第三回 2
雨村はそんなふうに志を新たにしていたのだが、生徒である黛玉は体調がよくなったとはいえ、父親とは別れがたく、と言って栄国府の祖母からはぜひ来るようにと言われてはいるのも断りがたく、黛玉の、その身体以上に華奢な心が地震のように揺れていた。
そんなある日の夕、父の書斎に呼びつけられた。眼前で拱手し、頭をあげたとき、ふだんの温和な父とはまったく異なる顔がそこにあった。
「私ももう百の歳の半分を過ぎようとしている。このうえ新たに妻を娶るつもりもない。一人っ子であるおまえには母が教え諭すこともなく、姉妹の扶けもない。おまえが栄国府の方々を頼ってくれたら、私の悩みも解けようというものだ」
それは一聴、強い怒気を含んでいるようだったが、愛娘への想いはこらえきれず、黛玉の手の甲にあたたかい大粒の涙がこぼれおちた。黛玉もそれに応えるように嗚咽し、じりじりとした夕陽が差し込むなか親子二人で泣いた。
出立の日、黛玉は乳母と栄国府から遣わされた老婆とともに舟へ乗りこみ、雨村の舟も二人の小者とともにその後ろに付き添って、揚州の岸を離れた。
都に着くと、雨村は黛玉にかまわず、まず衣冠を整え、懐から名刺を取り出した。従者である小者たちはそこに書かれている肩書に怪しんだ。「宗侄」と書かれていたからである。
「これはどういった意味でしょう?」
小者の一人が雨村に聞くと、「見て字のごとしだ。宗族の甥という意味だよ」と、こともなげに言う。小者は主人のことながらあきれて物が言えなかった。賈政と雨村とは同じ賈姓であるが、それは遠く漢代に分かれたもので同族というには血脈はほとんどつながっていない。
「ものには体面というものが必要なのだ」
そう言い放って、堂々と栄国府の門番へ名刺を渡すその雨村の姿に小者は開いた口が塞がらなかった。
一方、黛玉が長旅を終え、陸にあがると、船着き場には栄国府からの使いが列を並べて待っていた。黛玉は亡母から外祖母の家は他の家とはまったく違うと聞かされてはいたが、祖母から遣わされた下級の召使であっても身なりや態度が林家のものとははるかに違っていて、船中、その優雅さに少なからず委縮していたのだった。自家と栄国府の身分の差、家格の差というものを道中ずっと意識させられ、日々、服している薬湯の量は倍になり、それでも胃がきりきりと痛んで止まらなかった。
賈家へおもむく旅程ですら、それほどだったのに、まして栄国府へ足を踏み入れるとあらば、一歩一歩の歩みにすら気を配り、ひと時すら油断せず、余計なことは言わないように、余計なふるまいはしないようにと心に留め置くのだが、そう思えば思うほど、胃が再び痛んでくるのだった。
かごに乗って城内に入り、細かな絹で織られた紗の網目越しに外を眺めると、人の混み具合、その賑やかさは揚州の比ではなかった。大通りに沿った門には二頭の大きな獅子の石像が鎮座しており、四柱にもおよぶ大門が来客を阻むように立っていた。
門前には十数人ものきらびやかな衣服を身に着けた番兵がひまなく立っている。
中央の門は閉ざされ、出入りには東西の角門が使われていた。その扁額には勅造寧国府の五文字が伸びやかな篆書で大書されている。
「ここは外祖父のご長男のお家なんだわ」と黛玉はそこが賈赦の屋敷であることに気づいた。そこに一陣、紗を切り裂くような強い風が吹いた。
「都の風はひどく乾いているのね」
黛玉は誰にも聞こえないように籠のなかでひとりごちると寧国府とそっくり同じ、市中の大門が見えてきた。そこが栄国府であることは明らかだった。黛玉は覚悟を決めるように唇の端を噛んだ。