第六回 1
それから半時が過ぎたが、宝玉は何かを失ったかのようにぼんやりとしたままだった。襲人は小丫鬟に命じて、桂円湯を運んでこさせ、宝玉の唇をゆっくりと開け、注ぎこむように二口飲ませた。すると宝玉は身を傾げながら起き上がり、帯を緩めたのち、衣服を整えた。
宝玉の褲に皺が寄っていることに気づいた襲人は、その皺を直そうと帯に手を伸ばしたが、そのときに思わず宝玉の太腿へ触れてしまった。そこには今まで感じたことがないような冷たく、ねっとりした感触があり、慌てて手を引っこめた。
「宝玉さま、どうなされたのですか?」
と周りの他の丫鬟たちにも聞こえるほどの声で尋ねると、手の甲に刺すような痛みが走った。手の甲には宝玉の爪の跡がくっきりと残っている。襲人はいつものごとく主人が趣味の悪いいたずらをしたのだろうと、顔をしかめながら宝玉をにらんだが、宝玉の頬は真っ赤に染まっていた。
襲人は即座に弟を叱る姐姐から、主人へ忠を尽くす丫鬟へと表情を変える。
襲人はもともと聡明な少女であり、宝玉よりも二歳年上で、少しずつ世の中のことも分かってくる年齢だった。
宝玉がなぜ頬を赤くしたのか、頭を瞬時に働かせ、その答えを導き出すや、今度は襲人がみるみるうちに顔を赤らめてしまう。賢い彼女はそれ以上、宝玉に問うことをしなかった。
主人の「男」としての一面を目の当たりにし、少なからず狼狽した襲人だったが、優秀な丫鬟である彼女は、すぐに頭を切り替えた。
まずは秦氏へ主人の代わりに礼を伝えたのち、すぐに暇乞いをし、その間‘(かん)に晴雯を栄国府へ遣わして、宝玉の新しい衣裳を取りにいかせた。
だが、晴雯も襲人に劣らぬほどに聡い丫鬟である。しきりに小首をかしげていたが、「祖宗さまへお目にかかるのにこんなよれた衣裳では失礼にあたります。今すぐ行きなさい」と半ば命令するように言うと、小丫鬟を数人連れ栄国府へ向かった。
晴雯が着替えの褲を持ってくると、襲人は他の丫鬟たちに下がるように伝え、宝玉と二人になろうとした。
「私にもお直しを手伝わせてください」
と、晴雯が言うのに、襲人は心中もっともだと思いつつも、
「祖宗さまや寧国府の方々との夕食のお約束の時間が迫っています。私は長く宝玉さまにお仕えし、お着替えのお手伝いも慣れているから、私一人でやった方がかえって早く終わらせることができるわ」
と強弁し、宝玉と二人きりになると、汚れた下衣を着替えさせて、以前のものは草叢に隠して、明朝取りに行くことにし、そそくさと賈母たちとの夕食に向かった。
すべてがひと段落ついたころ、襲人と二人きりになった宝玉は、
「姐姐、今日のことは誰にも言わないでね」
と恥ずかしそうに頼んだ。襲人も、
「いったいどうして……」
と言いながら顔を伏せ、
「いったいどうしてあんなものが流れ出てきたのですか?」
と絞り出すように言った。宝玉は顔を赤くするばかりで答えなかった。
しばらくして、宝玉は真剣な顔で襲人に尋ねた。
「ぼくの言うことを信じてくれる?」
襲人は主のこんな真面目な顔を久しく見なかったので、少なからず驚いたが、即座に「信じますわ」と言った。
宝玉はそこで夢の中での出来事をぽつりぽつりと話し始めた。最初のうちは背筋を伸ばして聞いていた襲人も、警幻仙姑が雲雨のことを授ける場面に話がおよぶと、恥ずかしがり、顔を伏せてうつむきながら笑いだしてしまう。
その襲人の様子を見ていた宝玉がそっと耳打ちした。
「二人でやってみない?」
さしもの襲人も返答に窮してしまう。
「祖宗さまに叱られます」
旧い主の名前を出して逃げようとしたものの、宝玉がしきりにせがむので、ついこう言ってしまった。
「碧紗櫥の小部屋が一つ空いております。そこなら誰も来ませんわ」
言ってしまって思うのに、もともと自分は祖宗さまが宝玉さまに与えた丫鬟である。仮に主と体を合わせたとしても礼を失したことには当たるまい。そう自らを説得して宝玉と床についた。
襲人はわずかな灯火のもと、自分の衣服がするすると剥がされていくのを他人のことのように感じていた。主の指が、唇が、自分の肉体のそこかしこに触れるのを、ただただ為されるがままに受け入れていく。
私は丫鬟なのだ。宝玉の丫鬟なのだ。体と体が触れ合うたびにそう思おうとする。だが、あることがその襲人の納得の邪魔をしていた。
まだ陽が落ちる前、我が主、宝玉が夢について語ったときのことだ。太虚幻境で娶せた秦可卿。その可卿について語る主はこれまでに見たどのときよりも熱っぽかった。
夢の女人に嫉妬するなんて。そんな自分を浅ましく思い、今現実に抱かれているのは自分なのだと思いこもうとする。
だが、本当に抱きたかったのは自分なのだろうか。夢の世の女人でなかったとしても……。栄国府の女性たちが次々と思い浮かぶ。
晴雯、金釧児、薛の姑娘、そして林の……。
そう考えている最中にも、主の肉体は襲人を覆い、いっそうの熱を帯びてきていた。宝玉に惑いや迷いはないように思われた。
不意に涙がこぼれる。涙は宝玉の肌を伝っていった。それでも宝玉の熱はおさまらない。優しい言葉の一つも聞こえてこなかった。どうやら襲人が泣いていることすら気づいていないらしい。
その刹那、襲人は宝玉の両肩にしっかりと爪を立てた。宝玉の体が静止する。忠実な丫鬟のささやかな抵抗だった。
その日は風が涼やかな夜だった。
黛玉は碧紗櫥の遊廊を鸚哥と歩いていた。この日は黛玉が中途で目を覚ましてしまい、そのまま寝つくことができず、少し散歩でもしましょう、と鸚哥がうながしたのだった。
ちょうど十六夜の月が雲間から顔をあらわしたとき、やわらかな光が降りそそぎ、向こうからやってくる二つの人影を映し出した。
「今夜は良夜ですわね。林の姑娘」
笑いかけるのは宝玉の丫鬟、花襲人だった。黛玉も会釈で返す。
襲人の隣には宝玉が並んでいたが、顔を背けて目を合わそうともしない。
鸚哥は賈の公子が癇癪持ちのへそ曲がりなのは重々承知していたから不思議にも思わなかった。
だが、二組が完全にすれちがってしまってから黛玉が言った。
「変だわ」
鸚哥はすかさずなだめる。
「宝玉さまはきっと虫の居所が悪かったのですよ」
「いいえ、違うわ。いつもと違うわ」
黛玉は繰り返した。
「それにね。私はいつも毎晩欠かさず夢を見るでしょう?」
鸚哥がうなずく。
「ええ、悪い夢を見られたときにはいつも鸚哥がお慰め申し上げております。何か今夜も夢を見られましたか?」
黛玉は首を横に振った。
「いいえ。見なかったの。昨日も今日も」




