第一回 6
「いやあ、雨村さん。立派なご抱負ですな」
こちらへ向かってくる影を見ると士隠であった。
雨村は頭をかきながら、
「見られておりましたか。お恥ずかしい。恐悦至極にございます。で、士隠老においてはこんな宵になぜこんな破れ寺へ来られたのですか?」
「時は中秋、団円の節句にあたります。貴兄は人に図抜けた才能を持ちながら、葫盧廟へと独りで住まわれている。これほど月の美しい夜だ。さぞかし寂しい思いをしておられるだろうと考え、虫集くなか、こうして参った次第。よろしければ拙宅で一献差し上げたいのだがいかがか?」
雨村は破顔しながら、
「それは願ってもないことです。ぜひご相伴にさずかりましょう」
と言い、月下に拱手した。
互いの膳に美食美酒が並ぶ。
二人はちびりちびりと酒を飲んでいたが、食事と酒がすすんでくると、差しつ差されつ酒を交わし合った。
門の外からは、中秋を言祝ぐ三弦、笛の音、人々の笑い声、頭上には薄絹のような月影がさしかかっている。ここにいたって、雨村はにわかに興をもよおし、一絶句を口ずさんだ。
時三十五に逢うて便団円し
満把の晴光 玉欄に護らる
天上の一輪 わずかに捧げ出づれば
人間の万姓頭を垂れて看る
「素晴らしい!」
士隠は感嘆の息を漏らした。
「つねづね、貴兄はあんな寓居にじっとしている人物ではないと思っていた。今の貴兄の詩にもその志がはっきりと現れている。中秋の名月もかくやというものだ。いや、めでたい!」
そう言いつつ、盃になみなみと酒をそそぐと雨村にあおぐようにうながした。
雨村はそれをちびりちびりとやりつつ、
「正直に申し上げれば、科挙に受かる自信は相応にございます。ですが、私といえばその日暮らしの代書、売文で生計を立てている身。都への路銀など体中からかき集めても出てきません。青雲の志を抱きながら、それを果たすすべがない」
それを聞くと士隠はたちまち膝を立てた。
「なぜそれを早く言わなかったのか。貴兄と私の仲ではないか。来年はちょうど大比の年にあたり、年ごろもよい。都までの費用は私が工面するゆえ、積年の想いを果たされるとよい」
そう言うと、すぐさま小童に命じて、五十両の銀子、二枚の冬着を持って来させた。
「さも十九日は黄道吉日。その日に出立なされるといい。ぜひ次の科挙に受かっていただき、明くる冬、再び見えようではないか」
士隠のうきうきとした様子とは裏腹に雨村の態度はどこかそっけなかった。それでも形ばかりの礼を言い、時間が三鼓におよぶころ、雨村は士隠邸を後にした。その際、雨村は科挙のことについては一言だにしなかったが、
「貴殿の邸宅におられる十八、九ばかりの女中、かの娘は何という名ですか?」
それだけをぽつりと言った。
士隠はその問いが意外に思われて、しばらく考え込んでいたが、
「嬌杏のことか? ここにきて、もう三年にもなるだろうか? 気立てのよい子で、もう他家に嫁してもいい年ではあるが、いまだもらい手がない。もし、あなたがかの娘を所望しているのであれば……」
そう言いかけて、雨村がすでに妻帯していることに気づいた。裕福な身であれば妾をもつこともやぶさかではないが、いかんせん雨村にはそんな余裕があるべくもない。口をつぐみ、相手が口を開くのを待った。だが、いっこうに雨村から答えが返ってくることはなかった。含めるように、「嬌杏、嬌杏」と繰り返すだけである。
「夜も更けた。気をつけてな」
そう、かの後姿に声をかけるけれど、返事はなくただ影がうごめくのみ。月には薄暗い雲がかかりはじめていた。
雨村はつれない態度をとったけれども、もとより士隠はそのようなことを意に介する人柄ではない。中央に便宜がはかれるように、紹介状を二通も書き、雨村の出立の日に手渡すつもりだった。枕頭にそれを置くと、酒がずいぶん入っていたこともあって、ぐっすりと眠った。
目覚めたころにはもう日が高く上っていた。士隠が目を開けるのと、小童が入ってくるのが同時だった。
「旦那さま! 雨村さまはもう出立なさったようです」