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愛しき世界の冒険者!―転生者が愛される世界に異世界転移―  作者: 彼岸りんね
第一章 『知らぬが仏の異世界転移』
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第一章6 『やっちまったことは仕方ない』


「――貴様、何故私の名を知っている」


 凍りついたような声音が、静かな森の空気を裂いた。


 ――やっちまった。


 喉が音を立てて上下する。百合霞は息を詰めたまま、目の前の男を凝視していた。言い訳の言葉すら浮かばない。

 ただ、己の口から自然にこぼれた〝名前〟が、この沈黙を決定的なものにしているのを、肌で感じていた。


 男の名は――ヴィルクレイド。


 まさしく先刻、怪鳥の猛撃から百合霞を救い出した騎士の名。重厚な鎧を纏い、あの鋭い剣さばきで、あの巨躯の頭を容赦なく斬り落とした男。


 面識など一切ない。出会いは突然で、言葉を交わしたのはわずかに一言。それなのに――まるで旧知の名を呼ぶかのように、その名前は百合霞の口から滑り出た。


 映像のように流れ込んできた、〝彼〟の断片的な情報。誰かが脳の中でページをめくっているかのような感覚。声にするつもりなどなかった。けれど、唇は勝手にその名を形作っていた。


 そして今――ヘルムの中でヴィルクレイドの目が、鋭く百合霞を射抜いている。怒りか、警戒か、それとも警告か。どんな感情が潜んでいるのかも読み取れないほどに、彼の眼差しは冷えていた。


 確信だけが、胸を冷たく打つ。


 ――絶対に怪しまれている。


 言い訳すら浮かばず、唇が震える。動揺と焦りが胸を締め付け、目の前の騎士の冷徹な眼差しが、全身を貫いた。彼の目に浮かぶ疑念が、百合霞を追い詰める。


 どうしてあんなことを言ったのか。どうしてその名前を口にしたのか。何も分からないまま、ただただ後悔が胸に押し寄せる。

 言葉にできない沈黙が、空気を重たく縛っていた。

 その中で、自らの無作法を――否、正体を怪しまれるほどの〝やらかし〟を犯したことに、百合霞は焦りを隠せずにいた。


 背筋に冷たいものが走る。心臓が騒ぐ。声も出せず、ただその場で小さく震えるしかなかった。


 ――どうしよう。もしかしたら殺されるかも。殺されなくても、なにか酷いことをされるかも……言い訳を、誤魔化しを――。


 頭の中で警鐘が鳴り響く中、不意に彼の声が落ちてきた。


「……手を貸せ」


 凛とした声音。鋼の中にも微かな柔らかさを含んだその言葉に、百合霞は思考を止める。

 視線を落とせば、あれだけ冷酷な眼差しを向けていたヴィルクレイドの手が、そっと百合霞の右手を掬い上げていた。


 百合霞の(てのひら)は、気づかぬうちに、黒鉄の甲冑に包まれたヴィルクレイドの掌に重ねられ、手を取られたままだった。その指先が温かく、無意識にその温もりを感じているうちに、ふと視線が移る。


(月……満月……?)


 百合霞の視線を釘付けにした、ヴィルクレイドの鎧の一部、腕当(バンブレス)の内側に見えたもの。


 銀色に輝く満月を()した、精緻(せいち)な紋章が、差した月の光によって映し出すように静かに浮かんでいた。

 その円形の枠の中には、小さな満月が中央に位置し、その周囲を囲む星座が螺旋状に広がっている。その星々は、まるで夜空の一部が刻まれたかのように、細やかな光を放っている。

 さらにその外側には、月の光を受けて輝く霧のような模様が浮かび上がり、まるで空気中の微細な粒子が集まったような印象を与えた。


 その美しさに一瞬息を呑んだ百合霞は、ただただ目を奪われた。月光のように冷徹でありながらも、どこか温かな力を感じるその紋章。


 百合霞はその場で、どこか遠くの空を見上げたくなるような、静かな感覚に包まれていた。


「――セレシアム」


 ヴィルクレイドが囁いたその瞬間、黄緑色に輝く淡い光が百合霞を包んだ。


 その光が全身に馴染んだ時、百合霞は、ふ、と息を吐き出した。張り詰めていたものが、まるでその息と一緒に静かに抜け出していくような感覚が、体中を駆け巡る。

 無理に抑えていた何かが解き放たれ、心の奥底に広がっていく安堵感。まるで長い間に閉じ込められていた心の風景が、やっと自由に呼吸を始めたかのようだった。


「落ち着いたか」


「……はい」


 ヴィルクレイドの施した魔法が、百合霞の精神を落ち着けた。すると、周囲の空気もまた一変したかのように静まり返る。百合霞は軽く目を閉じ、深い呼吸を繰り返すことで、心の波が穏やかに整っていくのを感じていた。


 その時、遠くから足音が近づいてくるのが聞こえた。


「……やっと来たか」


 ヴィルクレイドの手が百合霞から離れる。

 数人の足音が徐々に響き、やがて視界の隅に影が現れる。百合霞がまだヴィルクレイドの手から解放されていない中、足音は重なり合うように増していく。


「おっ。いたいた」


「ヴィルクレイド、何かあったのか?」


「急に飛び出して森に入……って……」


 その言葉が耳に届いた瞬間、百合霞は、ヴィルクレイドと向かい合わせに立っていたことをすっかり忘れていたかのように振り返る。その目に飛び込んできたのは、何人もの人物が並んでいる光景だった。


 目の前に現れたのは、ヴィルクレイドの仲間たち。彼の周囲に集まるその一人一人が、独特の雰囲気を持っていることが、百合霞にはすぐに感じ取れた。どこか彼らの存在は、ヴィルクレイドの冷徹な姿勢とはまた違った空気を持っており、目の前に立つその異質さに圧倒される。


「って、その女の子誰!?」


 百合霞は思わず、ヴィルクレイドに引き寄せられた自分の手を見つめる。まだ彼に支えられているその手が、心地よさとともにどこか遠く感じられた。


 ヴィルクレイドは淡々と答える。


「……迷子だ。しかしながら〝ローテ様〟に合わせねばならない理由ができた」


 その言葉に、仲間たちは無言で頷く。

 ヴィルクレイドの冷静な口調に、どこか深い意味が含まれていることを彼らは感じ取ったのだろう。


「そうか。……で、その」


 声が少し途切れ、ひときわ堂々とした人物が視線と指の先を百合霞の横の怪鳥に向けると、ヘルムの中で目が鋭く光った。


モチコヒナモドキ()は?」


 ヴィルクレイドは再び、冷徹な目を彼に向けてから、静かに言った。


「四人で捌けるだろう。毒のある(くちばし)と足は斬った。後は頼む」


 その言葉が終わると、仲間たちは無駄な言葉を交わすことなく素早く行動に移す。

 それぞれの動きが確実で、無駄のないものであることが、日常的にこういう事をしている人達なのだろう。と、百合霞には理解できた。


 黙々と怪鳥、モチコヒナモドキなる生き物を捌いていくその光景に、百合霞は思わず息を呑む。


「着いて来い」


「っあ、はい!」


 外套を(ひるがえ)したヴィルクレイドの姿を、必死で追いかける百合霞。

 足元は暗く、ただ微かな月明かりだけが地面を照らしている。森の中はひんやりと冷え込み、枝が擦れる音と足音が静寂を破る。

 それ以外の音は、ただ風の音と遠くから響く虫の鳴き声だけだ。


「……あの、私、どこに、連、レテ行カレルンデショ」


「『ローテ』という商人の元だ。そこで貴様の今後を決める」


「エッ」


 ヴィルクレイドはまるで完璧に道を知っているかのように無駄なく進んでいく。


「我々の今後の為にも、怪しい者を野放しにしておくことはできん」


 木々の間をくぐり抜け、たまに立ち止まり、辺りを確認するものの、すぐに再び歩き出す。その姿について行くのに必死な百合霞は、何度も足元を取られそうになるが、なんとか踏みとどまる。


 しばらく歩くと、やがてほんのりと光が見え始めた。最初はただの明かりかと思ったが、それがだんだんと大きく、はっきりと見えるようになる。そして、徐々に賑やかな声が風に乗って耳に届き始めた。


「……」


「わっ……いたた」


 ヴィルクレイドと百合霞は草をかき分けながら、静かな闇に包まれた森を抜け、ようやく拓けた場所に足を踏み入れた。急に広がった視界に、百合霞は目を細める。月明かりが照らす空間には、暖かな光が点々と広がっていた。


「おーい! そりゃ、こっちに頼むー!」


「そっちじゃなくてもう一つ向こうの箱だよ箱ー!」


 数か所に焚火が焚かれ、その周りには兵士や商人たちの姿が見える。薪のパチパチという音と、風に乗って漂う料理の香りが空気を包み込んでいた。


 キャンプ地の周囲には、簡素なテントや小屋が立ち並び、荷物を運んだ馬たちが繋がれている。数人の商人が忙しなく動き、声が飛び交う賑やかな雰囲気が漂っていた。ヴィルクレイドはその光景に一瞥をくれることなく、足早に歩き続ける。

 百合霞はその後ろに続きながら、キャンプ地の様子に少し戸惑いながらも、まるでどこか馴染みのある風景のように感じていた。


(……馬車……じゃあ、やっぱりここは異世界?)


 温かい火の光が闇を照らし、辺りに安心感を与えていたが、同時にこの場所がどこか異質で、彼女にとってはまだ見慣れないものだと感じさせる。


「ヴィルクレイド!」


 キャンプの喧騒の中で一際大きく、張った声がヴィルクレイドに向けて飛んできた。百合霞が驚いて振り返ると、気品溢れる格好をした青年が、ヴィルクレイドに向かって駆け寄る。


「ローテ様、只今戻りました」


「急に飛んで行って驚きましたよ……。

 ……で。そちらのお嬢様は?」


「あ……ええと、私」


 青年は鮮やかな紺碧(こんぺき)のジャケットを着ており、その胸元には金糸で施された繊細な刺繍が煌めいている。

 ジャケットの袖口には白いレースが覗き、煌びやかな装飾が施された金のボタンが整然と並んでいる。その下には黒のズボンがぴったりと決まり、足元には磨かれた黒革のブーツが光を反射している。まるで上流階級の子息そのものの装いだ。


「ああ、失礼致しました。先ずは、自らが名乗らねばなりませんね」


 青年は一歩下がり、腕を胸元に持っていくと、深々と頭を下げる。

 額にかかる柔らかな髪が少し揺れるたびに、彼の周囲にさりげない優雅さを与えていた。


(わたくし)、ローテ・(リグリオン)・アイゼンラウアーと申します」


 周囲のランタンの灯りに照らされ、青年の左目を飾る金枠のモノクルが輝いた。



セレシアム

 乱れた心の波を穏やかに鎮める魔法。


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