息を呑み、気付いた。わたしは今、見えている。


(これは——わたしの力? いつから?)


 刃が上がる。雨粒が刃先で二つに割れて、白い線になって落ちる。群衆の声は波になって押し寄せる。

 光る尾の束が、最後、王太子の耳へと吸い込まれていくのが見えた。

 ああ、そうか。

 ここまでの道筋のすべてが、一本の線にまとめられて、わたしの首筋へ落ちてくるのだ。

 なら、逆に辿ればいい。拾い直せばいい。

 セレスティアは瞬きをした。


 世界が、反転した。


     ◇


 最初に聞こえたのは、壁掛け時計のぜんまいが刻む乾いた音。

 次に、ストーブの火が細く唸る音。

 そして、窓を叩く春の雨。

 硬い寝台の感触に肩を起こすと、自分の部屋の薄青い天蓋が見えた。子どものころから馴れ親しんだ、見慣れた布の淡い褪色。

 息を吸い込むと、胸が冷たくなる。なぜなら——壁のカレンダーが、三年前の春を示していたからだ。


 ドレッサーの上に置いた懐中時計が、蓋を開けて待っていた。銀の内蓋に、見たことのない金文字が刻み込まれている。


——一度だけ。


 乾いた笑いが喉から零れた。

「……ずいぶん、欲張らせないのね」

 指の腹で金文字をなぞる。刻印は浅くない。誰かが焦って掘った雑さは無く、精密に、まるで誓いのように刻まれている。

 座ったまま、両足の裏に力を入れて立った。足は震えない。処刑台の石の冷たさは消えて、代わりに、故郷の床材の温かさが戻ってきていた。


(戻ってきた。三年前。王立学園の入学式の、前夜)


 皮肉に唇が歪む。ここからすべてが始まった。

 “聖女候補”の転入。学園新聞の扇情的な見出し。王太子の、意地の悪い微笑。

 そして、断罪劇。

 セレスティアは鏡の前に立ち、頬に触れた。青白さは以前より抜けている。不思議と、目の奥に硬さが宿っていた。


(やり直す。今度は、噂の尾を——わたしが掴む)


     ◇


 翌朝、馬車の窓から王都の石畳を眺めた。雨は上がり、洗われた街は色を取り戻している。

 王立学園の門柱は古い。白い石に蔓の彫刻。春の芽が、石の隙間を探すように顔を出していた。


「セレスティア様、お噂はお聞きですか?」

 侍女のエヴァが、紅茶色の瞳を丸くする。彼女はいつも、善意の伝書鳩だ。

「どの噂?」

「きょう、特別な転入生がいらっしゃるそうです。“聖女候補”だとか。学院長の知己を通じて——」

 セレスティアはうなずいた。光の尾が、視界の隅で細く震える。まだ遠い。けれど確かに、学園のほうへと引かれている。


(来る。前と同じだ。でも、前とは違う道を歩く)


 講堂。入学式。拍手。新任教師の挨拶。長い祝辞。

 退屈は、人の心の芯を柔らかくして、噂が刺さりやすくする。セレスティアは式の途中で、すっと席を立った。外周通路。光の尾がそこへ走る。

 誰かの囁きが石壁で反響して、薄い音の尾をひいていた。


「見た? 王子殿下の視線」

「オズボーン嬢には冷たかったわね」

「そりゃあ、“聖女”を前にすればね」

 囁きの先に、背の高い少年と、肩に白いマントを掛けた青年がいた。

 前者は宮廷詩人志望の上級生。後者は——


 灰色の瞳が、一度だけこちらに向く。

 ルシアン・ヴァルハイト。王国監察卿。若いのに、冷えた刃物のような雰囲気を纏っている。

 彼はセレスティアが立ち止まる前に、言った。


「式は退屈だ。ここで呼吸を整えるのは合理的だ」

「監察卿が学園にいるのね。珍しい」

「珍しいことはよく起こる」

 無駄のない会話。やり取りは短いのに、なぜだか全体がよく響く。

 セレスティアは息を整え、正面から見返した。

「お目にかかれて光栄だわ、ヴァルハイト卿。……ひとつ、私からも珍しい報告を」

「聞こう」

「噂の尾が見えるの」

 彼は一瞬、まばたきを忘れたように静止した。灰色の瞳が、極小に開いて、すぐに閉じる。

「具体的には?」

「言葉が生む線。誰が最初に言ったか、誰が増幅させたか、どこで太くなるか。今、講堂のなかで何本も走っている。『王子の視線』『聖女候補』『冷たい婚約者』。……あなたの背中にも一本」

「私の背中?」

「“監察卿は女嫌い”、という線。あなたが女性と並んで歩かない光景が、尾を太らせた」

 ルシアンは口元を微かに引いた。笑ったのか、顔の筋肉が温まっただけなのか、判断がつかない。

「——報告は受理する。ただちに信じるわけではない」

「監察卿なら、それでいい。私は、証拠で語る」


 光の尾が、ざわ、と講堂の方へ揺れた。

 セレスティアは踵を返す。

 今日は“聖女候補”の紹介がある。前の時間軸では、ここで最初の「芝居」が始まった。

 焦らない。

 まず、燃えない土台を敷く。


     ◇


 最初の一手は、学園新聞だった。

 編集部室は、紙とインクと若い息でむせ返る。窓際の机を手刀で区切るように借り、セレスティアは淡々と提案した。


「検証欄を新設しましょう。意見と事実の区別、出典、確認の段取り。紙面半分を、それに」

「紙面を半分も?」

「検証は退屈に見える。でも、一番役に立つのは退屈な働き者よ」

 彼らは目を丸くし、やがて面白がった。新しい遊び道具を渡された子どもみたいに。

 セレスティアは続ける。

「寄稿は私が当分やるわ。出典は開示する。反論が来たら同じ紙面で受ける。……それから、印刷工房に心当たりがあるの。紙質を変えるだけで、読まれ方が変わる」

 工房の話になると、彼らの耳がさらに近づく。

 工房は城壁内の路地にある小さな店だ。孤児院の見習いが数人、活字を拾い、インクを磨る。甘いハーブティーの香りをいつも焚いていて、手がインクで汚れた子どもたちが、鼻歌を歌いながら働く。

 セレスティアはそこで、小冊子の試作も始めた。題は『祈りの透明化』。寄付金の使途、救済の実績、奇跡報告の検証——すべて、読めば分かる言葉で。

 噂に火がつく前に、薪を湿らせておく。

 それが一手目。


 二手目は、学院長への提案だった。

 セレスティアは執務室の扉を叩き、挨拶もそこそこに、一枚の紙を差し出す。

「名誉保全の誓約書。学内で行われる公開の場において、“個人の人格と名誉を損なう演出”を禁じる条項です。違反した場合の手続きも書いてあります」

 学院長は眉を上げ、紙の端を指先で弾いた。

「だいぶ尖っておられる」

「学問の自由は、醜聞の自由ではありませんもの」

 紙は早口に読み進められ、やがて机の引き出しにしまわれた。

「検討しよう。……君は、前より目が鋭くなった」

「目の前に、見えるものが増えましたので」


 三手目は、王太子との距離。

 公的な場では礼儀を尽くす。私的な接触は避ける。

 取り巻きが道を塞ぎ、薄く笑う。

「オズボーン嬢、お忙しそうね。殿下がお呼びよ」

「では、公的な書面で頂戴するわ。私のほうでも、婚約の再協議についてお伺いを立てたところですから」

 取り巻きの唇がひきつり、光の尾がわずかに痩せた。

 尾は肥えたところに燃え移る。痩せた尾は、次の餌を探す。

 次の餌は——聖女候補。


     ◇


 紹介の場。

 白いヴェールをかぶった少女が、春の光に立っていた。

 リリアン。清らかな瞳。頬の肉付きは少なく、手首は痛々しいほど細い。

 彼女を見ると、光の尾は一斉にざわめいた。囁きはまだ善意の形を保っている。“可愛い”“守りたい”。

 けれど、善意は、すぐに装飾と誇大に変わる。そこに、財布が絡めばなおのこと。

 セレスティアは壇上から一歩下がり、彼女の横に立つ聖堂広報の男に笑顔を向けた。

「すばらしい日ですね。ひとつお願いがあるのですが」

「なんでしょう、オズボーン嬢」

「リリアン様の“奇跡”について、検証可能な形で共有しませんか。医学的な介入があったか、何人が関与したか、寄付の流れがどこに繋がるか。小冊子にして、広く配るのです」

 男の頬が引きつり、光の尾が黒く濁る。

「奇跡に検証は不要です」

「では、“奇跡”ではなく“事実”として。事実は、いつでも検証を求められます。リリアン様の清らかさを守るためにも」

 リリアン本人が、かすかにこちらを見る。怯えと安堵が混じった目。

 セレスティアは軽く会釈して言葉を足した。

「そうだ、学園新聞に検証欄を新設しました。そちらで紙面を——」

 そこまで言ったとき、背後から低い声がした。

「学内規程の改定案は受理済みだ。公開の断罪劇は禁止される」

 ルシアン・ヴァルハイトが、柱の影からまっすぐに出てきた。

 光の尾が、ぱちぱちと弾ける。

 群衆の視線が、初めてゆっくりと、セレスティアから彼へ、彼からセレスティアへと往復した。

 “監察卿が女と並んでいる”。

 “学園新聞が検証欄を作った”。

 “断罪劇が禁止された”。

 尾の太さが、別の方向へと移りはじめる。

 セレスティアの胸の内に、小さく火が灯った。冷たい火。芯の温度だけを上げる類の火。


(間に合う。間に合うわ)


     ◇


 その夜。

 セレスティアは、城壁内の印刷工房の灯りを背に、路地の外れで空を仰いだ。春の夜気は薄く冷たく、息を吐くと、白い紐が空へ伸びた。

 工房の扉が軋み、見習いの少年が顔を出す。指先はインクで黒い。

「嬢ちゃん、できたよ」

「ありがとう、ルー。……手、洗って、クッキーを一枚。糖分は働き者の燃料よ」

 笑い合う。焼きたてのハーブクッキーの匂いが、紙とインクの匂いに混じって、路地まで広がった。

 束ねた小冊子を抱えて、セレスティアは振り向く。

 路地の入口に、黒い外套が立っていた。

 ルシアン・ヴァルハイト。

 彼は工房の灯りの境目に立ち、輪郭の半分だけが夜に溶けている。

「遅い時間に失礼する」

「監察卿は夜行性?」

「仕事が終わるのはたいてい夜だ」

「なら、体に悪い。あたたかいミルクティーでも」

 彼は小さくうなずき、工房の扉の内側に身を寄せた。見習いの子どもたちが、巨大な狼が来たみたいに、目をまん丸にして見上げる。

「恐れる必要はない」

「こわくないよ!」

 ルシアンは不器用に口角を下げ、表情を整え直した。

「……学園新聞の初号、拝見した。検証欄は効く」

「退屈でしょう?」

「退屈は治安の友だ」

 ふっと、笑ってしまう。

 ルシアンは紙束を受け取り、表紙を撫でた。

『祈りの透明化』。

「君は、生活の温度を落とさずに、刃物を差し込む」

「褒め言葉?」

「評価だ」

「じゃあ、わたしからも評価。あなたは、無口なのに言葉が正確」

 彼は、答えない。

 沈黙は不快でなく、むしろ、こちらの呼吸の長さを均してくれる。

 ミルクティーの湯気が、黒い外套の襟に白く沿って上がった。


「……聞きたいことがある」

「なに?」

「“一度だけ”とは、どういう意味だ」

 懐中時計の金文字。彼は、見たのだ。

 セレスティアは湯気に視界を曇らせ、静かに言った。

「そのままの意味よ。世界は、そう親切ではない」

「巻き戻りは一度だけ。君は、それを私に伝えることを選んだ」

「あなたは——前の世界線で、処刑台にいた」

 灰色の瞳が、ごく短く震えた。

「……いた」

「あなたは無表情だった。でも、胸の前で指が動いた。何度も、何かを数えていた」

「数えていたのは、私が動ける手順だ。最後まで何も思いつかなかった」

 彼の声の底に、微量の砂鉄が混じる。

 セレスティアは不思議なほど穏やかに頷いた。

「じゃあ、今度は、思いつく番ね」

「思いつけると保証できるのは、君がいることだけだ」

 その言い方は危険だった。心が、ひとつ、前に出る。

 セレスティアはすぐに、一歩引いた。

「恋は最後。今は制度」

「君は現実的だ」

「現実に甘いものを添えるのが、わたしの趣味」

 見習いの子が、焼き菓子の皿を二人の間に差し込む。「どうぞ」。

 笑って、受け取る。

 やり直すという言葉が、今夜の甘さに溶けて、ほぐれた筋肉に沁みこむ。


     ◇


 翌朝の学園は、平穏を装った騒ぎに満ちていた。

 セレスティアが配る小冊子は、最初こそ嘲笑を受けたが、昼休みになる前に、一部の教師が熱心に読み込んで、赤鉛筆で線を引き始める。

 聖堂広報は、露骨に不機嫌だった。

「このような冊子は誤解を招く。寄付は信仰の自由だ」

「自由には、説明の自由も付随します」

 囁きの尾は、きのうよりも太い。それでもなお、燃え上がりはしない。湿り気がある。

 ルシアンは表に出ない。けれど、紙の水印に手を入れてくれたのは彼だ。教会専用紙であることを、すぐに誰でも見抜けるように。

 準備は整った。

 まもなく、王太子主催の祝宴が開かれる。

 前の世界線では、ここで断罪台本が読み上げられ、群衆が熱狂し、わたしのドレスは裂かれた。

 今回は——台本を、先に読む。


     ◇


 祝宴の朝、セレスティアは黒檀の机に、薄紙をそっと置いた。

 宮廷詩人の部屋から抜き出された、寸分たがわぬ断罪台本。抜き出したのは彼女ではない。差し出したのは詩人本人だ。

 詩人は震えていた。

「わたしは、注文を受けただけだ。断罪劇の台詞。聖堂の書記官が……」

「名前はあとでいいわ。紙だけで充分よ」

 セレスティアは台本を学園新聞の編集部に持ち込む。

「号外を出すわ。昼の祝宴に間に合わせて。題は——」

 彼女は一呼吸置いて、ペン先で音を確かめるように紙に触れた。

「『きょう、この場で起きる予定だったこと』」

 編集部の空気が、いたずらを前にした少年のそれに変わる。

 インクの匂いが濃密になり、活字が箱からあふれる。

 印刷工房は総動員。見習いの子たちが目を輝かせる。

「嬢ちゃん、走る準備できてるよ!」

「走りすぎないで。転ぶと紙が濡れる」

 セレスティアは裾をさばき、号外の束を慎重に抱える。

 扉の向こうに、灰色の瞳があった。

「遅れるな」

「遅れない」

 ルシアンと並んで歩幅を合わせる。

 “監察卿は女嫌い”の尾が、そこでひとつ細った。代わりに、別の尾が太る。

 “監察卿は仕事を選ぶ”。

 “オズボーン嬢は、証拠で語る”。

 新しい線は、燃えにくい。燃やすのに、手間がかかる。

 それがいい。


     ◇


 王宮の大広間。光は贅沢に設計され、シャンデリアは雨粒の記憶を宝石に変えて、天井に貼り付けている。

 祝宴の主は王太子エドモンド。

 セレスティアは定位置に立ち、王太子の目線を一度だけ受けた。冷たい宝石は相変わらず、何も映していない。

 司会の侍従が、杯を掲げる。

 その前に、紙が配られた。

 号外。

 ざわめき。

 紙面の中央、太い活字が躍る。


きょう、この場で起きる予定だったこと

——断罪劇の台本全文公開


 王太子の指が紙の角を掴み、白くなった。侍従が狼狽のあまり、杯を傾けて酒をこぼす。

 聖堂広報は「偽造だ!」と叫ぶが、紙面の隅に仕込まれた水印——教会専用紙の印——が、灯りを受けて浮かび上がると、その声は途中で折れた。

 群衆の視線が、ゆっくりと反転する。

 断罪されるはずの女ではなく、断罪を演出した側へ。


 セレスティアは、ふっと浅い礼をした。

「殿下、わたくしは本日、婚約の再協議を正式にお求めいたします。王国法第五章に基づき、書面にて」

 王太子は言葉を探し、見つけられず、唇の動きだけが空気を攪拌した。

 壇の脇で、学院長と監察卿が並ぶ。

 監察卿——ルシアンは、構わず短く告げた。

「学内保護措置を発動する。オズボーン嬢の身柄は保護下に置かれる」

 声は低く、刃ではなく楔だった。

 楔が、広間の床に打ち込まれて、全員の足首の位置を固定する。逃げられない。

 祝宴は続けられない。

 螺子は逆回転を始めた。


 セレスティアの中で、糸巻きの音がした。

 光の尾は、初めて太さを失い、霧になってほどけていく。

 噂の線は、透明にされると、ただの線へ戻る。線は、歩く方向を示す為にこそ使える。


 彼女は、ゆっくりと息を吐いた。

 処刑台の雨は、もう降っていない。

 足枷の冷たさは、もう足首にない。

 かわりに、手のひらに、紙の温度がある。インクの匂いと、焼き菓子の甘い残り香がある。


(やり直せる。わたしは——やり直している)


 ふと、横を見た。

 ルシアンが、ほんのわずかに顎を引いて、こちらを見た。

 灰色の瞳の底に、極小の光点。

 それは、誰かが誰かを信じようとするときに滲む、ほとんど無色の火だった。


「……ありがとう、監察卿」

「礼は結果に」

「結果は、ここから」

「なら、私は夜に強い」


 返しがずるい、とセレスティアは思った。笑ってしまう。

 祝宴のざわめきは、もう祝宴ではない別の何かに変わっていた。

 紙は、剣よりも重い。

 剣よりも、長く残る。

 そして、紙は、暮らしの中にある。


 セレスティアは指先で懐中時計の蓋を閉じた。

 ——一度だけ。

 金文字の冷たさは変わらない。それでも、意味は少しだけ軽くなっていた。

 一度だけでも、十分だ。

 一度があれば、次の一度を、自分の手でつくれる。


 群衆の向こうで、白いヴェールの少女がこちらを見ていた。

 リリアン。

 彼女の目の中にも、小さな光があった。

 それは“奇跡の光”ではなく、ただの——人の目が持つ、あたたかさの光だった。


 世界は、残酷で、不親切だ。

 けれど、紙はぬくい。

 ミルクティーも、焼き菓子も、ぬくい。

 そして、誰かの手が、隣で同じ温度を持つなら——


(恋は、最後でいい)

(そのための暮らしを、先に整える)


 セレスティアは、紙束を胸に抱き、真っ直ぐに一歩踏み出した。

 光の尾は、もう彼女の前ではなく、隣に走っていた。

 その並走の感触が、何よりも頼もしかった。


——第1話・了——

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ