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愛しき世界の冒険者!―転生者が愛される世界に異世界転移―  作者: 彼岸りんね
第一章 『知らぬが仏の異世界転移』
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第一章2 『第一村人とは言えんだろ』


 ――まったくひどい話。


 百合霞が目を開けたとき、そこはどこまでも続く緑の大地だった。茂る草木が風に揺れ、木漏れ日がちらちらと差し込んでくる。風の音しか聞こえない。しかし、そんな幻想的な光景を堪能する余裕なんてなかった。


 急激に困惑と恐怖がせり上がって百合霞の額に汗を流す。


「まさかっ……」


 百合霞は、肩に下げていた合皮のスクールバッグを探って自身の携帯を取り出す。不思議な状況に陥っても壊れることは無かったようで、ガラス製のフィルムで守られた液晶画面は、幸いにも直ぐに明かりを灯した。


「――あはは。ですよねぇ」


 無情にも、液晶画面の右端には圏外のマークがハッキリと表示されている。


 ――もはや笑うしかない。


 見慣れた建物も、道路もない。坂の上からチラついて見えていた家の屋根も、もちろん見えない。あるのは、どこまでも続く自然だけ。まるで絵本の中に迷い込んだみたいな風景。でも、これは夢じゃない。夢にしては、指先の冷たさがやけにリアルだった。


「いやいやいや……初期装備、ジャンクフードは――どぉ考えても流石に笑えないでしょぉ……」


 あまりの準備不足を呪うように声が漏れる。百合霞は自身の肌を撫でる空気が、妙に生々しく感じられた。駅前のアスファルトの熱や、人のざわめき、人工的な匂いが全部、跡形もなく消え去っている。今百合霞を取り囲むのは、土の匂い。そして湿った木々の香りと、無秩序に広がった空の青さだけだ。


「異世界転移って、もう少しリアクションしやすい場所に召喚してくれたらいいのに……THE・異世界! みたいな」


 ここがどこの、どんな森なのかも分からない。誰がいるのかも分からない。


(というか、こんなに匂いの強い食べ物があるのに、動物の一匹も出てこないなんて……)


 百合霞は、以前友人が大層楽しみにしていた筈のキャンプ先で、何故かジャンクフードを取り寄せた事で熊が現れ、一晩中、厳重警戒が敷かれた事を思い出した。


 こんなにも緑豊かで瑞々しい森。それなのに小鳥のさえずり一つすら聴こえて来ない。森の異様なまでの静けさに耳を傾けながら、百合霞は自身の目の前に置いたジャンクフードの山とも言える光景を見つめ続け思考を凝らす。


(本当に何も――だとしたら異常以外の何物でもない。もしかしたら、この森の異常な平穏さこそ、異世界というに相応しい特徴の一つってこと……?)


 きっと森の外には、百合霞には到底想像し難い、大変に奇妙で奇抜な異世界かもしれない。


 そんな結論に至った途端に、不安と焦燥が入り混じる。が、立ち止まっていても何も変わらない。そんな謂れのない恐怖や焦りは掻き消された。ポテトのバケツを拾い上げ、一歩、また一歩と歩き出す。


(とにかく動かないと。情報を集めないと)


 深呼吸をして、無理やり冷静さを取り戻そうとする。


 ――この異世界のどこかに、帰る方法があるはずだから。


 しかし、震える指先は止まらない。

 それは明らかに、極度の空腹による血糖値低下の兆候だった。


「……。

 まあ、探索は間食を摂ってからでもいいですよね! きっとその方が捗りますし!」


 決意が一瞬にして揺らぎ、その食欲を満たす行為は百合霞の中で強引に正当化された。


 ようやく口と胃の中を満たしてくれる存在に目を輝かせていると、百合霞の視界の端に何かが過ぎった。


「――光?」


 正面から見据えると、何の支えも無く、その光は草むらの上に静かに浮かんでいた。まるで柔らかな月光が凝縮したかのように、淡く輝くその光は周囲の闇を反射し、微かな霧のようにほのかに漂っていた。

 

 まだ空は青く、太陽の沈む気配もない森の中で、その光は異彩を放ち、百合霞の視線を我が物にした。


 ――付いていかなきゃ。


 直後、百合霞の思考は湧き上がる使命感に支配された。直ぐに身を起こし、光に近づく。

 ある所まで百合霞が近づくと、淡い光は浮遊し距離をとった。


「……追いかけるしか、ないか」


 また百合霞はそれを追いかける。

 追いかけては距離を取られ、また追いかける。光と百合霞はそれを何度も繰り返した。



――◇――◇――◇――



(一体どこまで……)


 暫くの間、百合霞は変わらず不可解な光を追いかけ続けた。

 そろそろ体力的にも限界が訪れる。そんな予感を背に百合霞は走り続けていた。


 青々とした空を湛え、明るく拓けていた筈の森。しかし、見上げれば、空は密着する葉っぱ達に隠され、仄暗く湿った空気を(まと)っていた。


(ま、まずい……ろくに場所も分からないのにどんどん深くまで来た気がする……)


 滴る汗を拭いながら、状況を整理しつつも走り続けていると、光は次第に速度を落とし、ふわりと宙に留まった。


「ようやく止まってくれた……」


 百合霞は安堵の息をつきながら歩を進める。今度こそ、光のすぐ傍まで近づくことができた。


「えっ……なに、これ……。森の中の、遺跡?」


 光を観察する暇も無しに、百合霞は狼狽えたような声を(こぼ)す。


 眼前に突如として広がっていたのは、仄暗い森に埋もれるように佇む遺跡だった。

 長い時の流れに呑まれたその構造物は、苔と蔦に覆われている。加えて、崩れかけた石壁と、ひび割れた石の床には落ち葉と湿気が絡みつき、重苦しい空気が漂っていた。


 入口らしきアーチ状の石柱は半ば崩れ、その向こうには闇がぽっかりと口を開けている。この森に息づく何かが、その内部へと誘い込もうと待ち構えているかのように。


「えっ、ちょっ」


 光は、遺跡の闇に吸い込まれるようにゆっくりと進んでいった。


「まっ、待って!」


 百合霞が崩れかけた石の門を抜けると、冷たい空気が肌を撫でた。百合霞はその肌寒さに顔を強張らせる。


 湿った石畳に淡い光が滲み、光の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。


 光は迷うことなく奥へと進んでいる。その姿が、暗闇の中でよく映えた。今までの軌跡は、ここへ誘うための道標だったのか。そうとしか考えられない。と、百合霞の顔が、どこか冒険を楽しむ子供じみたものに変わる。


 かすかに響くのは、風が通り抜ける音か、それとも何かが微かに蠢く気配か。それすらも分からない。


 光を追いかけ、ひんやりとした空気の満ちる遺跡の中を進んでいくと、やがて視界が開けた。


 朽ちた石壁に囲まれた広間は、天井が高く、どこからともなく微かな風が吹き抜けている。無数の瓦礫が積み重なる中、その中央にそびえるのは、厳かに佇む巨大な扉だった。


 光は扉の前で静かに漂い、まるで百合霞を待つように浮遊している。


「大きな扉……。もしかしてダンジョンって奴では!? ……装備品ジャンクフードしかないのに!?」


 歓喜と焦燥の二つに駆られた百合霞が一人で大騒ぎしていると、光はふわりと舞いながら、大きな扉の中心へと吸い込まれるように溶けていった。


 次の瞬間、扉に刻まれていた形象文字のような紋様が、光の余韻を引き継ぐかのように淡く輝き始めた。始めは点のような明滅だったが、次第に線となり、絡み合う光の流れとなって扉全体を走る。

 その輝きは、まるで古の記憶を呼び覚ますかのように、神秘的な脈動を刻んでいた。


「っ……!」


 形象文字の輝きが頂点に達した瞬間、扉は鈍く軋むような音を響かせながら、ゆっくりと動き始めた。


 長年訪れるものがいなかったのか、それとも単に閉ざされていたのか。扉がわずかに開いただけで小さな石片や塵が剥がれ落ち、百合霞の髪や肩にパラパラと降り注ぐ。床にも細かな破片が落ち、静寂の中で乾いた音を立てた。

 その一つが靴先に当たると、百合霞はわずかに肩を震わせ、身構える。


 扉の隙間から滲み出るのは、澱んだ空気と、得体の知れない静けさ。光の導きに従ってきた彼女の前に、未知の領域がその口を開いた。


「? ……あ。さっきの光……。

 なんか……もうここまで来たら、貴方に名前をつけるのも良いかもしれないって思えてきちゃいましたよ」


 暗闇が支配する広大な空間が広がる前で百合霞が発した言葉は、虚空へと吸い込まれるように消えていった。


 扉の鍵とも言える役割を終えた光は、へらりと笑う百合霞を追い越し、空間の中央へと移動した。

 扉を開けた次は広い空間内で何をしようというのか。あんな小さな光にはそんな絶大な秘的な力が宿っているのか、百合霞は無意識にその光を見つめていた。


 すると、壁沿いに立ち尽くしていた百合霞の手に触れる硬く質量のある滑らかな石。淡い光を頼りに百合霞が目を細めて観察する。


「……まるで水晶みたい」


 目を凝らせば、壁や床の至る隙間から鉱石が頭を覗かせていることに気づく。


 そんな百合霞をよそに、光の玉は空間の中央で静かに停止した。その瞬間、まるで光を中心に世界が収束していくかのように、周囲の空気が揺らぎ、張り詰めた。


(天球儀……?)


 光の真下には、何かがあった。

 それは天球儀のような、球体を枠に収めた装置らしきものが鎮座していた。ゆっくりと下降する光は、やがてその装置に触れる。


 その瞬間、長い沈黙を守っていた空間が息を吹き返した。


 これまでただの暗く淀んだ存在にすぎなかった鉱石たちが、一斉に目覚めたように共鳴を始める。光を浴びた表面が波紋のように輝きを放ち、瞬く間に光の連鎖が広がった。


 その輝きはまるで、大地に埋もれた鉱脈が切り開かれるかのごとく、空間の隅々まで広がっていく。


「ッ――」


 まばゆい光が幾重にも折り重なり、百合霞を包み込むと、周囲を支配していた闇は、音もなく消え去っていった。


 光が収まり、そっとまぶたを開く。百合霞の視界を満たしたのは、青白く瞬く幻想的な輝きだった。


 ついには、水底にでも立っているかのような錯覚に陥る。空間全体が深く澄んだ青に染まり、揺らめく光があたりを包み込んでいる。鉱石たちはただ輝くだけでなく、呼吸をしているかのように脈動し、静かな波を広げていた。


 百合霞は、その美しさに息を呑む。


 空気が変わった。先ほどまでの暗闇がもたらしていた重い沈黙は消え去り、ひんやりとした澄んだ気が満ちている。


 まるで、長い時を経て再び目覚めた神秘の領域が、彼女を迎え入れたかのようだった。


 煌めく水晶の群れは、ただの無機物ではない。そこには確かな〝存在〟があった。

 ここに宿る何か――巨大な力の脈動を感じる。


 百合霞の心臓が高鳴る。足が、意識するよりも先に動いた。彼女は引き寄せられるように、光の中心へと歩を進めた。


「綺麗……」


 もはや百合霞の胸に、遺跡という曖昧かつ未知の空間に対する恐れは微塵も残っていなかった。


 青白く輝く光の波に包まれるうち、不安も警戒も溶けるように消え去り、代わりに満ちていたのは、どこか穏やかで心を昂らせる感覚。

 最初に感じた冷たい闇の圧迫感は、今や跡形もない。


 ここは決して彼女を拒む場所ではない――そう本能が確信した瞬間、百合霞は自然と歩き出していた。


 重い足取りだったはずの歩みは、今や迷いを失い、空間の中心へと導かれるように進んでいく。まるでこの場所に呼ばれているかのように。


 彼女を包む静寂の中で、ただ靴音だけが柔らかく響いていた。




「――助けて」


 その声が、空間を裂くように突如として響いた瞬間、百合霞の足がピタリと止まった。


(え……?)


 胸を打つ音が大きくなり、心臓が一気に跳ね上がる。まるで冷たい手に心臓を握り締められたような感覚に襲われ、脳裏に鮮明に浮かぶ恐怖が再び百合霞を支配する。


「――救けて」


 その声は、どこからともなく、何もない空間から響いてきた。こんな遺跡の中で、誰だろうか? もちろん百合霞にとっては聞き覚えなど無い。誰のものでもない声。


(い、いやいやいやいや、だっ……誰!?)


 助けを求めるそれが、ただの幻聴だと思いたい気持ちと裏腹に、百合霞の脳裏に恐ろしい予感を呼び覚ます。


 振り返ろうにも、恐怖が勝って振り返れずにいた。


 その間にも、今、百合霞の背後から何かが迫ってくるような気配を感じ、足元がふわりと浮いたように錯覚する。


 冷や汗が一筋、頬を伝って落ちる。


 ――あの声は、一体何だったのだろう?


 それを理解する暇も与えられず、再び周囲の空気が重くなり、息苦しさが胸を締め付ける。気づけば、あの穏やかな青い光の中にも不安定さを感じ始めていた。


「っ……あ、ぅ」


 百合霞の足は自然と後退し、ある所で立ち尽くしてしまう。顔を引き締め、心を無理にでも落ち着けようとするが、手足が冷たく、心臓の鼓動が耳鳴りのように響いてきて、全身が震え始めていた。


 まるで、すぐそこに誰かがいたかのような、そんな錯覚――いや、錯覚ではない。


 百合霞の耳に届いたものは、紛れもなく実在した声なのだから。


 存在を否定する考え自体を否定していた、その刹那、件の声がもう一度、耳元で囁くように聞こえた気がした。



「――たすけて」



 右耳のすぐ傍で、確かに聞こえた。


 息が詰まる。


 脳が一瞬、現実を拒絶するかのように思考を停止させた。が、確かに感じた、声の温もり。息遣いの気配。


 恐怖に支配され、全身が凍り付いたはずの百合霞だったが、それ以上に強い衝撃が彼女を貫いた。

 驚愕という名の強い衝撃に呑み込まれた身体は、抵抗する間もなく瞬間的に声の方へと振り向いていた。


 喉が渇く。息が浅くなる。心臓が激しく脈打ち、冷たい汗が背筋を伝い落ちた。


「……。

 ――っあ」


 目を凝らすと、確かにいた。確かにそこに。


 水底の様な空間の、右へと延びる通路。その中に。


 その中は、遺跡の青白い輝きさえも届かず、闇に沈んでいた。光の届かぬその先に――ぽつりと、一人。


 小柄な人影が、じっと立っている。


 百合霞の胸が跳ね上がる。

 呼吸が詰まり、喉が強張る。さっきまで満ちていた幻想的な輝きはどこか遠ざかり、一転して、肌を刺す冷気がまとわりついた。


 鉱石の輝きが届かない暗闇の中。輪郭だけが浮かび上がるように、その存在は確かにそこにいた。


 声をかけるべきか、それとも、見なかったことにしてこの場を離れるべきか――。


 百合霞は無意識に後ずさろうとしたが、足が動かない。


 百合霞をここまで連れてきた小さな光が、天球儀から浮き上がった。

 浮遊を続けた光はついには怪しい人影の肩に止まり、溶けるように消えた。その間も人影は、ただ黙って、百合霞を見つめている。

 そしてまた口を開いた。


「――タスケテ」


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