第十三回 5
「おやめください」
女は男の手を払った。男の影はしばらく動かなかったが、嗚咽を漏らすように言った。
「……ならば」
女は押し黙り何も言わない。
「おまえが想っておるのは……」
片方の影がふっ、と闇に沈んだ。
「奶奶!」
ようやく正気を取り戻した丫鬟が叫ぶ。
男が闇の中で女を抱きかかえようとしている。
「お離しください!」
瑞珠はもう一度叫んだ。
「早く奶奶をお運びしなければ」
そう言われ、賈珍は秦氏を抱えようとする。
「降ろしていただきますよう!」
瑞珠は叫ぶ。賈珍はおずおずと秦氏を冷たい石床に置いた。
「下人をお呼びください。そしてここから奶奶を運んでもらうのです」
「……だが、何と申し伝えればいい」
賈珍はばつが悪そうに言う。
「天香楼の方から物音がした、とでもおっしゃられたらいいでしょう」
瑞珠は苛立ちを隠せない。
「とにかく早くお伝えを。このままでは奶奶が!」
賈珍は再び黒い人影となって、階を駆け下りて言った。
瑞珠はすり寄るように主のもとへと近づき、その肉体に触れた。まだ、そこにはわずかな温かみが残っている。
「……私のせいだわ」
瑞珠はつぶやいた。
「あれをここに持ってきてさえいれば」
秦氏の懐からかの文が覗いている。
風が雲を払い、月が光を高楼に差し伸べる。
秦氏の目尻には涙が滲んでいた。
「奶奶……」
すっ、と顔を伏せると、主の唇が濡れているのに気づく。瑞珠は撫でるように己が袖で秦氏の唇をぬぐい、己が目尻もぬぐった。
遠くから蹄の音が聞こえる。月はまた雲に隠れようとしていた。




