第一回 4
甄士隠は彼らの言葉を草むらの中からじっと聞いていたが、愚か者という一語がどうも引っかかり、頭から離れない。
「ちょっとお聞きしたいのですが……」
おずおずとお辞儀をしながら頼み込む。
僧侶も道士も不意に出てきた士隠に驚くでもなく泰然としている。
「ほう、ようやく顔を出したか」
その一言が士隠を困惑に引きずり込む。
「私が隠れていたことをご存じだったのですか?」
僧侶と道士は顔を見合わせる。
「知らないはずがなかろう。天地神明すべてかと問われるといかんとも言い難いが。ことに人間の営みにはいつも驚かされる」
「で、聞きたいこととはなんだね」
道士が咳ばらいをしながら言った。
「おそれながら、草葉の陰からお二方のお話を聞いておりました。いかようにも奇特な話だと思い拝聴していた次第です。ですが、ところどころ、はっきり分からぬところがございます。人のさだめの神髄の一端でもお明かしいただければ私に思い残すことはございません」
そう士隠が平伏するのを二人は黙って眺めていた。
「まぁ、そうかしこまりなさるな。ただ、あなたに深くは教えることはできん。天機もらさずというところだ。あきらめなさい」
僧侶が哄笑するのに士隠は食い下がる。
「無理を曲げてお願いすることはできません。ただ、しかしあの愚かものとは何を指しているのか、それだけでもお教えねがえないでしょうか?」
「ああ、それであればあなたにも関係がないことではない」
僧侶はそう言うと、袖の中からかの珠を取り出した。
その珠は美しく透きとおり、表に彫られた文字も鮮やかに、「通霊宝玉」の四字が刻まれていた。士隠がまじまじとそれを見ようとしたときである。
「おや、もう幻境だ」
僧は士隠の手から珠をすっと取り返すと、道士とともに大きな石の牌坊の二柱のあいだをくぐり抜けていってしまった。その牌坊の上には大きく「太虚幻境」の文字があり、その両側に対聯がかかっていた。
仮の真となるとき真もまた仮
無の有たるところ有もまた無
士隠はどうにか彼かを追いかけようと一歩進めたが、瞬間、雷鳴がとどろき、士隠はあっ、と叫んだ。
目覚めてみると、真夏の太陽が照りつける我が書斎であった。涼風に芭蕉の葉がゆらゆらと揺れている。覚めてみるとあれほど強烈だった夢のこともすっかり忘れてしまっていた。
そのときちょうど乳母が英蓮を抱いてこちらに向かってくるところだった。士隠は頭の中のもやもやを振り払うように、珠のように美しいわが娘を抱きとって、表を見て回っていると、ちょうど祭礼の行列がしずしずと通りを歩いているところだった。
あらかた見物が終わり、門に入ろうとすると祭礼の行列と逆の方角から僧侶と道士が連れ立って歩いてきた。思わず士隠は後ずさりする。
僧は頭にできものがひまなくできており、薄黒いはだしのままだし、道士の方はと言えばざんばら髪で見たところ目が白濁し正気ではなさそうだった。彼らは何やら不気味に談笑しながら士隠と英蓮の方に近づいてくる。
僧は士隠が英蓮を抱いているのを見ると、大声をあげて泣き出し、
「あなた、そんな不幸な星回りの子を抱きなすって、どうされるおつもりか。ゆくゆく患いのもととなりますぞ」
士隠は愚かもののたわごとと思って、それを無視していると、
「ぜひに愚僧に、ぜひに愚僧におあたえください」
あまりにも僧侶がうるさいので、門に入ろうとしたときだった。
僧は士隠を指さし、からからと笑いながら、次の詩を吟じた。
今までの声とは似つかぬ天から降ってきたような清らかな声だった。
慣養嬌生てし爾の痴を笑う
菱花空しく対す雪の澌澌たるに
好く妨げ佳節元宵の後
すなわち是れ煙消え火滅するの時
士隠ははっきりとその言葉を聞き取り、二人の来歴をたずねたものか迷っていると今度は道士が僧に向かって言った。
「二人で行かなくてもここで別れて、それぞれの役目を果たすこととしよう。三劫の後、北邙山にて待ち合わせ、二人で太虚幻境へと待ち合わせ、報告をすることにしよう」
「なるほど、それがいい」
そう言うと、二人は影も形も見えなくなってしまった。