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アリアドネの柩  作者: 冬
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000章




「小夜子、気をつけて」

「うん、いってくるね」


 少女は小学校屋上の金網の上で器用に座ってる小さな陰を見上げた。

 足元から吹いてくる風に髪が弄ばれる。

 3年前に廃校になった校舎は月明かり以外に光源も無く、その月明かりでさえ強風に流れる雲が覆い隠しそうだ。

 少女、八幡小夜子はグレーのパーカーに黒のスキニーデニムとスニーカー、ヒップバッグという格好で、手首と足首の柔軟を始めた。

 4階建ての校舎の4階のベランダに立ち、更に上の屋上を外壁から攻めようというのだ。

 小夜子はベランダの柵に上り、バランスを取りながら体に入った余計な力を抜く。

 膝を曲げ、力を溜めて大きくジャンプする。

 

ガシャン


 音と共に右手が金網を掴む。

「何とか成功・・・」

 一先ず大きく息を吐き出した。

「おめでとうございます。小夜子の身体能力はすばらしい」

 右腕に力を込めて、体を引き上げようとした瞬間、耳に生暖かい声が聞こえ、掴んでいた金網を放してしまった。

「うそっ」

 体が何も無い空間に放り出された次の瞬間、背中を抱きとめられた。

「思わず善良な私が出てしまいました。残念です、落ちて亡くなってくだされば威勢のいい魂を手に入れられたのに・・・」

「・・・・・・・・・・・・そもそも誰の仕事でしたっけ?」

 胡乱な目で声の主を見上げると、そこには月明かりの中でも仄かに浮かび上がる青白い肌と殆ど開いているところを見たことのない、細い目を持った青年の顔があった。

「多忙なもので申し訳ありません」

「もう少し早く登場してほしかったんですけど・・・」

「多忙なもので申し訳ありません」

 全くもって申し訳ないと思っていないような、不気味な笑顔で同じ言葉を繰り返す。

「・・・兎に角、屋上に降ろしてくださるかしら」

 皮肉を込めて丁寧に返したが、黒衣の青年はどこ吹く風で、緩やかに微笑むと小夜子を抱いたままで浮かび上がり、金網を超えて屋上に降り立った。

「小夜子には暗闇が良く似合う。特に小夜子の髪が闇に溶け込みそうなこんな夜に貴方と同じ空間に存在できることに感謝します」

「あーあーあー聞こえないー」

 小夜子は青年の戯言を耳を塞ぎながらやり過ごすと、先ほどの小さな影に視線を移した。

「あの子ですか?」

「ええ、満月にしか出てこない恥ずかしがり屋さんで」

「しかも純粋すぎて近寄れない?」

 青年はその言葉に肩を竦めた。

「仰るとおりです」

 小夜子は言葉を継ぎかけて、飲み込んだ。

 耳に微かに歌声が聞こえてきたのだ。

「子守唄?」

 その唄声はたどたどしく、早くなったり遅くなったりテンポが一定ではなく、お世辞にも上手だとはいえないが、小夜子も青年も視線が吸い寄せられたように同じ者を見詰めていた。

 それは小夜子が「あの子」と表現した少女の影だ。

 小夜子は青年に頷き掛けると、ゆっくりとした足取りで少女に近づいた。

 まだ夜風の冷たいこの季節に、真っ白いワンピース。

 ノースリーブの袖から出ている腕は柔らかな少女特有のまろやかなで華奢な曲線を描いている。

 足は裸足だが傷ひとつついていない。

 髪は緩いウェーブがかかり、しっとりと肩に下りている。

「こんばんは」

 金網に腰掛けて、足を外に向けてぶらぶらと揺らしていた少女は、歌うのをやめて小夜子を見下ろした。

「こんばんは」

「私、小夜子。あなたは?」

 小夜子は出来るだけ優しい声が出ていることを祈りながら話しかけた。

 少女は何かを見定めるように小夜子の瞳を食い入るように見ていたが、ふわっと笑顔になった。

「あたしはサユリ」

「何歳?」

「んーとね。あと3日で16歳だった」

 と言いながら不器用に3本の指を立ててみせる。

「15歳か。サユリちゃんはどうしてここにいるの?」

 そう尋ねると、サユリはは首をかしげた。

「どうしてだろうね?他に行くところがないからかな?」

「じゃぁ、どうして子守唄を唄ってるの?」

 サユリは小夜子が発した質問が、初めて見る難解な文字で、よくよく観察して理解しないと間違った答えを返したしまいそうだ、といった様子で、小夜子の顔ではなく唇を難しい表情で凝視した。

 そして、寄せていた眉をふっと離し、出掛けた言葉を飲み込むように、小さく口を閉じた。

「お母さんに・・・聞いて欲しいの」

 小夜子は金網につま先を引っ掛け、サユリが座っているすぐ横に身を乗り出した。

「お母さんは、まだ私の事が受け入れられないの。だからお母さんのそばにはいけない。

 でもね、お母さん、眠れなくなっちゃって、すごく痩せてる。だから、せめて私の出来ることをしてあげたい。

 少しでも嫌なことを忘れて寝られるように」

 サユリは顎を上げて、何も無い夜空を見上げた。

 小夜子は視線を上げずに、サユリの真っ白な骨ばった足を見詰めた。

「下手なんだけどね」

 すこし水っぽい声で、サユリはそう付け加えると、口を噤んだ。


 ふたりはぼんやりと空に浮かんだ満月を見ていた。

「小夜子さんは、魂回収人?」

 小夜子の顔のすぐそばにある腕が、一瞬引き攣るようになったのが分かった。

「うん、そんな感じ」

「お、お母さんが元気になるまで・・・ここにいたら駄目?」

 薄い、とても薄いガラスの玉を何かから守るように、体全体で覆い隠しながら、でも、壊れていないか怖々と確認するように、きっと壊れているけれど、見たくは無いけど確認しなければいけないから確認するように、サユリは震える声で小夜子に尋ねた。

 小夜子には懇願にも聞こえた。

「駄目だなんて、私には言えない。でも、サユリちゃんはこのままでどうするの?」

「でも、でも、お母さんが泣いてるの」


 そうだよね。と小夜子は思う。


 サユリは3年前に亡くなった少女の魂だ。


 家族が、友人が、親しい人が亡くなったことによって受けた傷が消えて無くなってしまう事は無い。

 どくどくと血が流れることはなくなっても、瘡蓋 (カサブタ)になることはあっても傷は消えない。

 そして、きっと事あるごとに傷口は開くことだろう。

 また血が溢れることもある。


 だけど、人は時間の中を生きている。

 いい事でもなく、悪い事でもなく、人は流れる時間の中を生きている。

 癒えることはなくても、乗り越えることは出来る。

 サユリが涙を流すお母さんのために子守唄を歌うのは、泣いて欲しくないから。

 サユリがそう思うのならば、願うのならば、お母さんもきっといつか泣きやんでくれる。

 サユリのことを思って微笑める日も来るかもしれない。


 このまま、サユリの気が済むまで唄わせてあげたい。

 でも、このままだとサユリの魂は爛れてしまう。

 爛れて、疲れて、擦れて擦り切れて、最後は自我がなくなり何のために誰のために歌っているのか忘れてしまう。

 そうなってしまうと、魂は彷徨い消滅してしまう。

 下手をすれば悪霊となってしまうこともある。

 そうなってしまうと、お母さんの笑顔を見ても、理解できない。


 それでも、このままこの母の近くに居たい。


 そう望むのならそれもひとつの道だ。

 だけど、サユリはそんなことを望んでいない。きっと。

 サユリはお母さんに悲しんで欲しくないだけ。


 小夜子は自分の思いを淡々と言葉にした。

 聞きたくないなら、聞かなくてもいい。

 これは私の勝手な思いだから。


「このまま、ずーっとお母さんの近くにいれるとは思ってないの。

 でも、この先お母さんが辛い時とか困ったときに何も出来なくても近くに居たい。

 私にはそれが悪いことだって思えない。

 あの世ってとこに行くことが正しいって理解できるけど・・・」

 

 でも、とサユリは俯く。


「サユリちゃんは気がついてるよね?自分が保てなくなってること。

 体だって動かしにくくなってるし、唄もうまく唄えないのはそのせいでしょ?

 だから霊的な力が増幅される満月の夜にしか出てこれない。

 このままだと消滅しちゃう。さっきも言ったみたいに自我がなくなっちゃう。

 もう、そのタイムリミットは多くない。

 今、ここ(お母さんの近く)から離れることは辛いし、心配だと思うけど、いつかお母さんがサユリちゃんが亡くなった事を受け入れられたら何時でも会いに行ける。近くに居れなくても、あの世で見守ることは出来るよ」

 ここに居続けることはサユリにとって幸せではない。


 サユリは金網に座ったまま、自分の膝を見詰めていた。

 まるで、そこに正解と不正解が難しい解説文と共に書かれているように。

 小夜子は口を挟むことも無く、ただ屋上から見える町並みを眺めていた。


 きっとこの町のどこかにサユリの家があるのだろう。


 ふと気がつくと、サユリが小夜子の顔を見ていた。

「・・・小夜子さん、私、お母さんに何もしてあげられないね。悲しませるだけで何も出来なかった。

 無くなってから気がつくことがあるって、こういうことなんだね。

 私、お母さんに何も返してない。

 色々言ったけど、結局私がお母さんから離れたくなかったの。

 あの世なんて知らないとこに行きたくない。

 今までみたいにお母さんに守って欲しかった。近くに居たら守ってもらえてる気がしてただけなんだね」

 サユリは顔を覆って泣き出した。

「私、お母さんの元気な姿が見たい・・・、だから、あの世で待ってる。お母さんを見守ってる。

私の事、受け入れてくれるまで、待ってる」

 小夜子は魂だけのサユリを抱きしめてあげられないことが、酷い仕打ちのように感じられた。

 小夜子は金網から飛び降りると、黒衣の青年に向かって手を振った。

「報酬、自由に使っていいよね?」

 青年は唇の片方だけを器用に上げるように微笑むと、「ご自由に」と口の動きだけで答えた。

「サユリちゃん、あそのこ変なお兄さん見える?」

 サユリは体を捻り、小夜子の指差した方向を見つめた。

「うん、誰?」

「魂案内人ってとこかな?怖くないから安心して」

 青年は遠くからでも良い紹介の仕方をされていないことが分かったらしく、小さく溜め息をついて歩み寄ってきた。

「はじめまして。水先案内人のヴァルネです」

 無駄に長い手足を優雅に操り、その場に片膝を着くと、深々と頭を下げた。

 サユリも慌てて金網から飛び降りて頭を下げた。

「ヴァルネさんがあの世へ連れて行ってくれるから、安心してね」

 サユリに微笑んでからヒップバッグに手を差し込み、歪んだ金貨を取り出した。

「サユリちゃん、これにお母さんへのメッセージをしゃべって。1度だけお母さんへ貴方のメッセージを届けるから」

 サユリが驚いたように目を見開いて小夜子を見上げた。

「そんなこと出来るの?」

「出来ちゃいます。ただし1回だけ」

「ありがとう・・・」 

 サユリはそう口の中で呟いた。大きく声に出したら消えてしまいそうな気がしたのだ。

 金貨を強く握り、何度も確認するようにしながら屈み込んだサユリから離れて、小夜子とヴァルネは向かい会ったた。

「また報酬をプレゼントですか?」

「・・・私の報酬。好きに使っていいでしょ?」

「いいですけどね。そういうところも、私のお気に入りですから」

 狐のように目を細めてニッコリと微笑む。

 そして、小夜子の耳に顔を寄せて「また惚れ直しましたよ」と呟いてから体をさっと引く。

 今までヴァルネの顔のあった場所に小夜子の回し蹴りがむなしく舞った。


 小夜子はサユリがヴァルネと共に旅立っていくのを見送ると、ハタと気がついた。

 今度は屋上から4階に戻らなくてはいけないことを。

「ヴァルネさんに降ろしてもらえばよかった」

 ぶつぶつ言いながら、金網をよじ登って金網の反対側に身を乗り出し、足に金網を引っ掛けてするすると下がり、金網と壁の境目まで足が来ると、何のためらいも無く手を離し4階のベランダに降り立った。

「おかえり、ずいぶん時間が掛かったね」

 ベランダの隅で懐中電灯を手に読書に勤しんでいた青年が顔を上げた。

 いつも微笑んでいるような優しい瞳が小夜子を迎えた。

「うん、待たせてごめんね。で、兄さんもう一仕事手伝ってくれる?」

 小夜子は両手を合わせ、兄に頭を下げた。

 

 

 その夜、一人娘を失い死なずに生きることだけで精一杯のある母親の元に贈り物が届けられた。

 「唄」と「思い出」が。


 眠ることを忘れていた母親が、カーテンから零れる明るい光で目を覚ました。

 体も、心もほんの少し楽になっていた。

 そして、彼女は忘れていた思い出を思い出した。

 娘が小さな頃に一緒に歌った子守唄を。


 娘を寝かしつけるために唄うのに、娘は母親を寝かせてあげようと一緒に歌うのだ。

 その歌声を思い出したのだ。

 彼女の目から、また涙が溢れ出す。

 でも、それはほんの少しだけ昨日までの涙とは違っていた。

 ほんの、ほんの少しだけ。




 

 

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