第86話 花に語りかける時間
マイホームの庭の片隅に並ぶ植木鉢。その中には、先日蒔いたばかりの種が静かに眠っていた。
「さて……今日も水をやろうか」
シアンは木桶に水を汲み、ひしゃくでそっと鉢に注ぐ。土の表面が濡れていく様子を見ていると、胸の奥がじんわり温かくなる。戦いや試験の時とは違う、小さな満足感だ。
「本当に芽なんか出るのか?」
背後からロアスの低い声。腕を組みながら、不思議そうに植木鉢を覗き込んでいた。
「出るさ。……多分ね」
シアンは笑って肩をすくめる。
「“多分”か」
「そういうものなんだよ。花ってのは。ほら、人間だって最初は小さな芽から始まるだろ?」
「人間と花を一緒にするな」
渋い顔をするロアスだが、その眼差しはどこか優しかった。
リントはというと、しゃがみ込んで鉢に顔を近づけていた。
「ねぇねぇ、ほんとに芽が出るの? いつ? あした?」
「そんなに早くは出ないよ」
シアンが笑いながら頭を撫でると、リントは「えーっ」と不満げに頬を膨らませる。
「でもさ、話しかけたら早く出てくるかもよ?」
「……それは迷信だ」
ロアスが冷静に突っ込む。
「でもいいじゃん。やってみよう!」
リントの勢いに押され、シアンは鉢に向かって小声で話しかけた。
「えっと……元気に育ってくれると嬉しいな」
「……今のはなんだ?」
「花への挨拶」
「くだらん」
ロアスは呆れたように視線を逸らす。だが、その口元はほんの僅かに緩んでいた。
水をやり終えると、三人でベンチに腰掛けて庭を眺めた。植木鉢の土はまだ静かなままだが、その沈黙の中に期待が詰まっている気がした。
「どんな花が咲くんだろうな」
「きっときれいなやつ!」
リントが無邪気に答える。
「もし派手すぎる色なら、庭全体が浮くだろう」
ロアスは現実的なことを言うが、それはそれで彼らしい。
「まあ、どんな花が咲いても……俺たちの庭だからな」
シアンは小さく笑い、ふたりの隣を見やった。戦場では見せない穏やかな時間。彼らにとって、この庭は新しい拠点であり、日常を守る居場所だった。
やがて、かすかな風が吹き抜け、植木鉢の表面に落ちた水滴がきらりと光った。
「……明日も忘れずに水をやろう」
シアンの言葉に、リントは「うん!」と元気に頷き、ロアスは静かに目を閉じた。
芽吹きはまだ先だが、その時を待つ時間さえもまた、かけがえのない日常だった。
花を通して過ごす、ちょっとした日常回でした。
次回も18時更新です!




