第一章7 『月夜の下で三種の会議』
「私、ローテ・L・アイゼンラウアーと申します」
異世界という不安定な環境に突然放り出された百合霞にとって、ローテという名の青年の微笑みの後ろには後光が指しているように見えた。
「どうかご安心を。ここには、無闇にあなたを傷つける者は一人としていません」
その神々しさは、まるで教会のステンドグラスが二足歩行してやってきたかのようだ。
――やっばい聖人君子ッッ!!
あまりにも清らか。あまりにも眩しい。そんな人物の登場に、百合霞はぎゅっと目を細めた。
――この人、太陽の親戚さんか……?
百合霞は目を細めながら、じりじりと後退しつつ礼を言おうと口を開く。
「あ、あの……――ッ」
言葉を発することができなくなり、百合霞はその場に立ち尽くす。言語機能に支障はない。が、集中ができない。
ヴィルクレイドと出会った時と同じ現象が再び百合霞を襲っていたのだ。
「? どうかされましたか」
ローテの穏やかな微笑みが、百合霞にとってはどこか違和感を覚えるものに変わり始めた。
(ああ、また)
自分の意識とは裏腹に、頭の中に次々と情報が流れ込む。無理にページをめくりながら本を読み進めるような、急かされる感覚。
年齢、趣味、朝食の好み――無意識に、目の前のローテに関する細かなことが次々と頭の中に浮かび上がる。彼がよく手にする本のタイトル、歩き方、好きな草花、昼下がりの散歩道――それらがまるで自分の記憶の一部かのように現れる。
――でも、どうして? 何度も思う。どうして、こんなこと、どうして自分が知っているんだろう?
その答えを探ろうとした瞬間、まるで水面に浮かんだ泡のように、情報はさらりと消えていった。百合霞は目を見開き、混乱した心の中で立ちすくむ。
「どうかされましたか? ローテ様」
やわらかな声とともに、草を踏む足音が近づいてきた。姿を現したのは、一人の女性。
彼女が身に纏っているのは、俗に言う使用人装束――しかし、その印象はどこか古典的な可憐さに満ちていた。
上質な白と紺の布地が丁寧に縫い合わされ、胸元には細やかなフリルが幾重にも重なっている。スカートの裾はふんわりと広がり、まるで花が咲いたかのように軽やかに揺れていた。
その上に羽織っているのは、ドレスのようなシルエットを持つローブ。くすんだ黒が落ち着いた印象を与え、縁には金糸で優美な刺繍が施されている。背には小さなリボンが結ばれ、腰回りを自然に引き締めていた。
長い銀灰色の髪が揺れるたびに、彼女の優しい雰囲気を引き立てている。どこか妖精のような、小さな貴婦人のような。そんな不思議な気品と愛らしさを併せ持つ姿だった。
「……? ローテ様、こちらの方は――」
ふわりと甘い香りが近づいてくる。視線を向けると、フリルをふんだんにあしらったローブの裾が揺れていた。ドレスのようなシルエットのそれは、メイド服の範疇を超えた可憐さを纏っている。
(メイド? ……で、一人増えたってことは、この情報量も増えるってことですよね? 必然的に。
――あぁッ、もう、なんなんです! この変としか言い様のない状況!)
ローテのすぐ後ろに寄り添ったその女性を見た瞬間、百合霞の頭の中で――また開いた。
淡く微笑む少女の姿と共に、その立ち位置、仕える理由、交わした会話のいくつか、幼い頃の記憶の断片までもが、紙芝居のように次々と脳裏に流れ込んでくる。
「ヴィルクレイドが飛び出してった先で保護したそうなんだ。……服装からして転生者か転移者だろうね。アルホゥート学園の制服にも似ているけど……。違うみたいだ」
「……なにやら、気分が優れないようですね」
知らないはずの情報が、あまりにも当たり前のように整理されていく。目の前に現れた人物が一人増えただけで、世界の輪郭がまた少しだけ広がるような感覚――。
「いや、あの。その。大丈夫――」
その整然とした〝理解〟こそが、百合霞にとっては何より気味が悪かった。思考は混乱しているのに、情報だけが澄んだ湖のように静かに、正確に、並べられていく。
まるで自分が、彼、彼女のことをずっと昔から知っていたかのように。
百合霞は顔を伏せて、呪いの発動を必死に止めようとする。彼女には止める術がない。
ただひたすらに、頭に流れ込む情報に押しつぶされそうになりながら、必死で堪える。
その横から、ふと落ち着いた声が挟まった。
「……ローテ様。もしご迷惑でなければ、今夜この者に一張り、テントをお借りすることは叶いますでしょうか」
ヴィルクレイドの静かな提案をする。
淡々とした声で、言葉を紡ぐ。その語調には特別な感情の起伏もなく、あくまで必要な処置としての提案に過ぎないようだった。
「……ふむ、」
百合霞の頭の中では未だ、当人は知らないはずの情報が、あまりにも当たり前のように整理されていく。目の前に現れた人物が一人増えただけで、世界の輪郭がまた少しだけ広がるような感覚――。
「ローテ様……。この御方、このままでは、倒れてしまいそうですわ」
メイド服の少女が心配そうに囁く。その声は小さかったが、ローテには十分だった。
「……そうですね。『名前も知らない流浪の人』。よろしければ、少しお休みになりませんか? 我々のテントでよければ、場所をお貸しできます」
差し出されたのは、柔らかな声と、気遣いのこもった視線だった。どこか貴族然とした気品を帯びながらも、ローテの瞳は真っ直ぐに百合霞を見ていた。
「……っすみません」
言葉を返しながら、百合霞はその優しさに、ほんのわずかだが救われた気がした。
――◇――◇――◇――
「こちらです」
メイドは穏やかな声で言いながら、百合霞を優しく案内した。彼女の黒いローブが月光に照らされ、柔らかな光を浴びて静かに揺れる。周囲のキャンプの灯りが遠くに見え、草の間を抜けて進んでいくと、やがて小さなテントが見えてきた。
「こちらがお貸しするテントです。こちらで休息をとってください。……どうぞ、中へお入りください」
メイドは軽やかな足取りで百合霞を案内し、テントの入口を開けた。中に入ると、まず目に入るのは、土でできた床とその上に整然と置かれた組み立て式のベッドだった。土の床は平らに固められ、ほのかな湿気が漂っているが、不思議と落ち着く空気が流れていた。
ベッドは木の枠組みに簡単な布団が敷かれ、組み立て式でありながらも清潔感が感じられる。少し硬さがありそうではあったが、疲れた体にはその方がむしろ心地よいかもしれない。布団は薄手だが、肌に触れる感触が柔らかく、どこか温かみを感じさせる。
「どうぞ、おくつろぎくださいませ」
メイドが優しく百合霞に微笑んだ。
小さなランタンが薄い光を放ち、テントの中を穏やかな温もりで包んでいる。外の風が微かに揺れる音と、遠くから聞こえる仲間たちの声が静かな安らぎを与えていた。
メイドは微笑んで、百合霞に一礼をした。
「ありがとうございます……」
百合霞はうつむきながら小さく答え、テントの中に一歩足を踏み入れる。柔らかな布団が彼女を迎え入れ、ふわりとした温もりが身体を包み込む。すっかり疲れ切っていた彼女は、ほんの少しの安らぎにほっと息を吐き出す。
「ごゆっくりお休みください。何かご要望がございましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ」
メイドがにっこりと微笑み、もう一度丁寧に礼をしてからテントの外へと足を向けた。
百合霞はその後ろ姿をしばらく見送り、心の中で静かなため息をつく。どこか夢から覚めたような、現実に引き戻されたような感覚が漂っていた。
(…………あ)
だが、すぐにその思考を打ち消すように、ふと気づいたことがあった。心が落ち着き、周囲の音が少しずつ静かになった今、何かを書き記すことが必要なのではないかという感覚が強くなっていた。彼女は自分の手を見つめ、言葉を絞り出すように呟いた。
「あの、」
メイドが足を止め、こちらを振り向いた。百合霞は少し躊躇した後、言葉を続ける。
「ノート……と言うか。書き記せるものと、書けるものを、貸していただけませんか」
百合霞の声は、少し震えていた。まるで、何かを尋ねることで自分を再び取り戻せるような、そんな気がしていた。書くこと、記すこと。それが、百合霞にとっての唯一の安定をもたらす手段に思えたからだ。
メイドはしばらく百合霞の顔を見つめ、やや驚きの表情を浮かべたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべて頷いた。
「承知致しました。すぐにお持ち致しますね」
そう言って、メイドは小さく一礼した後、すぐにテントの外へと出て行った。百合霞はその背中を見送りながら、心の中で少しだけ安心したような気持ちを抱いた。少しだけ、安堵が広がるのを感じていた。
(今までの変な記憶の流入は無くなった……。
……今のうちに状況整理だけでもしておかなきゃ)
百合霞はその静かな夜の空気に包まれながら、布団の中に体を横たえる。周囲の静けさと安心感に、ほんの少しずつ緊張がほぐれていくのを感じながら、一瞬だけ、と己に甘えを与えて目を閉じた。
「流浪の御方、起きておられますか?」
月明かりが深くなるにつれ、しばしの静寂が過ぎた後、テントの前で、先ほど百合霞を案内したメイドが静かに声をかけた。
(……あら?)
しかし、すでに百合霞は眠りについていた。もちろん、返事は返ってこない。静かな夜の空気だけが、ふわりと揺れた。
「失礼いたします……」
外の夜風がふわりと中へと滑り込み、ランタンの炎がかすかに揺れる。
静かな声とともに、メイドが中へと顔を覗かせた。手には、上品な装丁の写本帳と羽根ペン、それに小さなインク壺が丁寧に抱えられている。だが、彼女の視線がベッドに注がれた瞬間、やわらかな表情がふっと和らいだ。
「……お休みになられていましたか」
ベッドには、百合霞が静かに寝息を立てながら横たわっていた。緊張の残滓をまだ顔に残しながらも、その瞼はそっと閉じられ、わずかに握った手が布団の端をつかんでいた。
メイドは足音を立てぬよう注意深く近づくと、そっと写本帳をテーブルの上に置き、小さな布をかけてインクが乾かぬように蓋を整えた。そして、最後にもう一度少女の顔を見やる。
「よい夢を……」
囁くように言葉を置き、静かに身を翻して、足音を立てぬようにテントの広間へと戻っていった。
淡い灯りのもと、彼女のローブが静かに揺れた。
キャンプの広間に戻ったメイドは、ためらいなく中央に設営されたひときわ大きな天幕の前で足を止めると、そのまま静かに布の幕を押し開けて中へと入っていった。
その身にまとうローブの裾が、柔らかな夜風に揺れる。
「戻ったかい。ラカイナ」
「はい。只今戻りました。
…………またヴィルクレイド様がお粗相を?」
銀灰色の髪を揺らしながら、ラカイナは室内に足を踏み入れた。彼女の視線は冷徹で、目の前のオーヴィに対して何の感情も浮かべない。まるで「いつものことですよね」と言いたげな視線。そんなラカイナの言葉は、どこか乾いた響きを帯びていた。
「そう簡単に人を無謀だと断言しないでいただきたい。ラカイナ嬢」
ヴィルクレイドの言葉は、まるで風が吹くように無駄なく、感情を排した響きでラカイナに届いた。
「よく言うよ、急に夜の森の中に入ってっちゃってさ。びっくりした。隣にいた僕の身にもなってよ」
ローテの声が、微かな苛立ちを帯びて室内に響く。その言葉には、先ほどのラカイナの冷徹さとは対照的に、ほんの少しの困惑と不安が滲んでいた。
ヴィルクレイドは黙ってその言葉を聞いていた。何も言わずに、ただその場に立ち尽くしている。
「まあ、一番行動力があるのは確かじゃからな」
その言葉は、部屋の隅に静かに座っていた小さなエルフから発せられた。エルフは木箱の上に座り、頬杖をついて無表情でその様子を見守っていた。
「それ皮肉ですよね。オーヴィ様」
ヴィルクレイドの単調な返しにエルフのオーヴィは満足そうに笑った。
「さて」
ローテは静かに言葉を発し、中央に置かれた机の上で軽く手を一度叩いた。メイドのカイナ、騎士ヴィルクレイド、エルフのオーヴィの三人の視線が集中する。
「話をしようか。そう、彼女の話。
ヴィルクレイドが保護した、初対面のはずのヴィルクレイドの名前を見事、言い当てた。名前も知らない流浪の人の話を」