第四回 7
さも知っているだろうとばかりに出されたものの、雨村にはそれがただの枝であり、筆にしか見えなかった。
「さしもの明晰な老爺さまも知らないことはあるようですな」
そう皮肉っぽく言われても、分からないものは分からない。多少の苛立ちはあったものの、丁重に問うと、鯫生の口からようやく扶鸞の二文字が出た。
扶鸞か、と雨村は思う。扶鸞は占いの一種であり、主と助手とで協力して神を降ろし、砂に書かれた文字によって託宣を得る。この一見、ばかばかしく思える占いは、賈雨村の同輩たち、上流階層にも流行していたが、雨村はそれを忌避していた。
鬼神を敬して之を遠ざくのが儒者として、官としての正しい態度だと思っていたし、それに執心する自称知識人たちを心で嘲笑ってもいた。
「神を降ろすための祭壇をもうけて、兵士や民たちに大っぴらに見せるのです」
鯫生は演ずるかのように静かに言った。
翌日、裁きの堂の前には簡素な祭壇が設けられ、日が南中するころには、官吏、兵士、老人、若者、子ども、奴婢にいたるまで、郷中の人々が祭壇をとりまくようにひしめき、何事が始まるのかとざわめきあっていた。
照りつける日差しが群衆に汗をにじませるほどになる頃合い、うやうやしく腰元たちに連れられるようにして、賈雨村が祭壇の中央に立った。その傍らには鯫生が付き添い、砂を平らにならした沙盤を持っていた。
雨村は深く呼吸をし、大きく手を広げながら神を降ろす。枝の先からぶら下がる筆が微風に揺れる。
「天地に従える神々よ。金陵が住人、馮淵を殺害した下手人を教えたまえ」
うやうやしく雨村が言うと、枝の先がおもむろに動き出し、沙盤の上に薛蟠の二字を描いた。
「薛蟠と出ました」
鯫生が厳かに言うと、群衆がどよめいた。
「……薛蟠か。あの薛家の。金陵の名家のせがれともあろう者がおろかなことよ」
雨村はため息をつくように言い、続けて、
「薛蟠はいずこにいるかお教えください」
と神に問うと、
「他死了」
とたどたどしい筆が描く。
「なんと! 薛蟠はもう死んでいると!」
堂の中は再び沸き立った。
「老爺さま。ただ占しただけではそれが事実かどうか判ぜませぬ」
鯫生がそう口添えると、群衆のなかから呼ばう声があった。
「知事さま! お待ちください!」
大きく手を挙げているのは歯がぽろぽろと抜けている老婆だった。
「薛の公子が亡くなられているという証拠はここにございます」
老婆にしたがうように家人たちが棺を引きずる。
「薛の公子は馮の公子を死に至らしめてしまったことを気に病み、崖から身を投げられたのです」
薛家の下人たちはさめざめと泣いた。
「顔をご覧になりますか?」
雨村は小さく首を横に振った。
「身投げをした以上、顔も見られないものになっていよう。いくら人殺しの重罪人とはいえ、死人を冒涜することは人の道に外れる」
「老爺さま、それではこのたびのことはどういう沙汰を……」
鯫生が心配そうに言った。
「本来なら死罪に値するところだが、主犯である薛蟠が死亡してしまったのでは仕方がない。薛家には相応の金子をもって贖うことで沙汰やみといたす」
そう雨村が言うと、群衆が賛同のためにどっと沸いた。
すでに日は沈んでいた。人々は一人、また一人と帰路に着く。冷ややかな夜風があたりを包んでいく。
「……鯫生。これでよいか」
「上出来にございます」
古くからの側近のように鯫生がうやうやしく言った。
「何という馬鹿馬鹿しさだ」
雨村は誰にも聞こえないよう、うめくようにつぶやいた。




