第八回 3
すこし時は戻る。
宝玉と黛玉は、賈母と王夫人に連れ立って、栄府へと帰ろうとしていた。黛玉が空を仰ぐと、風は少しずつ冷たくなり、薄雲がたちこめていた。
一行は栄府にたどり着いてしまうと、賈母の正房でしばらく歓談し、賈母が睡ってしまうと、三々五々それぞれの房へ戻ろうとした。
背中を向ける宝玉に黛玉が聞く。
「もう一度お芝居を見に行かれるの?」
「行くかもしれない。行かないかもしれない」
ふざけたような宝玉の口調に黛玉が眉を顰める。
「少し寒くなってきたからね」
宝玉はそうおどけてみせた。
「もう一度うかがうのはやめておいた方がいいと思います」
宝玉の筆頭丫鬟はきっぱりと言う。さっ、と宝玉の顔が曇ったのを見て、襲人は慌てて言った。
「寧府には先日もうかがったばかりではありませんか。それに今からあらためてうかがうのは向こうの手を煩わせます。お芝居ならまた見に行けばいいではありませんか」
宝玉は不承不承にうなずき、考えこむしぐさを見せた。
「宝玉さま、どうされました?」
襲人が怪訝な顔をする。宝玉は襲人が宝釵のところに向かうことを咎めはしないかと思い、そのまま飛び起きるように立ち上がると、二の門を逃げるように出て行った。
襲人はしばらく呆然としていたが、
「早く宝玉さまを追いかけないと!」
と叫ぶ。嬤嬤と丫鬟たちは宝玉の着替えのために控えていたが、宝玉と襲人が飛び出していったのを見るや、そろって後に続いていく。
「宝玉さまはどこに行かれるつもりなのでしょう?」
息を切らしながら宝玉を追う襲人に小丫鬟が聞く。
「少なくとも寧府でないことは確かね。そうでなければ二の門から出るはずがないもの」
穿堂を抜けたあたりで、宝玉が東へ、北へと曲がり、広間の裏手へと身をひるがえすように消えていく。
襲人は走りながら考えた。
ただ芝居に行くだけなら、襲人にお小言を言われることがあったとしてもそれ以上のことはない。つまり「それ以外の誰か」を気にしている。
まず考えられるのは林の姑娘だ。だが、かの姑娘に何かしらの後ろめたいことがあったとしても、ここまで用意周到なまねをするだろうか?
「政の老爺さまだわ」
襲人はため息をつくように言った。そこまで分かれば、どこに行こうとしているのかすぐに答えが出る。
「薛の姑娘のお見舞いに行こうとされているのね。まったく、あれほど軽々しく若い女性のもとに行くのを戒められたばかりだというのに」