第一章4 『人身を震わせる者/下』
「……お……お腹、空いてるんですか?」
恐怖で顔を引きつらせながらも、百合霞は至って真剣だった。
が、数秒後、必死に状況を把握しようとするあまり、口から飛び出した予想外の言葉に思わず自分で言ったことにゾッとし、百合霞はさらに顔を引きつらせる。
まさかそんなことを聞くつもりはなかった。だが、ローブの人影が沈黙したことで、百合霞の脳内では勝手に「肯定」とみなされてしまった。
(そりゃそうですよね……こんな遺跡の奥で暮らしてたら、ろくな食事にありつけないはず……)
妙な同情心が芽生えた百合霞は、一度距離を確保し、右手に持っていたポテトのバケツをそっと床に置き、代わりにマグバーガーの袋に手を突っ込む。ふわりと香ばしいバンズの香りが鼻腔をくすぐる。指先に伝わるほんのりとした温もりに、まだ食べ頃は過ぎていない。と確認すると、百合霞は自分なりの最善策を導き出した。
「私も食べたいので……その、半分――の半分、なら……」
震える手で差し出されたマグバーガー。
しかし、ローブの男は微動だにせず、視線すら向けないまま静かに口を開いた。
「――助けて」
「えっ。違うんですか……? ポテトも?」
百合霞は、手元のポテトを見下ろす。半透明な蓋から僅かに見える、サクサクと軽やかな衣に包まれた黄金色の細身のフライ。つまめば、ほんのり塩気が効いており、噛めばじゃがいものホクホクとした甘みが広がる至高の一品となる。
――これが欲しくないなんて、一体どんな味覚をしているのか。
「うーん……あ、喉が渇いているんですね? ちょっとパチパチしますけど、飲みます?」
百合霞はバーガーを袋に戻し、代わりにドリンクのカップを掲げる。大人気炭酸飲料フォルタグレープで満たされた容器の表面には小さな水滴がついていて、見た目からしても涼やかだ。ストローを軽く押せば、炭酸の微細な泡が弾ける音が耳に心地よく響く。
「まだ氷が溶けてないので、冷たくて美味しいですよ? 私、間接キスとか気にしない人間なので。はい」
明るく差し出してみるが、ローブの男はまるで石像のように微動だにしない。
(……えっ、何、違うの? ……むぅ。ここまできたらもう何でもありそうですけど……もしかして、ベジタリアン?)
百合霞の脳内では、食事を巡る新たな仮説が次々と浮かび上がっていた。
その内に百合霞は顎に手を当て、真剣に考え込んでいた。
(もしかして、特定の食材しか受け付けない体質……? いや、それとも異世界によくある特殊な宗教的な理由……?)
そんなことを思案しているうちに、ふと視界の端で動きがあった。
ローブの人影が、静かに手を伸ばしてくる。
(え。 もしかして交渉成立?)
期待とも警戒ともつかない微妙な感情を抱いたまま、百合霞はじっと相手を見つめる。そして、その手が自分の額に触れた――瞬間。
「――ッ!? が……ぁぁあ゛っ!!」
鋭い衝撃が、左目を突き刺した。
電流が奔るような激痛。骨の奥まで貫くような感覚に、百合霞は反射的に体を折り、崩れ落ちるようにその場に蹲った。
投げ出されたバーガーの袋が床を転がるのを、かすかに視界の端で捉える。しかし、痛みの波が次々と押し寄せ、それすらまともに意識できなくなっていく。
左目を中心に広がった痺れは、じわじわと手足の先へ、そして全身へと侵食していった。
「い゛っ……! ぁ゛あ゛っ……!!」
震える喉から漏れた声は、百合霞自身のものとは思えないほど歪んでいた。
――敵だ。紛うことなき、敵。
暫く悶え続けていると、左目を蝕んでいた激痛が、じわじわと和らいでいく。それでも、百合霞の本能がそう警鐘を鳴らし続ける。
「……――救けて」
静かな声が響く。
気づけば、ローブの人影が百合霞の頬にそっと手を添えていた。冷たい指先が皮膚に触れ、強制的に顔を持ち上げられる。
その瞬間、まるで幻のように痛みがふっと消えた。
(……!?)
一瞬の静寂。だが、百合霞の思考は研ぎ澄まされていた。これは好機だ。
――今しかない!
百合霞は反射的に身体を動かす。相手の手から抜けるように勢いよく立ち上がり、足元のバケツを掴むと、落としていたバーガーの袋も素早く回収する。そして、迷うことなく駆け出した。
結局正体のわからなかった光に騙され、ここへ来た時に通った通路へ向かって、一目散に。
(ッ……『助けて』ほしいのはこっちの方だ!!)
歯を食いしばり、残る痛みに耐えながら、ただひたすらに走り続ける。背後からの追跡を警戒しつつ、百合霞は暗い遺跡の出口へと走り続けた。
その背を追わずに、ただじっと見つめられていることの方が、百合霞にとっては、今後避けることの出来ない災厄だということにも気が付かずに。