第九回 1
「そんなもの誰かに書かせればいいのに」
晴雯は頬杖をつきながら宝玉に言った。ちょうど他の丫鬟が出払っているので彼女も気安くなっている
「それなら君が書いてくれる?」
宝玉がいたずらっぽく返すと晴雯はぷいっと横を向いた。
「ごめんだわ。そんなくだらないこと」
「じゃあ、黙って見ておくんだね」
そう言いながら、宝玉は筆を走らせる。
謹んで申し上げます。秦の若君におかれましては、明後日の朝、私の家にお越しいただき、共に家塾へ向かいたく思っております。もしご懸念、不都合等あれば……、
そこまで文がたどり着いたところで、晴雯はからからと笑った。
「ご丁寧に楷書で書くなんて! どれだけご執心なのかしら」
宝玉は苦笑いをする。
「君は彼をみたことがないから分からないんだよ」
晴雯はあきれながら消えかかる灯火に油を注いだ。
「いい加減早く床へお着きになったら? もし風邪をひかれたら叱られるのは私たちなんですからね」
宝玉は何も言わず筆に墨を含ませ、文の続きを書き継ぐ。
晴雯はため息をつきながら、大げさに肩を落としてみせた。
待ちかねたその日、窓からは朝日が差し込んで、卓の上の筆や紙を柔らかく照らしていた。襲人は鬱鬱した気持ちのまま、それらを用意してしまうと、半時ばかりそばの椅子に腰かけていた。
宝玉が瞼をこすりかけたのを見るや、襲人はさっ、と立ち上がり、衣服を脱がせ、着替えさせた。
宝玉はあくびまじりに伸びをすると、
「あら、姐姐、また不機嫌になっちゃって。ぼくが学堂へ行っちゃうから? ぼくがいなくなると房がひっそりするのが嫌なの?」
襲人は大げさに笑って言った。
「何をおっしゃいますの? 学問をするのはとても結構なことですわ。むしろそうでないと、ずっとうだつがあがらないままになるでしょう」
「……まあ」
宝玉は肩をすくめた。襲人は語気を強める。
「でも、一つだけ。学問をするときは学問のことを思い、そうでないときは……」
「そうでないときは?」
「家のことを思ってください。けして忘れてはなりませんよ」
「忘れないよ」
「それから家塾の連中には性質が悪いのもいますから、一緒になって馬鹿騒ぎしてはいけません。老爺さまに見つかったら、ただでは済みませんからね。それから……」
「まだ何かあるの?」
「家塾に入られて一念発起されるのは結構ですが、少し控えめになさることです」
「どうして?」
「第一に欲張ってもすべてを身につけることはできませんし、第二に御身を大切になさらなければなりません。言いたいのはそれだけです」
そう言うと、拳をぎゅっと握りながら、
「厚手の服も包んであの子たちに渡してあります。家塾の方は冷えますからくれぐれも羽織っていただきますように。ここと違って誰も面倒を見てくれません。脚炉や手炉の炭も持たせましたから、必ず継ぎ足させてくださいね。あの子たちは怠け者ですから、直接おっしゃっていただかないとあなたが凍えるはめになりますよ」
宝玉は苦笑しながら言った。
「大丈夫だよ。外に出てしまえばぼくだってちゃんとやるさ。もしくさくさしちゃうなら、黛ちゃんたちと一緒に遊んでいれば、姐姐の憂さも少しはまぎれると思うよ」
襲人は承知しました、と言いながら顔をそむけた。
「面倒な女」
少し離れたところから晴雯が吐き捨てるように言った。麝月が慌ててたしなめる。
「聞こえちゃうわよ」
晴雯はそれに取り合わず嘲笑った。
「だってそうじゃない。言ってることが無茶苦茶だもの。林の姑娘や李ばあやにあきたらず、男にまで嫉妬するようになったのかしら」