第一回 7
それを聞いた士隠はまどろみがすっかり醒めてしまった。
「なんだと!」
「和尚が言われることには、五鼓(四時)にはもう出ていかれていたとのこと。挨拶をする暇もないので、士隠老にはよろしくお伝えくださいと和尚に伝言されたとのことでした」
好意に非礼で返されて、士隠は少なからず落胆したが、血気盛んな年ごろのこと、それも仕方あるまいと思い、嘆息するほかはなかった。
光陰矢のごとし、またたく間に正月を迎えると、士隠は霍啓という召使に申しつけ、英蓮を花灯籠の見物に連れていかせた。
ところが、日がとっぷりと暮れて、夜になっても英蓮も霍啓もまったく帰ってくる様子がなかった。慌てふためいたのは士隠と妻である。四方に手を尽くして探させたが、まったく手がかりがない。三日たっても、七日を過ぎても音沙汰がなかった。
後々、小用をもよおした霍啓がよそ様の門前に英蓮を残し、その間に何者かがさらったということが分かったが、ことの経緯が分かったところで、最悪の結果が変わるものではない。
一人娘を失った士隠は驚き悲しみ、病の床に臥せってしまった。妻もその看病に疲れ、さらに娘を思うあまり、病気になってしまう。
悪いことはまだ続くもので、ちょうど涅槃会のころ、葫盧廟の僧たちはお供え物の油揚げを作るため、揚げ物をしていたが、不注意で油に火が入り、障子に燃え移り、竹垣、壁と次々と引火していった。それは葫盧廟におさまらず、街全体が焼き払われるありさまであった。
特に甄家の被害はすさまじく、ちょうど葫盧廟と隣り合わせになっていたので、家屋はもちろん、家財のいっさいを失ってしまった。士隠と妻とはかろうじて生き残ったが、これだけの被害にあっては伝来の田畑を売り払わずにはいられなかった。
なお悪いことに日でりによる不作のため、付近には匪賊が跋扈し、士隠と家族も枕を高くして寝られなかった。官兵がどうにか討伐しようとはしているものの、それも焼け石に水のありさまで、士隠は仕方なく姑蘇を離れ、舅のもとに身を寄せることにした。
士隠の舅である封粛はもともと大如州の人で、地元の豪農であったが、名家と信じて預けた娘婿がこちらを頼ってきているのがどうにも面白くなかった。
田畑を売って得られた銀子で家屋をどうにかしてくれと士隠に言われたが、気に入らない気持ちが勝っていたので、粗末な家と田畑とをあてがうことで、どうにか溜飲をさげていた。
一方、士隠はこの地へ移って二年ほどはどうにか持ちこたえていたけれども、もともと彼は趣味人であって、農業や実業には暗いところがあるから、なりゆきにまかせているうちに、生活にも行き詰ってしまった。
それだけではなく、彼の舅が「うちの婿どのにも困ったものだ。生活や食べ物は人一倍のくせに、仕事に関してはそのへんの小作にもおよばない」などと言いふらしているという噂が伝わってきて、先年からの立て続けの不幸もあいまって、病と貧との板挟みになり、いっそう老けこんでいってしまっていた。
そんな折、杖をひきずって街へ出て行くと、足をひきずっているみすぼらしい道士が歩いてくる。はて、どこかで見かけたようなと思うが、それもさだかではない。道士は見かけに似合わず、清らかな声で謳いあげた。
世人みな神仙は好しと知るも(好)
ただ功名をば忘れえず(了)
古今の将相いずくにか足る
荒塚一堆の草に没せり(了)
世人みな神仙は好しと知るも(好)
ただ金銀をば忘れえず(了)
終朝ただ聚めて多からざるを恨むも
多くなりしときには眼閉じたり(了)
世人みな神仙は好しと知るも(好)
ただ嬌妻をば忘れえず(了)
君生けるときは日々温情をいうも
君死すれば又人に随いて去る(了)
世人みな神仙は好しと知るも(好)
ただ児孫をば忘れえず(了)
痴心の父母は古来多きも
孝順の児孫を誰は見し(了)
それを聞いて、士隠ははっと気づくところがあり、
「それはいったい何の歌ですか。ついぞ「好」「了」と繰り返しておられるようですが」
すると道士は歯のまばらな口を大きく開いて、
「はっはっは。あなたには「好」「了」が聞き取られましたかな? 世の中のことはすべて、「好」と「了」でできておりますのじゃ。「好」はすなわち「了」「了」はすなわち「好」。「了」でなければ「好」にあらず。「好」でありたければ「了」でなくてはならんのじゃ。これを「好了の歌」と申してな」
「好……了。了……好」
士隠は何度も何度も反芻するように繰り返していたが、
「道士さま! 私は得心いたしました! ぜひ私をお連れください。不才不遜の身とはいえ、旅の道連れの賑わいにはなりましょう」
そういうと士隠は道士の荷物をかつぎこみ、道士と肩を組むようにしてお互いに「好了」「好了」と繰り返しながらいずこへか去っていった。
士隠がいなくなって慌てふためいたのは妻の封氏である。娘や家を失ったばかりか夫にも旅立たれて、その憔悴は父の封粛であってもいかんともしがたいものであった。伝手を頼り、四海ほうぼうを探させたが、いくらたっても見つからなかった。
やむを得ず、封氏は父のもとに寄宿することにしたが、魂が抜けたようになって二年ばかりを過ごしていた。
ある日のこと、甄家の女中が門前で糸を買っていると。
「新知事のお通りだ」
という厳めしい声が聞こえる。
黒い紗帽をかぶり、緋の官服を着た役人が八人の屈強な男がかつぐかごに乗って大通りを歩いていく。
「どこかで見たような方だわ」
そう思う間もなく、奥方から、
「嬌杏、ちょっと来てちょうだい」
という声がしたので慌てて、糸を急いで買ってしまい、門のうちへとひっこんでしまった。
さて、新知事のことは封の家でもにわかに噂になっていたが、夜分に大勢の声と彼の門をたたく音がする。
こんな夜更けに何事かと出てみると、
「知事の使いの者です。知事からお話がございます」
とうやうやしく言われた。封粛は一気に顔が青ざめてしまった。