第1話 処刑台から、ただ一度だけ戻る
雨は、処刑台の階段を一本ずつ磨くように落ちていた。濡れた石の匂いが鼻腔を刺し、群衆の吐息は白く重なって、低い嗤いの霧になってひろがる。
セレスティア・オズボーンは膝をつかされ、鉄の足枷が石に触れて鳴った澄んだ音に、ふっと笑いそうになる。奇麗な音だった。最後に聴く音がこれなのだと思うと、やけに筋が通っている気がした。
「偽りの聖女に対する嫉妬と、毒殺未遂。罪状は二つ。王太子殿下の御前において断罪とする」
儀礼的な宣言。読み上げる侍従の声は湿っていて、言葉の端は雨に溶けた。
近くで、ドレスの裾が擦れる音。金糸の刺繍。セレスティアの婚約者だった男——王太子エドモンドが、形だけの視線を落とした。瞳は曇った宝石のように滑り、何も見ていない。
(ええ、もういいの。あなたが見なくても)
静かなやさしさで、自分に向けてうなずく。胸の痛みはとっくに擦り切れて、今はただ、空虚の底に薄い膜が張っているだけだ。
群衆のざわめきが高まる。石畳にかかる布がめくれ、刃が見える。
その瞬間——視界の片隅に、細い光が走った。
光る尾。
囁きが——ひとつの単語が——線になって、石畳の隙間を滑っていく。線は角を曲がり、露店の葡萄酒樽をくるりと回って、新聞売りの少年の靴先に触れ、そこからまた別の線に分岐した。
“彼女は王子を誘惑している”という囁き。
“聖女の杯に粉を落とすところを見た”という囁き。
“やっぱりな、あの瞳つき”という囁き。
光る尾は絡まり、結び目をつくり、次の路地へ、教会の掲示板へ、宮廷の廊下へと伸びていく。
それは、噂の流れだった。
誰が最初に言ったのか、誰が増幅させたのか、誰が沈黙で賛成したのか——すべて、光の線の密度と方向で分かる。
セレスティアは息を呑み、気付いた。わたしは今、見えている。
(これは——わたしの力? いつから?)
刃が上がる。雨粒が刃先で二つに割れて、白い線になって落ちる。群衆の声は波になって押し寄せる。
光る尾の束が、最後、王太子の耳へと吸い込まれていくのが見えた。
ああ、そうか。
ここまでの道筋のすべてが、一本の線にまとめられて、わたしの首筋へ落ちてくるのだ。
なら、逆に辿ればいい。拾い直せばいい。
セレスティアは瞬きをした。
世界が、反転した。
◇
最初に聞こえたのは、壁掛け時計のぜんまいが刻む乾いた音。
次に、ストーブの火が細く唸る音。
そして、窓を叩く春の雨。
硬い寝台の感触に肩を起こすと、自分の部屋の薄青い天蓋が見えた。子どものころから馴れ親しんだ、見慣れた布の淡い褪色。
息を吸い込むと、胸が冷たくなる。なぜなら——壁のカレンダーが、三年前の春を示していたからだ。
ドレッサーの上に置いた懐中時計が、蓋を開けて待っていた。銀の内蓋に、見たことのない金文字が刻み込まれている。
——一度だけ。
乾いた笑いが喉から零れた。
「……ずいぶん、欲張らせないのね」
指の腹で金文字をなぞる。刻印は浅くない。誰かが焦って掘った雑さは無く、精密に、まるで誓いのように刻まれている。
座ったまま、両足の裏に力を入れて立った。足は震えない。処刑台の石の冷たさは消えて、代わりに、故郷の床材の温かさが戻ってきていた。
(戻ってきた。三年前。王立学園の入学式の、前夜)
皮肉に唇が歪む。ここからすべてが始まった。
“聖女候補”の転入。学園新聞の扇情的な見出し。王太子の、意地の悪い微笑。
そして、断罪劇。
セレスティアは鏡の前に立ち、頬に触れた。青白さは以前より抜けている。不思議と、目の奥に硬さが宿っていた。
(やり直す。今度は、噂の尾を——わたしが掴む)
◇
翌朝、馬車の窓から王都の石畳を眺めた。雨は上がり、洗われた街は色を取り戻している。
王立学園の門柱は古い。白い石に蔓の彫刻。春の芽が、石の隙間を探すように顔を出していた。
「セレスティア様、お噂はお聞きですか?」
侍女のエヴァが、紅茶色の瞳を丸くする。彼女はいつも、善意の伝書鳩だ。
「どの噂?」
「きょう、特別な転入生がいらっしゃるそうです。“聖女候補”だとか。学院長の知己を通じて——」
セレスティアはうなずいた。光の尾が、視界の隅で細く震える。まだ遠い。けれど確かに、学園のほうへと引かれている。
(来る。前と同じだ。でも、前とは違う道を歩く)
講堂。入学式。拍手。新任教師の挨拶。長い祝辞。
退屈は、人の心の芯を柔らかくして、噂が刺さりやすくする。セレスティアは式の途中で、すっと席を立った。外周通路。光の尾がそこへ走る。
誰かの囁きが石壁で反響して、薄い音の尾をひいていた。
「見た? 王子殿下の視線」
「オズボーン嬢には冷たかったわね」
「そりゃあ、“聖女”を前にすればね」
囁きの先に、背の高い少年と、肩に白いマントを掛けた青年がいた。
前者は宮廷詩人志望の上級生。後者は——
灰色の瞳が、一度だけこちらに向く。
ルシアン・ヴァルハイト。王国監察卿。若いのに、冷えた刃物のような雰囲気を纏っている。
彼はセレスティアが立ち止まる前に、言った。
「式は退屈だ。ここで呼吸を整えるのは合理的だ」
「監察卿が学園にいるのね。珍しい」
「珍しいことはよく起こる」
無駄のない会話。やり取りは短いのに、なぜだか全体がよく響く。
セレスティアは息を整え、正面から見返した。
「お目にかかれて光栄だわ、ヴァルハイト卿。……ひとつ、私からも珍しい報告を」
「聞こう」
「噂の尾が見えるの」
彼は一瞬、まばたきを忘れたように静止した。灰色の瞳が、極小に開いて、すぐに閉じる。
「具体的には?」
「言葉が生む線。誰が最初に言ったか、誰が増幅させたか、どこで太くなるか。今、講堂のなかで何本も走っている。『王子の視線』『聖女候補』『冷たい婚約者』。……あなたの背中にも一本」
「私の背中?」
「“監察卿は女嫌い”、という線。あなたが女性と並んで歩かない光景が、尾を太らせた」
ルシアンは口元を微かに引いた。笑ったのか、顔の筋肉が温まっただけなのか、判断がつかない。
「——報告は受理する。ただちに信じるわけではない」
「監察卿なら、それでいい。私は、証拠で語る」
光の尾が、ざわ、と講堂の方へ揺れた。
セレスティアは踵を返す。
今日は“聖女候補”の紹介がある。前の時間軸では、ここで最初の「芝居」が始まった。
焦らない。
まず、燃えない土台を敷く。
◇
最初の一手は、学園新聞だった。
編集部室は、紙とインクと若い息でむせ返る。窓際の机を手刀で区切るように借り、セレスティアは淡々と提案した。
「検証欄を新設しましょう。意見と事実の区別、出典、確認の段取り。紙面半分を、それに」
「紙面を半分も?」
「検証は退屈に見える。でも、一番役に立つのは退屈な働き者よ」
彼らは目を丸くし、やがて面白がった。新しい遊び道具を渡された子どもみたいに。
セレスティアは続ける。
「寄稿は私が当分やるわ。出典は開示する。反論が来たら同じ紙面で受ける。……それから、印刷工房に心当たりがあるの。紙質を変えるだけで、読まれ方が変わる」
工房の話になると、彼らの耳がさらに近づく。
工房は城壁内の路地にある小さな店だ。孤児院の見習いが数人、活字を拾い、インクを磨る。甘いハーブティーの香りをいつも焚いていて、手がインクで汚れた子どもたちが、鼻歌を歌いながら働く。
セレスティアはそこで、小冊子の試作も始めた。題は『祈りの透明化』。寄付金の使途、救済の実績、奇跡報告の検証——すべて、読めば分かる言葉で。
噂に火がつく前に、薪を湿らせておく。
それが一手目。
二手目は、学院長への提案だった。
セレスティアは執務室の扉を叩き、挨拶もそこそこに、一枚の紙を差し出す。
「名誉保全の誓約書。学内で行われる公開の場において、“個人の人格と名誉を損なう演出”を禁じる条項です。違反した場合の手続きも書いてあります」
学院長は眉を上げ、紙の端を指先で弾いた。
「だいぶ尖っておられる」
「学問の自由は、醜聞の自由ではありませんもの」
紙は早口に読み進められ、やがて机の引き出しにしまわれた。
「検討しよう。……君は、前より目が鋭くなった」
「目の前に、見えるものが増えましたので」
三手目は、王太子との距離。
公的な場では礼儀を尽くす。私的な接触は避ける。
取り巻きが道を塞ぎ、薄く笑う。
「オズボーン嬢、お忙しそうね。殿下がお呼びよ」
「では、公的な書面で頂戴するわ。私のほうでも、婚約の再協議についてお伺いを立てたところですから」
取り巻きの唇がひきつり、光の尾がわずかに痩せた。
尾は肥えたところに燃え移る。痩せた尾は、次の餌を探す。
次の餌は——聖女候補。
◇
紹介の場。
白いヴェールをかぶった少女が、春の光に立っていた。
リリアン。清らかな瞳。頬の肉付きは少なく、手首は痛々しいほど細い。
彼女を見ると、光の尾は一斉にざわめいた。囁きはまだ善意の形を保っている。“可愛い”“守りたい”。
けれど、善意は、すぐに装飾と誇大に変わる。そこに、財布が絡めばなおのこと。
セレスティアは壇上から一歩下がり、彼女の横に立つ聖堂広報の男に笑顔を向けた。
「すばらしい日ですね。ひとつお願いがあるのですが」
「なんでしょう、オズボーン嬢」
「リリアン様の“奇跡”について、検証可能な形で共有しませんか。医学的な介入があったか、何人が関与したか、寄付の流れがどこに繋がるか。小冊子にして、広く配るのです」
男の頬が引きつり、光の尾が黒く濁る。
「奇跡に検証は不要です」
「では、“奇跡”ではなく“事実”として。事実は、いつでも検証を求められます。リリアン様の清らかさを守るためにも」
リリアン本人が、かすかにこちらを見る。怯えと安堵が混じった目。
セレスティアは軽く会釈して言葉を足した。
「そうだ、学園新聞に検証欄を新設しました。そちらで紙面を——」
そこまで言ったとき、背後から低い声がした。
「学内規程の改定案は受理済みだ。公開の断罪劇は禁止される」
ルシアン・ヴァルハイトが、柱の影からまっすぐに出てきた。
光の尾が、ぱちぱちと弾ける。
群衆の視線が、初めてゆっくりと、セレスティアから彼へ、彼からセレスティアへと往復した。
“監察卿が女と並んでいる”。
“学園新聞が検証欄を作った”。
“断罪劇が禁止された”。
尾の太さが、別の方向へと移りはじめる。
セレスティアの胸の内に、小さく火が灯った。冷たい火。芯の温度だけを上げる類の火。
(間に合う。間に合うわ)
◇
その夜。
セレスティアは、城壁内の印刷工房の灯りを背に、路地の外れで空を仰いだ。春の夜気は薄く冷たく、息を吐くと、白い紐が空へ伸びた。
工房の扉が軋み、見習いの少年が顔を出す。指先はインクで黒い。
「嬢ちゃん、できたよ」
「ありがとう、ルー。……手、洗って、クッキーを一枚。糖分は働き者の燃料よ」
笑い合う。焼きたてのハーブクッキーの匂いが、紙とインクの匂いに混じって、路地まで広がった。
束ねた小冊子を抱えて、セレスティアは振り向く。
路地の入口に、黒い外套が立っていた。
ルシアン・ヴァルハイト。
彼は工房の灯りの境目に立ち、輪郭の半分だけが夜に溶けている。
「遅い時間に失礼する」
「監察卿は夜行性?」
「仕事が終わるのはたいてい夜だ」
「なら、体に悪い。あたたかいミルクティーでも」
彼は小さくうなずき、工房の扉の内側に身を寄せた。見習いの子どもたちが、巨大な狼が来たみたいに、目をまん丸にして見上げる。
「恐れる必要はない」
「こわくないよ!」
ルシアンは不器用に口角を下げ、表情を整え直した。
「……学園新聞の初号、拝見した。検証欄は効く」
「退屈でしょう?」
「退屈は治安の友だ」
ふっと、笑ってしまう。
ルシアンは紙束を受け取り、表紙を撫でた。
『祈りの透明化』。
「君は、生活の温度を落とさずに、刃物を差し込む」
「褒め言葉?」
「評価だ」
「じゃあ、わたしからも評価。あなたは、無口なのに言葉が正確」
彼は、答えない。
沈黙は不快でなく、むしろ、こちらの呼吸の長さを均してくれる。
ミルクティーの湯気が、黒い外套の襟に白く沿って上がった。
「……聞きたいことがある」
「なに?」
「“一度だけ”とは、どういう意味だ」
懐中時計の金文字。彼は、見たのだ。
セレスティアは湯気に視界を曇らせ、静かに言った。
「そのままの意味よ。世界は、そう親切ではない」
「巻き戻りは一度だけ。君は、それを私に伝えることを選んだ」
「あなたは——前の世界線で、処刑台にいた」
灰色の瞳が、ごく短く震えた。
「……いた」
「あなたは無表情だった。でも、胸の前で指が動いた。何度も、何かを数えていた」
「数えていたのは、私が動ける手順だ。最後まで何も思いつかなかった」
彼の声の底に、微量の砂鉄が混じる。
セレスティアは不思議なほど穏やかに頷いた。
「じゃあ、今度は、思いつく番ね」
「思いつけると保証できるのは、君がいることだけだ」
その言い方は危険だった。心が、ひとつ、前に出る。
セレスティアはすぐに、一歩引いた。
「恋は最後。今は制度」
「君は現実的だ」
「現実に甘いものを添えるのが、わたしの趣味」
見習いの子が、焼き菓子の皿を二人の間に差し込む。「どうぞ」。
笑って、受け取る。
やり直すという言葉が、今夜の甘さに溶けて、ほぐれた筋肉に沁みこむ。
◇
翌朝の学園は、平穏を装った騒ぎに満ちていた。
セレスティアが配る小冊子は、最初こそ嘲笑を受けたが、昼休みになる前に、一部の教師が熱心に読み込んで、赤鉛筆で線を引き始める。
聖堂広報は、露骨に不機嫌だった。
「このような冊子は誤解を招く。寄付は信仰の自由だ」
「自由には、説明の自由も付随します」
囁きの尾は、きのうよりも太い。それでもなお、燃え上がりはしない。湿り気がある。
ルシアンは表に出ない。けれど、紙の水印に手を入れてくれたのは彼だ。教会専用紙であることを、すぐに誰でも見抜けるように。
準備は整った。
まもなく、王太子主催の祝宴が開かれる。
前の世界線では、ここで断罪台本が読み上げられ、群衆が熱狂し、わたしのドレスは裂かれた。
今回は——台本を、先に読む。
◇
祝宴の朝、セレスティアは黒檀の机に、薄紙をそっと置いた。
宮廷詩人の部屋から抜き出された、寸分たがわぬ断罪台本。抜き出したのは彼女ではない。差し出したのは詩人本人だ。
詩人は震えていた。
「わたしは、注文を受けただけだ。断罪劇の台詞。聖堂の書記官が……」
「名前はあとでいいわ。紙だけで充分よ」
セレスティアは台本を学園新聞の編集部に持ち込む。
「号外を出すわ。昼の祝宴に間に合わせて。題は——」
彼女は一呼吸置いて、ペン先で音を確かめるように紙に触れた。
「『きょう、この場で起きる予定だったこと』」
編集部の空気が、いたずらを前にした少年のそれに変わる。
インクの匂いが濃密になり、活字が箱からあふれる。
印刷工房は総動員。見習いの子たちが目を輝かせる。
「嬢ちゃん、走る準備できてるよ!」
「走りすぎないで。転ぶと紙が濡れる」
セレスティアは裾をさばき、号外の束を慎重に抱える。
扉の向こうに、灰色の瞳があった。
「遅れるな」
「遅れない」
ルシアンと並んで歩幅を合わせる。
“監察卿は女嫌い”の尾が、そこでひとつ細った。代わりに、別の尾が太る。
“監察卿は仕事を選ぶ”。
“オズボーン嬢は、証拠で語る”。
新しい線は、燃えにくい。燃やすのに、手間がかかる。
それがいい。
◇
王宮の大広間。光は贅沢に設計され、シャンデリアは雨粒の記憶を宝石に変えて、天井に貼り付けている。
祝宴の主は王太子エドモンド。
セレスティアは定位置に立ち、王太子の目線を一度だけ受けた。冷たい宝石は相変わらず、何も映していない。
司会の侍従が、杯を掲げる。
その前に、紙が配られた。
号外。
ざわめき。
紙面の中央、太い活字が躍る。
きょう、この場で起きる予定だったこと
——断罪劇の台本全文公開
王太子の指が紙の角を掴み、白くなった。侍従が狼狽のあまり、杯を傾けて酒をこぼす。
聖堂広報は「偽造だ!」と叫ぶが、紙面の隅に仕込まれた水印——教会専用紙の印——が、灯りを受けて浮かび上がると、その声は途中で折れた。
群衆の視線が、ゆっくりと反転する。
断罪されるはずの女ではなく、断罪を演出した側へ。
セレスティアは、ふっと浅い礼をした。
「殿下、わたくしは本日、婚約の再協議を正式にお求めいたします。王国法第五章に基づき、書面にて」
王太子は言葉を探し、見つけられず、唇の動きだけが空気を攪拌した。
壇の脇で、学院長と監察卿が並ぶ。
監察卿——ルシアンは、構わず短く告げた。
「学内保護措置を発動する。オズボーン嬢の身柄は保護下に置かれる」
声は低く、刃ではなく楔だった。
楔が、広間の床に打ち込まれて、全員の足首の位置を固定する。逃げられない。
祝宴は続けられない。
螺子は逆回転を始めた。
セレスティアの中で、糸巻きの音がした。
光の尾は、初めて太さを失い、霧になってほどけていく。
噂の線は、透明にされると、ただの線へ戻る。線は、歩く方向を示す為にこそ使える。
彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
処刑台の雨は、もう降っていない。
足枷の冷たさは、もう足首にない。
かわりに、手のひらに、紙の温度がある。インクの匂いと、焼き菓子の甘い残り香がある。
(やり直せる。わたしは——やり直している)
ふと、横を見た。
ルシアンが、ほんのわずかに顎を引いて、こちらを見た。
灰色の瞳の底に、極小の光点。
それは、誰かが誰かを信じようとするときに滲む、ほとんど無色の火だった。
「……ありがとう、監察卿」
「礼は結果に」
「結果は、ここから」
「なら、私は夜に強い」
返しがずるい、とセレスティアは思った。笑ってしまう。
祝宴のざわめきは、もう祝宴ではない別の何かに変わっていた。
紙は、剣よりも重い。
剣よりも、長く残る。
そして、紙は、暮らしの中にある。
セレスティアは指先で懐中時計の蓋を閉じた。
——一度だけ。
金文字の冷たさは変わらない。それでも、意味は少しだけ軽くなっていた。
一度だけでも、十分だ。
一度があれば、次の一度を、自分の手でつくれる。
群衆の向こうで、白いヴェールの少女がこちらを見ていた。
リリアン。
彼女の目の中にも、小さな光があった。
それは“奇跡の光”ではなく、ただの——人の目が持つ、あたたかさの光だった。
世界は、残酷で、不親切だ。
けれど、紙はぬくい。
ミルクティーも、焼き菓子も、ぬくい。
そして、誰かの手が、隣で同じ温度を持つなら——
(恋は、最後でいい)
(そのための暮らしを、先に整える)
セレスティアは、紙束を胸に抱き、真っ直ぐに一歩踏み出した。
光の尾は、もう彼女の前ではなく、隣に走っていた。
その並走の感触が、何よりも頼もしかった。
——第1話・了——