第二回 1
「さあ、早く甄さまをこちらに」
そう使いから言われて封粛は頭が真っ白になってしまった。甄という名前はここ数年というもの士隠の失踪とともに脳裏から消えてしまっていたからだ。
ようやく娘婿の存在を思い出すと、
「私は甄という者ではありませんが、娘婿に甄士隠というものがございました」
「ございま「した」というのはどういうことだ!」
使いに迫られて返事に窮する封粛。
「たしかに甄費は我が娘の婿でありました。ですが二年前に出ていったっきり、まだ帰ってきておりません。お尋ねはその者でありましょうか?」
使いにも苛立ちがつのってきたらしい。
「ええい! 真だの仮だのもう知ったことか! はじめに姑蘇をたずね、甄某は逃げるように越していったと言われ、またこちらでは失踪か。夜中まで出てきて損したわ! さて、賈知事にいかように報告したものか」
真は甄、仮は賈に音が通ずる。腹立ちまじりにくだらない洒落を言ったのは、使いが士隠のことだけではなく、彼らの新しい上役に対してもふだんから相応の憤懣があるのだろう。そんな彼らの感情を感じ取ったからか、
「それなら封粛でかまわぬ。役所に参れ」
と夜分に理不尽な要求をされても封粛は逆らうことができなかった。
門のうちから封粛の妻と、その使用人たちは心配そうに眺めていたが権勢ある知事の命とあればいかんともしがたい。ただただそれを見送るだけであった。その夜、憔悴した封粛が戻ってくる二更まで封家の灯りが尽きることはなかった。
封粛は気つけの酒をぐいっと仰ぐと、急に笑顔になった。その豹変ぶりには長年連れ添った妻も、その子である封氏も驚きを隠せなかった。
「新しく知事になったお方は賈化さまと申してな。士隠と懇意にされていたようだ。ちょうど矯杏が糸を買っていたところを見留められて、士隠がこちらに越してきたことが分かったらしい。賈知事に彼が失踪した事情を申し上げたら、自分のことのごとく悲しんでおられたよ。英蓮のことも、士隠のこともきっと見つけて差し上げる、と心強いことをおっしゃっていた。そしてほら、帰り際には二両の銀子までいただいたぞ!」
灯火の下、銀子がきらきらしているのを見ても、士隠の妻であり、英蓮の母である封氏としては心が晴れない。ただ一人、封粛だけが閉じられていた前途が開かれたような気がしてうきうきしているのであった。
あくる日、早くも新知事からの使いが封家に届いた。煌びやかな錦が二反、金銀をあしらった宝飾のたぐいが函いっぱいに。封粛の妻あてに届けられた。そして内密の手紙が一通。女中の嬌杏を妾としてもらい受けたいということだった。そこで踊るようにして喜んだのは封粛である。これだけの財貨、そして知事とのつながりが得られるとあれば女中一人は安い。手ずから嬌杏を口説き落とし、知事のもとへ嫁するよう、なかば強制的に勧めた。
もとより嬌杏もまんざらではなかった。賈という名前、そして昨日かいま見た容貌から新しい知事が、あの日の青年、賈雨村であることにうすうす感づいてきたからである。
嬌杏が雨村に嫁することを了承したその日の夕方、新知事から封粛の家に百金を持った使いがやってきた。封粛は喜びを隠しきれず、馬車を用意させて王侯貴族でもあるかのように丁重に雨村の住まう知事の屋敷へ嬌杏を送り届けた。
さて、嬌杏は妾として雨村の家に入ることになったが、そこを面白く思わなかったのは雨村の本妻である。郷里を離れ、姑蘇の地で勉学に励む雨村を、遠い故郷で支えてきたのは誰であったか、男子たるもの青雲の志をもって妻と離れるのは仕方がない。だが、ひとたびそれが果たされたとき、糟糠の妻である自分に報いるべきではないか、内心そんなことを考えていたが、本妻である彼女はもともとおとなしい気質だったため、夫にも嬌杏にも表立っては言えない。
さらには雨村が嬌杏を得て一年たつかたたないかで、彼女は雨村の子を産んだため、子のない本妻はいっそう鬱鬱とし、半年後には亡くなってしまった。晴れて嬌杏は正夫人となったのである。人々は密かに噂した。
たまたま放ったその一手
たちまち人の上の人
こんな噂がたつくらいなので、雨村の評判は必ずしもよいものではなかった。有能な人であるのは間違いないのだが、法や規則を緩めることをしらず、ささいなことでもびしびし締めつける、上官や同僚を侮る、こういった様子であったため、二年もたたないうちに弾劾書をでっちあげられ、
「性質狡猾にして礼儀をみだりにし、清廉の名をもってよからぬ輩と結託し、天下人民を塗炭の苦しみに追いやり……」
というような意味のことを上奏された。ときの天子はおおいに怒り、その罷免を裁可した。