第一章9 『イッツ・ア・ビューティフル・ディ・トゥディ』
「なんでずっと『名も知らない流浪の人』で通ってるの!? え? なにそれ!? 意味わかんない! 君もそれでいいの!?」
テーブルを叩く音が響き、空気が跳ねた。
静かな、仄暗かった食卓に突然差し込まれた爆音とでもいうような音。その音を生み出した人物は、小柄なその身体を前のめりにさせて百合霞に迫った。
「えっ! いや、なんです、か。それ、私そんな呼び方されてたんですか……?」
「いやあ、すみません……。一時的な措置で……」
ローテがモノクルをかけ直す。その金枠から下がる紫を孕んだ深紅の雫が、ゆるやかに揺れた。
確かに――考えてみれば、これまでずっと百合霞の名前をお互い、聞かずに、教えれずに今日を迎えていた。
「異世界から来た」という突飛な事情もあり、誰もが聞くべきタイミングを見失っていたのだ。
いや、違う。
きっと皆、それとなく「名乗るのを待っていた」のだ。
その沈黙を突き破ったのが、ピンクの髪を揺らすエルフの少女らしき人物。
その真っ直ぐな声は、怒気を孕んでいながらも耳障りではなく、寧ろ温かくて。
やけに耳に残って離れなかった。
加えて、言葉は奔流のように溢れ出し、彼女の表情はどこか楽しげで、けれど真剣だった。
「て・な・わ・け・で! 自己紹介! 自己紹介するよ!」
その声は、突拍子もないようでいて、確かに場の空気を変えた。
次に、桃色の髪を翻し、長い耳の先を尖らせた少女は、すっと胸を張る。
「はい! ボク、オーヴィ! まだ平均寿命を大幅に下回っている、桃色の髪がその美少女さに拍車をかける、天才エルフの〝男の子〟! 好きなものは知識とスープと快眠と主人公もしくはお姫さまがしあわせな結末を迎える物語! 嫌いなものは夜明け前の寒さとキノコの裏側のヒダ!
そこの、昼下がりの王都をそのまんま縛って垂らした金髪と、まるで、深夜の夢の残り香みたいな瞳してる彼の護衛を頼まれてるまほうつかいだ! 以上!」
彼女。いや、彼は、キィッと「そこの、昼下がりの王都をそのまんま縛って垂らした金髪と、まるで、深夜の夢の残り香みたいな瞳してる彼」と、言いながらローテを指さす。
(ど、どういう比喩だろうか……?)
ローテは紅茶を啜りつつ、オーヴィが調子よく口にした讃美を脳内で繰り返す。
「はい次ィ! きみの番だよ! 自己紹介、どうぞっ!」
次の瞬間には、ビシッと百合霞を指さす。
その何とも言えぬ温かで柔らかな圧に、肩にのしかかっていた言葉の重さが、少しだけ軽くなる。
百合霞は、しばらくぽかんとオーヴィを見つめていたが――やがて、肩を小さく揺らして、先ほどより幾文かは軽くなったように感じれた口を開く。
少し、気恥ずかしそうだ。
「私の名前は百合霞です。桜縁鬼、百合霞……。自分のことは、ちょっと、まだ混乱していて。好きなことは、食べることです」
「うんうん、大丈夫! ユリカ・サエキノだね! よし!」
朝の空気が、少しやわらいだ気がした。
「んじゃ次、ローテの番!」
オーヴィが指さす先で、紅茶を口に運ぼうとしていたローテが一瞬ぴたりと動きを止める。
「……僕も、ですか? 僕は昨日、既に……」
「名前だけじゃ足りないよ! この空間にいる全員、きちんと自己紹介するまで逃がさない! はい、どうぞ!」
困ったように笑って、ローテはティーカップを静かに置いた。そして、立ち上がると、やや誇張された動作で胸に手を当てる。
「分かりました。……改めて――」
声に籠めるのは、気品と威厳。そしてどこか親しみのある柔らかさ。
「僕は、ローテ・L・アイゼンラウアー。エルセリオ王国が任ずる第一級貴族、アイゼンラウアー家の三男にして、アイゼンラウアー交易隊、東方交易連盟の筆頭査定官を務めております。まだ十四なので、年齢だけならばまだまだ未熟者ですが……交渉は、ね?」
さらりと口にしたその肩書に、百合霞は思わず「肩書きフルコンボ……」と呟きかけたが、こらえた。
オーヴィが小さく拍手する。
「ほらね? 名前だけじゃ足りないでしょ。きみがちゃんと名乗ってくれたんだから、こっちもちゃんと開示するのが礼儀だよ!
……お次はラカイナ! ビシッとバシッと決めちゃえー!」
「っあ……ええっ? ……コホンッ」
その声に促されて、ラカイナの、ゆるりとした銀灰色の髪が揺れた。そして、メイド服の上に羽織った、ドレス型のシルエットのローブの裾がふわりと翻る。
「改めまして、ラカイナ・リュカオンと申します。アイゼンラウアー家に仕える法織女が一人、この旅の道中はローテ様の介添人も務めております」
凛とした口調だったが、その最後にふっと微笑を添えたことで場が少し和んだ。
(……エーテル、メイド?)
スマートな自己紹介ではあったが百合霞は、知らない単語に、僅かに首を傾げた。
「よしよし……じゃあー?」
そして――
「最後は、我らが騎士様!」
オーヴィの声に、ヴィルクレイドは顔と視線をこちらに向けた。
そしてまた、テーブルに顔と視線を戻した。
未だ立つ気配はない。
沈黙。
沈黙。
沈黙。
……長い。
「おーい。ヴァルちゃん。もしかしてちみ……名乗らないつもりかい?」
「名乗る理由が見つからん」
「はああああ!? 空気読めよォお!!」
オーヴィが椅子の上でぐわっと立ち上がるが、ローテが苦笑してなだめた。
「まあまあ。二人とも。
……ヴァルクレイド、せめて君が〝誰か〟くらいは名乗ってあげてくれないかな。ね。こういうの、オーヴィは意外と真剣にやってるんだから。ちょっとだけ付き合ってあげよう?」
声の調子はあくまで穏やか。
空気を和らげるための絶妙な緩衝材のように、ローテの言葉は場にじんわりと染み込んでいった。
怒りを爆発させかけて、いや既に爆発していたオーヴィは「んぐ……」と眉を寄せ、椅子の上でふくれっ面になりながらも、ぐるりと視線を逸らす。
一方、ヴァルクレイドはその場に座ったまま、微動だにしない。まるで鎧の中まで凍りついたような沈黙が流れる――が、それも数秒のことだった。
渋々といった様子でヴィルクレイドが立ち上がる。鎧の小さな音が静かな空間に響いた。百合霞の頭上から影が降る。
「……、…………」
頭の先から足の先まで、禍々しくも荘厳な、黒鉄の鎧に包まれたその姿は、まるで深淵の化身。
ただそこに立つだけで、地面が低く唸っているかのようだった。ゴゴゴゴ……と耳鳴りのように響く緊張感が、百合霞との空間を支配する。
そこから放たれる一瞬の空白が、彼がこの空間を拒絶しきれない証拠のようにも思えた。
「ひっ……」
小さな悲鳴が、百合霞の喉奥から溢れた。何とも威圧的な佇まいだ。
その間、ローテは、ただ微笑んだままだ。
紅茶の冷める音さえ聞こえてきそうな静寂のなか、次の言葉を待っていた。
「……ヴィルクレイド・シルバームーン。
ギルベルト・E・アイゼンラウアー辺境伯の直轄領における警備隊長、兼、アイゼンラウアー交易隊護衛隊長。以上だ」
ヴィルクレイドはそう言って、ひと息の間もなくすとんと椅子に腰を下ろした。表情は硬い。声も硬い。椅子の座り方さえも硬い。
――はい、終了。
(……え、以上?)
思わず口から出ていた百合霞の声は、誰よりも自分自身が驚いた。
(だって、温度差、すごくない? さっきのローテさんとか、ラカイナさんがとてつもないフルスペック自己紹介だったのに――今の、これ、なんかこう……。
あれ? なんか漏れ出てる雰囲気的に、私、怒られてる? それとも……早々に処される? 斬り捨てられる!?)
背筋がぞくりとした百合霞の横で、案の定、オーヴィがまたもやぶちギレた。
「いやいや! ちょっと待って!? 紹介してんのに、なんでその温度!? せめて微笑みなよ!? ユリカちょっと凍ってるよ、かわいそうだよ!
分かり辛い自己紹介しちゃってさあ! もう少し噛み砕きなよね!」
「……私は任務中だ」
「知ってるよ! でも自己紹介くらい任務外でやってよ! ヴィルちゃんそれ、最初に名前だけ言って後は『以上、報告終わり』って態度だからね!?」
百合霞は、椅子の上でこっそり自分の手を見た。軽く汗が滲んでいる。
(この人、ほんとに騎士、いや、隊長か。……いやだとしても隊長? なんか裏の人っぽいんですけどッ)
視線を上げれば、ヴィルクレイドはすでに百合霞を見てすらいなかった。再び、マスカットのようなみずみずしい黄緑色の粒をヘルムの中へ運んでいた。
(さっきからなんなんですかそれ! めっちゃ食べてるし)
だが不思議なことに、あの声色で自己紹介されると、その動作すらもまるで任務中かのように見えてくる。物理的には食卓にいるけど、精神的には完全に任務中の人だ。
色んな意味で百合霞は困惑せざるを得なかったが、オーヴィが「ま、よしとしよう! 偉いぞヴィルちゃん!」と手を叩いたので、それ以上何も言わないことにした。
「ってことで、一先ず、ぼくたちはきみにとって怪しい集団ではなくなった。それでオーケーね?」
「お、オーケー……です」
「うん! ぼくたちにとってきみは謎だらけだけど……転移早々、何か面倒なものに呪われちゃったかわいそうな子。って認識でオーケー?」
「……オーケーです」
オーヴィが唐突に立ち上がって場を仕切る。手をパチンと鳴らして、ぐるりと三人を見渡した。
「ほいじゃ、あとはローテ。きみに任せた!」
軽快な口調でオーヴィが腰を下ろす。その目は、どこか満足げだ。
「オーケー、オーヴィ」
その流れを自然に引き取るように、ローテが立ち上がった。いつもの涼やかな口調だが、声に滲むのは柔らかな真剣さだった。
「――さて、ユリカさん。自己紹介も終えたところだ。……教えてくれませんか? 貴方が、どんなとこから転移してきた、どんな人で、どんなことに困っているのかを」
優しい声。けれど鋭い目が、こちらの核心を見ようとしている。
問いかけに、思わず手が強ばった。
(言って……信じてもらえる、のか?
でも、この人たち『転移者』って言葉を知っていたし……)
テーブルの向こうから差し出された問いかけに、ユリカは小さくうなずいた。
(ここで嘘をついても仕方がない。それに、とにかく身の安全を確保しなければならない。なら――)
戸惑い、恐れ、疑念――それでも、今はもう、「話す」ことを選べる場所にいる。
ようやく。ようやくその一歩を踏み出す準備が、心の中で整い始めていた。
だから彼女は、もう一度深呼吸をして。
視線を正面に向けた。
百合霞は、そっと息を吸い込んだ。
――きっと、これはまだ、何も始まっていない。けれど。だからこそ、話さなければ始まらない。