恋する死神 01
001
助けて・・・助けて・・・助けて、助けて助けて助けて助けて・・・・・・。
少女は漠然とした焦燥感に急き立てられるように真っ暗な空間を、当ても無く走っていた。
何に追われているのか分からないが、何かが迫って来るのがはっきりと感じられる。
幼いときに野良犬に追われたときのような恐怖と、逃げられないという諦めに近い感情が交互に波のように押し寄せる。
もう、止まってしまおうか。
そう思ったとき、目の前に人の姿が見えた。
まるで黒い霧が掛かったようで、その人物が男性ということ意外は判別できない。
その人影が、ゆっくりと手を差し出す。
少女はその手を握ろうとした。
だが、触れそうになった瞬間、差し出された手に躊躇うように男性の掌が軽く閉じられた。
少女は差し出した手をどうすることも出来ずに、ただ呆然と霧に隠れた男性を見上げる。
追ってきていた『何か』の気配は無くなっていた。
しかし、少女は安堵よりも霧の奥の男性に拒否された事に感情を奪われていた。
少女が呆然としていると、男性の手がゆっくりとした動きで前方を指差した。
そこに今まで見られなかった微かな光が見えた。
少女が再び男性に視線を動かしたが、男性は消えていた。
†† †† †† †† †† †† †† ††
どうなったら朝食の席に死神が同席するということになるのか。
という、考えても仕方のないことに思考を廻らせてた小夜子は、口に含んだ珈琲の苦さに顔を顰めた。
「朝から小夜子の百面相が見られるなんて、今日はいいことがありそうですね」
相変わらずの青白い肌色に狐目のヴァルネが口角を上げてニッコリと微笑む。
「朝から死神と朝食なんて・・・最悪だ」
「朝から死神会う以上の不幸はそうそうありませんから、これからいいことがありますよ?」
そう返されて、小夜子が思わず目を見開いて「あぁ」と納得すると、ヴァルネがが嬉しそうに孝明に声を掛けた。
「あなたの妹はすばらしく素直ですね」
「手塩にかけて育てた妹だからね。ちょっかい出すと消滅させちゃうよ?」
フレンチトーストの皿を運びながら満面の笑顔で釘を刺す。
柔らかな癖毛を起きたままの状態で放置し、寝ているのか起きているのか、寝ぼけているのか判別しにくい、締りの無い笑顔だが、手足は世話しなく動きヴァルネと小夜子の朝食を整えていく。
「それは恐ろしい。しかし私は本気で小夜子に好意を抱いていますから、孝明は馬に蹴られてお亡くなりになるのがよろしいかと存じますよ?」
孝明が笑顔を崩さずヴァルネの分と思わしきフレンチトーストの皿をキッチンへ戻してしまった。
その様子を見て、ヴァルネは更に嬉しそうに(満足そうに?)更に口角を上げた笑みを浮かべた。
(絶対マゾだ。死神がマゾってどうかと思うけど・・・)
ヴァルネは掛け値なしの本物の死神だ。
鎌を持っているわけでも、黒いローブを纏っているわけでも、蝋燭を吹き消すわけでも、ベッドの足元に立つわけでもないが本物の死神だ。
魂を『狩る』というよりは、『連れ去っていく』という方が近い。
細身の漆黒のスーツに身を包み、ネクタイではなく細いベルベットのタイをリボン結びにして、揃いのリボンで背中まで伸びた艶やかな黒髪を結わえている。
肌は陶器のように滑らかだが、顔色は悪く青白い。
健康に問題があるのではなく、この顔色が普通なのだそうだ。
そしてある意味印象的な狐のような切れ長の眼。
殆ど閉じていて、彼の瞳の色がルビーのような深紅であることを忘れてしまいそうだ。
手には白い手袋、袖には銀のカフスが輝き、当たり前のように八幡家の紅茶カップを手にしている。
いつの頃からか、八幡家に出入りして、嘘か誠か小夜子に惚れただの腫れただのと口にしている。
小夜子が孝明お手製のフレンチトーストに齧り付いていると、孝明が新聞と一緒に真っ白な封筒を持ってきた。
表と裏を何度も確認している。
「小夜子、蝋封された宛名のない手紙に心当たりある?」
小夜子が首を振る正面でヴァルネがカップに口をつけたまま挙手した。
「・・・どうしてヴァルネ宛ての手紙がウチに配達されるんでしょう?」
手紙を渡しながら孝明が至極もっともな質問を投げかけると、ヴァルネが封を切って手紙を読み出した。
「私は住所不定なので、こちらを連絡先にさせていただいています」
「いつから・・・」
「先週からです」
「そういうのって、一言あって然るべきだと思うんですけど。・・・というか、死神も住所が必要なんだ・・・」
小夜子が口の中のものを珈琲で流し込んでから意見を述べると、珍しくヴァルネの眼が微かにだが開いた。
「将来の新居に住所変更しただけですよ?」
孝明は手にしていた新聞の束でヴァルネの頭を叩いた。
手紙を読み終えると、ヴァルネが軽く顎をつまんだまま動かなくなってしまった。
表情に変化が見えないので、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、はたまた悩んでいるのか分からないが、小夜子は腕時計で時間を確認すると、鞄を手にして立ち上がった。
ポニーテールの髪を元気良く振り回し、紺色のブレザーを指に引っ掛けて玄関へ向かう。
「兄さん、ヴァルネさん、学校行って来ます」
「行ってらっしゃい」
孝明が手を振って見送ると、ヴァルネが徐に立ち上がり小夜子の後を追って玄関へ向かった。
「孝明、私は学校まで同行させていただきます」
と、丁寧なお辞儀をしてみせる。
「こらこら、それってストーカーでしょ?」
孝明がヴァルネの襟首を引っ掴むと、ヴァルネが先ほどの手紙を指に挟んで、つと孝明の耳に口を寄せて何かを呟いた。
孝明は一瞬、息を呑むように顎を引いてから、手を離した。
「変なちょっかい出すなよ」
「心得ております。大事な未来の花嫁ですから」
「それが心配の種なんですけどね」
「将来の兄君はご冗談がお好きなようですね」
見ようによっては何かを企んでいるとしか思えない悪い笑顔が返ってきた。
孝明は頭の中に『俺の目の黒いうちは許さん』『俺を倒してからにしろ!』という言葉が浮かんだが、眼の色を変えられたり(黄色とかピンクに)、魂を抜かれたりしそうなので黙って見送ることにしたのだった。
「ヴァルネさんが朝から外に出るなんて、珍しい」
小夜子が斜め後ろを歩いているのヴァルネの顔を見上げると、狐目が少し開いた。
「小夜子とのひと時のためなら、いつでもどこでもご一緒させていただきますよ?」
「で、誰に用事なんですか?」
その言葉は聞こえなかったことにされたのか、小夜子が淡々と質問した。
ヴァルネは苦笑しつつ、何も無かった掌をクルリと舞わして手紙を出現させた。
「これに興味深いことが書かれていまして、少し下調べを・・・」
小夜子は手紙を一瞥すると、聞いても良いですか?という表情を浮かべて、思い切って尋ねてみた。
「興味深いことって?」
ヴァルネはその表情を堪能するように鑑賞してから「まだ仕事になるかどうかは分かりませんよ?」と、付け加えて封筒から出した手紙を開いた。
「要は恋愛相談です」
「レンアイソウダン?!!」
思わず素っ頓狂な声を出した小夜子は、慌てて口を噤んだ。
ヴァルネに恋愛相談なんて・・・なんて勇気のある人物だろう・・・。
「はい、私も初めての相談で少々困ってしまって。それで赤面症の悪魔に会いに行こうかと・・・」
ヴァルネの口から零れ出た言葉に、小夜子は前方を向いたままで眉を顰めた。
「管理人さんに?」
確か管理員はヴァルネのことを出来る限り避けていたように思うのだが・・・。
しかも、ヴァルネと管理人と恋愛相談とは小夜子の頭の中では繋がらない。
浅黒い肌の純朴そうな青年の姿をした管理人を思い浮かべ、『興味』と『申し訳ない』という気持ちを天秤にかけると、小夜子の足は浮き足立ってきた。
(管理人さんごめんなさい・・・。興味が勝っちゃいました!)
「ええ、ご一緒されますか?」
見透かしたように頭上から声が降ってくる。
しかし、ここのところ久しく顔を合わしていない知人に会いたいのは山々だったが、
「学校がありますから・・・」
と、鞄を少し持ち上げて見せた。
すると、ヴァルネが不気味な(嬉しそうな?)笑みを浮かべた。
「いやはや、私は小夜子の可愛らしさに卒倒しそうですよ」
この死神は何を言い出すんだと、小夜子は少し距離を取りながら逃げ腰になると、ヴァルネが小夜子の耳に囁きかけた。
「今日は祝日ですよ?」
「・・・・・・・・・な?!や、嘘!」
「喜ばしいコトながら本当ですよ?周りに学生の姿もお勤めの方の姿も見当たりませんね」
背筋を伸ばしながら、満足そうに周りを見渡す。
小夜子は顔を真っ赤にしながら抗議の声を上げた。
「もっと早く教えてくれれば良かったのに!!」
祝日なのを忘れて制服姿で登校しかけてる。
その姿に顔をから火が出そうだ。あまりに間抜けすぎる。
八つ当たり(とも言い切れないが・・・)と分かっていても当たらずに居られない。
「小夜子の制服姿や今のような狼狽する姿が見たかったもので・・・」
両手を握って背伸びするように抗議する小夜子に、満足げな顔で首を傾げてみせる。
(そうだ、この人死神だった・・・悪魔よりも性質の悪い死神だった)
「行きます。こうなったらどこだって行きます!」
「嬉しい限りです」
小夜子は思い切り歯をむき出して「イーーーー!!」と威嚇して見せた。