第四回 15
賈母から梨香院に住むよう言われた薛のおばさまだったが、もともと自分もそのつもりだったので、一も二もなくその提案を受け入れた。だが、姉である王夫人へ内々に人をやらせ、「日々の生活の費用はこちらから出します。これは当たり前のことですから」と言わせた。
「こちらでお支払いしなくてよろしいんでしょうか?」
金釧児が心配そうに言う。
「あの息子が取り仕切っているとはいえ、あの薛家ですよ。心配ありません。こちらが払ってしまえばかえって気を遣わせてしまうことになります。それよりあなたは皆さまを梨香院までお送りなさい」
金釧児は一礼すると、侍女の彩霞とともに薛家の面々を迎えに行った。
連れ立って、王夫人の正房を東側から出て、一本筋の路地を通っていく。
「梨香院は栄国公が晩年に静養された場所です」
金釧児が手を差し伸べながら説明する。
「十あまりの部屋があり、広間と居間もございます」
「装飾も他の建物に比べて凝ってあるのね」
王夫人が感心したように言う。そのあとを宝釵がおとなしくついていく。
薛蟠は不貞腐れながら、少し離れて歩いている。
「これだけ素晴らしいと一時と言わず、ずっと住んでいたくなるわね」
薛のおばさまは顔をほころばせた。
だが、薛蟠はずんと憂鬱な気持ちになる。これほど王夫人の住居に近く、監視される場所で過ごさなければならないことを考えると、暗い気分になるのだった。
「あなたもちょくちょくこちらにいらっしゃい」
姉の王夫人にそう言われ、薛のおばさまは夕食が終わったあと、手土産を持って、王夫人の住居に向かった。宝釵も侍女をともないながらついていく。
「彩霞! お茶を三人分ご用意さしあげて」
彩霞はゆったりとした振る舞いでお茶を持ってくる。
「今日はご主人が亡くなってからのことをたっぷり聞かせてほしいわ」
王夫人は優しくそう言うと、薛のおばさまの手を握った。
薛のおばさまの目から大粒の涙がこぼれる。夫を亡くし、不肖の息子を持った感慨はいかばかりだったか。愚痴、不満、悲しみ。今まで言葉とならなかったものが実の姉の前で雪崩れてゆく。
出されたお茶が冷めていくほどの時間が経ったころ、探春が宝釵の裾を引っ張った。
「私と碁を打ってくれない? 人数が足りなくて困っているの」
裾を手に変えて引きずられるようにしていくと、迎春、惜春と三春がそろい踏み、黛玉がそばに控えていた。
気を遣ってくださったのだわ、と宝釵は悟り、盤をはさんで探春と向かい合う。
探春が右上の星に打ち、宝釵はその斜め上、コスミに打ち込んだ。そこから、白、黒、白、黒、と交互に打ってゆく。七十手ほど過ぎたころには宝釵の黒が盤面を支配していた。
「……お強いわ」
探春は感嘆しながら投了した。それから迎春、惜春と早指しで挑戦してゆくが、誰も宝釵にかなうものはいなかった。
「林の姑娘、ぜひ薛の姑娘とお相手を」
そううながされて、黛玉は鸚哥を一瞥する。鸚哥はしっかりとうなずいた。
それでようやく黛玉は差し向いになり、白の石を持った。胃がきりきりと痛む。勝ち負けではない。この新しい姑娘に対して、どう振舞うか、どう碁を打つべきか、場合によっては少し手を抜くべきだろうか、迷いながら宝釵の手に応手を返していく。だが、そのうちに手を抜く必要などないことに気づく。
強い。相手の陣地へ積極的に石を放り込んでゆく黛玉の棋風とは異なるがじっくりと地に厚い打ち方をする。気を抜くとじりじりと追い込まれていきそうだ。黛玉の額にも汗がにじむ。
中盤、情勢は切迫していた。勝ち負けがどちらに転んでもおかしくない。ここで宝釵が長考に入る。沈黙が広間におとずれる。
「宝釵さま、お帰りのお時間です」
侍女の鶯児が静かに言った。
宝釵はすっと盤の前から立つと、三春の三姉妹や黛玉へ挨拶をし、鸚哥や金釧児といった侍女たちにも会釈をしながら帰ってゆく。
打ちかけの盤と黛玉だけがそこに残った。黒と白の石が鮮やかな文様を描いているのを黛玉は呆然と眺めていた。
はじめ、賈家の重鎮たちからうるさく言われることを危惧していた薛蟠も、意外にもそれほど干渉されず、かえって自由にできることを喜んでいた。
ひと月も経たないうちに、賈環、賈璉といった賈家のなかでもやんちゃな子弟たちと親しくなっていった。そこから泥沼にはまっていくのに時間はかからなかった。今日は宴会、明日は花見、賭博に女遊びと、できうる限りのことをし尽くして、薛蟠は以前より十倍も堕落してしまった。




