第一回 5
士隠はふと我に返ると、やはりあの二人は普通の人間ではなかったのだとあらためて思い、
「もう少し詳しい事情を聞いておくべきだった」
と後悔したが、すでに遅かった。
暗雲が立ちこめ湿った雨が天上から漏れ出してきていた。士隠は今度こそ自らの家へと戻るべく英蓮を抱きなおしながら、向きなおった。
「士隠老ではありませんか」
自分の名を呼ぶ声に思わず振り返る。
「おぉ、賈君ではないか」
そこに立っていたのは、賈雨村という葫盧廟に下宿している貧しき儒者であった。彼は湖州の生まれで、もともと勢力のある一族の出身だったが、彼の代において家財を無くし、身内のものもほろほろと死に絶えて、郷里でひとりぼっちになってしまった。
そのため、都にのぼり一旗あげようと科挙の試験を受け、官吏になり、家を再興しようと青雲の志を抱いていたのであるが、日銭に窮してしまい、やむなく代書や里村の子らを集め学を教え、糊口をしのぎながら、葫盧廟に寄宿していたのであった。
「士隠老、何を門の前でぼうっとされているのですか? 何かございましたか?」
見られていたのか、士隠は一瞬顔をしかめたがあの夢幻のようなできごとを軽々(けいけい)に人に言うわけにもいかない。
「いや、この英蓮がやけにぐずるものでな。特にどうということもない。さきほどまで昼寝をしていたところだ。ぜひお茶でも飲みかわそうじゃないか」
そう言って士隠は妻に英蓮を渡すと、手をとりながら賈雨村を屋敷のなかまで案内し、お茶をつぎかわしながら、日々の他愛もないよしなしごとについて語り合っていたときだった。
「士隠、厳大人がお見えになりました」
不意に妻が言った。
士隠は妻と雨村を交互に見ていたが、申し訳なさそうに雨村につぶやいた。
「せっかく来ていただいたのに申し訳ない。どうやら客人が来られたようだ。少しお待ちくださるかな?」
それを聞いて雨村はあわてて立ち上がり、
「お気になさらないでください。私のような貧乏人をあなたの屋敷にあげていただいているだけでもありがたいことなのです。ちょうど詩情をもよおしてきたところですから、詩でもつくりながらお待ちすることにいたします」
「かたじけない。すぐに戻ってくる」
士隠が去ってしまうと、口実とはいえ作詩をすると言った手前、何もしないわけにはいかない。部屋をぐるぐると回りながらああでもないこうでもないと考えをめぐらせていた。
そのとき、窓の外で小さな女のくしゃみが聞こえた。雨村がのぞいてみると、清真な顔立ちの女中が花を摘んでいるところだった。それほど美人というわけではない。だが、その面立ちにはどこかしら雨村の心をひきつけるところがあった。
雨村は作詩をしようという自分の思いも忘れて、その女中のことばかり見つめていた。女中は花を摘み終わるとどうやら雨村に気づいたようすだった。彼女もまた雨村を見つめている。
女中も雨村の身なりをじっと観察していた。身なりは貧乏だが、がっちりした体格、煌々(こうこう)と輝く大きな眼、まっすぐ通った鼻、しっかりと角ばった顎……。あれが士隠の常に口にしていた賈雨村という青年に違いないと思った。
お互いが見つめ合うにつれ、雨村はこれこそが自分の探し求めてきた女だと思わずにいられなくなった。見つめる視線にも熱が入っていく。
そのとき小童が入ってきて、表のお客にお膳がでるとのこと。一時はかかってしまうだろう。長くいても仕方あるまいと思い、片膝をあげて立ちあがった。そのとき再びかの女中と目が合い、うれしさを隠せぬまま自分の仮寓へと帰路についた。
その日はおりしも中秋の名月であった。葫盧廟の荒れ窓からも美しい月影がさしこんでくる。賈雨村はそれに強い詩情を惹きたてられ、またそのやわらかな光がかの女中の可憐なようすを思い出させたため、気がつくと五言律詩を口ずさんでいた。
未だ三生の願いを卜せず
頻りに一段の愁いを添う
悶え来たっては時に額を斂め
行き去らんとして幾たびか頭を回らす
自ら風前の影をかえりみては
誰か月下の儔に堪えん
蟾光もし意あらば
先ず上れ月下の楼に
雨村はその情を吟じ終わると、自分の不運を嘆き、いまだ幸いにめぐりあえぬその思いを天に向かって一聯の詩句を詠じた。
玉は櫝中に在りて善價を求めず
釵は奩內において時を待って飛ばんとす