第四回 3
雨村は目を細めながら相手の顔を見た。
「見覚えはあるが、すぐには思い浮かばないな」
門子は笑いながら言った。
「老爺さまはもうご出自のことすら忘れてしまっておられるのですね。葫蘆廟のあのころのことをもう覚えておられないとは!」
雨村はおおいに驚き、ようやく記憶が蘇ってきた。くわえて門子がここに至るまでの経緯を説明する。
この門子はもともと葫蘆廟の僧だった。廟が火災で焼けた後、心やすまらず、それでもどうにかなるだろうと僧を続けていたが、寺の荒廃に耐えかねて、剃髪していた髪を再び伸ばし、門子となったのだった。
雨村はそこでようやくこの門子を鯫生と呼んでいたことを思い出す。口ばかりたつ、くだらない男だった。だからこそ名前も覚えず、故事にならって鯫生、小魚のようにくだらない男、とあだ名していたのだった。
だが、雨村はあらためて思う。自分が高位にのぼり相手が落ちぶれたとて、無下に扱ってよいものかどうか。古来、富貴にありて、旧知を忘れた人間が生をまっとうした例は少ない。
雨村はすぐに手を握り、笑いながら言った。
「まさか昔なじみだったとは!」
そして雨村は鯫生に座るように言ったが、鯫生はそれを固辞した。
「きみはわたしと貧賤のときからの交わりだ。さらにここは私の私室だよ。遠慮なく座ってくれ」
鯫生はそれでようやく斜め前の椅子に座った。
雨村は言った。
「どうしてさきほど署名を書くことを阻んだのか教えてくれないか?」
鯫生は半笑いしながら答えた。
「老爺さまはこちらにご着任されてから「護官符」の写しを手に入れられましたか?」
雨村は慌てて尋ねた。
「護官符とは何だい?」
鯫生はおおげさにため息をついてみせた。
「昨今では身分の高低にかかわらず、官職にあるものは一枚の書きつけを持っています。そこには中華のうちで富と権勢とを兼ね備えた一族の名前が書かれているのです。もし、そこに書かれた一族の逆鱗に触れたならば、官職や爵位だけではなく、あなたのお命さえ危うくなるでしょう。それゆえ、かの書きつけは“護官符”と呼ばれているのです。たとえば、先ほどの薛家の一件ですが、沙汰そのものを見ればこれほど単純なことはありません。そこには“縁’’や”情“が複雑にからみあっています。老爺さまの手に負える一件ではございません」
話しながら、鯫生は順袋から「護官符」を取り出し、雨村に手渡した。そこにはこの地の名族や名官の俗諺や言い伝えが記されていた。
「賈」は仮にあらず
白玉に堂を為し 金にて馬を作す
阿房宮 三百里 金陵の「史」一人も住めず
東海に白玉の床少なければ 龍王金陵「王」に来るを請う
豊年は大「雪」(だいせつ)に好く 珍珠は土のごとく 金は鉄のごとし
とあり、賈・史・王・薛の金陵四家に対応していた。




