第九回 5
「なんて可愛らしい子だろう」
賈母は今にも頬ずりしそうな勢で秦鐘に語りかけた。
秦鐘は何も言わずうつむいて赤くなる。
「老太太、秦の若君は男の子でいらっしゃいますよ」
周りの者たちがはやすように言うのに、賈母は哄笑し、
「そうだった! 忘れていたよ。ほら、うちの斉天大聖もやってきたようだ。秦の若君にも出かける用意を!」
それを聞いた丫鬟たちは色めきたち、慌ただしく動き始めた。
秦鐘は宝玉の姿を見とめると、急いで拝手し、宝玉はそれに微笑みで返した。
「秦の若君お待たせをいたしました。さあ、参りましょう。時が迫っております」
宝玉はそう言うと、賈母に一礼し、秦鐘の手をひいて退出した。
そのまま家塾へ向かおうとしていた一行だったが、宝玉は思い出したように立ち止まり、
「ちょっと待ってて」
と言い残し房の中に入っていった。
「宝叔はどこに行かれたのです?」
秦鐘が不思議そうに聞くのに、
「若君はいろいろと気になさるので」
と茗烟が薄く笑みを浮かべる。秦鐘は首を傾げたまま、房の前で立ち尽くすより他なかった。
「黛ちゃん」
そう呼ばう声に振り返ろうとしたが、振り返るまでもなくその声の主は鏡に映っていた。
「どうなされたの?」
黛玉は身繕いの手を止め、鏡の中の宝玉に尋ねる。
「今日から家塾に行くことになったから、黛ちゃんには知らせておこうと思って」
黛玉は一瞬顔を強張らせたが、すぐさま振り返り、笑顔をつくって言った。
「いいことじゃない。これであなたもようやく蟾宮に桂を折ることになるでしょう」
続けて一言付け加える。
「私はお見送りできませんけれど」
宝玉は笑って答えた。
「ねえ、黛ちゃん。ぼくが家塾から帰ってきたら一緒にご飯を食べよう。その代わり、紅を練るのもぼくが戻ってからね」
黛玉は冷笑する。
「黛ちゃん、そんな顔をしないで。ぼくだって本当は……」
「賈母は行かせないとおっしゃっていたのに、なぜあなたが行くことになったのかしら?」
「そんなこと言わないで、黛ちゃん」
黛玉は何も言わずに房の出口を唇で指した。
宝玉はそこでようやく身を引いて出て行こうとした。黛玉は急いで宝玉の背中に呼びかける。
「宝の姐姐のところには行かなくていいの?」
宝玉は振り返りざま困ったように微笑み、今度こそ家塾へ向かった。
蟾宮に桂を折る……科挙に合格すること