表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅楼夢  作者: 翡翠
第二回 賈夫人 揚州城(ようしゅうじょう)において逝去し 冷子興(れいしこう) 栄国府(えいこくふ)を演説(ものがた)る
10/134

第二回 2

 雨村はそのことを悔やみ恥じたけれども、数日たてばどこ吹く風、泰然自若たいぜんじじゃくとし、財産、家族を郷里へと送りとどけ、これ幸いと諸国巡遊しょこくじゅんゆうの旅に出ることにした。

 まだ路銀ろぎんには心もとない。そんな折、ちょうど揚州の巡塩御史じゅんえんぎょしとなった林如海りんじょかいという人物が家庭教師を探しているという噂が入ってきた。

 雨村はもっけのさいわいと思い、あるいは子を教える金子きんす以外にも、はなれのひさしでも借りることができれば夜露よつゆもしのげるなどと都合つごうのよいことも考えたりして、まずは林家の屋敷へと向かった。

 客間に通されると父親らしき四十がらみの人物と、その膝の後ろに隠れるようにしている三歳ばかりの女児が待っていた。

 雨村は動揺どうようを隠せなかったが、目の前にいるのはかりそめにもやとい主となる高官こうかんである。いったん拱手きょうしゅし、あいさつもそこそこに本題を切り出した。

「それで、私が勉学をお伝えするお相手というのは……」

 主人、林如海は女児の頭をなでながら言った。

「この子にお願いしたく思っています」

 とものやわらかく言うと、驚かれましたかと付け加えた。

 列侯れっこうほうじられて五代ごだい名家めいか子息しそくに教えると聞いていたので、てっきり男子なんしだと思っていたのは間違いない。言葉にはしなかったが、それが顔に出たのだろう。如海がそっと口を開いた。

「林家は代々男子に恵まれませんで。もう私も四十になろうとしておりますが子と言ってはこの娘ただ一人。この子より一つ年上の男の子がいるのはいたのですが、不幸にも先年亡くなってしまいました」

 こちらとしてはむやみに詮索せんさくするつもりはなかったのだが、如海のほうでも何かと話したい事情があったのだろう。また、教える相手が女児であること、そしてその女児がどちらかというと人懐っこい感じではないため、自分以前にも教師を打診だしんしながら断られたのかもしれない。そうでなければ地方長官を失格した自分にお鉢が回ってくるはずがない、というふうなことを瞬時しゅんじに考え、

「いえ、物静かですが利発そうなお嬢さまではありませんか」

 と短く言うと、

「そうでしょう。そうでしょう。この黛玉たいぎょくは一を聞けば十を知るような性質たちの子だったら本当によかったのにといつも考えているのですよ」

 如海が急に饒舌じょうぜつになる。目に入れても痛くない、たまのような御子らしい。そう言われて黛玉がおずおずと顔を出し、こんにちはと言った。

「ほら、もうあなたに慣れたようだ」

 快活かいかつに笑う如海。雨村の職はまたたく間に決まった。

 教師と言いながら、その生活は実にひまなものだった。なぜと言って、教え子は林黛玉とそれの付き添いの家来だけだし、そもそも黛玉は病弱な身の上であったから、せきばかりして一日にまったく講義こうぎを行わないことすらあった。宿と金とが与えられ、雨村の悠々自適ゆうゆうじてきな生活が一年ほど過ぎた。

 ちょうどうだるような夏のころ、如海の妻である賈夫人が亡くなった。如海も黛玉も熱心に看病を続け、そのうえで亡くなったので、雨村のほうも教師の職を辞そうと申し出たが、かえって如海がこれからも娘の教授きょうじゅを続けてほしいと言ったので、今までよりもさらに退屈な日々が続くことになった。

 黛玉はもともと病弱だったところに、母の死が重なって、日々臥せるようになっていた。それにしたがって雨村の退屈たいくつの度合いも増してくる。日中は散歩をし、夜は読書をする日々が続いた。

 そんなある日、少し遠出をしてみようと思い、竹や林をかきわけ。山間さんかんを歩いてみると、荒れはてたびょうが見えた。屋根や柱はぼろぼろに崩れているけれど、その廟字びょうじはかすかに読める。「智通寺ちつうじ」と見えた。脇には新しい筆跡ひっせき対聯たいれんがかかっていた。


 身後しんごあまり有るも手をちぢこむるを忘れ

 眼前路がんぜんみちなく 頭をめぐらさんと思う


 雨村は一見稚拙ちせつだが、その意図するところは深長しんちょうだと思い、じっと眺めていたが、ほどなく、暗がりの中からのそのそと這い出すように寺の主がかゆを持ちながら現れた。かなり年をとっていると見え、歯が抜け、手足はおぼつかず、耳も聞こえていないようす。対聯の意味をたずねてみても間の外れた答えしか返ってこない。

 雨村は苛立ちながら気晴らしに酒場へと向かった。そこに雨村のゆくえに立ちふさがるものがいる。さきほどの老人のこともあってむしゃくしゃしていた雨村は一言怒鳴ってやろうと顔をじっとにらみつけたが、

「これは珍しい。そのお顔は何か嫌なことでもあったのですか?」

 そう親しげに話しかけられた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ