第四回 11
「それはこの子に妃となれということですか?」
母親は苦渋の顔を見せた。
「もちろん、そうなってもらえれば最上ですが……」
薛蟠がほくそ笑む。
「天子さまは今、公主さまの介添えとして才人、賛善の女たちを募られています。宝釵であれば容姿にせよ、その才にせよ、遜色はありませぬ」
母親は横目で宝釵を見る。宝釵は深く頷いた。
「それが一つ」
「一つ!?」
「二つ目は我が親戚に会うことです。ことに賈政姨爹はいまや日の出の勢い。父が不在の薛家にはぜひとも後ろ盾となっていただかなくてはなりません」
そこでようやく母親の顔がほころぶ。もはや四十に手が届こうとする齢にあって、頼りない息子と、頼りがいがあるとはいえ、年若い娘だけでは心細い。身を乗り出すようにして賛成した。
「三つ目には戸部に出向き、新しい支給を受けるためです」
今度は少し逡巡があった。
「そのために今までの精算をしなければなりませんから、相応の金を準備してください」
母親はがっくりと肩を落とした。宝釵がいたわるように母親の背中をさする。「呆覇王」のあだなを持つうつけとはいえ、薛蟠は金陵薛家の当主である。決定にさからうことはできない。母娘はそろって静かにうなずいた。
出立は三日後の吉日と決まった。船を三隻用意し、旅中の道具や、周辺の家財、親戚や友人に渡す土産を積み込み、留守を任せた古参の家人たちが旗を振りながら見送る。
穏やかな波が揺らめくなか、船が岸を離れると薛蟠はようやく自由になった、と思った。金陵の御曹司という肩書も、皇商として商いが上手くいっていないという焦りも、家人たちから毎日のように繰り出されるお小言もこれですべて無くなる。真っ新な都での日々が始まる。ただ一つだけ、薛蟠には心に懸っていることがあった。舅舅である京営節度使の王子騰のことである。
一族の実質的な長である子騰は薛蟠にとって目の上のたんこぶだった。そのことだけが気がかりで、膝を揺すらせながら、船内で乳粥を腑臓におさめていた。お代わりをしようと空の椀をすすめたときだった。
「王子騰さま、九省統制へご昇進!」
伝令の者が高らかに叫んだ。船内がどっと沸き立つ。
薛蟠も椀を落とさんばかりに喜んだ。むろん、栄転のことそのものではない。その次の言葉があったからだ。
「明日にも都を出立され、地方へ査察に赴かれるとのこと」
「早船を用意し、舅舅上に祝いの品と文を届けよ。今夜は祝杯だ!」
ようやく解放された。そのことと都での楽しみを思えば、薛蟠は笑いをこらえることができないのだった。




