表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅楼夢  作者: 翡翠
第一回 甄士隠(しんしいん) 夢幻(むげん)に通霊(つうれい)を識(し)り 賈雨村(かうそん) 閨秀(けいしゅう)に風塵(ふうじん)を懐(おも)う
6/117

第一回 6

「いやあ、雨村さん。立派なご抱負ですな」

 こちらへ向かってくる影を見ると士隠であった。

 雨村は頭をかきながら、

「見られておりましたか。お恥ずかしい。恐悦至極きょうえつしごくにございます。で、士隠老においてはこんな宵になぜこんなれ寺へ来られたのですか?」

「時は中秋ちゅうしゅう団円だんえんの節句にあたります。貴兄あなたは人に図抜ずぬけた才能を持ちながら、葫盧廟へとひとりで住まわれている。これほど月の美しい夜だ。さぞかし寂しい思いをしておられるだろうと考え、虫集すだくなか、こうして参った次第しだい。よろしければ拙宅せったく一献いっこん差し上げたいのだがいかがか?」

 雨村うそん破顔はがんしながら、

「それは願ってもないことです。ぜひご相伴しょうばんにさずかりましょう」

 と言い、月下に拱手きょうしゅした。

 互いのぜん美食びしょく美酒びしゅが並ぶ。

 二人はちびりちびりと酒を飲んでいたが、食事と酒がすすんでくると、差しつ差されつ酒を交わし合った。

 門の外からは、中秋を言祝ことほ三弦さんげんふえの音、人々の笑い声、頭上には薄絹うすきぬのような月影がさしかかっている。ここにいたって、雨村はにわかにきょうをもよおし、一絶句ぜっくを口ずさんだ。


 時三十五に逢うて便すなわち団円だんえん

 満把まんぱの晴光 玉欄ぎょくらんらる

 天上の一輪 わずかに捧げ出づれば

 人間じんかん万姓ばんしょうこうべを垂れて


「素晴らしい!」

 士隠は感嘆かんたんの息を漏らした。

「つねづね、貴兄あなたはあんな寓居ぐうきょにじっとしている人物ではないと思っていた。今の貴兄の詩にもそのこころざしがはっきりと現れている。中秋の名月もかくやというものだ。いや、めでたい!」

 そう言いつつ、盃になみなみと酒をそそぐと雨村にあおぐようにうながした。

 雨村はそれをちびりちびりとやりつつ、

「正直に申し上げれば、科挙かきょに受かる自信は相応そうおうにございます。ですが、私といえばその日暮らしの代書、売文で生計を立てている身。都への路銀ろぎんなど体中からかき集めても出てきません。青雲せいうんこころざしを抱きながら、それを果たすすべがない」

 それを聞くと士隠はたちまち膝を立てた。

「なぜそれを早く言わなかったのか。貴兄と私の仲ではないか。来年はちょうど大比だいひの年にあたり、年ごろもよい。都までの費用は私が工面するゆえ、積年せきねんの想いを果たされるとよい」

 そう言うと、すぐさま小童に命じて、五十両の銀子ぎんす、二枚の冬着を持って来させた。

「さも十九日は黄道吉日こうどうきちじつ。その日に出立しゅったつなされるといい。ぜひ次の科挙に受かっていただき、明くる冬、再びまみえようではないか」

 士隠のうきうきとした様子とは裏腹うらはらに雨村の態度はどこかそっけなかった。それでも形ばかりの礼を言い、時間が三鼓さんこにおよぶころ、雨村は士隠邸しいんていを後にした。その際、雨村は科挙のことについては一言だにしなかったが、

貴殿きでん邸宅ていたくにおられる十八、九ばかりの女中、かの娘は何という名ですか?」

 それだけをぽつりと言った。

 士隠はその問いが意外に思われて、しばらく考え込んでいたが、

嬌杏きょうきょうのことか? ここにきて、もう三年にもなるだろうか? 気立てのよい子で、もう他家たけしてもいい年ではあるが、いまだもらい手がない。もし、あなたがかのむすめ所望しょもうしているのであれば……」

 そう言いかけて、雨村かれがすでに妻帯さいたいしていることに気づいた。裕福ゆうふくな身であればしょうをもつこともやぶさかではないが、いかんせん雨村にはそんな余裕よゆうがあるべくもない。口をつぐみ、相手が口を開くのを待った。だが、いっこうに雨村から答えが返ってくることはなかった。含めるように、「嬌杏、嬌杏」と繰り返すだけである。

「夜も更けた。気をつけてな」

 そう、かの後姿に声をかけるけれど、返事はなくただ影がうごめくのみ。月には薄暗い雲がかかりはじめていた。

 雨村はつれない態度をとったけれども、もとより士隠はそのようなことを意にかいする人柄ではない。中央に便宜べんぎがはかれるように、紹介状を二通も書き、雨村の出立の日に手渡すつもりだった。枕頭ちんとうにそれを置くと、酒がずいぶん入っていたこともあって、ぐっすりと眠った。

 目覚めたころにはもう日が高く上っていた。士隠が目を開けるのと、小童が入ってくるのが同時だった。

「旦那さま! 雨村さまはもう出立なさったようです」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ