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愛しき世界の冒険者!―転生者が愛される世界に異世界転移―  作者: 彼岸りんね
第一章 『知らぬが仏の異世界転移』
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第一章5 『これは私の知らないこと』


 一体、何時間ほど遺跡の中で過ごしていたのだろう。それを知る術は何処にもないが、百合霞(ゆりか)の体感した時間よりも長い時を過ごしたようだ。青々とした空は、すっかり瞑色(めいしょく)に染まり始めていた。


「くっ……!」


 訪れたときと同じように、崩れかけた石柱の間を駆け抜ける。しかし、今の百合霞は数時間前とは違った。


 この遺跡に訪れたつい先程の心境や状況とは打って変わった今、ただ、逃げることだけを考えていた。


 遺跡の外へと飛び出し、そのまま森の中へと駆け込む。枝葉が視界を掠め、湿った土の感触が靴の裏から伝わる。肺が焼けるように熱い。喉はカラカラに渇いていた。それでも足を止めるわけにはいかない――そう思いながらも、限界は近付きつつあった。




――◇――◇――◇――




「……はぁっ、はぁっ……っ」


 荒く息を吐きながら、百合霞は足を止めた。


 周囲を見回す。どこまでも続く深い森――のはずだった。しかし、目に映る景色はどこか違っていた。


 陰湿に佇んでいた木々は、いつの間にかその不気味な雰囲気を薄れさせ、湿った空気も感じられない。代わりに、どこか静かで穏やかな空間が広がっていた。まるで、遺跡の呪縛から解き放たれたかのように。


(……ここは? どこだろ。また知らない場所に……)


 疑問を抱きつつも、確かなのは、もう、遺跡からは離れたということ。

 その安心感が、張り詰めていた緊張を一気に解きほぐした。


「……ぁ」


 力が抜ける。膝が震え、次の瞬間、百合霞はその場に崩れ落ちた。湿り気のない草の感触が、じんわりと冷たく心地よかった。


――ぐぎゅるるる、ぐぅ〜〜、くきゅ〜〜。


 百合霞の胃袋が、思わず自分の存在を主張するように、重く響く音を立てる。

 その音は、百合霞の緊張の糸が少しほどけて、当人が今まで感じていた危機感がほんの少しだけ薄れたことを証明する。


「……うぅ……おなか……へった……」


 空腹感が引き連れた空虚さに耐えきれずに、一筋の涙が百合霞の頬を伝った。


 本来なら、今ごろバーガーを頬張り、ポテトをつまみ、炭酸の刺激を楽しみながら、夕食を待ち遠しく思いつつ、趣味の時間を過ごしているはずだった。それどころか、朝も昼もまともに食べていなかったのだから、とうに倒れていても可笑(おか)しくはなかった。


 それなのに――。


 百合霞は未だ何も口にしていない。


 手にしたマグバーガー(パテ増量済)をそっと見下ろす。包装紙の上からでも伝わる冷たさに、ため息がこぼれた。


「バーガーはすっかり冷えちゃったし……ポテトだって、絶対にふにゃふにゃのモサモサになってる……っ」


 ぎゅっと目をつぶり、肩を震わせる。


「せめて……せめて、ドリンクだけでも……っ」


 手に残された唯一の希望、まだ氷が溶けきっていない飲み物。表面には水滴が浮かび、喉の渇きを潤してくれることを約束するようだった。

 百合霞はそれをそっと握りしめる。


 こんな状況でも、せめて一口、冷たい飲み物を味わうことができるのなら――。


 外気に触れて乾いた唇に紙製のストローを運んだ。


「ん――んん゛!?」


 中身を吸い上げる直前、百合霞の周りを囲むように聳え立っていた木々たちが騒ぎ立てた。

 枝が激しく揺れ、葉が空気を震わせる音が、まるで怒号のように響き渡る。木々は暴れるように互いに擦れ合い、風に煽られて枝がきしむ音が連続して百合霞の耳に届く。


 百合霞は手を止める。

 至高の炭酸飲料水を飲んでいられる場合ではないほど、木々の騒ぎがあまりにも激しく、まるで何か大きな出来事が起きたかのように百合霞を包み込んでいたのだ。


「――ギョギャァァア!!!」


 突如、耳を(つんざ)くような金切り声が響き渡った。


「な――」


 直後、百合霞の体が衝撃に襲われ、息を呑む間もなく木の幹へと叩きつけられる。


「う゛、ぐっ……!?」


 息が詰まり、思わず呻き声を漏らす。痛みを無視して動こうと身を捩らせる。


 ――駄目だ。全く身動きが取れない。


 まるで巨岩に押し潰されたかのように、何かが百合霞の体を、木に縫い付けるように押さえつけている。

 それどころか、時間が経つにつれて、さらに締め付ける力が増していく。百合霞の背後では木の幹が悲鳴に似た音を立てるのがすぐ後ろから聞こえていた。

 背中には、何者かの締め付けによって樹の内側に走る力に耐えきれず、幹の奥から、張り詰めた繊維が断たれるような感触が伝わってくる。


(な、なに……? 何? ――いや何!?)


 恐怖が込み上げる中、視線を下へと向ける。


 そこにあったのは――異様なまでに太く、がっしりとした脚。


 それは鱗状の皮膚に覆われ、異質な光を放つ黒い爪を備えていた。その爪はまるで、今まさに獲物を引き裂こうとする狩人の刃のように鋭く、力強く、そして容赦がない。


「……鳥?」


 喉がひゅう、と音を立てる。


 この形、この脚、どこかで見たことがある。

 と言うよりも、知っている。だが、見慣れたものとは明らかに違う。大きすぎる。尋常ではない。

 ギギギ、と壊れかけの人形のようにぎこちなく首を動かし、恐る恐る上を見上げる。


 そして――目が合った。


「あっ……」


 黒曜石のような瞳が、真っ直ぐに百合霞を射抜いていた。鋭い鉤爪を持つ巨大な猛禽類。その眼光は、まるで百合霞という獲物の命運を決める執行者のようだった。


「クギャァア!!」


 鋭く、耳を裂くような叫びとともに、怪鳥が(くちばし)を振り上げた。その動きには迷いがない。まるで無力なこの人間の頭蓋を叩き割ることが決まっているかのような――(まさ)しく、確定された死の一撃だった。


「ぁ……あ、あ……」


 百合霞の喉から、途切れ途切れの声が漏れる。

 理解しようとするまでもない。抗う余地などない。今まさに自分の命が終わる。

 その事実を突きつけられた瞬間、全身から血の気が引く。

 震える手足は地面に縫い止められたかのように動かず、思考は凍りつく。


 ――終わる。


 その瞬間を見届けるかのように、怪鳥の嘴が月光を背に鈍く光を帯びながら振り下ろされた。


「――――っ?」


 しかし、百合霞の額に降り注がれたのは鋭い痛みではなかった。

 ぬるり、と肌を伝う生温かい感触。鼻を突く鉄の匂い。百合霞は恐る恐る目を開けた。


 そこにあったはずの怪鳥の頭が――ない。


 つい先ほどまで己を仕留めようと振りかぶられていた嘴は、どこにも無かった。首を失った巨躯(きょく)が痙攣しながらのけ反り、黒ずんだ血が滝のように流れ落ちていく。


「……えっ」


 呆然とする百合霞の耳に、鋭い風切り音が響いた。


 空気の膜を引き裂いたような乾いた音。

 それは、怪鳥の向こう。

 闇に紛れた何者かが、鋭い刃にこびりついた怪鳥の血を振り払ったのだと、目の前に広がる光景から百合霞は察する。


(に、逃げなきゃ――え、硬ッ!?)


 首を斬り落とされたはずの怪鳥は、なお執拗に百合霞の身体を木へと縫いとめていた。死してなお、鋭い爪は彼女と木を掴んだまま微動だにしない。

 息も詰まるような時間の中。草を踏みしめる音が近づいてくる。


 深く湿った大地を踏みつける音。

 金属が擦れ合うような、重たくも確かな足音。それは徐々に、確実に、百合霞の方へと向かっていた。


 やがて、痙攣する怪鳥の巨躯を横に、百合霞を助けたであろう救世主が姿を現す。


 ランタンであろうか。救世主の腰に下げている暖色の灯りによりその姿は鮮明なものになる。

 全く(もっ)て、現代社会には似つかわしくない、正に中世というに事欠かない()で立ち。


 その人物は、頭の先から足の先まで濡羽色の甲冑に身を包み込んでいた。その表面は艶やかな光を放ちながら、所々に金で縁取られた装飾が施されている。

 金の縁が柔らかくランタンの光を受け、上品でありながらも威厳を漂わせる。

 肩当てからは漆黒に染め上げられたマントが、しなやかに広がり、風を受けて静かに舞う様子がまるで闇そのものを纏っているかのようだ。

 その全体的な造形は、現実を超越した美しさを持ち、シャープで切れ味のあるシルエットが際立っている。


(えぇぇえ! かっこよすぎ!)


 まるで彫刻のように精緻(せいち)なその姿。

 百合霞はその姿を目の当たりにした瞬間、息を呑み、思わず見入ってしまっていた。


「待っていろ、今自由にする」


「あっ、

 ……――――ッ!?」


 その声を耳にした刹那。

 百合霞の脳内に、まるで誰かが無遠慮に本を開き、ページを次々とめくるような勢いで、膨大な情報が雪崩れ込んできた。


 名前、好物、趣味、職業。


 自分の耳を(かい)して聞いたことのない、口にされてもいないはずの事実の数々が、映像のように脳裏をよぎる。


(どういうこと? どうして、こんなこと、知ってるの……? というか、これはこの人の……?)


 百合霞が混乱している中、木と怪鳥の鋭利な鉤爪の間に短剣を差し込み一本一本、丁重に外していく中世の騎士のような出で立ちの男。


 その動作を目で追う百合霞の脳内には再び情報が流れ込んでくる。


 ──早朝に剣の素振りをしないと一日が始まったとは思えない派。鎧の手入れは毎晩欠かさない。遠征の前は祈りを捧げる。馬には名前をつけない主義。


「大丈夫か?」


 ──背中に隠している傷跡。愛読書は『鋼の王座に捧げし誓約』。雨の匂いが落ち着く。


 知るはずのないことが、映像と共に鮮明に浮かび上がる。その異常事態に、百合霞は硬直した。

 目の前の騎士が、自分に語ってくれたわけでもなく、名乗ったわけでもない。


 ――そもそも、初対面だ。


 ただ、現れて、助けてくれただけ。

 なのに、自分は彼のことを──まるで長年連れ添った仲のように知っている。


(なに、これ……なんで。そもそも、本当に全部、この人のこと……? じゃなきゃ誰のこと!?)


 言葉にするのも怖い。胸がざわつく。知らないはずの感情が胸の奥から滲み出してくる。


 ――これは残酷なほどに鮮明な夢? それとも酷く現実味を帯びた妄想?


 夢なら、あのローブの人物と離別した時に覚めている筈だ。妄想だって、こんなに自分を痛めつけるほど変態じゃない。

 百合霞を襲う今までの全て、その感覚はあまりにも生々しく、あまりにも現実的だった。


(どうして……私、こんな……!)


 思考は混線し、言葉は喉に詰まり、百合霞はただその場に立ち尽くすしかなかった。


「……聞こえているのか?」


 百合霞はその声に反応するまで一瞬の沈黙を挟んだ。


「あっ、はい! 助けてくださりありがとうございます」


 自由になった体を小さく震わせながら、百合霞はゆっくりと上体を傾け、頭を下げる。緊張で動作がぎこちないが、それでも心からの感謝が込められていた。

 自身がまだ生きていられることの感謝を胸に、微笑む。


「――ヴィルクレイドさん」


 沈黙が、重く広がった。


 その一瞬、空気が固まったかのように感じられる。百合霞の心臓が、耳の奥で激しく鳴り響く。

 直後、百合霞の目がわずかに見開かれ、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。自分が何を言ったのか理解できなかった。


「えっ……あ、違う、あ、私……」


 本来言えるはずのない、赤の他人の名前が、口をついて出てしまったと理解した瞬間、冷や汗が一気に流れた。 思わず口を手で覆い、目を見開く。どうしてこんなことを口にしたのか、頭の中が混乱していた。


「すみません。何でもないです……私、あの、ただ――」


 言葉が喉で絡まって出てこない。自分の不自然さが、恐ろしいほどに際立つ。


 目の前の騎士らしき男の視線が、恐ろしく鋭く感じられる。

 それは冷たい夜風と共に肌を撫で、百合霞の背筋を凍り付かせる。


 この異常が、〝呪い〟の発露(はつろ)だとは、百合霞自身、まだ気づいていない。


「――貴様、何故私の名を知っている」


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