表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅楼夢  作者: 翡翠
第一回 甄士隠(しんしいん) 夢幻(むげん)に通霊(つうれい)を識(し)り 賈雨村(かうそん) 閨秀(けいしゅう)に風塵(ふうじん)を懐(おも)う
5/117

第一回 5

士隠はふと我に返ると、やはりあの二人は普通の人間ではなかったのだとあらためて思い、

「もう少し詳しい事情を聞いておくべきだった」

 と後悔したが、すでに遅かった。

 暗雲あんうんが立ちこめ湿った雨が天上から漏れ出してきていた。士隠は今度こそ自らの家へと戻るべく英蓮を抱きなおしながら、向きなおった。

士隠老ろうではありませんか」

 自分の名を呼ぶ声に思わず振り返る。

「おぉ、君ではないか」

 そこに立っていたのは、賈雨村かうそんという葫盧廟ころびょうに下宿している貧しき儒者じゅしゃであった。彼は湖州こしゅうの生まれで、もともと勢力のある一族の出身だったが、彼の代において家財かざいを無くし、身内のものもほろほろと死に絶えて、郷里きょうりでひとりぼっちになってしまった。

 そのため、都にのぼり一旗あげようと科挙かきょの試験を受け、官吏かんりになり、家を再興さいこうしようと青雲せいうんの志を抱いていたのであるが、日銭ひぜにきゅうしてしまい、やむなく代書だいしょ里村りそんの子らを集めがくを教え、糊口ここうをしのぎながら、葫盧廟に寄宿きしゅくしていたのであった。

「士隠老、何を門の前でぼうっとされているのですか? 何かございましたか?」

 見られていたのか、士隠は一瞬顔をしかめたがあの夢幻むげんのようなできごとを軽々(けいけい)に人に言うわけにもいかない。

「いや、この英蓮がやけにぐずるものでな。特にどうということもない。さきほどまで昼寝をしていたところだ。ぜひお茶でも飲みかわそうじゃないか」

 そう言って士隠は妻に英蓮を渡すと、手をとりながら賈雨村を屋敷のなかまで案内し、お茶をつぎかわしながら、日々の他愛たあいもないよしなしごとについて語り合っていたときだった。

士隠あなた厳大人げんたいじんがお見えになりました」

 不意に妻が言った。

 士隠は妻と雨村を交互に見ていたが、申し訳なさそうに雨村につぶやいた。

「せっかく来ていただいたのに申し訳ない。どうやら客人きゃくじんが来られたようだ。少しお待ちくださるかな?」

 それを聞いて雨村はあわてて立ち上がり、

「お気になさらないでください。私のような貧乏人をあなたの屋敷にあげていただいているだけでもありがたいことなのです。ちょうど詩情をもよおしてきたところですから、詩でもつくりながらお待ちすることにいたします」

「かたじけない。すぐに戻ってくる」

 士隠が去ってしまうと、口実とはいえ作詩をすると言った手前、何もしないわけにはいかない。部屋をぐるぐると回りながらああでもないこうでもないと考えをめぐらせていた。

 そのとき、窓の外で小さな女のくしゃみが聞こえた。雨村がのぞいてみると、清真せいしんな顔立ちの女中が花を摘んでいるところだった。それほど美人というわけではない。だが、その面立おもだちにはどこかしら雨村の心をひきつけるところがあった。

 雨村は作詩をしようという自分の思いも忘れて、その女中のことばかり見つめていた。女中は花を摘み終わるとどうやら雨村に気づいたようすだった。彼女もまた雨村を見つめている。

 女中も雨村の身なりをじっと観察していた。身なりは貧乏だが、がっちりした体格たいかく、煌々(こうこう)と輝く大きなまなこ、まっすぐ通った鼻、しっかりと角ばったあご……。あれが士隠しゅじんの常に口にしていた賈雨村という青年に違いないと思った。

 お互いが見つめ合うにつれ、雨村はこれこそが自分の探し求めてきた女だと思わずにいられなくなった。見つめる視線にも熱が入っていく。

 そのとき小童わらわが入ってきて、表のお客にお膳がでるとのこと。一時さんじゅっぷんはかかってしまうだろう。長くいても仕方あるまいと思い、片膝をあげて立ちあがった。そのときふたたびかの女中と目が合い、うれしさを隠せぬまま自分の仮寓かぐうへと帰路きろについた。


 その日はおりしも中秋の名月であった。葫盧廟のれ窓からも美しい月影がさしこんでくる。賈雨村はそれに強い詩情をきたてられ、またそのやわらかな光がかの女中の可憐かれんなようすを思い出させたため、気がつくと五言律詩ごごんりっしを口ずさんでいた。

 いま三生さんしょうの願いをぼくせず

 しきりに一段のうれいを

 もだえ来たっては時に額をあつ

 行き去らんとして幾たびか頭をめぐらす

 自ら風前の影をかえりみては

 誰か月下のたぐいこたえん

 蟾光げっこうもしこころあらば

 ず上れ月下のろう


 雨村はそのおもいぎんじ終わると、自分の不運を嘆き、いまださいわいにめぐりあえぬその思いを天に向かって一聯いちれんの詩句をえいじた。


 玉は中に在りて善價ぜんかを求めず

 奩內れんないにおいて時を待って飛ばんとす


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ