第一章3 『人身を震わせる者/上』
百合霞を導いていた小さな光は、主を見つけたように、そして吸い込まれるように、人影の肩へと消えた。
光が溶け消えると人影はまた呟いた。
「――タスケテ」
百合霞を包む遺跡の静寂が、一瞬にして張り詰める。百合霞は息を呑んだまま、人影を見つめる。
暗がりの中に立つソレは、先ほどから一歩も動かない。けれど、確かに存在している。
不気味なほど静かだ。
空間に漂うのは、息をしているのかさえ分からないほどの静けさ。
「――輔けて」
しかし低く、震えるような声が、闇の奥からもう一度響く。その瞬間、人影が動いた。百合霞の方へと、まっすぐに歩き出す。
人影の動きに伴って、恐怖で堰き止められていた百合霞の思考も濁流の如く脳内に溢れ出し、働き始める。
(嘘、近づいてきてる? これは確実に逃げなきゃいけないヤツなのでは?
――いや。いやいや、落ち着け。落ち着きなさい。桜縁鬼百合霞!)
ゆっくりとした足取りだが、迷いのない確かな歩調。影が近づくにつれ、その姿がわずかに明るみに出てくる。
暗闇から現れた人影は、ローブにその身を包まれていた。その全身を覆うローブはゆるやかに揺れ、その布地の奥から姿をのぞかせることはない。
ただ、胸元に飾られた宝石らしきブローチだけが、かすかに光を反射している。本来ならば美しい輝きを持つはずのそれは、今はくすみ、どこか淀んでいた。
人影はまっすぐ百合霞の方へと歩いてくる。
宝石の明かりがわずかに届くと、ローブの隙間から顔の一部が見えた。
しかし、それはほんの一部――顔の下半分のみ。
見えているのは、かすかに開いた唇と、わずかに動く喉。
「――助けて」
目も、表情も分からない。
しかし百合霞はその顔が、暗がりに沈んだままというのが容易に理解できた。
一方で、百合霞も無闇に動くことはおろか、一歩たりとも後退することすら叶わなかった。
(と、とにかく、状況を把握しなければ始まんないし……異世界転移なんて漫画みたいなこと、本当に起こるなんて思えない。それに、こんな場所で人と出会えるなんて、ある意味運がいい……のかもしれない。
今、頼れるのは自分――いや、多分、あの人だけだし)
かすかな希望にすがるように、百合霞は目の前の人影を見つめた。
全身が張り詰めたように硬直し、額から頬へ、頬から顎へと冷たい汗が伝う。喉の奥がひりつき、息を飲むたびに焦燥が膨れ上がる。
(……よし)
それでも、少しでも敵意がないことを示そうと、必死に表情を作った。
だが、それは到底笑みとは呼べないものだった。
強張る頬の筋肉を無理やり引きつらせ、かろうじて形を成した笑顔は、どうしようもなく不自然で、怯えを滲ませた粗末なもの。
「――あ、あの〜。すみません、どうやら私、迷ってしまったみたいでっ……。
あっ。えっと、日本って知ってますか? 私、そこから来たんですけど……帰れる方法とか。そもそもここって異世界なんですかね? あっ、あはは……!」
乾いた喉から絞り出すように言葉を紡ぐ。
期待を込めて問いかけるも、返答はない。その場しのぎな空虚な笑いが、遺跡の冷たい空気に溶けて消える。
沈黙。
代わりに響くのは、規則正しく淡々と近づいてくる足音。
――コツ……コツ……コツ……。
そう、硬質な石の床を踏みしめる音が、広大な遺跡の空間に反響し、何重にも重なって百合霞の耳に押し寄せる。
それがたった一人の足音とは思えないほど、恐ろしく澄んだ音だった。
百合霞は息を呑む。
目の前の人影は、何の躊躇もなく、迷いもなく、まっすぐ自分の方へと歩いてくるのだ。顔の下半分だけが見えるその人物の表情は微塵も読み取れず、ただ淡々と歩みを進めてくるその様子に、百合霞の中で得体の知れない不安が膨れ上がる。
逃げるべきか、立ち尽くすべきか――答えを出せぬまま、百合霞はただその足音を聞いていた。
「き、危害を加えるつもりは一切ないんです。ただ単純にここが何処なのか、教えてくださればなぁ。なんて……」
場を和ませようと、できる限り穏やかな声を作り、言葉をつらつらと並べる。
しかし、恐怖に震えたまま、瞬きをした当にその刹那。
(――――え)
視界が揺らいだかのような錯覚を覚えた。次の瞬間、百合霞は息を呑んだ。怯えは素直に現れ、短い悲鳴と共に口角を下へと引き攣らせる。
「……」
まだ十分に、距離を取れていた筈の人影が、目と鼻の先に立っていた。ローブの隙間から覗く顔の下半分。表情は読み取れない。
しかし、ただそこに在るというだけで、圧倒的な異質さが空間を支配する。
百合霞の喉が強張り、凍りついたように動けない。
――コツ……。
最後の一歩を踏みしめる音が、遺跡の中に不気味に響いた。
百合霞とローブの人影の間には、もはや空気すら入り込む余地がないほどだった。微かな吐息が触れ合いそうな距離で、静寂だけが二人を包み込む。
百合霞の顔の真下。そんな至近距離で立ち止まったローブの人影は、ゆっくりと顔を上げる。
深い影に覆われたフードの奥から、見上げるように視線を向けて。
そして、かすかに唇を動かし、囁いた。
「――扶けて」
百合霞の背を、一筋の冷たい汗が伝う。
(あ――コレ。人じゃない)
ついさっきまで、目を奪われるほど美しい光景に心を満たされていたはずなのに。今はただ、遺跡から、この不気味な存在から、そして、この異質さを孕む世界そのものから、一刻も早く逃げ出したかった。
「――たすけて」
先ほどから淡々と吐かれるその言葉は、百合霞に胸の奥から押し寄せる焦燥感と緊張感をもたらした。
自分も何か言わなければならない、そんな強迫観念に駆られる。催促されるように、百合霞がヒクつく喉からようやく絞り出したのは、微かな声ではあるもののその場を静まり返らせた。
「……お……お腹、空いてるんですか?」
恐怖で顔を引きつらせていても、百合霞は至って真剣だった。