プロローグ 『世界の祝福が来たる日よ』
「死ぬのは怖いから。殺すときは優しく殺して。お願いね」
彼の魔女はそう囁いた。
彼の魔女は祭壇に縛り付けられ、冷たい石の上でその身を捧げるように横たわっている。その表情には何かで満ち足りた笑み。
「眠りに誘うように、甘く優しく揺蕩う灯りで頬を撫でて。ああ、でもね、炙っちゃ嫌。お願いね」
その声には、どこか陶酔した響きがあった。
祭壇の周りには、燭台がいくつも並び、炎が揺らめく。祭壇の周りに立つ者たちは、彼女の異常なほどの余裕に戸惑い、息を呑んで見守る。誰一人として彼女に近づくことができない。その静寂を破るように、魔女は軽く笑った。
「炙られたら、魔女、生まれ変われなくなっちゃうから。お願いね」
その言葉は、まるで呪縛のように周囲の空気を巻き込んで広がっていった。魔女は一度も恐怖の色を見せなかった。むしろ、命を捧げるその瞬間こそが、彼女にとっての至福であるかのようだった。
――いい加減、死んでくれ。
それを皮切りに人々の口は同じ動作を繰り返す。
――死ね、死ね、死ね。
「いつか、あなたたちを眠りから目覚めさせてくれる果実が現れるわ。そう願ったもの」
その一言と共に、魔女の瞳が深い暗闇の中で輝き出す。その輝きは狂気と慈愛が入り混じった不気味な光を放ちながら、彼女の体を包み込んだ。
――死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。
「さようなら。たった一人だけのわたしを愛さなかった世界に住まうみんな。微笑ましい未来をありがとう」
――死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね!!!!
「次は愛してね。お願いね。愛してる」
そして彼の魔女は世界に呪いをかけた。
耽美な唇に最期まで笑みを湛えた。水分を含んだ肌に光が迸る。果実が熟れ、落ちたときも、彼の魔女の遺骨は冷たい土の中で眠りにつき続けている。
待ち望んだ結果。その将来を愉しみに。
――◇――◇――◇――
――臭い、汚い、穢らわしい。
晴天煌めく日。人間の少女は汚物に塗れた世界の中で思う。
――どうして私は、吐瀉物に足を取られながら進んでいるのだろう。
人間の少女は前傾姿勢のまま、剣を鞘から抜き、その流れの中で乱雑に右手から鞘を手放す。両の掌で握らなければ、この狂った世界で一振りすることも叶わないだろうから。
――臭い、キツイ、辛い!
誰に届くわけでもない悲鳴を呑み込んだ人間の少女は、歯を食いしばり、己の敵を剣先に捉える。
――気持ち悪い! キモチワルイ! きもちわるい!!
鼻を突き刺し、脳を痺れさせる酸味のある悪臭。胃の中はすでに空っぽで、吐くものすらないはずなのに、こみ上げる嘔吐感が人間の少女の喉を再度、締め上げる。心身共に異常を来した為の生理的なものと、心の底から湧き上がって来る逃亡欲から、とめどなく流れる涙。それと同じくして口の端から零れる唾液。もう、体の中のあらゆる機能を制御する神経や細胞は、破壊され尽くしてしまったのだろうか。そう思えるほど、人間の少女の体は自制が効かないのだ。
「常識を覆されるのが――そんなに怖いか……!」
しかし、人間の少女は全てを無視して立ち塞がる。
目の前で微笑む悪魔への恐れを殺しきれずに、人間の少女は口角を上げる。もちろん、強がりだ。
ちっぽけな虚勢一つで、このふざけた世界がひっくり返ってくれれば、いいや、ひっくり返ってくれ。そんなことばかりは有り得ないとしても、そう期待して、人間の少女は声を轟かせた。
そして走り出す。
時を同じくして、それに応えるように。
しかし無情にも、人間の少女の前で浮遊する悪魔は微笑み両手を広げ始める。だがそこには確かに歓迎の意が込められていた。
「いいえ――喜ばしいのです」
とても悪魔とは信じ難い容姿に微笑み。純粋無垢な幼女から向けられる母親のような眼差し。
悪魔は地に足を触れさせ広げた両手を閉じ始める。
自身の胸に剣を突き立てようと飛び込んでくる人間の少女の両の頬に、己が両手を合わせ受け入れる。あどけない顔には、人間の少女を祝福したいのだという、慈愛に満ち足りた、悍ましい笑みが浮かべられていた。
きっと、人間の少女を待ち構えるのは、現状を遥かに越える苦痛。死よりも辛い生き地獄。それは人間の少女が一番懸念し、理解していた。
――それでも、不思議と。どれだけ体が悲鳴を上げても。
「ただひたすらに。喜ばしいのです」
――諦めようとは、思えなかった。