第五回 6
宝玉が目を閉じると、ぼんやりして目を閉じた。
なおも秦氏が前にいるような気がして、ふらふらとさまよい歩く。秦氏が止まるとそこは朱い欄干が見え、緑の木々に清らかな川の流れ、どんな人間も訪れたことの無いような、俗塵のおよばぬところだった。
宝玉は夢幻のなかで嬉しくなって言った。
「ここはなんて素晴らしいんだろう! ここで一生を過ごせたら家なんか失っても構わない。毎日、両親や先生に縛られているよりはずっとましだ!」
宝玉がそんな空想にひたっていると、山の向こうから誰かの歌声らしきものが聞こえてきた。
春夢 雲に随って散じ
飛花 水を逐いて流る
言を衆児女に寄す
何ぞ必ず閒愁を求めん
宝玉は夢の中でさらに目を閉じる。そして復唱する。
春の夢が雲とともにちりぢりになっていく。
花びらは水を追うようにして流れていく。
この歌はぼくたち子どもに教えてくれているんだ。
なんでわざわざ悩もうとするのか、と。
そこまで思考がたどり着いたとき、宝玉はその歌声が美しい女性の声であることに気づいた。歌声がやまぬうちに一人の女性があらわれた。軽やかに、舞うようにあでやかで、どこか消えかかりそうでもあり、この世のものとは思えなかった。
「仙女さま!」
気づいたときにはそう口をついて出ていた。
仙女はゆったりと宝玉を振り向く。
麝香と蘭香の入り混じったような得も言われぬ香気がただよってき、仙女の身に着けている玉環がちりんとすずやかな音を立てた。
「仙女さま! 仙女さまはどちらからおいでになったのですか? どちらにお行きになるのですか? 私はここがどこかまったく分からないのです。ぜひご一緒させてください」
仙女は桃花のようなえくぼをつくり、にっこりと笑った。
「わたくしは離恨天の上、灌愁海の真中に住んでおります。放春山の遣香洞、太虚幻境の警幻仙姑とはわたくしのこと。満たされない男女の風月、男女の恨みや愚かさというものはすべてわたくしが司っています。ある恋に憑かれた者たちがこちらでの思いを絶ち切れずにいるので、折をみて絡みついている因縁を解きほぐそうとやってきたのです。いまあなたにあったのも偶然ではないでしょう。ここは私の住むところから遠くありません。そこにはわたくしが手ずから摘んだ仙茶を一杯、わたくしが醸した美酒が一甕、白い練絹をまとった天魔舞の歌姫が数人、新たにこしらえた「紅楼夢」仙曲が十二曲あるだけです。それでよければわたくしに随いて太虚境に遊んでみますか?」




