第九回 2
襲人は顔を伏せて、
「老祖宗のところにご挨拶にうかがう用意をしなければ」
と言いながら奥の房へ入っていった。
宝玉はそれを見るや、晴雯と麝月を呼び寄せ、耳打ちした。
麝月は「はい」と返事をしてうなずき、晴雯はため息をつきながら、不承不承に首を縦に振った。
「お急ぎください。老祖宗が朝餉を済ませてしまいますよ」
と用意を済ませた襲人が宝玉を急きたてる。
「分かったよ」
宝玉は肩を落としながら正房へ向かった。
「頼んだからね」
と二人に言い残して。
襲人の読み通り、賈母はもう少しで朝食を食べ終わるところだった。賈母は宝玉を見とめるや、すぐさま箸をおき、
「そうだ。今日が入学の日だったね」
と言って、宝玉を抱きしめ、言い含めた。
「いいかい。くれぐれも学問だけに集中するように。むこうではおまえを栄国府の公子として見るだろう。秦の若君の着るもの、食べるものには疎漏ないよう気をつけておやり。あとは……、何があったかね?」
襲人はうやうやしく頭を下げて、賈母に言った。
「もし何か他にありましたら、夕刻あらためてお言いつけくださいませ。今日は秦の若君をお待たせしておりますゆえ」
「おお、そうかい。それじゃあ、太太からは何か……」
と賈母は王夫人を一瞥したが、王夫人は、
「老祖宗がもうすべておっしゃりましたわ」
とだけ言った。そのとき宝玉と目が合ったが、二人は何も言わず、どちらからともなく目をそらした。
「李貴、茗烟!」
賈母が叫ぶと、二人の大きな若者が進み出た。二人とも大柄ではあるが、李貴と呼ばれた若者は生白く穏やかな顔をしており、茗烟の方は浅黒く薄い唇をしていた。
「宝玉についていっておやり」
二人は拝礼し、宝玉とともに正房を出て行った。
さて、宝玉の房に戻ってきた襲人は、人知れず房の隅で泣いていたが、不意に上から声が降ってきた。
「襲人姐姐」
それが麝月の声だと分かるや、襲人はさっと泣き止み、筆頭丫鬟の顔を取り戻した。
「二の若さまが姐姐のことを心配しておいででしたよ」
麝月がそう慰めると、大きな舌打ちが聞こえた。
「晴雯!」
「この人はどれだけ恵まれているのか分かってないのよ。私たちよりもお給金が多く、そのうえあの人にこれだけ気遣われているっていうのに。これ以上求めるなんて贅沢だわ。もしこれ以上を求めるならきちんとあの人に伝えなさいよ」
晴雯は肘をつきながら唇をとがらせている。
「それができるなら……」
襲人はその先を言い継ごうとしたが、吐息を一つ漏らすとそのまま閉じ切った貝のように押し黙り、これ以降泣くこともなかった。