第八回 15
宝玉に仕えている人々は、はっきりと「もう家へ帰りました」と言うことはできず、
「先ほどは戻ってきていたのですが、何か用事があったようで出て行かれました」
と口をそろえて言った。
史太君の房を出るとすぐ、宝玉は足をふらふらさせながら振り返り、
「あの人は賈母よりもずっと偉そうにしてるんだぜ。あんまり肩を持つな。あの人がでしゃばってくるとぼくの寿命がどんどん縮んじまうよ」
ぶつくさ言いながら、そのまま自分の寝室へ戻って行く。
入ろうとする間際、戸の陰から晴雯がひょっこり出てきて笑いながら言った。
「まったくもう。あの墨をすっかり摺らせておいて。上機嫌で朝っぱらから書いたはいいけど、ご自分はたった三文字書いただけで筆を放り出して、私たちは丸一日待ちぼうけというわけですか。さあ、早く続きを書いて墨を使い切ってちょうだい!」
宝玉はふと朝のことを思い出して、笑いながら言った。
「ぼくが書いたその三文字とやらはどこだい?」
晴雯は弾けるように笑って言った。
「この酔っ払い! さっきあのお邸に行ったときにこの鴨居の上の方に貼っておくように言いつけたでしょう? 他の人に貼らせて破けたらいけないから、私はわざわざ梯子に登って貼ったのよ。ほら、見なさい。まだ手がかじかんでいるわ」
晴雯が手のひらを投げだすと、たしかに両の手が真っ赤になっていた。
宝玉は大声で笑い、
「ぼくとしたことが忘れていたよ! ほら、手が冷たいんだろう? ぼくがあたためてあげるよ」
と言いながら、晴雯の手を取り、肩を並べて仰ぎ見ながら、鴨居に新しく貼られた三文字を眺めた。
しばらくして黛玉がやってくると、宝玉は笑いながら言った。
「黛ちゃん、でたらめ言っちゃだめだよ。この三文字のなかでどれが一番いい?」
黛玉が仰ぎ見ると、そこには真新しい「絳芸軒」の文字が掲げてあった。
「どれもよく書けているわ。どうしてこんなにお上手なの? 明日私のためにも扁額を書いてちょうだい」
宝玉はへらへら笑って、
「また、ぼくをからかっているね?」
と言い、さらに聞いた。
「襲人の姐姐は?」
晴雯は奥の炕に唇を突き出した。宝玉が目をやると襲人は衣を羽織ったまま眠っていた。
「おっと、もうぬくぬくしちゃったか。ちょっと姐姐は先走りすぎたね。ぼくを待ってくれてもいいじゃないか」
それからまた晴雯にたずねた。
「今日、寧府で朝ご飯を食べたときにね、豆腐皮の包子があったんだ。君が好きだと思って珍の大奶奶に言ったんだよ、『僕は夜に食べたいから取っておいて送ってください』って。あれ、食べた?」