第二回 2
雨村はそのことを悔やみ恥じたけれども、数日たてばどこ吹く風、泰然自若とし、財産、家族を郷里へと送りとどけ、これ幸いと諸国巡遊の旅に出ることにした。
まだ路銀には心もとない。そんな折、ちょうど揚州の巡塩御史となった林如海という人物が家庭教師を探しているという噂が入ってきた。
雨村はもっけの幸いと思い、あるいは子を教える金子以外にも、離れの庇でも借りることができれば夜露もしのげるなどと都合のよいことも考えたりして、まずは林家の屋敷へと向かった。
客間に通されると父親らしき四十がらみの人物と、その膝の後ろに隠れるようにしている三歳ばかりの女児が待っていた。
雨村は動揺を隠せなかったが、目の前にいるのはかりそめにも雇い主となる高官である。いったん拱手し、あいさつもそこそこに本題を切り出した。
「それで、私が勉学をお伝えするお相手というのは……」
主人、林如海は女児の頭をなでながら言った。
「この子にお願いしたく思っています」
とものやわらかく言うと、驚かれましたかと付け加えた。
列侯に封じられて五代の名家の子息に教えると聞いていたので、てっきり男子だと思っていたのは間違いない。言葉にはしなかったが、それが顔に出たのだろう。如海がそっと口を開いた。
「林家は代々男子に恵まれませんで。もう私も四十になろうとしておりますが子と言ってはこの娘ただ一人。この子より一つ年上の男の子がいるのはいたのですが、不幸にも先年亡くなってしまいました」
こちらとしてはむやみに詮索するつもりはなかったのだが、如海のほうでも何かと話したい事情があったのだろう。また、教える相手が女児であること、そしてその女児がどちらかというと人懐っこい感じではないため、自分以前にも教師を打診しながら断られたのかもしれない。そうでなければ地方長官を失格した自分にお鉢が回ってくるはずがない、というふうなことを瞬時に考え、
「いえ、物静かですが利発そうなお嬢さまではありませんか」
と短く言うと、
「そうでしょう。そうでしょう。この黛玉は一を聞けば十を知るような性質で男の子だったら本当によかったのにといつも考えているのですよ」
如海が急に饒舌になる。目に入れても痛くない、珠のような御子らしい。そう言われて黛玉がおずおずと顔を出し、こんにちはと言った。
「ほら、もうあなたに慣れたようだ」
快活に笑う如海。雨村の職は瞬く間に決まった。
教師と言いながら、その生活は実に暇なものだった。なぜと言って、教え子は林黛玉とそれの付き添いの家来だけだし、そもそも黛玉は病弱な身の上であったから、咳ばかりして一日にまったく講義を行わないことすらあった。宿と金とが与えられ、雨村の悠々自適な生活が一年ほど過ぎた。
ちょうどうだるような夏のころ、如海の妻である賈夫人が亡くなった。如海も黛玉も熱心に看病を続け、そのうえで亡くなったので、雨村のほうも教師の職を辞そうと申し出たが、かえって如海がこれからも娘の教授を続けてほしいと言ったので、今までよりもさらに退屈な日々が続くことになった。
黛玉はもともと病弱だったところに、母の死が重なって、日々臥せるようになっていた。それにしたがって雨村の退屈の度合いも増してくる。日中は散歩をし、夜は読書をする日々が続いた。
そんなある日、少し遠出をしてみようと思い、竹や林をかきわけ。山間を歩いてみると、荒れはてた廟が見えた。屋根や柱はぼろぼろに崩れているけれど、その廟字はかすかに読める。「智通寺」と見えた。脇には新しい筆跡で対聯がかかっていた。
身後余り有るも手を縮むるを忘れ
眼前路なく 頭をめぐらさんと思う
雨村は一見稚拙だが、その意図するところは深長だと思い、じっと眺めていたが、ほどなく、暗がりの中からのそのそと這い出すように寺の主が粥を持ちながら現れた。かなり年をとっていると見え、歯が抜け、手足はおぼつかず、耳も聞こえていないようす。対聯の意味をたずねてみても間の外れた答えしか返ってこない。
雨村は苛立ちながら気晴らしに酒場へと向かった。そこに雨村のゆくえに立ちふさがるものがいる。さきほどの老人のこともあってむしゃくしゃしていた雨村は一言怒鳴ってやろうと顔をじっと睨みつけたが、
「これは珍しい。そのお顔は何か嫌なことでもあったのですか?」
そう親しげに話しかけられた。