MaryJane.
旅立ち
「そんなに顔を近づけないでよ、藤田さん。はい、これ」健人は藤田になにかを手渡した。
「やっぱり俺より全然巻くのうまいよな」藤田は、健人から受け取った煙草のような物を宙に透かして見せた。勢いよく玄関のドアが開く。
ドンドンと床を鳴らし、粗い呼吸が徐々に近づいてきた。
「電気ぐらいつけとけって」真っ暗な部屋に、男が入ってきた。
その男の両手には、大きな黒いボストンバッグがぶら下がっている。
ドスンッとバッグを畳に落とすと、天井から垂れている細い紐を引いた。
部屋全体が明かりに照らされる。
男は続けざまに窓のカーテンを勢いよく開けた。
強烈な外の光が、闇を跳ねのける。
「ごめん、ごめん。だから俺には必要ないの」既に部屋にいたであろう男が言う。
男は、散らかった低いテーブルに胡座をかき、なにやら手元を精密に働かせていた。
「準備できてんのか、健人」カーテンを開け放った後、便所座りで健人と呼ばれるその男の顔を覗く。
「昔から器用だからね」得意げに言う健人は、よしっと膝を叩くと藤田が持ってきたボストンバッグのジッパーを開ける。
中に入っている大量の札束の一つを手に取ると、顔を宙に向け一枚一枚、繊細な手つきで数え始めた。
その様子を見ていた藤田は、口に咥えた煙草のような物に火をつける。
第一章
早朝の笛の音
木枯らしが吹く早朝の街路を、白い息を吐く少年が走り抜けた。
少年は大きな鞄を大切に抱えている。
「止まれ!」野太い警官の声とともに、甲高い笛の音が街に木霊する。
少年は一切の反応もせず、全力で足を動かした。
「こんなところで捕まってたまるか」少年はビルとビルの隙間に飛び込んだ。
そこはゴミの山と、高くそびえ立つ金網。
「クソ、行き止まりだ」少年は一度登ろうと思ったが、金網が高過ぎ、断念した。
金網から飛びおり、引き返そうと体の向きを変えたが、もう遅い。
目の前には三人の警官が待ち受けていた。
少年は肩を上下に揺らしながら警察官を睨む。
「行くぞ」息を切らした警官が、同じく息を切らした少年の腕を掴んだ。
パトカーに乗せられた少年は、ばつの悪い顔をした。
「この鞄の中身見るぞ、いいな?」少年の両脇に座る右手側の警官が言った。
「はい」少年は、窓から空を見つめ小さく返事をする。
勢いよく鞄のジッパーを開けた警官は驚いた。
なぜならその鞄には大量のお札が入っていたからだ。
「とりあえず署で詳しく話を聞こう」警官たちは少しの沈黙の後、ゆっくりとジッパーを閉じたのだった。
・・・・
「だからこれは俺の金じゃないっての!」少年は机を叩く。
「桜庭君、じゃあいったい誰のものなんだ?」警官は冷静に桜庭少年に睨みをきかせた。
「藤田って奴のだよ」桜庭少年は咄嗟に親友の名を出した。
「なんで藤田さんの金を君が持っているんだ?」警官は鋭い目を桜庭少年に向ける。
「藤田に頼まれたんだよ、この金を預かってくれって、最初は断ったんだ、どうせ汚い金だろうし」桜庭少年は俯き加減に答える。
「汚い金?」警官は聞き返した。
「あいつ、大麻の密売をしてるんだ、だから一旦、金を俺の家にでも隠したかったんだと思う。一番の売上だって言ってたし、言うことを聞かないと痛い目にあわせると脅されたんだ、俺怖くて」桜庭少年は泣き出した。
警官は桜庭少年の話を聞き、入口付近にいる警官に目配せした、するとその警官は部屋から出ていく。
「桜庭君、藤田さんの家に案内してくれるかな?」警官は立ち上がった。
「はい」桜庭少年は返事をした。
警察署を出た桜庭少年は、覆面パトカーと呼ばれる捜査車両に乗せられ藤田の家へと向かう。
警察署から五キロほど離れた場所に藤田の住むアパートがあった。
「桜庭君、先に行ってインターホンを押してくれるかな?」警官は桜庭少年に言った。
桜庭少年は捜査車両から降り、アパートの階段を上がった一番奥の部屋のインターホンを押す。
ドアが開いた。
「よお桜庭、ヤバいんだよ、金の入った鞄知らないか?今朝から全然見当たらなくて」寝ぐせで寝巻の藤田少年は、落ち着いた様子で桜庭少年に聞いた。
「鞄はおまえが俺に渡したろ」桜庭少年は下を向きながら言う。
「は?渡してねえよ」藤田少年は目を皿のようにした。
「覚えてないのかよ、昨日の夜、俺のことを脅して、鞄を隠すように言ったろ」桜庭少年は、はっきりとそう言った。
「なんのことだよ、おまえ一体どうしたんだ?とりあえず入れよ」藤田少年は笑う。
「いや、入らない」桜庭少年は藤田少年に背を向け、何処かに合図を送る。
するとアパートの鉄骨階段を男達が上がってきた。
「藤田君だね、私達は警察のものです。家の中を調べさせてもらってもいいかな?」警官達は我先にと体を揺らしていた。
藤田少年は言葉を失う。
桜庭少年とは中学一年の入学式の日に席が隣だということだけで仲良くなった。
授業中はノートを見せ合っていたし、授業を抜け出し学校の屋上で夢についても語り合った。
二人で悪いことも沢山したし、高校受験の時だってお互いを鼓舞しあった。
好きな女の取り合いはしたが、喧嘩が喧嘩で終わることはなかったし、桜庭少年は藤田少年にとって唯一の親友だったのだ。
この時、藤田は桜庭に裏切られたのだ。
藤田少年の家からは大麻栽培の道具、喫煙具、顧客名簿などが発見された。
大量の証拠品が押収されたのだ。
警察署に到着した藤田少年は、取り調べを受けていた。
「藤田君、桜庭君はこう言っているけれど本当かな?」警官は落ち着いた口調で質問する。
「はい、本当です」藤田少年は警官の目を真っ直ぐに見つめる。
「桜庭君と一緒に栽培していたわけではないのね?」警官も藤田少年の目を見つめる。
「はい、全部俺がやりました」藤田少年は淡々と答えるが、警官には見えないところで、血が通わなくなるほど拳を強く握りしめていた。
「分かった。この後色々な手続きをするから少しだけ待っていてね」警官は席を立ち取調室を後にした。
取調室のドアが閉まり一人になった藤田少年は静かに憤怒していた。
サフランの花束
「お母さん、この花良い香り!」健人は母に笑顔で話しかける。
「そうでしょう、サフランはお母さんが一番大好きな花なのよ」女手一つで健人を育てる母は、ガーデニングが趣味だ。
健人が幼い頃から、この家には綺麗な花が咲いている。
花の香りに包まれ育った健人は、必然的に花への関心が高まっていた。
「お母さん、僕の育てているサフランはどこ?」健人は手探りで自分のサフランを探す。
「ここよ」母は健人の手を優しく握り、健人の育てているサフランへと誘導する。
「僕のサフランも良い香りだね、みずみずしくて、元気そう」健人は笑顔だ。
「そうね、これからも大切に育ててあげようね。さあご飯にしようか」母が立ち上がりキッチンへと向かった。
「カレーでしょ?」母についてきた健人が、スンスンと匂いを嗅ぐ素振りをしながら言う。
「さすが健人ね、でもカレーは夜ご飯、お昼はうどんでも食べようか」母は健人の頭を撫でる。
「うどん!」健人は軽快に跳ね、喜んだ。
・・・・
それから十二年が経ち、健人も二十歳になった。
「それじゃあ行こうか」母はカジュアルな服に身を包みスーツ姿の健人の手を引く。
「待ってお母さん」健人は自分の部屋へと行き、片手でなにかを隠しながら戻ってきた。
「僕を生んでくれて、今日まで大切にしてくれてありがとう」健人の手には大きなサフランの花束があった。
一瞬顔をくしゃくしゃにした母は、ハンカチを目元に当てたが、溢れる涙を抑えることは出来なかった。
「お母さん泣いてるの?」健人は母を笑顔で抱きしめる。
「生まれてきてくれてありがとう。愛してる」声にならない声で発せられたその言葉には、二十年間の苦労と喜び、そして安堵を感じさせられた。
桜舞う、成人式の会場には既に沢山の人が集まっていた。
香水のかおりや、喜びの音で満ちている。
肌で感じる温かさも、今日という日が特別だからだろう。
スーツ姿の健人との写真に写る母は涙し、撮影してくれたスタッフの男性もつられて泣いてしまったのだった。
・・・・
そして三年後、事件が起きた。
やっとの思いで就職した二十三歳、就職祝いも兼ねて母と健人は、レストランで食事をしていた。
「健人、頑張ったね」母は健人の髪をぐしゃぐしゃにする。
「うわ、お母さんやめてよ」髪を直しながらも健人は嬉しそうだった。
「健人は本当に立派に育ってくれた。お母さん嬉しいよ」感心感心と腕を組み、首を上下に揺らす。
幼少期から今日までの二人だけの思い出を語らい、あっとゆう間に時間が過ぎ、レストランの時計は午後十時を指していた。
「そろそろ行こうか」立ち上がった母が言う。
「そうだね」健人も立ち上がり会計をしにいく。
「次は、僕の初めての給料でここに来ようね」健人は、母の後ろでレジの音に耳を澄ませる。
「それは楽しみ、お母さん泣いてしまうかも」母は笑顔になった。
マフラーを巻き、レストランを後にした二人は、道路の向こう側へ渡るため歩道橋の階段を上がっていた。
「健人、ちょっと端に寄ろうか」母が言った。
健人は母に両肩をそっと掴まれ、歩道橋の階段の端へとずれる。
「次こそは苺のパフェ···」
母の声が突然途切れ、漂う酒の臭いとともに誰かが階段を転げ落ちるような音がした。
「お母さん?どうしたの?」健人は必死に声を出す。
健人の悪い予感は確実に当たっているだろう。
お母さんが階段から転げ落ちた。
手摺に掴まり急いで階段を下りる。
「お母さん!」両膝を付き、手探りで母を探したが、やっと触れられたものはブニブニとしていて酒臭いものだった。
「痛え」中年くらいの男の声だろう、起き上がったようだ。
健人の心拍数が上がる。
「なんだよこれ、血だらけじゃねえか」中年の男は驚いているようだった。
「僕のお母さんはどこにいますか」健人は酒の臭いをさせる中年男に聞く。
「どこにって···」中年男は健人の顔を見るなり沈黙し、腰元の違和感に気付いた。
なんと健人の母は、中年男の下敷きになり頭から大量の血を流していたのだ。
酒気を帯びた中年男は絶叫し、その場から全速力で走り去った。
「お母さん、大丈夫?どうしたの?」健人は地面に這いつくばり、手探りで母を探すと、母の髪であろうものに触れる。
手に感じる生暖かい感触、血だ。
鼻を刺す鉄の臭いに健人の脳は揺れてしまった。
その場で気絶する健人と母を見た通行人は救急に電話をしているようだ。
健人の意識が深い暗闇に沈んでいく中、手を差し伸べるものは誰もいなかった。
病院で目を覚ました健人は、医師から母が階段を転げ落ちた際に、頭を強く打ち死んでしまったということを知らされた。
即死だった。
Bar Spray
藤田は八年間の服役を終え、刑務所を後にする。
「なんとか外でも仕事には困らなそうだ」藤田は出所ギリギリで、中で友人になった鈴木という男から、あるバーを紹介された。
鈴木曰く、そのバーはヤクザとの関わりがあるらしく、はぐれ者でも歓迎してくれるようだ。
痛い目に合わせられるかもしれないが、よっぽど運がない限りは大丈夫だろう。
藤田は、さっそく今日の昼頃にでも行ってみようと思った。
とにかく、まずは実家へと向かうことにする。
・・・・
「お帰り」実家につくと白髪交じりの母が出迎えてくれた。
「ただいま、少し痩せた?」藤田は母に言う。
八年ぶりの実家は落ち着くものがあり、台所からする煮物の香りに藤田は腹を鳴らした。
「そうかしら?お腹が鳴ってるわ、まずは食べてからね」母は台所に向かい、温かい手料理を藤田の前に並べる。
「いただきます」藤田は手を合わせ、母の作る昔のままの味を噛み締めた。
「やっぱうまいなあ、母さんの作る煮物は」久しぶりの母の手料理に藤田は子どものような笑顔を見せる。
煮物を味わっていると、藤田の心には様々な感情が沸き上がり、目が自然と涙で溢れ、こう続けた。
「ありがとね、、、俺、母さんに迷惑かけてばっかりなのに、、、」藤田は顔を伏せた。
「何言ってんの、別に迷惑だなんて思ってないわよ。あんたが何したって私の子どもなんだから間違ってないって信じてるよ」母は悟ったような微笑みを見せる。
藤田は母親という存在の、決して敵わない器の大きさに驚きを隠せなかったが、その器が自分に向けられているのだと知ると、安心し暖かい気持ちになった。
「ありがとう、母さん」母に感謝を告げると、藤田はまた食事に手を伸ばした。
たわいもない会話を母とした後、食事を終えた藤田は「ご馳走様」と告げ食器を台所で洗いだした。
「いいのよ、置いておいて。私が洗っておくから」母は、居間に座りテレビを見ながらそう言ったが藤田はその声を聞き流し、食器を洗い続ける。
台所の向こう側にいる母の小さくなった背中を見ていると「ハッ」と思い出した。
「そういえば婆ちゃんはどうした?」幼い頃から父がいなかった藤田は、かなり祖父母にお世話になった。
けれど三年前の服役中に、祖父の他界を母からの手紙で知ってから残された祖母のことを心配していたのだ。
「お婆ちゃんね、先月から介護施設にいるの」母は少し悲しい表情をした。
「介護施設?」藤田は驚く。
「お爺ちゃんが死んじゃってからね、最初は一緒に住んでたんだけど、一年ぐらい経った頃にアルツハイマーになっちゃって介護が必要になったの。それで初めのうちは私が介護してたんだけど、仕事をしながらだと大変でね、今は私の仕事を増やす代わりにお婆ちゃんは施設に入ってもらうことにしたのよ」母はすらすらと話す。
「そうだったんだ。大変だったよね、でももう大丈夫だよ」その話を聞き、後悔、悲しみ、怒りにも似た感情に飲み込まれそうになるが、藤田の目つきは鋭く目の前の現実にまっすぐ焦点を合わせた。
「お金の事なら俺がなんとかするから、母さんは仕事減らしてゆっくり休んでね、もういい歳なんだから」藤田は言う。
「たくましいわね、楽しみにしてるわよ。でももう捕まるんじゃないよ!」母は笑顔になり、冗談交じりに言った。
「わ、わかってるよ」藤田は皿洗いを再開する。
皿を洗いながら母との会話を思い出していると、お金を稼がなければとゆう使命感に囚われてしまった。
同時に、自分を裏切った桜庭への憎しみも込み上げ、居ても立っても居られなくなった。
「ご飯、ご馳走様。まだ帰ってきたばかりだけど俺行かなきゃならないところがあるから行くね」皿洗いを終え、手をタオルで拭く。
「わかったわ」母は笑顔で言い、藤田と玄関までやってきた。
「じゃあ行ってきます」藤田は言う。
「いってらっしゃい」母は藤田の肩にそっと触れた。
藤田は玄関の戸を開くと強い決意と共に実家を後にしたのだった。
・・・・
時間は昼を過ぎ、鈴木に紹介されたバーに出向く。
そのバーはバスと電車で三十分ほど、古い雑居ビルだった。
「ボロいなあ、ここに客なんて来るのかな」藤田は疑問に思いながらもバーへと続く階段を上がる。
『Bar Spray』と入口に書かれたそのバーは雑居ビルの三階にあった。
【closed】の看板が出ていたが、店の中に人影が見えた藤田は緊張気味にドアを開ける。
「いらっしゃいませ、申し訳ございませんが、開店前でして」ダブルスーツを着た、髭面の男がカウンターの中にいた。
「あの、鈴木って奴からの紹介で来ました」藤田は言った。
「あ、なんだ鈴木の紹介か、こっちに来いよ」髭面は店の入口の鍵を閉め、藤田をカウンターの奥へと案内する。
「じゃあさっそくこれ」髭面は窓際に置いてある植木鉢の下から種を取り出し、藤田に渡す。
大麻の種だ、正直場所さえあれば楽勝だと思った。
「あとこれ、アパートの鍵。このビルの裏ね」髭面は気だるそうに言う。
「住まわしてくれるんですか?」藤田は心の中でガッツポーズをした。
これならいける、最高の環境だ。
藤田は思いがけないタイミングで得意な仕事と、住む場所まで手に入れた。
「上がりは三か月後に100万、ここに持ってこい」髭面が言う。
「100万!?」藤田は声を荒らげる。
「栽培キットは押入れにある。後は自分で考えろ」髭面は煙草を咥えたままカウンターへと戻った。
100万、それが出所後の藤田に最初に課せられた試練だ。
藤田はアパートの鍵を持ち、雑居ビルを後にした。
雑居ビルの裏側に回るのは容易だった。
まずは雑居ビルの入口を左、するとすぐ隣に細い裏道がある、ゴミ捨て場だと思うが、綺麗に掃除されている。
この細道を通り抜ければそこがアパートだ。
ものの2分で到着したそのアパートはもちろんボロボロだった。
藤田の予想していた通りだ。
ボロアパートの目の前は雑居ビルに囲まれていて、見上げるとものすごく狭い空が見える。
車も入れなければ、人が入ってくる理由もないだろう。
もし入ってくる人がいるとすれば、藤田と同じような人間のはずだ。
藤田は錆び付いた階段を上り一番端の201号室の鍵を開ける。
木のきしむ音とともにドアが開く。
間取りは1DK、玄関の右横にはキッチンがあり、左側にはトイレと風呂、奥側左手の襖を開くと、部屋の隅に敷布団が置かれていた。
ベランダに続く窓は二箇所あり、風通し、光の入り具合が絶妙だった。
藤田はベランダの窓を開け、外の様子を見に行く。
「不思議だな。まるで別の場所にいるみたいだ」藤田の目の前に広がるのは雑居ビルの集団ではなく、辺り一面に広がった緑だったのだ。
この一帯はここのヤクザが仕切っているらしく、隣の土地も買収済み、広大な更地に雑草が生え放題の状況だった。
出所したての藤田には、この光景が心の底から美しく見えたのだった。
部屋に戻ると藤田は髭面が言っていた通り押入れを開ける。
「うわ」思わず声が出た。
押入れの中には上質な栽培キットが入っていたのだ。
今までも大麻を栽培してきた藤田だったが、見たことのない道具が沢山あった。
さっそく、慣れた手付きで栽培キットを組み立てた藤田は、種子を水のたっぷりと入ったコップに入れる。
これだけの道具があれば時間の短縮は出来るかもしれない、だが一ヶ月では無理だ、あの髭面なにか別の考えがあるのか?
藤田は畳の上で胡座をかき瞳を閉じる、頭の中をぐるぐると回る一つ一つの問題を擦り合わせた。
カチッ
脳内で最後のパズルのピースがハマる音がした。
「このアパートだ」藤田は目を開ける。
このアパートは二階建て、各階に三部屋ずつ、この中に俺より先にここに住んでいる奴がいるはず。
そいつらに仕事をもらおう。
交換条件は今後俺が大麻で稼ぐ金額からの一部だ。
考えがまとまった藤田は立ち上がり部屋から出る。
まずは隣の部屋の前に立ったが、呼び鈴がない、藤田は仕方なくドアを叩く。
「···」
反応がない。
そして次の部屋。
ここも同じく反応がない。
藤田は鉄骨階段を下り、101号室のドアを叩いた。
すると中から強面の四十代くらいの男が出てきた。
「なんだ?」男は藤田に睨みを利かす。
「上の部屋を使っているものです、仕事を紹介してほしくて、伺いました」藤田はロボットのような話し方になる。
「仕事だ?そんなことよりおまえ、上で騒いだら殺すからな」男は威嚇した。
「は、はい!すいません」藤田はなぜか謝り、鉄骨階段を駆け上がった。
急いで自宅のドアを開け、部屋に戻った藤田はこの考えを取り止める事に決める。
「やっぱり駄目だ、仕事なんて紹介してくれるはずないだろ。このアパートにはヤバい奴らが住んでいる」頭を抱えてしまった。
この日は一旦刑務所での疲れを取る一日にしようと思う藤田だったのだ。
・・・・
そして二日目の朝。
早朝に目を覚ました藤田は、早々に大麻の種子をコップから出し、湿らせたガーゼに優しく包んだ。
これで発芽するはず。
藤田はベランダの窓を開け全身を伸ばした、自由な目覚めは八年ぶりだ。
逮捕時の藤田は、大麻栽培に加え、海外への輸出や輸入、そして一番悪質だと判断された未成年を含む、大量の売買記録の載った顧客名簿の存在のせいで重い刑罰に科せられたのだ。
朝一番の腹の虫が鳴った藤田は、冷蔵庫を開け、朝食を取ることにした。
朝食と言っても冷蔵庫の中には菓子パンと水以外はなにもなかった。
そして、その中からメロンパンの袋を開け口に放り込んだ。
「うまい」藤田の脳は八年振りのメロンパンの甘さにとろけてしまいそうだった。
メロンパンの中にクリームを確認すると、止まらない食欲に制御が効かなくなる。
このままでは冷蔵庫の菓子パンを全て平らげてしまう。
····
ドンッ。
大きな物音が部屋に響く。
ドンッ。
誰かが壁を叩いているようだ。
ドンッドンッドンッ。
ドンッドンッドンッドンッドンッドンッ。
どうやら隣の部屋の住人らしい。
藤田は注意をしに部屋を出た。
出逢い
自分の部屋で膝を抱える健人。
事故からひと月が経った今でも、健人の手には母の血の感触が残っていた。
あの時の酔っぱらいは未だに見つかっていない。
怒りの矛先をどこに向けたら良いのかわからない。
悲しみなのか、怒りなのかの判断も出来ない。
健人は立ち上がり、部屋中を徘徊した。
たくさんの物を押し倒し歩く。
そこら中の壁を殴り倒し、拳は血まみれになった。
背後から妙な音が聴こえ健人は振り向く。
母にプレゼントしたサフランが床に散らばり、花瓶の割れる音が部屋に響いた。
届くはずもないのに、健人の右手は二人で出かける前のあの時に向けられていた。
はっと我に返り、床に膝をつき広がった花瓶を集める。
「痛っ」健人は花瓶の破片で指を切ってしまった。
指先に感じる血の感触、あの時の感覚が蘇る。
健人の呼吸は徐々に荒くなり、破片を右手で強く握りしめた。
ドンドンドンッ
誰かが玄関のドアを叩く。
健人は立ち上がり、左手首に押し付けた破片をテーブルの上に置いた。
玄関に向かいドアを開く。
「はい、どちらさまでしょうか」健人は俯き加減に聞いた。
「隣に越してきた者なんだけど、さっきから何騒いで、、、。ってお前、それどうしたんだよ!大丈夫か?」勢いよく文句を言ってやろうと思っていた藤田だったが、健人の手首から流れる血を見て言葉に詰まる。
血だらけの手を隠そうと慌てて後ろに回した健人は、その反動で玄関に置いてある白状を倒してしまった。
「だ、大丈夫です、なんでもありません。それで、要件はなんですか?」健人はしゃがみ込み、白状を元に戻しながら言う。
「いや、ちょっと騒音が酷かったから注意しに来ただけなんだけど、、、それよりお前、その怪我なんとかしないと」藤田は、目の前の光景に圧倒されかけたが、なんとか喉の奥から声をひねり出す事に成功する。
「あなたには関係ないでしょ。騒音の件は謝罪します、申し訳なかったです。以後気を付けますので、これで失礼します」迷惑そうな顔をした健人は、そう言い残しバタンッとドアを閉めた。
藤田は不意に現れた悲惨な光景にドアの前で立ち尽くす。
今起きた出来事を、頭の中で整理するのに少し時間が掛かっていた。
何だったんだ今の、このアパートには本当にまともな人間はいないのか?
藤田は目じりをつまみ、振り返ると足に植木鉢が当たり、倒しそうになってしまった。
『紫色の綺麗な花だ』
「危なかった」寸前のところでなんとか揺れを止めた藤田は、その綺麗に育て上げられ、凜々しく咲く紫の花を見て不思議に思うことがあった。
真っ暗な部屋、玄関の白状、そしてなにより話している時に合わない目線。
「まさかあいつがこれを育てたのか?」藤田は点と点が繋がった様な感覚になると、居ても立っても居られなくなり、健人の部屋のドアを強く叩いた。
「おい、開けてくれ!」藤田は部屋の中の健人に聞こえるように叫ぶ。
少しすると玄関のドアノブが動き、勢いよくドアが開く。
「何なんですか?さっきもう謝ったでしょ!あまりしつこいと警察呼びますよ!」健人は怒っているようだ。
「まぁまぁ落ち着けよ。ちょっと聞きたいことがあるだけだから」なるべく彼の逆鱗に触れないように下手に出る藤田。
「で、なんですか?」健人は不機嫌そうに聞く。
「いやいや、この紫の花綺麗だなって思って、まさか君が育てたの?」
「そうですけど」健人は冷たく答えるが、藤田はまさに、この回答を待っていた。
『こいつは使える』
「聞きたいことってそれだけですか?俺忙しいので失礼しますよ」健人はそう言いドアを閉めようとするが、すかさず藤田の足でその行動は静止された。
「ちょっと待て、お前お金に困ってたりしないか?君にピッタリの仕事があるんだ!少し話を聞いてくれないか?」藤田は玄関前の花を見て健人の才能に注目したのだ。
「仕事?さっき出会ったばかりの人のそんな話、信用出来るわけないじゃないですか、帰ってください!」健人はドアを無理やり閉めようとする。
「うまくいけば、月に50万以上は稼げる仕事だ!家の中で出来る仕事だし、悪くない話だと思うんだが」藤田は、ドアが完全に閉じられるのを食い止めながら、粘り強く説得を続ける。
月に50万円以上とゆう金額は、独りになってしまった健人にとって必要なお金だった。
「50万?どんな仕事?」次第にドアを閉めようとする力が弱まり、健人は思わず聞き返してしまう。
「やっぱお前も金が必要なんだな。ちょっと中でゆっくり話そう」そう言うと藤田は、ズカズカと健人の部屋に入ってゆく。
「ちょっと、勝手に入るなよ、、、」健人は藤田を止められず、言われるがままに部屋に入ることを許してしまった。
「まずは、手の怪我を何とかしよう。タオルってどこにある?」藤田はタオルを探すため、洗面所辺りをうろちょろする。
洗濯機の上の棚からタオルを探し出すと、水で濡らし健人のところまで戻ってきた。
「人の家であまりうろちょろするなよ」健人は言う。
「悪い悪い、ほら、これで腕に着いた血、拭けよ」健人にタオルを渡した藤田は、救急箱を探す。
「なんだよ、馴れ馴れしいな。名前も知らないってのに」健人は、突如現れた無礼な来客に対して不信感を隠せずにいた。
「あ、そうか。俺は藤田だ!藤田圭よろしくな。お前の名前は?」
「俺は、健人。山崎健人だよ」
藤田の勢いに呑まれ、なぜか自身も自己紹介をしてしまった健人だったが、この時から少しづつ肩の力が抜けてきていた。
「じゃぁこれからは、健人って呼ぶな!俺の事は好きに呼んでもらっていいぞ。俺と健人はビジネスパートナーだからな」救急箱から包帯を取り出した藤田は嬉しそうな顔をしている。
「まだやるって決めたわけじゃないだろ。そもそもこの部屋で50万稼げる仕事ってなんだよ」健人は藤田から包帯を受け取ると、器用に手首に巻きながら不満そうに聞く。
「なんだ!やっぱお前も金がほしいんだな!心配するなよ、俺と健人なら絶対に大金持ちになれる」ニヤニヤしながら藤田が話す。
「いいから早く教えてよ」健人は、もったいぶる藤田にイラついていた。
「大麻の栽培だ」藤田は得意げに言う。
「断る、それって犯罪だろ」健人はあっさりと断った。
「まてまて、おまえ大麻がどれだけの人を救っているのか知ってるか?偏見で物事を語るなよ?おまえは大麻の事知ろうとしたことあるのか?」藤田はなんとか否定派を説得しようと試みる。
「普通偏見しかないだろ、子どもの頃から悪いものだと脳に刷り込まれた悪をどうやって覆せって言うんだよ、おじさんこそゴキブリを愛でろと言われたら出来るのか?絶対に出来ないだろ」健人は正論を藤田にぶつけた。
「おじさん?俺はまだ二十八だ。それにな、絶対に出来ないなんて事はない。絶対に出来ないと思った時点で絶対に出来なくなってしまうんだ。今のこの国では悪かもしれない、だがな一歩でも外の世界を知ろうとしてみろ、大麻が悪でもなんでもないなんてことすぐに理解するはずだぞ、それにゴキブリを愛でる奴もいる、それも偏見だろ」藤田は正論を正論で返した。
「それなら大麻が悪でないと証明してみろよ」健人は挑発的だ。
「証明?他人の意見が証明になると思っているのか?自分で実感し、自分で考え証明するんだよ。可能性のあるものに期待せず悪だからという理由で遠ざける。悪か悪じゃないかを他人に任せている内は気楽なものだな。体を張って危険を顧みずに挑戦し、安全を主張してくれている人々に申し訳ないと思わないのか?」藤田は健人の腕を強く掴む。
あと少しで落ちる、藤田は心の中でそう思っていた。
「それは・・・」健人は口をつぐむ。
「健人、お前の手首の傷を見て思った。もし自分の命を、自分で絶つくらいなら一度リスクを負って俺と賭けに出てみないか?俺には分かるんだ、、健人、お前には大麻を育てる才能がある」言い切った藤田は健人の返答を待つ。
困惑した様子の健人だったが、少しの間を空け口を開いた。
「面白そうだね、いいよ」健人はため息交じりに答える。
「よっしゃ!本当か?本当にいいのか?」藤田は喜ぶ。
「いいよ、もう俺には失うものはないからね。どうにでもなれって感じだよ」そう言いながら健人は悲しそうに笑った。
その顔を見た藤田はなにかを感じ取ったのか、首を傾げる。
「でもなんで俺に大麻栽培の才能があると思ったの?」健人は聞く。
「お前の家のそこら中にある花だよ。こんな綺麗な花を咲かせられる奴は絶対に大麻栽培の才能がある!」藤田はまたも言い切る。
「そうゆうものなの?」健人は呆れ声を出す。
「そうゆうもんだ」藤田は腕を組み、首を一度だけ下げた。
言い合いをしている中で、健人はいつのまにか、あの時の思い出が消えていく感覚になった。
暗いままの思い出が消え、新たな思い出になる感覚。
どんな形であれ、前を向くための希望を藤田からもらったのだ。
交渉
「それじゃあ俺はバーに行ってくる」藤田は今回のことを髭面に提案しにいくことにする。
「バーって髭さんのところ?」健人が言う。
「髭さん?健人はあいつと仲良いのか?」藤田は聞く。
「俺の母さんとね、なんだか仲良かったみたいでさ、俺は小さい頃からよく遊びに行ってたんだ」健人は思い出すように話す。
「そうだったのか、それでここに住んでいるんだな」藤田はこのアパートには悪い人ばかりが住んでいるものだと思っていたが、訳ありの住人もいることを知った。
落ち着いた健人をそのままに、藤田は髭面のもとへ向かった。
・・・・
藤田は雑居ビルの階段を上がり、『Bar Spray』にやってきた。
【closed】の看板が出ているが、藤田は構わずドアを開ける。
「いらっしゃいま、なんだおまえか、どうした」髭面は藤田を見てため息を吐く。
「あの、髭さんに提案があります」藤田は姿勢を正した。
「提案?言ってみろ」髭面は髭さんと呼ばれることに違和感がないらしく、とくに反応は見せてはくれなかった。
「アパートの隣の住人を使い、ビジネスをしたいのですが」藤田は言う。
「あいつとビジネス?どんなことをするんだ?」髭面は顎に手を当てた。
少しの沈黙の後、藤田は答えた。
「二人で大麻栽培を」藤田は髭面の目をまっすぐ見つめる。
その目を見た髭面はなにかを感じ取った。
「ほお、藤田おまえ頭が切れるな、大麻栽培なんて一ヶ月そこらで出来るものじゃない、だから別の方法を考えるだろうとは思っていたが、そこまで読んできたか、詳しく説明してみろ」髭面は感心したような顔をした。
「まずは俺があいつに栽培方法を教える。栽培する場所はあいつの部屋。警察のガサや、チンピラのタタキでさえあいつなら簡単に解決出来るはず」藤田は自信満々で言う。
髭面はうつむき、肩を揺らす、藤田は不気味に感じ顔を覗き込むが、すっと顔をあげた髭面の顔は笑顔だった。
「よし、大丈夫そうだな。実は鈴木からおまえの事は詳しく知らされていた。おまえの顧客名簿と人脈、そして健人、二人が揃えば一生好きなことをして暮らせるだけの金を手に入れることができるぞ」髭面の不愛想はどこかへ消え去っていた。
その表情を見た藤田は、心の中で今後の流れが大体の形でイメージできるようになっていた。
本来なら個人的に金儲けをしたかったが、ここで髭面に歯向かっても物事がマイナスに進むだけだ。
「今回の話は他言無用だ。人間はな、すぐに人を裏切る。自分が危うい状況になった時は一目散に逃げてしまうんだ。全ての罪を擦り付け。裏切られるんだ」髭面の表情にほんの少しだが悲しみを感じた。
藤田も八年前の出来事を思い出してしまった。
あの野郎。
藤田は今でも桜庭のことを許してはいない。
金に目が眩み藤田を裏切った桜庭を。
藤田が八年間入っている間、桜庭はなんとあの日に不起訴となっていたらしいのだ。
藤田は髭面も似たような経験をしたのではないかと薄々感じた。
親友に裏切られる衝撃、この衝撃は心臓が引き裂かれ、頭の中が真っ白になる、そんな衝撃なのだ。
「わかったよ髭さん。時間をくれてありがとう。状況は逐一報告させてもらうよ」藤田は言う。
「よし、それなら成果が出るまでは俺が金はなんとかしてやる。一種の投資ってとこだな。ヘマするんじゃねえぞ、その時は分かってるよな?」髭面の表情は少し和らいだ。
「わかってます。さっそくこの後戻ったら始めます」藤田は敬語交じりの安定しない言葉で髭面に答える。
話が終わり店を出ようとした藤田を髭面が呼び止めた。
「待て、もしかしたらおまえらの様子を見に、ボスが家に来るかもしれない、その時はボスにも、この話はするなよ。ボスは金のためならなんでもする。こんなに旨そうな話をボスが食わない訳がない」髭面が言う。
「わかったよ、言わない。俺だって母も妹もいるんだ。なるべく危険なことは避けたいよ」藤田は言う。
どうやら髭面はボスの座を狙っているらしい。
こういう男は途轍もなく頭が切れる。
髭面に利用されている内は命の心配はないだろう。
だが、この男なんだか悪い奴に思えないんだよな。
藤田はBarを後にするとアパートに戻り健人の家のドアを叩いたのだった。
心の闇を晴らす時
「電気つけるぞ」藤田は言った。
「うん」健人はサフランに水をあげていた。
「その花、なんて花なんだ?」藤田は聞く。
「サフランだよ。母さんが好きだった花。子どもの頃から一緒に育ててる」健人はサフランの方を向いていた。
「すごい綺麗だな。こんなに綺麗な花は初めて見たよ」藤田は紫色の花びらに触れる。
「綺麗か、よかった。花には触れないでね、繊細だから」健人の顔に笑みがこぼれた。
藤田はそっと花びらから手を離し、その手をポケットに入れる。
「髭さんから了承を得てきた。さっそく始めよう」藤田は手を叩く。
二人は椅子に座り話し始めた。
「始めるって言ってもなにから始めるの?」健人は問う。
「まずは栽培方法を教える。一度覚えてしまえば簡単だと思うが、おまえの場合少し苦労するだろう。手探りで頑張ってくれ」藤田はそう言うと、淡々と大麻の栽培方法を健人に教えた。
話を聞いている間の健人は時々難しそうな顔をしたが、どちらかというと前向きな表情だった。
「警察に捕まるリスクは?」健人は聞く。
「もちろんある。だが大麻栽培で捕まっている奴はだいたいは友人の裏切りだったり、客がチンコロした場合が多いんだ、その辺りはおまえは俺のことを信用するしかないが、ただ、俺の名簿に載っている客達はまあ大丈夫だ」藤田は自慢気に言う。
「なんで大丈夫なんだよ」健人は腕を組む。
「俺の顧客は全員精神疾患持ちで、なにかあれば二度と商売はしないと色々な脅しをしてあるからだ」藤田は言う。
「色々って」健人は呆れた、詳しくは聞かないほうが身のためだと思ったのだ。
「一度部屋に戻って栽培キットを取ってくる」藤田はそういうと健人の部屋を出た。
一人になった健人は久しぶりに耳鳴りとともに静寂に包まれる。
母が死に、孤独の中にいた健人には藤田の声があまりにも大きかったらしい。
しばらくして、玄関のドアを小さく叩く音が聞こえ、健人は玄関に向かう。
「悪い、開けてくれ」藤田の声がし、健人がドアを開く。
「ありがとう、沢山持ってきたから少し避けててくれ」藤田は健人が端に寄るのを確認すると、両手いっぱいの道具をテーブルの上に広げた。
「そんなにあるの?」健人はテーブルに広がる道具に触れる。
一つ一つの形を確かめ、大体のものがどんな役割を持つのかを想像した。
「そして最後にこれ、今はガーゼに包んであるが明日には発芽すると思う」藤田はプラケースに入った種子を健人の手に直接渡す。
健人はプラケースを受け取ると、軽く形を確認した後そっとテーブルの上に置いた。
「とりあえず植えるのは明日からだとして、この複雑そうなキットを組み立てるのを手伝ってくれない?」健人は藤田に言う。
「ほとんど出来てはいるから、結構簡単だぞ?よし、あの部屋に設置しようか」キットをいじりながら藤田は健人の母の部屋だった方向を指さした。
「あの部屋って?」健人は聞く。
「仏壇のある部屋だよ、日当たりも良さそうだし一番奥まってる」藤田は腕を組んだ。
「嫌だよ、母さんの部屋だ」健人は言う。
「バカ野郎。だからいいんだろうが、少しでもバレない可能性を高めるんだよ」藤田は健人を説得する。
藤田の言うことも分かるが、亡き母の部屋で違法な事をするという背徳感からか、健人はなにも言えなくなってしまった。
「捕まるまで三年間栽培をしてきた。それまで一度もヘマをしたことはない。最後には親友に裏切られたけどな」藤田は言う。
「裏切られた?」健人は聞く。
「その親友とは、ずっと一緒にやってきたんだよ。最後に金を持ち逃げされて、挙句の果てに警察に垂れ込まれたんだ」藤田は悔しそうな顔をした。
藤田の悔しそうな声を聞いた健人は口を開く。
「復讐したいのか?」健人は藤田の方に向いた。
「そうだな、復讐、いや、どうなんだろうな。なんにせよそのためには健人の協力が必要なんだよ」藤田は健人の気持ちが揺れ動く度に、何度も説得を試みる。
「仕方ない、母さんの部屋を使おう。藤田さんがそこまで言うのなら信じるしかない、実際俺も金はほしいし」健人は藤田の言葉になぜか心を動かされてしまう。
なぜか藤田の言葉には説得力がある、必ず成功してやるという信念が伝わる。
藤田自身もやる気に満ち溢れ、十代の頃よりもさらに力を発揮出来そうだった。
健人は藤田と話している内にだんだんと心の靄が晴れていく感覚になる。
前向きになり、過去を悲しむより未来を想像することの大切さを実感することが出来る。
藤田と一緒に前を向こうと思ったのだ。
「それじゃあ健人、さっそく組み立てていくぞ、結構単純だから口でも説明しやすいと思う」健人の母の部屋に移動した二人は栽培キットを組み立て始める。
「まずは土台になる部分、それとテントと呼ばれる囲いのような物を組み立てる。触ってもいいぞ」藤田は健人にキットを触らせ、どんな物を扱うのかを詳しく説明した。
土の設置や、ライトの当て方、水の温度のこだわり、開花後の作業についても健人に伝えながら組み立てる。
三十分は経っただろう、途中藤田はトイレに何度も行っていたが、無事に栽培キットの設置が終わった。
「種は明日植えればいいんだよね」健人は言う。
「明日の朝一番に俺が来るから、一緒に植えよう。発芽しているはずだから繊細に扱わなくてはならないからな」藤田は健人にそう伝えると玄関のほうへと歩いて行った。
「今日は帰るの?」健人が聞いた。
「ああ、伝えたいことは伝えられたし、後は植えるだけだからな」藤田はそういうと健人に背を向け手を振る。
「あの、部屋の片付け手伝ってくれない?」健人は俯き加減に言う。
「そんなもの自分でやれよ」藤田は健人を冷たくあしらうと部屋を出ていった。
玄関ドアの鍵を閉めに健人が歩き始めると妙な違和感がある。
床に散らばっているはずの花瓶の破片がないのだ。
「あの時か」健人の顔から笑みがこぼれた。
播種
次の日の朝、健人は玄関のドアを叩く音で目覚めた。
「おい、健人起きてるか?」藤田の大きな声が聞こえる。
健人は重たい体を起こし、玄関のほうへと歩いていく。
「はいはい、少し待ってて」健人は頭を掻きながら玄関のドアを開けた。
「おまえまだ寝てたのか?もう六時だぞ?」藤田が言う。
「もう六時って、まだ六時だって」健人は不機嫌そうだった。
「種植えるぞ」そういって藤田はそそくさと健人の部屋へと上がり込んだ。
そんな藤田の声を背中で聞きながら健人は開かれたドアの前で欠伸をした。
「良い朝なのに騒がしいな」健人は腕を空に伸ばす。
少しすると、部屋の中から物音が聞こえる。
藤田は母の部屋でなにやら作業をしているようだ。
健人は玄関のドアを閉めると、藤田の元へと向かう。
「健人、おまえが植えてみろ」藤田は健人に種子の入ったプラケースを渡す。
健人はプラケースを開けると、大麻の種子を一つつまみ、そっと手のひらに乗せた。
「芽が出てる」大麻の種子に優しく触れ、芽が出てることを確認した健人は、そのまま栽培用のテントに入った植木鉢に種子を植えた。
「大麻自体は丈夫な方だと思うが、乾燥にはめっぽう弱い、十分注意しろよ」藤田はそういうとジョウロを健人に渡す。
「分かってるよ、植物を育てるのは得意なんだ。食虫植物だって育てたことあるし」健人は植木鉢に水をたっぷりとあげると、自分の部屋のサフランの元へと向かう。
「食虫植物ってハエトリグサとかだろ?」藤田は母の部屋から聞く。
「そうそう、ハエトリグサ」健人はサフランに水をあげながら答えた。
「あれは面白いよな、刺激するとパクって閉じちゃうんだよな」藤田は笑顔で言う。
「実はハエトリグサは日本の気候に合っていて、結構育てやすいんだよ、藤田さんも育ててみたら?」健人はジョウロをサフランの植木鉢の脇に置くと藤田のいる母の部屋へと戻ってきた。
「いいかもしれない、でもどこで売ってるんだろうな」藤田は腕を組み考える。
「ネットで買えば?今はもうなんでもネットでしょ?」いつのまにか胡座をかき座っている健人が言う。
「そ、そうなのか?ネットで買うものなんて信用出来ないだろ」藤田は言う。
「古いなあ、藤田さんは」健人は藤田を小馬鹿にした。
「仕方ないだろ、八年入ってたんだぞ!それについこの間出てきたばかりだ」藤田も胡座をかき座ると上着のポケットから菓子パンを出し、健人に差し出した。
「八年も入ってたの?いったいなにしたの?人でも殺した?」健人は少しだけ後ずさる。
「そんな訳ないだろ!ほら、菓子パン食えよ」藤田は健人の手に菓子パンを近付けた。
健人は菓子パンを受け取ると袋を触る。
「ありがとう、これメロンパンだね」健人はそういうと袋を開け匂いを嗅いだ。
「良い匂い、俺メロンパン大好きなんだよね、それでいったいなにをして八年も入ってたの?」健人はメロンパンを頬張りながら藤田に聞く。
「大麻栽培、所持、未成年も含めた密売、輸入輸出、色々やった」藤田は俯き加減に言う。
「結構悪いことやってるね」苦笑いを浮かべた健人は尚もメロンパンを頬張る。
「人は殺してないからな」藤田は強調して言う。
「分かったよ、ところで今後の流れはどんな感じ?」健人は藤田に聞く。
「とりあえず花が咲かない限りはなにも出来ないからな、あまりここに来るのも怪しいだろうし、説明したとおりに栽培を続けてほしい」藤田は言う。
「分かった。なにかあれば部屋までいくよ」健人はそうゆうとメロンパンの最後の一口を口の中に放り込んだ。
第二章
Green Crack
健人が栽培を始めてから三ヶ月が経った。
その間藤田は髭さんから紹介された解体屋でなんとか生計を立てていた。
とうとうこの日が来たのだ。
健人と藤田は健人の母の部屋にいた。
「乾燥もトリミングも終わった」安堵のため息を吐く藤田は完成したその花をそっとつまみ鼻の前に持ってきた。
芳醇な香りを感じると、花の形や質を見極めた。
それは窓から差し込む光で、まるで宝石のようにキラキラと輝いている。
花をケースに戻し、ベタつく指先を擦り合わせると藤田は健人の方を向く。
「最高だ。こいつは最上級だ」藤田は感動していた。
「これで次の段階に進めるね」健人は鼻高々に藤田に言う。
「そうだな、さっそく売りたいところだが・・・」そういうと藤田はポケットの中から大麻の花を砕くグラインダーと呼ばれる道具を取り出した。
凝縮された極上の大麻を指で裂き、蓋を開けたグラインダーに少しずつ乗せる。
蓋を閉めると両手首を捻り、中に入っている大麻を鉄と鉄が擦れる音とともにすり潰す。
「なにしてるの?」健人は藤田に言う。
「まあ待ってろよ」藤田はそういうとなにやらごそごそと作業を始めた。
健人は今の状況を理解することは出来なかったが、鼻の奥に感じる柑橘系の、もしくは土や森の中で感じるようななんともいえない躍動的な香りに一人うっとりとしていたのだった。
「さあできたぞ」藤田の手によって手際よく作られたそれに、藤田はライターで火をつける。
その一瞬、部屋中に明かりが灯った気がした。
深く、ゆっくりと肺の奥まで吸い込む。
まったりと肺を膨らませていくような感覚だ。
心地良く肺が膨らんだことを実感すると、さらにゆっくりと時間をかけて煙を吐き出していく。
「GreenCrackだ」藤田はそっと呟く。
非常に滑らかな煙、それでいて口蓋の上部と舌の奥にマンゴーを連想させる。
スパイシーな味を残すGreenCrackに藤田は感動し涙を一粒落とすのだった。
「健人も吸ってみろ、おまえが作った極上のジョイントだぞ」藤田は健人に巻紙で巻かれたGreenCrackを持たせる。
健人の五感は既にGreenCrackに魅せられていた。
なんの躊躇もせずにジョイントを口元まで持っていき勢いよく吸い込んだ。
「ごほっごほっ・・・・ごほっ」健人は顔を真っ赤にし苦しそうに肩を上下させる。
「ごほっ・・・ごほっ」尚も咳き込む健人は、そのまま勢い良く立ち上がり冷蔵庫を開け、二リットルの水の入ったペットボトルに直接口を付けゴクゴクと喉を鳴らした。
「なんだ健人、素早く動けるじゃないか」健人のその姿を見た藤田は目玉を真っ赤にしゲラゲラと笑っている。
「笑い事じゃない・・・ごほっ」少し咳が収まってきた健人は手探りで空のグラスを取り、飲みかけの水を注いだ。
健人はそのまま藤田のほうへと歩くと、グラスを藤田の前に置く。
「おまえが口を付けた水かよ、まあいいけど」藤田は相変わらずニコニコとしながらグラスの水を飲み干した。
グラスをテーブルに置くとジョイントを更に吸い込む。
「ごっほ・・・ごほ・・・ごっほごっほ」藤田もさらに目玉を真っ赤にし咳き込む。
藤田の盛大な咳き込みを聴いた健人は口に含んでいた水を噴き出してしまった。
「笑わせないでくれよ藤田さん」健人は大きな声を出し笑った、藤田は咳き込みながらもジョイントを健人に持たせた。
「ところで健人、好きな曲はあるのか?」藤田は聞く。
「俺は坂本慎太郎が好き、坂本慎太郎の”思い出が消えていく”」健人はゆっくりと煙を吐きながら答える。
「渋いな、おまえまだ二十三だろ?」健人からジョイントを受け取る。
「お母さんが昔からよく聴いていたんだよ。耳に残ってて大人になってもノスタルジックな気分になるんだよね」
藤田は健人の部屋の中から音楽プレーヤーを見つけると、一言「聴こう」と言った。
藤田は煙をゆっくりと吐き出すと音楽を流し始めた。
健人はその瞬間、まるで別の世界にいるような感覚になった。
いつも聴いている音とは違う、スロー再生をしているような、頭の後ろに残る音を全身で感じる。
一粒一粒の音色を聴き、深く、深く音の波に吞まれてゆく。
こんなに素敵な世界があったのか。
こんなにも心地よく癒される空間が存在したのか。
ふと母に抱かれた時のことを思い出す。
泣きじゃくる僕を優しく励ましてくれた。
あの日のうどんの味やカレーの香り、サフランのみずみずしさ。
自然と健人の目からは大粒の涙が溢れた。
心が浄化される。
健人は少しの間だが母と再会出来たのだろう。
顧客名簿
「落ち着いたか」窓際で空を眺めていた藤田は健人にそう言った。
「うん。暖かくてすごく良い気分だった」健人はそういうと両腕を天井へと伸ばす。
「よし、俺は一旦髭さんに報告してくる、おまえはゆっくりしてろ」藤田はプラケースに入れた大麻をポケットにしまい、健人の母の部屋から出ていく。
健人は右手を上げ無言の挨拶をした。
玄関のドアを開けるとアパートの柵の隙間から階段を上がってこようとする男二人の姿がある。
片方は少し腰が曲がり、杖を突き階段の手摺に摑まっている白い髭の生えた老人だ。
茶色の帯と深い緑の着物を身に着けている。
そしてもう片方は黒いスーツに身を包み、いかにも老人を警護しているかのような風貌だ。
「だれだろう」藤田は二人がこちらに気付く前に急いで健人の部屋のドアを閉め、何事もなかったかのように振る舞い階段のほうへと歩いた。
階段をゆっくりと上がってくる二人を横目でちらちらと見ながら藤田は妙に体に落ち着きがない事に気付く。
一段一段と踏み締めるその老人の足には確かな生気を感じる。
そして、最後の段に差し掛かった時、黒いスーツに支えられた老人が顔を上げた。
「う・・・」老人と目が合ってしまった藤田は一瞬、蛇に睨まれたように体を硬直させてしまう。
「君が藤田君か、鈴木君の知り合いだって?鈴木君は中では元気にしてたかな?」老人は目の色一つ変えずに藤田に質問した。
「は、はい。彼は私に大変良くしてくださいました」藤田は使い慣れない敬語を使う。
「まあ楽にしなさい。ところで君はどんな仕事をもらったのかな?」杖に両手をつき老人は言う。
「仕事は・・・」藤田は咄嗟に髭さんの言葉を思い出す。
彼はボスにはなにも言うなと言った。
今俺の目の前にいるのは髭さんの言うボスと呼ばれる男で間違いないだろう。
「今は近くの解体屋で働いてます・・・」藤田は一瞬詰まったがこう切り返した。
「解体屋?」ボスの表情が変化したような気がした。
「はい。なにかあればすぐに動けるようにと髭さんが準備して下さいました」藤田は背筋をピンと伸ばす。
「おまえ、嘘をついているな?」
ボスはさらに鋭い視線で藤田を睨む。
足元から眼球だけで覗き込むような、半分の黒目は上瞼によって隠れている。
さらに足先は藤田を逃がさないためか無意識にこちらに向いている。
絶体絶命。
今まで生きてきた中での一番の恐怖に値するだろう。
藤田は全身の血の気が引き、両脚の力が抜けそうになった。
その時。
「ボス、お久しぶりです」突然背後からの声とともに、姿を現したのは健人だった。
「おお、健坊か、大きくなったな」ボスの顔は突然和らいだと思うと、藤田のことを無視し健人の元へと杖を突く。
「今日は健坊に用があってな、少し上がってもいいか」ボスはそういうと健人が開くドアの中へと入って行った。
ドアの前には黒スーツがどっしりと構え藤田に向かって手を払う仕草をする。
早くどこかへ行けということだろう。
藤田は一目散に階段を駆け下りた。
階段を下り切り、健人の部屋のほうへと目をやると黒スーツがこちらに気付き柵を掴み威嚇してきた。
藤田はそれ以降振り返ることはなかった、このアパートは変だ。
『BarSpray』に辿り着いた藤田はいつものように【closed】の看板を無視し勢いよくドアを開く。
「こんにちは」藤田はカウンターに向け挨拶をすると、奥の赤いカーテンをくぐり、髭さんが出てきた。
「なんだ?良い知らせか?」髭さんは煙草を咥え頭を搔きながらこちらを見つめる。
こんな時でも彼は必ずキッチリとしたダブルスーツを着ているのだ。
「収穫終わりました。極上品です」藤田はそういうとポケットからプラケースを取り出す。
ケースの蓋を開くと、Bar内に芳醇な香りが広がった。
「すごいなこれは、かしてみろ」髭さんが藤田からキラキラと輝く大麻を受け取る。
すると髭さんは、収穫直後の藤田と同じようにうっとりと見入ってしまったようで少しの間無言の状態が続いた。
「髭さんこれ」藤田はポケットに忍ばせておいたジョイントを髭さんに渡す。
髭さんは口に咥えた真新しい煙草をカウンターの上の灰皿に押し付けると、さっそくジョイントを咥えライターに火を灯した。
深く吸い込み、深く息を吐く。
カウンター内から出てきた髭さんは呼吸をするように煙を吹かすと背の高い椅子に腰かけた。
目を瞑り天井を仰ぐと、後ろに伸ばした肩肘をカウンターに付ける。
「確かにこいつは極上だ。GreenCrackをここまでに仕上げるとは」髭さんは驚いていた。
「健人です、やはりあいつは才能がある。もともと分かっていたんですよね?」藤田は問いかける。
「ああ、分かってた。あいつの母親とは昔恋人同士だったからな」髭さんはリラックスしているようだ。
「髭さんの恋人だったんだ、それで健人はボスとあんなに親しそうだったのか」藤田が言う。
「やっぱりボスは来たか、なんて言っていた?」髭さんは藤田に聞く。
「仕事はどうしてるんだって、今なにやっているのかを聞かれたよ」
「なんて答えた?」髭さんは質問攻めだ。
余程ボスに藤田と健人の関係を知られるのが嫌なのだろう。
「解体屋で働いているだけだと答えた」藤田は言う。
「そうか、それなら良い」髭さんは納得したのかカウンターチェアから立ち上がり、カウンターの中へと引っ込んだ。
「とにかくこの品で商売をしていく」藤田は髭さんにそう言うとBar入口のほうに振り向く。
「待て、サツに押収された顧客名簿はどこだ?名簿もないのに商売なんて出来ないだろ」髭さんが藤田の背中に向かい言う。
「顧客名簿?ああ、あれか、サツには偽物を掴ませた。当たり前でしょ大切なお客さんなんだから」藤田はそういうと右手をあげBarを後にした。
・・・・
自分の部屋に戻ってきた藤田は実家の屋根裏から取ってきた顧客名簿と睨めっこをしていた。
八年前の情報だ、確実性がないかもしれない、警察にパクられている奴もいるかもしれない。
今の状況で顧客に電話をいれたりアクションをするのは危険だと考えた。
なにか方法はないものか。
藤田は十分程度だが、部屋の中心で胡座をかく。
「古いなあ、藤田さんは」
集中しているとふと健人の言ったことを思い出す。
「ネットで買えば?今はもうなんでもネットでしょ?」
健人の声が頭に木霊する、藤田はなにかを悟った。
「とにかく名簿に書かれている住所に出向き、SNSの情報を今までの顧客に教えてもらう。大変だがこの方法が一番確実だろう」常に慎重に動く藤田は時間をかけてでも今までの顧客名簿を完成させようと誓ったのだ。
しばらくすると藤田の部屋のドアを叩く音がした。
藤田は急いで顧客名簿を隠すと、玄関の覗き穴を見る。
そこには健人が立っていた。
健人を部屋に招き入れた藤田は、なにもない畳の上に座らせた。
「さっきは助かったよ。あいつに大麻の存在を知られたか?」藤田は恐る恐る聞く。
「あいつって、ボスのことだろ?大麻はうまく隠したよ。ところで髭さんとどんな話をしたの?」健人は言う。
「今回健人が育て上げた大麻は、髭さんにもお墨付きをもらった。このGreenCrackで勝負することに決めた」藤田は腕を組み笑顔を作った。
「よかった、また次の段階に進めるね。次はなにをする?」健人は聞く。
「次は顧客名簿に載っている顧客に直接会いにいく。はじめは苦労するだろうがSNSの情報を手に入れたら少しづつネット上で拡散していこう」藤田は言う。
「会いに行くのはいいけど、顧客って言っても遠いところでどの辺り?」健人は聞いた。
「二十キロ圏内だな、遠くても東京駅辺りまでだろう」藤田は記憶を辿りながら応える。
「案外近いね」健人は安堵した。
「まだ子どもだったからな、ネットもそんなに普及してないし、車もなかった」藤田はそういうと立ち上がる。
藤田はごそごそとなにかを始めた。
「藤田さんなにやってるの?」健人は聞く。
「健人、遊びに行くぞ」藤田は意気揚々と着替えていたのだ。
「遊びに行くってどこに?仕事は?」健人は混乱する。
「仕事がうまくいきそうだからな。こんな状況でじっとしていられるわけないだろ。もう夕方だし、前夜祭といったところだろう」藤田はそそくさと健人を立ち上がらせると、健人の部屋まで連れて行った。
「さあ着替えろ、俺はGreenCrackの様子を観ておく」藤田は鉢の前で胡座をかく。
「遊びに行くのは分かった。でも金はどうするの?」言われるがままに外用の服に着替える健人は、藤田に疑問を投げかけた。
「奢ってやるよ。俺が家から何からぶっ壊して稼いだ金だ」藤田は白い歯を見せ言うと、健人の手を掴みアパートを出る。
二人はちょうど太陽が沈むであろう時間帯にタクシーに乗り込むのだった。
クロノスタシス
指先に音の振動を感じる。
心臓が飛び出してしまいそうな空気の揺れ、鼻の奥を刺す甘ったるい香水の匂い。
時折頬に当たる長い髪の感触。
不思議と耳から伝わるはずの音は、耳の穴を通り道にはせず直接脳へと音を運んでいるようだ。
健人は踊り狂う人の中に別の世界を築いていた。
・・・
「おまたせ」お酒の入ったグラスを持った藤田が健人の元へ戻ってきた。
「藤田さん。ここ最高だね」健人は笑顔で藤田からグラスを受け取る。
「だろ?ちょっと来いよ」藤田はそう言うと健人の手を引き屋外へと連れてきた。
生暖かい潮風が吹く喫煙所には人影一つない。
すると藤田は内ポケットから綺麗に巻かれたジョイントを取り出し、ライターに火を灯す。
その火を口に咥えたジョイントに近づけると、たちまち芳醇な香りが辺り一帯を包み込んだ。
「藤田さん、いつのまに」健人は呆れたようだったが鼻に優しく触れるその香りに再度まったりとしてしまった。
藤田はゆっくり、ゆっくりと煙を肺に溜めると息を止める。
目を瞑り、全身でGreenCrackを感じた。
藤田はその状態のまま健人にジョイントを渡す。
ジョイントを受け取った健人は、藤田と同じように煙を肺に溜め息を止める。
「明日から本格的に顧客を探していくに当たって、こいつの良さや重要性をより強く語れないといけない」藤田は真面目な顔をした。
「他との差をつけるってことだよね」健人は言う。
「そういうことだ。どうやって差をつけるかというところだが、、、」藤田は腕を組み考え込む。
「使用用途を明確にするのはどう?」健人がひらめいたように手をたたく。
「使用用途?例えば?」
「薬局で買う薬と一緒だよ、頭が痛いから頭痛薬を買う、遠出のために酔い止めを買うでしょ?」
「そういうことか、確かに」
「俺たちの顧客には、事前に悩みを聞いて、それに沿った使い方や分量をレクチャーしてあげるんだよ、安心を一緒に販売するようなイメージかな」
「そういうことなら売出しの文句としては、頭痛に効くとか、鬱症状が改善します、とかになるのか」
「そういうことだね、でももちろん、音楽がより良く聴こえるとか、感性が高まるとか、そういった現状からのプラス要素も伝えてあげるといいかも」
「試してみよう」
二人は会話を終えると、クラブの中へと戻った。
屋内は相変わらず賑わっていて、天井から降り注ぐレーザーが客達の体を何度も切りつけている。
ハイテーブルについた二人はさっそく品定めを開始する。
「どんな感じの奴にするか」藤田が健人に聞く。
「とりあえず若い二人組と、病んでそうな人」健人はグラスに入ったビールを飲み干した。
「分かった」藤田はそうゆうと健人をハイテーブルに残し、ホールへと向かう。
健人の言う若い二人組はすぐに見つかった。
男二人組、ちゃらちゃらした服装だ。
「君たち」藤田は馴れ馴れしく声をかける。
「なんだよ、おっさん」片方の短髪の少年が藤田を威嚇した。
「そんなに俺は老けて見えるのか、良い話があるのだけれど」藤田は切り出した。
「おい、とりあえず聞いてみようぜ」短髪の隣にいる髪を茶色に染めた少年が割って入る。
「音楽をより楽しむためのものなんだけど、、、」藤田が話そうとしていると短髪の少年が話を遮る。
「おっさん売人かよ!MDMAある?」短髪の少年は言う。
「ない」藤田は呆れ顔で背を向けハイテーブルに戻ろうとする。
「おじさん待ってよ、じゃあなにを持ってるの?」茶髪の少年が藤田を引き止める。
「大麻」藤田は答えると、少年二人は顔を見合わせた。
「この際大麻でもいいや、買うよ」少しの話し合いの末、短髪の少年が言う。
「分かった。少し待ってろ」藤田はそうゆうと歩きだした。
若者二人はキョトンとしている。
「待たせたな」戻ってきた藤田は、両手にショットグラスを持っていた。
「おっさん、大麻は?」短髪の少年は相変わらず食って掛かってくる。
「悪い、今日は忘れてきてしまったみたいだ。変わりにこれでいいか?」藤田はショットグラスを差し出す。
「いくぞ」今にも飛びかかってきそうな短髪の少年の腕を茶髪の少年が掴み、二人は藤田の前から立ち去った。
藤田は二人の後ろ姿を見送ると、健人の元へと戻る。
「健人の言うとおりだった。あっちから食い付いてきたよ」藤田はショットグラスをテーブルに置いた。
「でしょ、どうする?今からここで売ってみる?」健人は得意げだ。
「いや、今日持ってきた大麻はさっき吸った分で全部だ」藤田はショットグラスを健人に差し出した。
「グラスがすごく冷えてるね、この酒はなに?」健人がグラスに触れながら聞く。
「ボンベイサファイア、ジンだよ、キンキンに冷やすとトロみが出てうまいんだ」藤田はそういうと冷えたショットグラスを口元に持っていき、一気に飲み干した。
ショットグラスをテーブルに叩きつける音を聞いた健人は、それに続いてボンベイサファイアを飲み干す。
「キツいねこれ」軽く咳き込みながら健人もグラスをテーブルに叩きつけた。
「香りがいいだろ」藤田は言う。
「確かにおいしいけどね」健人が気に入った様子を見せると藤田は満足そうな顔をした。
そして、しばらく仕事についての話、お互いの趣味などについての話をしていた時だった。
「君たちちょっといい?」藤田の背後から声がする。
「はい?なにか?」藤田が振り返るとそこには金のチェーンネックレスをした半グレが立っていた。
「売人なんだって?困るなあ、ここで商売されちゃ」男は煙草を口に加えながら藤田の胸ぐらを掴み、ハイテーブルの椅子から引きずり下ろす。
男はそのまま藤田を引きずり階段を上がった先のVIPルームの扉を開ける。
部屋の中では、10人以上は座れそうなローテーブルとソファを、黒を基調とした服を着た男達がほとんどの席を埋めていた。
妙な香りが漂うその空間では、女と男が入り交じり微かな笑いも起きているのにも関わらず、どす黒い重い空気を感じる。
こちらの気配に気付いたのか、男達は一斉に藤田のほうを見る。
冷たい視線を浴び、藤田は少しだけだが冷汗をかき視線を反らした。
「連れてきました」男が藤田を部屋の中央に投げると、奥の男が口を開く。
「おまえ、藤田か?」男の一言で、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
藤田はその声をはっきりと覚えていた。
あの日の記憶が頭の中で何度も繰り返す。
「なんだおまえ出てきてたのか」男が薄ら笑いを浮かべると、藤田はゆっくりと顔を上げ、男めがけて突然飛びかかった。
周りの男達をかき分け、奥の男に拳を振り下ろそうとしたその時、藤田の腹には強烈な蹴りが入る。
そのまま男に床に押し倒される藤田。
「桜庭!この野郎!見つけたぞ、見つけたぞ!おまえを許さないからな」藤田は物凄い剣幕で桜庭を睨み、指をさす。
瞳孔は開き、呼吸が荒い。
上に乗る男を振り落とそうと全力で抵抗するが、藤田には叶わなかった。
「まあまあ、落ち着けよ、ところでおまえ俺の縄張りでなにやってくれてんだ?」桜庭は藤田に馬乗りになっている男に指で合図を送る。
男は藤田を立たせ、藤田の両手の親指を後ろに回し、結束バンドで固定した。
「酒を飲みに来ただけだ」藤田は言う。
「嘘つくなよ、うちの若いのがおまえにハッパ売りつけられたって言ってたぞ」桜庭は深いソファから立ち上がると藤田の目の前に来た。
「持ってねえよ、売りつけてもねえしな」藤田は桜庭を睨む。
その顔を見た桜庭は藤田の首を掴み、壁に叩きつける。
「あ?いちいち口答えするんじゃねえよ!」桜庭は藤田の腹に膝を入れた。
藤田の体は少しだけ宙に浮き、次には両膝をついて床に頬を強打する。
「おまえもう俺の前に現れるなよ」桜庭は藤田の髪の毛を鷲掴みにする。
それでも桜庭を睨み続ける藤田は、桜庭に唾を吐いた。
鷲掴みにされた頭部はそのまま壁へと一直線に動く。
鈍い音が部屋中に響いた。
顔にかかった唾をハンカチで拭きながらも、桜庭は間髪入れずに床に縮こまる藤田の腹につま先をねじ込んでゆく。
藤田はまるで赤子のように体を丸め、意識が朦朧としている。
この部屋には相当な人がいるはずだが、桜庭以外の声は一切聞こえなかった。
「おい、藤田、おまえ売ってたんだよな?」尚も藤田に質問を続ける桜庭だが、藤田に答える気がないのだと判断したのか扉近くの男に再度合図を送る。
すると男はそそくさと部屋から出ていき、ものの5分もしないうちに戻ってきた。
なんとその男が連れてきたのは健人だったのだ。
「ああ、来たね。君は藤田とお友達?」桜庭は藤田の頭を踏みつけながら聞く。
「は、はい。お、お友達です」健人は突然の出来事により頭が混乱し、パニックになっている。
「まぁ緊張しないでさ、そこに座ってよ」桜庭は健人に座るように促した。
健人はベトベトになった手のひらを強く握ると、その場にゆっくりと正座する。
「君良い子だね、ところでさ藤田とはハッパかなんか売ってた?」桜庭は健人の前まで来るとしゃがみ込み、下を向く健人の顔を覗き込んだ。
「い、いえ売ってません」健人は怯えている。
「売ってたよね?」桜庭はさらに畳みかける。
「いえ」健人は言う。
「おい、嘘つくなよ」桜庭は健人の頬を軽く叩く。
「嘘じゃありません」叩かれたことへの恐怖から、健人の歯は震え始めた。
「おい、耳までおかしいのか?売ってたよな?な?」桜庭は健人の耳を引っ張る。
「本当に売ってないです」とうとう泣き出してしまった健人に桜庭はさらに追い打ちをかける。
「は?おまえなあ、俺がなんで怒ってるのかわからなくなっちゃうじゃん。周りに示しがつかないだろって言ってんの」桜庭は健人の髪を掴む。
桜庭が握り拳を作った時だった。
「売ってねぇって言ってるだろ」藤田がボロボロになった体を壁に押し付けながら立ち上がる。
「あ?」桜庭は藤田を睨む。
「そんなことよりおまえ随分羽振りがよさそうじゃないの」息を切らし、血を床に吐きつけた藤田は言う。
「まあな。おまえが残した名簿に載ってた客達のおかげでな」桜庭はニヤついた。
「嫌な予感がしてたんだ。やっぱりおまえあの顧客名簿の写しかなんかを持っていたんだな」藤田は壁に寄りかかる。
「そういうことだ。うまい汁は沢山吸わせてもらったよ、今頃おまえの客達は泡でも吹いて死んでるんじゃないか?」桜庭は言う。
「どういうことだ?」藤田は目を見開く。
「あいつら脱法ハーブからなにから見境なく手を出すからよ、一人ひとりパンクさせてやったよ。まあ今じゃ脱法ハーブ買う金もねぇだろうし、どっかで死んでると思うぜ?結局のところおまえの名簿はもう紙屑同然ってことだよ」桜庭は笑い出す。
桜庭の耳を疑う発言に藤田の堪忍袋の緒が切れた。
両の手が塞がっていることなど気にもせず桜庭の方へと足を踏み出す藤田だが、そのままバランスを崩し、前のめりに突っ込んでゆく。
その光景を見ていた周りの男たちが藤田を止めようと一斉に走り出す。
遠い距離から飛び込むもの、ぎりぎりのところまで手を伸ばすもの、驚いて目を伏せるもの。
その中で尚、泣きじゃくる健人だが、彼の耳には大きな鐘の音が聴こえた気がした。
そう、藤田の頭は桜庭の顔面の中心である鼻の骨を砕き、歯を折り、見事なまでに桜庭を突き飛ばし失神させたのだ。
突き飛ばされた先には健人がいたため、桜庭が上に覆いかぶさった健人も状況を理解できないまま失神してしまった。
藤田はそのまま床に倒れこむと歯を食いしばり覚悟を決める、彼がその部屋で最後に見たものは数えきれないほどの靴底だった。
SNS活用法
「桜庭さん!警察です!」何者かが扉を開け叫ぶと、藤田を踏みつけていた男達は桜庭を連れフナ蟲のように部屋を後にする。
残された女たちも一目散に部屋を出てゆくと、突然静寂が訪れたその場所には失神した藤田と健人の姿だけが残った。
テーブルはひっくり返り、床には割れたグラスや皿、菓子などが散乱している。
そんな中で橙色の照明に照らされ、大の字になっている二人はどこか勝ち誇ったような表情をしていた。
「起きて下さい、藤田さん」黒い帽子を深く被った人物が藤田の肩を揺する。
揺すれど揺すれど目覚める様子がないため、その人物はまだ中身のあるグラスを探し出し、藤田の顔面目掛け勢いよく残っていた酒をかけた。
「ぶはぁ!」藤田は地上での溺死を阻止するためか本能的に意識を取り戻す。
「藤田さん、お久しぶりです。私です、麻衣です」麻衣というその人物は帽子を取り、自分の胸元に片手を置き虚ろな目をした藤田に訴えかけた。
「うん?ああ、麻衣ね、麻衣」藤田はぼおっとしながら答える。
「本当に分かってますか?」麻衣は腕を組み、頬を膨らませた。
「麻衣、とにかくこの結束バンドを切ってくれないか?」藤田は寝ころびながらも体制を横向きにし、間もなく紫色になってしまいそうな親指を見せる。
驚いた表情をした麻衣は急いで自身のバッグから小さなハサミを取り出し、結束バンドを切り、藤田を座らせた。
「大変でしたね、最近桜庭先輩にはほとんどの人が愛想を尽かしていたんですよ、やりすぎだってね」麻衣は言う。
「そうだったのか、あいつがどこに行ったか知らないか?」藤田は聞く。
「桜庭先輩達は、私が警察が来たとほらを吹いたら一目散に逃げていきましたよ」麻衣はにこにこしていた。
「そうか、麻衣が助けてくれたのか、ありがとう」藤田はぎこちないながらも頭を下げる。
「もう、藤田さんらしくないですよ、さぁ行きましょう」麻衣はそういうと藤田の肩を担ぎ、その場に立たせた。
「麻衣、俺は大丈夫だからあそこにいる男を起こしてあげてくれないか?」藤田は未だに失神を続ける健人を指さす。
「藤田さんのお友達ですか?ちょっとまってて下さい」麻衣はそうゆうと中身の入ったグラスを探し出し、健人の顔面の上に持ってゆく。
「おまえもしかして俺にも同じことを」藤田が質問しようとした瞬間、麻衣の持つグラスは、手から滑り落ちまっすぐ健人の鼻目掛け落下を始める。
藤田と麻衣は、瞼を大きく見開き顎が外れんばかりの大口を開けた。
まるで時が止まったかのような感覚。
ゴツンッ。
健人の鼻のてっぺんにグラスが直撃した。
「いてっ」鈍い音とは裏腹に、健人は鼻血を垂らし、なぜか後頭部をさすりながら起き上がる。
「ご、ごめん」麻衣はすかさず健人の鼻にハンカチをあてた。
「え、なに、誰?」健人は驚き後ずさる。
「大丈夫だよ、健人。確か俺の高校時代の後輩だよ」藤田は言う。
「確かって、やっぱり藤田さん覚えてなかったんじゃ」麻衣は手だけは健人の鼻にあてていたが、藤田を睨んだ。
「いや、そうだよな高校の時の後輩だよな」藤田は麻衣を指差す。
麻衣はムスッとした顔をする。
「すまんすまん」藤田は頭を掻き謝罪した。
「藤田さん、なにもわかってないじゃん」健人が呆れ声で言う。
「う、うるせえな、人間なんだし忘れることもあるだろう、さあ帰るぞ」藤田は扉のほうへと先に歩きだす。
「大丈夫?歩ける?」麻衣は健人に肩を貸そうとした。
「大丈夫、大丈夫、一人で大丈夫」健人は麻衣の善意を断り歩きだすが、さっそく一つ目の障害物の、倒れたソファでつまずく。
「大丈夫じゃないでしょ」麻衣はそうゆうと無理矢理健人の腕を自分の肩に回した。
「ありがとう」健人は顔を赤らめる。
そんな二人の姿を藤田は優しい顔で見ていたのだった。
外に出た三人は、長椅子にこしかけ、夜風に当たりながらタクシーを待っていた。
「なぜ俺たちが、あの部屋にいるとわかったんだ?」藤田は麻衣に聞く。
「なぜって私も初めからあの部屋にいましたもん、桜庭先輩が失神した隙に部屋を飛び出したんです。一度は逃げようかと思ったんですけどね」麻衣が遠くを見つめながら言う。
「なんで逃げなかったの?」健人が横から声をかける。
「藤田さんは覚えてないかもしれないですけど、私藤田さんに助けて頂いたことがあるんですよ」
「俺に?」腕を組み空を眺めながら考え込む藤田。
「はい、レストランでのアルバイトの途中でした。夜だったので店内は騒がしくお店自体もバタバタしてました。そんな中、桜庭先輩と藤田さんがいらしたんです。桜庭先輩はよく知っていましたし、桜庭先輩といる藤田さんも何度か見たことがありました」藤田と健人が興味津々に話を聞いている中、麻衣は語り始めた。
「二人をお席に案内し、水をお持ちしようと二人のもとに戻る時でした。突然近くの席のお客さんが立ち上がったせいで、その水をお客さんの頭に被せてしまったんです」麻衣は申し訳なさそうに話す。
「麻衣は水をかけるのが好きなんだな」藤田は麻衣を小ばかにした。
「そういう訳じゃありませんよ。偶然です」麻衣は再度頬を膨らませる。
「そうしてどうなったの?」続きが気になる健人は聞く。
「それでそのお客さんは、当たり前ですけど私に怒鳴ってきました。私が悪いので何も言い返せずにずっと黙っていたんです。するとそのお客さん、どんどん酷い言葉を言うようになって、最終的には私の髪の毛を掴んできたんです」麻衣は身振り手振りで藤田と健人に伝えている。
藤田と健人は食い入るように麻衣の話を聞いていた。
「ああ、殴られるんだなと思った時でした。藤田さんが現れて、そのお客さんの手を私の頭からそっと離したんです。どうやってやったのかは分かりません。ただあの時の藤田さんはそのお客さんになにか耳打ちをしていました」麻衣が必死に話すも藤田はまだなにも思い出せずにいる。
「そんなことあったかな?全然覚えてないや」藤田はぽかんとしていた。
「麻衣さんがここまで話しているのにまだ思い出せないなんて藤田さんは本当に鈍感だよな」健人はさらに呆れる。
「たぶんなにか怖い事を言ったのでしょう。当時の藤田さんと桜庭先輩は地元じゃ有名な悪人でしたからね」麻衣は微笑した。
「悪人って藤田さんが?やっぱり悪い事いっぱいしてたんじゃん」健人が言う。
「悪人だなんて失礼だな。少し幅を利かせてただけだろ」藤田はそういうと麻衣を見る。
「二人とも人が嫌がるようなことをする人ではなかったです。ただしビジネスに関しては相当な悪人で別の先輩達も、二人には気を付けろと忠告をしてきたほどでした、そんなこともありあの時の恩返しになるかなと思い、今回活躍させていただきました」麻衣は言う。
「そんなことがあったんだ。過去に恩を売っておいてよかったね」健人が笑いながら藤田の肩を掴んだ。
「そうだな、ほらタクシーが来たぞ」藤田が指さす先には社名表示灯を光らせた黄色いタクシーがやってきた。
三人の目の前で止まると、タクシーの窓が開く。
「乗る?」運転士が運転席からこちらに向かって声を出している。
「乗ります、麻衣はどうする?」健人を先にタクシーに乗せると藤田は麻衣に聞く。
「いえ、私はここから近いところに住んでいるので一人で帰ります」麻衣はそういうと藤田と健人が乗ったタクシーのドアが閉じるのを見守った。
「夜も遅いからな。明日の昼頃よかったら一度うちに顔を出してくれないか?桜庭の事で聞きたいことが山ほどあるんだ」藤田は窓を全開にし麻衣に福沢諭吉を一枚渡しながら言う。
「ありがとうございます、わかりました。明日のお昼ですね、では藤田さん、健人君おやすみなさい」藤田から連絡先と住所を一緒に受け取った麻衣は、そのあとすぐ後ろに待機していたタクシーに乗り込み家路へと向かうのだった。
翌朝、自宅の畳の上で目を覚ました藤田は全身の激痛に独り悶えていた。
「痛い、痛すぎる」藤田は洗面所の鏡の前でパンパンに腫れあがった顔と、青黒い腹の痣に氷を当てている。
桜庭やその付き人達に派手にやられたこの傷や痣は藤田のやる気を削ぐわけではなく、反対に藤田をさらに熱くさせた。
朝食を取ろうにも口の中はズタズタで食欲すら沸かない。
藤田は麻衣が来るまでは畳の上で寝転んでおくことにした。
両手両足を伸ばしたその時。
ドンドンドン。
誰かがドアを叩いた。
藤田は体が動かないことを理由に立ち上がるのを辞め居留守を使うことにする。
麻衣が来るにしては早過ぎる、もしかして健人かと思った矢先。
「藤田さんおはよう」健人だ。
案の定健人だった。
「鍵閉めてないぞ」藤田は寝ころびながら言う。
ガチャガチャ
健人がドアノブを回し部屋に入ってきた。
「藤田さん不用心過ぎるよ。怖い人でも入ってきたらどうするの」そういった健人は大量になにかが入ったビニール袋を藤田の近くに置いた。
「なんだこれ、中見てもいいか」藤田は重い体を起こすと袋の中身を確認する。
「店員さんに適当に選んでもらったんだけどどうかな?」健人は言う。
「健人、助かるよ、ありがとう」藤田は袋の中に入っていたゼリー飲料を手に取り蓋を投げ捨てると、口元にゆっくり近づけ吸った。
「どう?食べられそうなものあった?」健人が聞く。
「沢山あるよ。いやぁ本当に助かる」藤田はにこにこしながらゼリー飲料を口に咥えたまま、袋の中を再度漁り始める。
「よかった。それはそうと今日は麻衣さんが来るんだろう?麻衣さんにはどんなことを聞いて、どんなことを話すの?」健人は言う。
「とりあえず桜庭が、俺がいない間どれだけ動いていたかだな。奴は顧客名簿の事を紙屑だと言った。俺が推測するに名簿に載っている客達は全部桜庭に持っていかれているだろう」藤田は言う。
「じゃあどうするの?」健人が聞く。
「どうもこうも作戦は変わらない。名簿に載っている客が桜庭に薬漬けにされていたとしても、俺達のGreenClackにはそいつを癒す効果が必ずあると思っている、まずは名簿の人から順番に救っていき金を調達しよう」藤田は袋の中から温泉卵を見つけると一つ手に取り殻の上部のみを器用に割った。
卵の殻をコップのようにし、中身を飲み込む。
「そうだね、まずはどんな状況かを知る必要があるね」健人は頷く。
「とりあえずは麻衣が来るまで休ませてくれ、一度健人の部屋へ行こう」藤田はそうゆうと立ち上がり玄関へと歩き出す。
それに続いて健人も部屋を出た。
「おい健人、なんで鍵なんてかけてるんだよ」藤田は健人の部屋のドアの前で待っている。
「鍵をかけるのは普通のことだと思うけど」健人はそうゆうとポケットから鍵を取り出しドアを開けた。
健人は玄関に鍵を置くと、靴を脱ぎそのまま部屋の奥へと消えていく。
「暗い暗い暗い!暗いと悲しいだろ!」藤田は言う。
「ごめん、ごめん。俺には必要ないんだってば」健人が笑いながら謝る。
「電気つけるぞ」部屋の間取りは藤田と同じため電気の場所はすぐに分かった。
藤田は天井から垂れた紐を引くと、そのまま健人の母の部屋の前まで行き襖を開く。
襖から漏れ出る光は健人の部屋をさらに明るく照らす。
この部屋だけは常にカーテンは開かれGreenCrackに新鮮な太陽光を浴びせているのだ。
藤田はGreenCrackの葉を触り、良好な状態を確認すると鉢の前に座る。
「売る分は残しておいてね」健人はそうゆうと藤田の横に座った。
「おまえも巻いてみるか」ポケットから紙を取り出した藤田はそれを健人に渡す。
普段から巻き慣れていた藤田は簡潔にジョイントの作り方を教える。
健人は五分ほど練習をしただけだったが、あっという間に形になった。
「すごいな」藤田は健人の作ったジョイントを持ちまじまじと見つめると、その完成度の高さに感動していた。
「手先だけは子どもの頃から器用なんだよね」健人は照れ笑いをしている。
「はじめはだいたい失敗してぐちゃぐちゃになるんだけどな、さあ吸おうぜ」藤田は手に持ったジョイントを健人に渡した。
健人は慣れない手つきでライターの砥石を擦ると火が灯る。
ゆっくりと口に咥えたジョイントに火を移すと、あの芳醇な香りが鼻から全身に広がる。
「やっぱり良い香りだよね。どんなものにも代えがたい」健人は藤田に渡すと、壁に寄りかかりGreenCrackを堪能した。
「疲れが吹っ飛ぶよ」藤田も煙を吸い込むと健人の横に並ぶ。
「藤田さん、金持ちになったらなにがしたい?」健人が聞く。
「そうだな、まずはデカい家に住む。それから好きな車に乗って、毎日音楽を流して、毎日ホームシアターで映画を見る」藤田は嬉しそうに話した。
「藤田さんは典型的な成金になりそうだね」健人は笑う。
「そういうおまえはなにがしたいんだよ」藤田が健人の肩を叩く。
「俺は世界を旅してみたい。たくさんの国に行って、沢山の人と話してみたい」そう話す健人の声には力を感じる。
「おまえデカい夢もってるんだな」
「夢くらいデカくないとね」
「確かにそうだな。じゃあ俺の夢は日本一の金持ちになることだ」
「楽しみにしてるよ、そうなったら旅費は藤田さんに出してもらおうかな」
「まかせろ」
しばらくの間、暖かい雰囲気の中、夢について語りあった二人だった。
「もうこんな時間か、健人も来いよ、麻衣が来るぞ」藤田は時計を確認して立ち上がる。
「うん」健人も立ち上がり二人は健人の部屋を出た。
ガチャ
健人がドアを開くと丁度ドアの前に麻衣の姿があった。
「うわっ」麻衣は、健人が突然目の前に現れ驚きで後ずさる。
「驚いたぁ」麻衣は胸を撫でおろす。
「あ、ごめん麻衣さん?大丈夫?」健人は麻衣のほうに手を伸ばす。
「大丈夫大丈夫」麻衣は健人の手を掴み体制を立て直した。
「麻衣よく来たな。俺の部屋は隣なんだが健人の部屋でもいいか」藤田はそうゆうと麻衣を健人の部屋へと案内する。
「今お茶を出すから待ってて」健人は冷蔵庫を開け、自家製の麦茶を取り出した。
それを受け取った麻衣は話し始めた。
「さぁどこから聞きたいですか」正座をし藤田と目を合わせる。
「さっそくだが、麻衣は桜庭とどのくらい一緒にいたんだ?」
「桜庭先輩とは、私も高校を卒業して少したってから、偶然昨日二人がいたクラブで会いました。久しぶりに見た桜庭先輩はなんだか人が変わったような出で立ちで、高校時代の優しい雰囲気はなかったです」
「そこで桜庭に話しかけられたの?」
「はい、そうでした。先輩は私に脱法ハーブをやるかと聞いてきたんです。もちろん断りましたが、売り慣れているような感じがしました」
「売り慣れてたか。もうその時点で顧客は完全に奪われていた可能性があるな」
「あの時話してた内容ですね」
「そうだ。なぜ桜庭は大麻から脱法ハーブを売るようになったんだろう」
「桜庭先輩は藤田さんが捕まった辺りからガラの悪い人たちと付き合うようになったみたいで、もしかしたらそこでなにかあったのかも」
「そうだったのか。俺を騙してからなにかあったのか」
「藤田さんを騙した話、少しだけしてくれませんか?」麻衣が真剣な顔で藤田を見る。
藤田は健人に話したように麻衣に当時の出来事を話す。
「そんなことがあったんですね。レストランで見たときはあんなに仲が良さそうだったのに」麻衣は腕を組み考え込む。
「お金だけで人はそんなにすぐに変わってしまうのかな」健人が悲しそうに言う。
「分からん。桜庭との関係はそんなものだったとは思えなかったんだよな」藤田は一瞬悲しそうな表情をした。
「もしかしたらなにか理由があるのかな」麻衣は言う。
「理由か、俺も実は考えたことがあるんだ。麻衣ありがとう」藤田は少し桜庭に希望をかけてみたくなった。
「藤田さん、今日からその名簿のお客さんに会いに行く予定だったけど、問題が解決出来るきっかけがあるかも」健人が言う。
「会いに行くんですか?わざわざ今の時代に手押しするんですか?」麻衣は驚く。
「手押し以外じゃ買い手なんてつかないだろ」藤田は言う。
「そんなことないですよ。今じゃSNSで売買は若者の間で普通ですよ」麻衣はそういうと自身のスマホを取り出し、SNSの画面を藤田に見せる。
「本当だ。すごいな」刑務所に入る前の世界とのギャップに藤田は驚きを隠せなかった。
「とにかく私は、前の顧客には会いに行く必要はないと思います、桜庭さんのグループが関わっている人達にはろくなひとはいませんし」麻衣は藤田と健人のことを気遣うように言う。
「確かに、桜庭の息がかかったやつがまだいるかもしれない」健人も麻衣に同調する。
「その可能性は確かにあるが、チャンスだと思わないか?」藤田は腕を組み考える表情をした。
「どんな?」健人は聞く。
「未経験の人よりはリピーターになりやすいだろ、俺等のGreenCrackで苦しみを緩和出来ないかな?」藤田はひらめいたように言う。
「それより、藤田さんやっぱりまた売ってたんだ、桜庭先輩に知られたら厄介な事に、、、」麻衣は心配していた。
「大丈夫だよ。バレないようにやるさ」藤田は能天気に答える。
「こっちも怖い人がついてるもんね」健人が言う。
「怖い人?まさか二人もやばい人と付き合ってるの?」麻衣は二人に目を向ける。
「やばい人ってわけじゃないけど、まあ麻衣は知らなくて良いことさ、ところでどうやってSNSで販売するんだ?」藤田はそうゆうと麻衣にスマホを借り、慣れない手つきで画面をスクロールした。
「簡単ですよ、貸してください」麻衣は藤田からスマホを受け取ると、淡々と手順について説明をした。
長い間外の世界を知らなかった藤田でも理解できるような丁寧な口調でだ。
「プレゼント企画とゆうものがあります。ネット上で販売している人が新規顧客獲得のために無料で大麻なんかをプレゼントしてるんです。比較的当選確率は高いですし、買うきっかけになりえます」麻衣は言う。
「こうやって新規顧客ができるのね。藤田さん、やっぱり明日直接行く意味ある?」健人が聞く。
「あるさ。ただ売りつけにいくわけじゃない。俺が今まで関わりのあった顧客達がどんな状態なのか知りたいんだ」藤田は言った。
しばらく説明を続けた後、麻衣は二人の方を向く。
「す、すごいね麻衣さん、俺にもすごく分かりやすいよ」健人が驚き自然と拍手をしていた。
「分かりやすかったな」藤田もつられて拍手をする。
「健人君、麻衣でいいよ。私たち多分同い年くらいだとおもうんだよね」麻衣はそういいながらも少し照れたように頬を赤くしていた。
「というか、麻衣って何者なの?」健人が聞く。
「実は私、桜庭先輩のところで売買担当をしていたことがあるの。マーケティングだったりSNS運用もしてた経験がある」麻衣は言う。
「だから桜庭と一緒にいたのか、でもそんなことならここにいて大丈夫なのか?」藤田は麻衣の顔を見た。
「大丈夫かどうかは分かりませんが、私は途中で担当自体ははずしてもらったんです。桜庭先輩が脱法ハーブを本格的に売るようになった時に、もうこの人にはついていけないと思いました」麻衣は悲しそうだ。
「そうだったのか。昔のあいつなら脱法ハーブを売りつけるような真似はしなかったんだけどな。なんにせよ、よく俺のところに来てくれた。桜庭みたいな思いはさせないから、是非今後も協力してほしい」藤田は軽く頭を下げる。
「そんな、頭を上げて下さい。もちろん協力はします。言ってしまうと、藤田さんなら桜庭先輩の暴走を止められるかもと思ったんです」麻衣は言う。
「止められるかは正直分からん、このザマだしな」藤田は両手を広げた。
「たまに、いや、ごく稀にですが、桜庭先輩は藤田さんの話をすることがあったんです。藤田さんの話を直接するとゆうよりは、昔の話をしていると藤田さんが登場せざるを得ないと言いますか」
「あいつとは色々な事をやってきたからな」
「色々な事?俺もちょっと聞いてみたい」健人が言う。
「なんで大麻を栽培しようと思ったんですか?」麻衣が前のめりになって聞く。
「俺らが大麻栽培を始めたのは、映画の影響だった。桜庭も俺も映画が好きで、よく二人で観てたんだよ。中学の時に観た映画で、印象的だった映画があるんだよ。その映画では、大麻をまったく悪いものとして扱ってなかった。現代の日本と比べた俺たちは驚いたよ」
「まさか映画の影響?」健人が驚いた表情をする。
「そうだよ、悪いかよ」藤田は少しふてくされた。
「健人、当時は藤田さんも桜庭先輩も中学生だから」麻衣はにやにやしている。
「そうゆう年頃だったんだよ。その映画がきっかけで大麻関係の映画をざっと観たんだが、どれもこれも悪いようには描かれていなかったんだ。俺は確信したよ。大麻は悪なんかじゃないって、それ自体は桜庭とは意見が一致していたんだ」藤田が言う。
二人は真剣に藤田の話を聞いていた。
「二人でやっていこうってなった時に、あいつはどこからか大麻の種を仕入れてきた。俺はどこから仕入れたのか聞いたんだが、あいつは一切答えようとはしなかった。結果その種が無事に育ち、株が増えてきたことによって気にしなくなっていったんだけどな」
藤田は話を聞く二人に目をやるが、健人も麻衣も、まだしっかりと話を聴いてくれているようだったので続けた。
「花が咲いて、いざ販売しようとゆうところだった。初めてのビジネスで、あいつとの方向性の違いに気付いたんだ。あいつは自分の利益のことしか考えてなかった。その時にしっかりと話し合うべきだった。当時は二人の考えの間をとって、なんとかビジネスをしていたが、最後にとうとう限界がきたのだろう。と、まぁこんな感じだ。確かに昔話には、どうしても桜庭は登場してしまうな」藤田は笑いながらも少し悲しそうだ。
「方向性の違いに後になって気付くのって大変なことだよね」麻衣は言う。
「だからお前たちに会えて本当によかったと思ってる。今回こそは失敗しないように、しっかりと話し合いをしような」藤田は二人を鼓舞した。
「そうだね。俺も言いたいことがあれば言うようにするよ。よし、それじゃあ三人がまとまったところでさっそく本題に入ろう」健人がこの場を仕切った。
麻衣の説明を聞き、SNSで売買することへのハードルが下がった藤田は話し始める。
「SNSでの販売がこんなにも簡単だと心配になるし、もちろんリスクもあるかもしれない。ただ売上は格段に増やせるだろう」藤田は少しだが警戒していた。
「そうだね、それも踏まえると少しずつ顧客を増やしていくのが得策だね、とにかく今日一日は藤田さんは顧客巡り、俺はGreen Crackの加工の続きを、麻衣はさっそくだけどSNSで宣伝をしてくれると助かる」健人が言う。
健人に仕切られた藤田と麻衣は、納得し麻衣は健人の部屋に残り、藤田は健人の部屋を後にするのだった。
顧客の行方
そんなこんなで一人行動となった藤田、まずは自分の部屋へ行き顧客名簿を手に取った。
「この名簿はほぼ紙屑同然だが、少しでもなにかを知ることが出来れば、きっと今後役に立つはず」
藤田はリュックに名簿と、先ほど健人の部屋から持ってきた5グラムほどの大麻を入れると、部屋を出た。
鉄骨階段を下り、道路の方までゆく。
駅までの距離はおよそ徒歩15分、電車に乗り以前の顧客に会いに行くのだ。
まずは一人目の顧客の【田中】
田中は当時25歳くらいで既婚、男、愛想が良く文句ひとつ言わないような良い客だった。
少しだけだが信頼できそうな気がしたため藤田は田中を一番に選んだ。
田中の住む駅に到着した藤田は改札を出る、名簿に記した通りの道を進み、久しぶりにこの街に来た。
直接売買をしていた頃はよく来ていたのだが、あれから八年も経つ、ガラッと変わった風景の中に懐かしさを探すのは至難の業だ。
しばらく歩き田中の家の前に辿り着くと、藤田はインターホンを三回連続で鳴らすと同時に玄関から離れ、田中が出てくるのを待つ。
これが秘密の合図として名簿に記されていた行動だ。
家族にバレないように田中なりの策略なのだろうが、逆に怪しいと思う。
遠くから玄関の様子を見ていると、ドアがゆっくりと開き、以前見た顔がひっそりと顔を出す。
間違いない、田中だ。
藤田は家のドアの方へと歩き出す。
「田中さん」藤田は会釈する。
「ん?君は?あ!藤田君か!懐かしいな、長い間一体どこに行ってたの?まさか捕まってたりして」田中が藤田に左肩を右手で掴みながら言う。
「そのまさかです。ご心配かけました。その後はどうでしたか?」藤田は田中を気遣う。
「いや俺ももうおっさんになってしまったよ。あることがきっかけで家族にも逃げられて、ものすごく悲惨な人生さ」田中の顔は急に暗くなった。
真っ黒な泥水に顔を押し付けたような顔だ。
「あること?もしかして脱法ハーブ?」藤田は核心を突く。
「え?」田中との間に沈黙が広がる。
この沈黙が全てを物語った、田中は脱法ハーブに手を出しているのだろう。
「そんなもんやってないよ、脱法ハーブなんてダサいだろ」田中の顔面は青くなり大量の脂汗が出ている。
「ハンカチいりますか?」藤田は冷静に問う。
「いらないよ、ありがとう。ところで何用なのかな?世間話なら早く帰ってもらいたいのだけれど」
「そういうわけじゃありません。ここにはしばらく俺じゃない誰かが来てたはず。どんなやつだったか覚えてないですか?」
「藤田君が来なくなってから少ししてからね、初めの頃は、確かに知らない男が大麻を売りに来たよ、当時の君と丁度同じくらいの子だったね」
「桜庭とかって言ってませんでした?」
「名前は聞きそびれたけど、藤田君の代わりだと言っていたね」
「他に何か変わったことは?」
「藤田君から買うよりも高かったよ。少しだけどね」
「そうでしたか、田中さん。これ」藤田はそうゆうとリュックからGreen Crackを取り出し田中に見せた。
「おお、これはいいね、見た目からして上物だろう、で?これを売ってくれるのかい?」田中は藤田から大麻を受け取る。
「売ります、ですが次回からはSNSでの連絡になると思いますのでよろしくお願い致します」藤田は言う。
「郵送だろ?最近じゃこうやって会いに来る人の方が少ないんだから、住所さえ分かればいいんだろ?」藤田より田中のほうが売買に関する知識があるように感じる。
「口座番号はこれです」藤田は解体屋で働いていた時の口座の番号を渡す。
「ありがとう。それでこれはいくらなのかな?」田中が聞く。
「1グラム五千円です。相場の割には質は大変良いと思いますよ」
「前の彼のとこは六千円だった割に質はあまり良いように感じなくてね。藤田君のならまだ信頼出来るよ」
「信頼して頂いて構いません。今ならまだ在庫がありますんで、なくなったら連絡ください」
「連絡したいところなんだけど、前教えてもらった番号が消えてしまってね。教えてもらってもいいかな?」
藤田はポケットからスマホを取り出し、田中に番号を教える。
「専用のSNSのページが今日中には完成すると思うので、そうなったらそちらから買ってもらえるとありがたいです」
「わかった。最近は上物の葉っぱなんて全然やってないからなあ、楽しみだよ。財布を取ってくるから待っててくれ」田中はそういって家の中へと戻って行った。
藤田は田中の背中を寂しそうに見つめる。
「家族を失ってしまったのか」今後、田中に襲い掛かる苦痛を俺と健人で作ったGreen Crackで少しでも癒すことができるだろうか。
藤田はほんの少しだが、自信をなくした自分に気付いてしまった。
・・・
田中との取引を済ませた藤田は再び電車に揺られていた。
次の客は、当時30代だった山田という独り身の女性だ。
彼女は以前から薬物依存に苦しんでいて、唯一藤田と桜庭から買う大麻が心の拠り所だと言っていた。
駅を出た藤田は、田中の時と同じようにアパートの部屋の前に到着するが、目の前の光景に驚いてしまう。
山田の部屋の玄関前にはゴミ袋が散乱し、鼻を刺すツンとした腐敗臭がする。
ドアの郵便受けはパンパンで、この場所に人が住んでいるとは到底思えないが、一か八かインターホンを押してみることにした。
チャイムの音が響くが、人が出てくる気配はない。
諦めて帰ろうと山田の部屋に背を向けた時、背後で薄っすらとドアが開くような気配がした。
藤田はゆっくりと後ろを振り返ると、ドアの隙間から濁った瞳がこちらを見ていることに気が付く。
その目に生気はなく、視点も合っていない。
藤田は全身の毛が逆立つのを感じた。
「山田さんですか?」藤田は恐る恐る声をかける。
が、声を発した瞬間山田と思われるその女性は、勢いよくドアを閉めた。
「桜庭はなんてことをしてしまったんだ」その光景を見た藤田は、桜庭への怒りがこみ上げ、拳を強く握りしめる。
ここまでになってしまった人はもう手遅れだ、俺らにはどうすることもできない。
名簿が紙屑になったというのは、まさか本当にこういう事だったなんて。
「もしかしたら桜庭は変わったのではなく、元から俺が思っていたような人ではなかったのかもしれない」藤田は自分の過去の思い出を振り返る。
中学から仲が良くほとんどを桜庭と過ごしていた。
ただ、今思い返すと毎日会っていたわけではないし、会わない日に桜庭が誰とどんなことをしていたかなんてもちろん知らない。
俺にも桜庭以外の友達がいたように、桜庭にも俺以外の友達がいるのは当然の事だ。
今の桜庭が正気でないと思いたい。
学生の頃の、あの笑顔がどうしても脳の片隅にちらつくからだ。
桜庭は目の前にいるお年寄りを助けたこともあったし、公園ではサッカーをしていた小学生に交じり走り回っていたこともある。
中学では友達も多く、後輩にも慕われ先輩にも可愛がられるような奴だった。
「なにがあいつを変えたんだ」藤田は考え込みながらも次の顧客の元へと向かう。
次の顧客は、隣駅から10分ほど歩いたところ。
昔は若かったからか、ほぼ毎日のように沢山の道を歩いていても披露はさほど感じなかったが、今現在、藤田の足は棒のようにガチガチだ。
固まりかける足を叩きながら藤田は歩みを進めると、高層マンションが見えてきた。
タワーマンションという程でもないが、この周辺ではなかなか階数が多いほうだろう。
過去に、その高層マンションの最上階に彼はいた。
彼とは、テレビドラマにも主演として出演している渡辺ジョーだ。
刑務所に入る前、偶然クラブで出会ったジョーに桜庭が大麻を売りつけたことがきっかけで藤田らの顧客になった。
マンションの前に着くと、エントランスにいる管理人にジョーへの偽の要件を伝える。
「犬の散歩に行かせてくれ」変な言葉だが、ジョーが藤田と桜庭のみに使わせた秘密の合言葉だ。
「少々お待ちください」管理人はそうゆうとカウンターにある受話器に耳を当て、ボタンを押す。
呼び出し音がエントランスに鳴り響くと、管理人は話し始めた。
「犬の散歩のかたが、、、はい。ではお通しします」管理人がカウンターにあるボタンを押すと、エレベーターへと続くガラス張りの自動ドアが開く。
藤田は管理人に会釈するとエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押すと、エレベーターは勢いよく上昇する。
チーン。
エレベーターの扉が開くと、目の前には豪華な玄関がある。
横のインターホンを押そうとした時だった。
ガチャン、、、とドアが開く。
「君は、藤田君だね。久しぶりだね」中からは当然ながらあの渡辺ジョーが出てきた。
当時より少し痩せこけているような感じがする。
「お久しぶりです。ジョーさん」藤田は言う。
「とりあえず入ってよ」ジョーはそうゆうと藤田を家に招き入れた。
「おじゃまします」この家は毎度の事だが緊張する。
なぜなら家中に高級な壺や絵画が飾られていたりするからだ。
割ってしまったらどうすることもできない。
リビングに来た藤田にさっそくジョーが質問をする。
「もう届けに来てくれたの?早いね」ジョーは腕を掻きながら言った。
「もう?なんのことです?」藤田は言う。
「とぼけないでよ。三日前に注文したじゃん。ハーブだよハーブ」ジョーは煙草を吸う素振りをした。
「ああ、ハーブですよね。あいにく今は別のとこで売ってまして、脱法ハーブではなくて、今日は大麻の直販売で提案をしにきたんです」藤田はさっそくリュックからGreen Crackを取り出す。
「そうだったの?なんだ、楽しみだったのに。でも、もう大麻は買わないと思うよ?普通の大麻はドラッグじゃないでしょ。最近の大麻は安全過ぎて俺は全然ハイにならないの」ジョーはそう言いながらも藤田の手元の大麻を受け取る。
「脱法ハーブは桜庭から買ったんですよね?」大麻を眺めるジョーの顔を覗き込むように聞いた。
「初めは桜庭くんだったけど、今は誰か分からないな。郵送で送ってもらっているからね」ジョーは落ち着きがなく、家中をうろうろとしながら話している。
「そうですよね、確かに。そっか、それなら久しぶりに直接売買しているってことですか」藤田は言う。
「だから突然来たことに驚いたよ。余程良い物を持ってきたんだろうなって。この大麻はなにか特別なの?」藤田はそう言うジョーの内側から、ほんの少しだけだが苛立ちを感じた。
「極上です」藤田にはそう言えるだけの自信がある。
なにも躊躇なく答えた藤田に、ジョーは驚いたが、サンプルとして試させてもらうと言い、奥の部屋に入ってしまった。
藤田は突然一人になり、唖然としていたが、ジョーのいない間に部屋を見させてもらおうと歩きはじめる。
「久しぶりに来てもやっぱり広いなあ。当時からあまり配置は変わってないような気がする」藤田は、桜庭と初めてこの部屋に来た時の事を思い出していた。
あの時は、まだお互いに子どもでお金持ちになったら、二人とも必ずジョーの住むマンションのような家に住もうと誓っていた。
しばらくジョーの家のリビングをうろちょろしていると奥のドアが開く。
「藤田君。これはすごいね。なんか混ぜたのか?」目を真っ赤にさせるジョーは驚きを隠せなかった。
「混ぜるなんてそんなことは絶対にしません。うちは作り手の人間が特別なんです、どうですか?1グラム五千円です」藤田は鼻を高くして言う。
「買わせてもらうよ。1グラムしかないのかい?」ジョーは必死だ、なにかから逃げ出すチャンスを掴んだように、もがいているようにも見える。
「今日は後2グラムだったらあります」
「それも売ってくれるかい?」
「もちろんです!」藤田は部屋の窓から、夕焼けが指しているのを見ると、今日は引き上げ時だと考えジョーに残りの大麻を売ることにした。
「次買うときは藤田君に電話したらいいのかな?」ジョーは言う。
「はい、電話を下さい!ですが次からはSNSでの販売になると思います!うちも郵送での扱いにしようと考えていまして、今日中には専用のページが完成します!」藤田はそう言うと電話番号をジョーに教える。
確実な手応えを感じた藤田は、ジョーのマンションのエレベーターに乗ると小さくガッツポーズをするのだった。
快調
アパートに着いた藤田は、恐る恐る健人の部屋のドアをノックした。
中でなにかの最中だと大変気まずい状況になると思ったからだ。
ガチャ
「藤田さん、おかえり」麻衣がドアを開ける。
「おう、SNSはどうだ?」藤田は靴を脱ぎながら聞く。
「調子良いよ。私をだれだと思ってるの」麻衣はやけにご機嫌のようだった。
「あ、藤田さんおかえりなさい」奥の部屋から健人の声がする。
真面目な健人は、黙々とGreenCrackを1グラムづつ小分けしていた。
「健人、もう外は真っ暗だぞ。もくもくの仕方が間違ってるんじゃないのか?」藤田は言う。
「藤田さん上手い事言うね」麻衣は上機嫌だ。
彼女は健人にバレないようにモクモクしたのだろう。
「そうだね、今日はこの辺で」そういって胡座をかきながら両腕を天井に伸ばす健人。
「なかなかな体験だったぞ。実際もう手遅れな奴もいた。だが、少しだが希望を感じた」藤田はまっすぐに言う。
「桜庭のことはなにか分かった?」健人は聞く。
「あいつは、、、元々なにかが欠落していた可能性がある」藤田は悲しそうな目をする。
「私が理由があるかもなんて言ったからですよね、ごめんなさい」麻衣は敬語に戻った。
「そんなことないよ。楽しんでたのに悪かったな」藤田は謝り健人の居る部屋へと歩いて行く。
「藤田さん、お疲れ様」健人に、はい、と渡されたジョイントを口に咥えるとポケットのライターで火をつける。
深く吸い込み、ゆっくりと吐く。
今日の疲れが吹き飛ぶようだ。
体中の節々が痛んだが、大麻のおかげで少し和ぐ。
藤田は麻衣にジョイントを渡すと、壁にもたれ座り込んだ。
「今日は二人だけだったが、今後も順調に顧客は取り戻せると思う」藤田は言う。
「それはよかった。明日も同じように頼むよ」GreenCrackを肺にため込んだ麻衣からジョイントを受け取る健人は、麻衣が煙をゆっくりと吐いている動作とは逆に、深く深く煙を吸い込んだ。
「SNSの運用はこのまま麻衣に任せよう。明日以降はなにかあれば電話なり、メッセージしてくれ」藤田は麻衣に向かって言った。
「了解です。あの、たまに吸いに来てもいいですか?」麻衣は申し訳なさそうに体をくねらせた。
「いいよ!毎日でも来ていいよ!」健人が突然、勢いよく立ち上がり藤田の方に向けて言い放つ。
藤田はにやけながらも窓から見える満月を見つめる。
その光景を見た麻衣は、くすくすと笑いながら「こっちだよ」と言った。
「健人、外でタクシーでも拾ってやれよ」そういうと藤田は財布から福沢諭吉を出した。
麻衣はそれを見るなり「この間の残りがあるので!」ときっぱりと受け取りを拒否する。
「じゃ、じゃあ麻衣を下まで送ってくるよ」健人が住み慣れた家で、小さくつまずいたのを藤田は見逃さなかった。
「おう。またな麻衣」藤田は壁にもたれながら右手を上げる。
「色々とありがとうございました」麻衣は頭を下げると健人の部屋のドアを閉めた。
外に出た健人と麻衣。
外は予想していたよりも暗かった。
麻衣は健人と歩幅を合わすように歩こうとしたが、暗闇の中でさえカツカツと鉄骨階段を下りる健人の速度に追いつくのが精一杯だ。
「健人、早いね」麻衣は息を切らす。
「あ、ごめん」健人はどことなく緊張しているようだ。
二人は歩道に出ると、タクシーが来るのを待つ。
「健人はいつから藤田さんと一緒にいるの?」麻衣は聞く。
「何か月か前かな、あの人突然家に押し入ってきたんだよ、信じられる?」
「え、藤田さんって結構強引なんだ」
「強引も強引、どんどん話を進めていっちゃうんだから困るよ」
「そんなことがあったんだね」麻衣は笑う。
「でもあの人ってなんか暖かくて、絶対悪い人じゃないってそんな気がするんだよね」通り過ぎる車のヘッドライトに照らされた、健人の表情が和いでいる。
「健人がそう思うならきっとそうなんだよ。健人は、私たちなんかよりよっぽど良い目を持ってる」麻衣はそうゆうと、健人の両手を握った。
「え、、、」健人の心臓の鼓動が早くなる。
「必ず成功させよう。私も全力で協力するから、あ、じゃあ私行くね」麻衣が言葉を発したのと同時にタクシーがやってくる。
タクシーのドアが開いたかと思うとあっという間に、生暖かい風が全身を包み、麻衣を連れ去ってしまった。
健人の両手には、麻衣の柔らかく暖かい感触だけが残っていたのだった。
部屋に戻った健人は少しの間ボーっとしてしまっていたが藤田の言葉で我に返る。
「キスでもしたのか?」胡座をかき、小指で耳の穴の掃除をしている藤田が言った。
「してないよ!やめてくれよ突然!」健人はやけになっている。
「とにかく俺も部屋に戻るぜ。また明日夕方くらいに来るよ」大きな欠伸をした藤田は、立ち上がるとそのまま部屋を後にした。
悶々とした健人は、玄関の鍵を閉めるとそのままトイレに向かうのだった。
・・・・
次の日、藤田はさっそく顧客達の所に顔を出していた。
大変な作業だが、現役の頃はこれくらい余裕でこなしていたのには藤田自身も驚く。
藤田の根っからのコミュニケーション能力で、顧客の数は多かった。
駐車場で取引する人、実家に暮らしている引きこもり、車屋さんのディーラー、なんと古いお寺のお坊さんですら当時の藤田と桜庭の顧客なのだ。
ほとんどの顧客は、藤田による説得でなんとか藤田と健人のGreenCrackを買ってくれることになった。
もちろん昨日と同様、何人かは手のつけようのない状態になっていたのだが。
「そろそろ日が落ちそうだ」朝から歩き続けている藤田は、駅前の喫茶店に入り少しだけ足を休めることにした。
冷えた珈琲を注文し、待っている間スマホで麻衣が作ってくれたSNSのページを確認する。
「お、すごいメールの量だ」藤田はメッセージの欄の数字を見て驚く。
その数字はなんと【22】。
ページを作成してから一日しか経っていないのに、この勢いだ。
藤田は麻衣の実力に驚き、さらに感心した。
藤田がメールの内容を確認しようとすると「お待たせ致しました」とウェイターが珈琲をテーブルに置く。
その珈琲の見た目は美しく、汗をかいたロンググラスに、砕いた氷が敷き詰められ、さらには透明のストローが丁度良い角度でお辞儀をしていた。
藤田は、一度スマホをテーブルに置くとグラスを持ち上げ、慎重にストローを口元まで運ぶ。
器用に口でストローを咥えると、渇ききった喉目掛け、一気にコーヒーを流し込む。
ごくり。
「うまい」思わずグラスを見つめ、声が出てしまった。
産地や細かいことは分からない。
ただ、喉の奥から鼻に抜けるこの香り、酸味の中に感じる奥深さ。
藤田は出所後、八年ぶりの珈琲を口にしたのだ。
珈琲を一人楽しんでいると、スマホが鳴った。
画面を見ると【麻衣】と表示されている。
「もしもし、どうした?」藤田は電話に出た。
「藤田さん、こんにちは。あ、もう夕方近いからこんばんはかな?」麻衣はそういうと話を続ける。
「藤田さん、見ました?メッセージの数!私も実は驚いていて」麻衣は興奮しているようだ。
「俺も驚いているよ。麻衣はすごいな」
「でしょ?でも一つだけ気になったことがあるんです」麻衣の声は落ち着く。
「なんだ?」
「メッセージの中に一通だけ変な内容のものがあったんです」
「変な内容?どんな?」
「〈調子が良いみたいだな〉って。もしかして桜庭先輩がもう嗅ぎつけたとか?」麻衣は暗い声で言う。
「さすがに早すぎるだろう」そう言う藤田だが、正直、今は桜庭の顧客である人達に声を掛けているのだから、早々にバレる可能性があるということは理解していた。
「どうする?続ける?」麻衣は言う。
「始まったばかりだ。この調子でいくぞ。麻衣、今日も来れそうなら健人の部屋に来てくれないか?今日の報告に行く」
「行きます!」麻衣は意気揚々と言った。
藤田は麻衣との電話を終えると、珈琲を飲み干し、喫茶店を後にする。
電車に揺られ、眠い目を擦りながら家路へと向かい、アパートに着くと、丁度目の前にタクシーが止まり、車内から麻衣が下りてきた。
「グッドタイミングだね、藤田さん」にこにこしながら言う麻衣は、軽快に鉄骨階段をあがってゆく。
「感情表現が豊かな奴だなぁ」藤田は麻衣の後ろ姿を見てそう思うのだった。
麻衣が健人の部屋のドアを叩くと中から「どちら様ですか?」とゆう健人の声がする。
「宅急便です」麻衣がふざけて言うが「麻衣か、いらっしゃい」健人には、すぐに気付かれてしまった。
ドアがゆっくりと開く。
「入って、そろそろ藤田さんも来ると思う」健人は麻衣を家に招き入れると、ドアを閉めようとする。
「おいおい、いるよ!藤田さんここにいますよ!」藤田はドアが閉まるのを阻止すると少し声を荒げた。
「びっくりしたなぁ、驚かせないでよ」健人は怒る。
「悪い、おまえの事だから気付いているもんだと思って」藤田はへらへらしながら健人の頭に手を置いた。
「今日はどうだったの?」健人はドアの鍵を閉めながら聞く。
「今日も順調だ。さっそく問い合わせが沢山きてるしな」藤田は得意げだ。
「そうだったんだ。反応がよくて嬉しいよ」健人は首を二度ほど縦に振る。
「今日も麻衣に来てもらったのには、さらに嬉しいニュースがあるからなんだ」藤田はにやつく。
「なに?藤田さん、ちょっときもいよ」その顔を見た麻衣が言う。
「声がやらしいよね」健人も続ける。
「君たち、そんなこと言ってると、すでに振込されている金額教えてあげないよ?」藤田は腕を組む。
その態度と声を聞いた健人と麻衣は姿勢を正し黙り込んだ。
「よろしい。では発表する」藤田は口でドラムロールのような音を奏でると、沈黙した。
少しの間を使い「25万5千円!」と大きな声で叫ぶ。
その結果を聞いた健人と麻衣は勢いよく立ち上がり、喜びを全身で爆発させる。
「すごいよ藤田さん!まだ二日目だよ」健人も珍しく高揚しているようだ。
「すごい、本当にすごい」麻衣は感動のあまり目を赤くしている。
「俺もびっくりだよ。三人で力を合わせた結果だ。今日はお祝いしようか」藤田は隠し持っていたボング(大麻を吸引するための道具)を取り出し、台所に行き、水を入れ戻ってきた。
「ボング買ってきたの?藤田さん、本当に大麻好きだよね」麻衣が言う。
「ボングってなに?」健人が聞く。
「ボングってのは、ガラスで出来た筒状のようなもので、一度煙を水に通すことによって、マイルドになるんだよ。氷を入れればさらに良いぞ。ジュースなんかを入れてフレーバーを感じたり、コスパや手間はかかるが、その分、普段より満足するはずだ」藤田は自慢げだ。
「さすが、詳しいね。氷入れようよ」健人が提案する。
「そうね、私も氷入れたい!」麻衣も同調する。
「よし、せっかくならそうしよう」藤田はそう言うと再度立ち上がり、健人の部屋の冷凍庫を開け氷をボングに詰めた。
「麻衣も藤田さんもこっちにきてよ」健人はその間に、母の部屋へ行き、GreenCrackをグラインダーですり潰し準備を始める。
現在健人の母の部屋では、大麻の株が大量に置かれていて、母の使っていたベッドは端に置かれ、仏壇のサイドには一番立派な大麻の株が置かれている。
三人は、母の部屋で胡座をかき、ボングを囲う。
大麻の花の芳醇な香りに包まれ、襖の隙間から漏れる光は部屋を薄暗くさせていた。
藤田がボングを健人に持たせ、火皿(ボングのガラス部分から飛び出した部品のこと)に砕いたGreenCrackをのせる。
「今から火皿にのせた大麻に火をつけるぞ、ライターの音が鳴ったらゆっくりと吸い込んでみてくれ」藤田はそういってカチッと火を灯した。
その音を聴いた健人は、ゆっくりと吸い始める。
ぽこぽこぽこぽこ、、、
可愛らしい音をさせ、ボングの中身が真っ白な煙でいっぱいになる。
藤田は絶妙なタイミングで火皿を抜く。(火皿を少し抜くことにより、中の煙をなくすことが出来る)
健人はジョイントで吸うよりも、大量の煙を肺に入れた。
煙を吐く健人。
「これすごい吸いやすいよ。確かにマイルド、、、ごほっ!ごほごほっごほごほ」健人は盛大な咳をする。
「いい感じだな健人。麻衣に渡してやれ」藤田は健人からボングを受け取ると、麻衣に渡す。
「私もあまりボングの経験なくて、、、」麻衣は不安そうだった。
「そうなのか、無理しないでいいよ。ジョイントにするか?」藤田は優しく言う。
「うーん。せっかくだからボングを少しだけ吸ってみようかな」麻衣は好奇心には勝てなかったようだ。
「吸い過ぎないように気を付けてな。やり方は見てた通りだからやってみて」藤田は麻衣にライターを渡すと、立ち上がり冷蔵庫から水をもってきた。
麻衣も火皿にのせたGreenCrackにライターで火をつける。
あの可愛らしい音を少しだけさせ、ボングの中身を煙でいっぱいにし、すぅっと煙を肺まで入れる。
「うわ、本当だ。ジョイントより全然吸いやすいよ」麻衣は吸う量を調節したため派手にむせることはなかった。
藤田は麻衣に水の入ったグラスを渡すと、ウキウキがバレないようにボングを受け取る。
焦げ切ったGreenCrackを、新しいものに詰め替えると子慣れた手つきでボング内の煙を2回に分け吸い込んだ。
「最高だ。やっぱりボングだよなぁ」語尾が間延びする藤田は、再度健人に渡すと音楽プレーヤーの前に行き【坂本慎太郎の思い出が消えてゆく】を流す。
音の波に呑まれる三人は、ふわふわとした浮遊感の中で、脳に直接届く音楽を楽しんだ。
「藤田さん、なんかすごくお腹が空いた」健人は言う。
「私も。なんでだろう、最近食欲不振で病院に通っていたくらいなのに」麻衣は相当驚いているようだ。
「大麻には、未だ知られていない効能が沢山あるんだ。食欲の改善は結構有名な話だな。あとは、癌細胞を死滅させる可能性があるとゆう報告や、癲癇の治療薬としても重宝されている」藤田はネットで拾ってきた情報を自慢げに話した。
「可能性がまだまだあるんだね。俺も大麻の効能に興味が出てきたよ。一つ提案!どこかにご飯食べに行かない?」健人は言う。
「それは最高かもしれない」藤田はさっそく財布やらをポケットに詰め込む。
「行こう行こう」麻衣はテンションが上がっている。
三人は多幸感に包まれたまま部屋を後にするのだった。
必殺ナルト三枚乗せ
「やっぱりラーメンでしょ」藤田は味噌ラーメンを目の前に手を合わせる。
「ラーメン屋さんで食べるのなんて何年振りだろう」健人はとんこつラーメンの香りを嗅ぎながら割り箸を割っていた。
「おいしそう、冷めないうちに食べましょう!いただきます」麻衣はさっそくレンゲを塩ラーメンのスープにくぐらせる。
小さいラーメン屋のカウンター席、健人を真ん中に横並びで座る3人。
麻衣の号令に合わせ、藤田と健人も「いただきます」と手を合わせると、ラーメンを食べ始めた。
「いつもよりおいしく感じる」麻衣が言う。
「久しぶりだからかな、俺もそう感じるよ」健人も驚いた様子でスープを飲んだ。
「ハイになってるからだろ、餃子追加で!」藤田はラーメンにがっつきながら注文した。
「藤田さん、もういい歳なんだからそんなに食べたら大変なことになるよ?」健人が藤田に言う。
「大変なことってなんだよ、そんなことより俺はまだ20代だっての」藤田はラーメンを食べる手を止めた。
「あ、そうか。そうだったよね」麻衣は驚いている。
「おまえら、馬鹿にしやがって。店員さん!ナルト三枚下さい!」藤田はヤケになっていた。
「ナルト三枚ってどうゆうこと?」健人は吹き出してしまう。
「私ナルトは一枚でいいです」麻衣が遠慮がちに言った。
「なにを言ってんだおまえら。ナルト三枚は俺がいつもシメで食べてるんだよ!俺はナルトが大好きなんだよ」藤田は訳の分からない主張をカウンター席で唱え始める。
「藤田さんすごく声大きいよ、他のお客さんの迷惑に」健人が藤田を注意した。
「健人、今のところ他のお客さんがいないのがせめてもの救いだよ」麻衣は健人に言う。
「まあ大丈夫だろ、せっかくなら楽しもう。こんなに美味いラーメンがあるんだから。必殺ナルト三枚乗せ!」藤田は店員が小皿に盛り付けしてくれたナルト三枚をスープに浮かべた。
「なんだよ、それ」健人は笑いながら言う。
「やめてくださいよ、恥ずかしいじゃないですか」麻衣も腹を抱えて笑った。
「おまえらもやれって、ナルトはうまいぞ?」藤田はナルト三枚を頬張りながら言う。
「ナルトが美味しいのは知ってますけど、三枚はさすがに、、、」麻衣は笑い涙を拭いた。
「俺も。ナルトは一枚だからおいしいんだよ藤田さん」ラーメンを食べ終わった健人は、箸を置く。
「いや、それは譲れない。ナルトは何枚あってもうまい。店員さんごちそうさまでした」藤田はそうゆうと立ち上がり、お会計を頼んだ。
「ごちそうさまでした」健人と麻衣は手を合わせる。
「またお越しください!」やけに嬉しそうな店員の声が店に木霊した。
店を出た3人は、アパートへと歩いていた。
「藤田さんごちそうさまでした」健人と麻衣は藤田にも手を合わせ挨拶する。
「おう。この後は梱包作業があるから大変だぞ、おまえら」藤田は腕を捲くる仕草をした。
「頑張りましょう」麻衣は気合を入れる。
辺りは暗くなり、街灯だけが夜道を照らしていた。
藤田は、前を歩く健人と麻衣の後ろ姿を見ていると、夜風が鼻から全身を通り抜け一瞬浮遊したような感覚になる。
三人はきっと同じ気持ちで、心地良い夜風に身を任せていたのだろう。
この道がずっと続けばいいのにとさえ思った。
アパートに着いた3人は、さっそく梱包作業に移る。
健人が丁寧に1グラムづつ小分けしたGreenCrackを、藤田が注文に合わせ足してゆく。
「健人、すごいな。ぴったり1グラムだよ」GreenCrackを秤にかける藤田は驚く。
「感覚だよね」健人は得意げだ。
「さすが健人、さぁ件数が多いのでちゃちゃっと終わらせちゃいましょう」麻衣も腕を捲ると小分けにした袋を梱包してゆく。
発送は3人別々の場所から、毎日コツコツと作業を繰り返し資金を集め、藤田、健人、麻衣は順調に大麻ビジネスを成功させてゆくのだった。
異変
二か月後...
「おい、どうなってる、なぜ売上が減ってるんだ?」クラブのVIPルームでソファに深く腰掛ける桜庭は、部下に詰め寄っていた。
「申し訳ございません。原因は今調べているところでして」部下の一人は頭を下げながら答える。
「今?これだけ売上が減っていたら、もっと早い段階で気付くはずだろ?」桜庭はさらに詰める。
「申し訳ございません」部下は言う。
「あのな、謝るだけならガキでも出来るんだよ。どうするのかって聞いているつもりなんだけど分かるかな?」桜庭はソファから立ち上がる。
「い、今すぐに、大人数で原因を調べます」部下の声は震え、脂汗を噴き出す。
「だよな?すぐに行動だよな?」桜庭は、部下の髪の毛を掴むと首を後ろに反らせた。
「すいません。すいません」天井に向けて放たれる部下の声は、首を反らせているせいか、かすれている。
「とっとと行け!」桜庭は部下の耳に容赦なく怒号を食らわせると、そのままドアに向かって投げ飛ばした。
一度桜庭のほうに振り返り、頭を下げると走って部屋を後にする。
「そういえば麻衣はどこに行ったんだ?あいつ長い間来てないよな?」桜庭は後ろを振り返り、別の部下に聞く。
「確かに見ていませんね。麻衣の件も一緒に調べさせます」部下はそうゆうと、スマホを取り出し、さらに別の部下にメッセージを送った。
「どいつもこいつも使えねぇな」桜庭は苛立ちを隠しきれず、道を塞ぐローテーブルを蹴り飛ばす。
テーブル上の、グラスや皿に盛り付けられた食べ物は床に散乱する。
「また派手にやってるなぁ」何者かがドアを開け部屋に入ってきた。
「おまえ、鈴木か。出てきたんだな」桜庭は鈴木と呼ばれる男に近付き、肩を叩く。
「今朝な。誰も迎えに来ないから見捨てられたかと思ったぜ」鈴木は言う。
「そんなわけないだろ。すまなかったな。今馬鹿どものせいでバタバタしていて」桜庭は言う。
「なんかあったのか?」鈴木は聞く。
「売上が先月あたりから減っているんだよ。原因は今のところ不明なんだが」桜庭は腕を組み考える素振りを見せる。
「別に売人が出てきたかもな。なにか心当たりはないのか?」鈴木はにやつく。
「おまえと一緒で最近出所してきた藤田ってやつがいるんだけどな、このクラブでハッパを売ってやがったから、気絶するまで痛めつけてやった。そのくらいじゃないかな」桜庭は言う。
「その藤田は、俺の知っている藤田と同じかもしれない」鈴木は驚いた表情をしている。
「なんでそうなるんだよ。もしかして一緒の刑務所だったとか」桜庭は冗談交じりで言う。
「そうかもしれない」鈴木はそう答えると一瞬頭を抱えた。
「まじかよ、どんな関係だった?」桜庭は興味本位で聞く。
「親友に裏切られたかなんかで、すごいつらそうだったから出所間際で仕事を紹介してやったんだ」鈴木はそうゆうと、近くのソファに腰かけた。
「その親友は、俺の事かもしれない」桜庭がボソッと言う。
「は!?でも痛めつけたって言ってたじゃないか」驚いた鈴木は一度座ったソファから勢いよく立ち上がる。
「痛めつけたさ。あいつのことは昔から、いけ好かなかったんだ」桜庭も先ほどのソファに座る。
「ただの喧嘩じゃないようだな。このまま縄張り争いになると面倒だ。場所は分かるから、今度は俺が痛めつけにいくよ」鈴木はそうゆうと、そのまま部屋を出ようとした。
「待てよ」桜庭が鈴木を止める。
「なんだ?」鈴木も足を止め、桜庭のほうに向きなおした。
「あいつは、藤田はたぶん力で屈服させることは出来ない。探し出して連れてきてほしい奴がいる」桜庭はそうゆうと鈴木に耳打ちする。
「わかった。そいつを探し出してここに連れてくる」鈴木は不敵な笑みを浮かべた。
鈴木はクラブを出ると太陽の光が、てっぺんから差していることに気付く。
「暗くなる前に一度おっさんのところに行くか」鈴木はタクシーを捕まえると行先を伝え『Bar Spray』へと向かった。
到着するや否や、雑居ビルの階段を駆け上がってゆく。
「おい、おっさん!」鈴木は『Bar Saray』の【closed】の看板を無視し、扉を勢いよく開ける。
カウンターの奥から、恐る恐る顔を出す髭さん。
「お、なんだおまえかぁ。今日出所だったのか?」髭さんは嬉しそうだ。
「そう、誰も迎えに来なかったけどな」鈴木はまだ言っている。
「まぁそんなこともあるさ。それよりおまえが紹介してくれた藤田って奴、相当仕事ができるよ。おかげさまでうちも安泰だ」髭さんは言う。
「それはよかった。藤田は今どこにいるか知ってる?出所祝いで会いたいんだよね」鈴木は言う。
「藤田か?藤田なら裏のアパートの201号室に住みこんでるよ」髭さんは答える。
「ありがとう」その答えを聞いた鈴木は、髭さんに背を向けBarを出た。
鈴木は急ぎ足で裏のアパートに向かうと、さっそく201号室の部屋の前に立つ。
一呼吸置き、ドアノブに手を掛けようとしたその時だった。
ガチャ
突然隣のドアが開いたのだ。
「あ、今日はそちらのかたは留守にしていますよ」隣の部屋から顔を出したのは麻衣だった。
「そうですか。失礼ですが、あなたとのご関係は?」鈴木が聞く。
「え?友達ですけど」麻衣は咄嗟に『友達』とゆう言葉を使ったが、鈴木の事を少し怪しむ。
「友達ですか。いつ頃帰ってくるか分かります?」鈴木がさらに聞く。
「いえ、知りません。私急いでいるので」麻衣はそうゆうと小走りで階段を下り、道路まで走ってきた。
そして、いつものようにタクシーを待っている時だった。
目の前に黒いセダンが止まり、後部座席のドアが開く。
麻衣が困惑していると、突然背中を何者かに強く押された。
その勢いで車の中に押し込められる麻衣。
大声で叫ぶも、完全に閉められたドアの内側では何も意味をなさなかった。
善と悪
麻衣が目を覚ますと、そこはクラブの中だった。
「おまえなにやってんの」意識が朦朧とする麻衣の耳に入ったのは桜庭の声だ。
「桜庭先輩?どうゆうことですか?」麻衣は混乱している。
「こっちが聞きたいよ。麻衣さ、藤田のとこの商売手伝ってるでしょ」桜庭はソファに座りながら聞く。
不意を突かれた麻衣は、言葉を失い黙り込んでしまった。
「やっぱりそうか。ダメじゃん。それは裏切りだよね」ソファの肘掛けを、トントンと指先で打つ桜庭は、誰が見てもイライラとしている。
「いえ、手伝ってたとゆうか、ただ仲の良い友達で」麻衣の目に生気はない。
「そうなんだ。でもさ、うちのやり方共有しちゃったよね?うちから客引けば簡単だもんね?顧客に問い詰めたけどさ、簡単にチンコロしたよ?やり方が同じじゃん!バレるのわかってたよね!?」桜庭の感情は徐々に表に姿を現す。
怯え切った麻衣は、何一つ言葉を発することが出来なくなってしまった。
「もういいよ、本当は連れてくるのおまえじゃなかったんだけどさ、来ちゃったもんは来ちゃったとして、藤田を釣る餌になってもらうね。おい、カメラとロープ」桜庭は部下に指示を出す。
「はい!」桜庭の部下の一人は部屋を出る。
部屋に残っている桜庭の部下達は、鈴木も合わせると全部で10人ほど、この先なにが起きようとも麻衣一人では抵抗することは不可能だろう。
麻衣は生気を失った目で、まっすぐに前だけを見つめていた。
「持ってきました」一人の部下がカメラとロープを手に持っている。
「おい、縛れ」桜庭が指示を出すと、部下は麻衣の両手を縛り始める。
「や、、、やめて下さい、、」麻衣の目からは涙が流れ、か細い声を出す。
部下は麻衣を縛り終えると、桜庭からカメラを受け取り、舐めるように麻衣の顔を撮ってゆく。
「桜庭先輩、許してください、お願いします。ごめんなさい、ごめんなさい」麻衣は泣きじゃくる。
「鈴木、おまえ出てきたばかりだろ。やれよ」桜庭は鈴木に首で合図を送った。
「いいのか?ありがてえ」鈴木はそうゆうと、麻衣の目の前まで来て襟元に手をかけ服を引き裂こうと力を入れた時。
ドカンッとVIPルームのドアが開き、鬼のような形相の藤田が現れた。
入口付近にいた桜庭の部下の髪の毛を片手で鷲掴みにし、力いっぱいその頭を壁に激突させる。
藤田に気付いてこちらに走ってくる男の腹に強烈な前蹴りを放つと、その男は沈み込む。
続けざまに近くにいた男の頭を両手で掴むと、自分の膝へと勢いよく打ち付ける。
藤田は、足元に転がっているボトルを確認すると、それを拾い上げ、躊躇なく部屋中に散乱している部下たちの頭を引っ叩いた。
桜庭の部下たちは、弱いわけではなかったが、藤田の恐ろしい形相と、勢いに全員が揃って萎縮してしまっていたのだ。
それは桜庭も例外ではない。
桜庭は過去に一度だけ、藤田が我を失った様子を見たことがある。
あの光景はまるで地獄だった。
桜庭が必死に止めていなければ、確実に人を殺してしまっていただろう。
その時は、今回の麻衣と同じように、桜庭が誘拐されたことが原因だった。
藤田は、いとも簡単に桜庭の髪の毛を掴んだかと思うと、もう片方の手で桜庭の鼻を目掛け強烈な拳を振り切った。
桜庭の口からは、声とはとてもじゃないが呼ぶことができない、鈍い音が出る。
桜庭は吹き飛び、それと同時に大量の血を鼻から吹いた。
それを見ていた鈴木は、恐ろしさのあまり後ずさり、端の方で固まる残りの部下たちは、次は自分達だと生唾を飲んだ。
桜庭の意識が飛んだことを確認した藤田は、目線を部下たちに向け、掴んでいた髪の毛を離した。
「藤田さん!大丈夫!?」ゆっくりと立ち上がる藤田にドアの前に立つ健人の声が響く。
真っ赤な目で健人を睨みつける藤田は、少しづつ落ち着きを取り戻していった。
「藤田さん!麻衣は!麻衣はどこにいるんだよ!」健人は両手で宙を探りながら部屋に入ってくる。
「健人、こっち」麻衣の声がするほうに、健人は勢いよく走った。
「遅くなってごめん!麻衣が家を出た後、誰かと話していたのを聞いていたんだ。その時に、追いかけたんだけど間に合わなくて」健人は麻衣の腕に巻かれたロープを解きながら言う。
「ううん、助かったよ。健人が藤田さんに連絡してくれたんだね、ありがとう」麻衣は安堵の涙を流した。
「大丈夫か?麻衣。大変なことになって申し訳ない」藤田も麻衣に謝る。
「大丈夫です。ギリギリのところで助けてもらえましたんで」麻衣は笑顔を作った。
「そうか。麻衣、健人、少し外で待ってろ」藤田はそうゆうと気を失っている桜庭のほうへと向かい、顔面目掛けグラスの水をぶちまける。
「コホッ、コホッ、コホ」渇いた咳を出した桜庭は目覚め、今の状況を理解しようと目玉をキョロキョロとさせていた。
「おまえ、やりすぎたな」藤田はドスの利いた声で桜庭に言う。
桜庭は、座り込み、横目で藤田を睨むと少しの間をおいて発する。
「お前は昔から、本当にむかつく奴だな」桜庭は拳を強く握った。
「むかつく?恨まれるのはどう考えてもおまえのほうだろ。八年前のあの日、お前が俺を裏切ったせいで俺の人生はめちゃくちゃだ。親友だと思っていたのに、なんであんなことしたんだよ」藤田は桜庭の胸倉を掴む。
「お前に理解出来るわけないんだよ」桜庭も藤田の胸倉を掴み返す。
桜庭は話すのがキツそうだったが、余程恨みが強いのだろう、ひしひしと怒りが伝わってくる。
「俺には理解できない?じゃぁお前には、この仕打ちが理解出来るのかよ。中学の頃からずっと親友だと思っていた奴が突然の裏切り、理由も分からないまま8年間刑務所で過ごしたんだぞ」藤田は悲しそうに話を続ける。
「おかげで人間不信になったよ。何度、中で死のうと思ったか。でも生きたよ、生き抜いたさ。なにが正しい事で、なにが悪い事なのかをお前に教えるためにな」悲しそうだった藤田の顔だが、徐々にその表情は怒りへと変化してゆく。
「どこからものを言ってやがる。正しい事だ?悪い事だ?そんなくだらねぇ事ばかり言ってるからお前は裏切られるんだ!この世は正しいも誤りもない残酷な世界さ、お前みたいに善人振る程余裕のある人ばかりじゃないんだよ」桜庭も怒りに満ちた顔で言い返す。
「俺が善人振ってる?お前はプライドが高く、私利私欲のために人を踏みつけにしているだけだろう。なんだあの脱法ハーブって、お前の欲のせいでみんなボロボロになっちまってるじゃねぇかよ」藤田は拳を作り、床を殴った。
「今も昔も、お前はなにも分かってないよ。俺にだって絶対に守らなきゃいけないものがあったんだよ」桜庭は藤田をまっすぐに見つめる。
「何だよ、絶対に守りたかったものって、言ってみろよ」藤田の怒りはまだ収まっていない。
「弟だよ」少し吹っ切れた様子の桜庭。
「弟?」突然の告白に怒りはどこかに消え去り、驚く藤田。
「ああ、お前の家にあった金を奪ったあの日、弟は重い難病で治療費がどうしても必要だったんだ。あの金さえあれば弟を助けられると思ったんだ。今更だけどな」桜庭は俯き話す。
「治療費?何言ってんだよ、おまえに弟がいるのは知っていたけど、そんな難病を患っていたなんて。あの時普通に相談してくれれば金くらい、、、」藤田は桜庭を見る。
「ちっ、あの頃のお前は俺の事なんてまったく見えてなかったんじゃないのか?高校の頃、俺らが遊び半分で始めた大麻栽培は二十歳になる頃には大きなビジネスになっていて、藤田お前は自然とその中心になっていた。近くにいたはずなのに、遠い存在に感じたよ」舌打ちをした桜庭は真っすぐに藤田を見つめ話を続ける。
「俺もお前と一緒に突き進みたかった。でも俺には弟がいたから、どうして俺だけなんだって、お前の事が羨ましくてさ、、、」桜庭は涙を流した。
藤田はそんな桜庭を見て少し黙り込んだが、しばらくして話し始める。
「俺から金を盗った理由は分かった。でもなんで脱法ハーブなんだよ。アレを吸った人を見たか?みんな人じゃなくなってるぞ」藤田は言う。
「どうでもよかった。この世は金を稼ぐ人間か奪われる人間の二種類しかいない。お前を裏切ってまで助けようとした弟も結局、金が間に合わずに死んじまった。ドナーを見つけられなかったんだ。皮肉だよな、神様なんてこの世にはいなくて、存在するとすればそれは金だ。お前もそう思わないか?」桜庭は泣きながらも藤田に問う。
「そんなことが、、、。確かに、金がもっと早く準備出来れば、お前の弟は救えたかもしれない。でもな、あの時のお前に、本当に必要だったものは助けを求める勇気だったんじゃないか?俺はお前の事を親友だと思ってたよ、裏切られた後でもな。これからはお前のことは必ず助けるから、何でも相談してくれよ。ごめんな、気付いてあげられなくて」そう伝えた藤田は、桜庭に当時の出来事を謝罪し涙を流した。
「何でお前が謝ってんだよ、、、俺がお前を裏切ったのに、、、」桜庭の目からは大粒の涙が溢れる。
藤田と桜庭のふたりの間に、しばらく沈黙が訪れる。
ふたりの頭の中では、過去の記憶が蘇り、今日までの自分自身の行いを振り返っていた。
「なぁ桜庭、また一緒にやろうぜ。次こそは間違ったことしないように、しっかり話し合いながらさ。ちゃんと金稼いで、弟のところにでっかい花束でも持っていこうぜ」藤田は笑顔になり、桜庭の肩を掴む。
桜庭は藤田の顔を見るなり、自然と涙だけが零れる。
「泣くなよ桜庭」藤田は掴んでいる桜庭の肩を擦った。
「でも、俺、おまえには許されないことを沢山した。今更、、、」桜庭は言う。
「正直、今日おまえが話してくれなければ俺もおまえのことを一生許せなかったと思う。けど、おまえにも守りたいものがあったんだろ」藤田は遠くを見つめる。
長過ぎた二人の、時間の不一致はやっと収束しようとしている。
「ああ、今まで本当にすまなかった」桜庭はそうゆうと藤田に向けて手を出した。
藤田は、その手を掴み握手をすると、もう片方の手でポケットからGreenCrackのジョイントを取り出し口に咥え、火を灯す。
「すげぇ久しぶりだけどさ、とりあえず吸おうぜ」藤田は深く吸うと、それを桜庭に渡した。
無言のまま受け取る桜庭は、ジョイントの先端から立ち昇る煙を見つめる。
「おまえには敵わないよ」桜庭は藤田に向けそうゆうと、GreenCrackを口に咥え、藤田よりも深く吸い込む。
しばらく息を止め、肺の毛細血管からGreenCrackを吸収してゆく。
脳全体に広がる多幸感、鼻に感じる芳醇な香り。
「このガンジャ、すげえな」桜庭も、他の人間同様に健人の作ったGreenCrackに心の底から感動しているようだ。
「すげえだろ。健人の自信作だ」藤田は自慢げに鼻の下を掻いた。
「健人?」
「おまえがビンタしたやつだよ」
「そうか、あいつには悪いことをしたな。後で直接謝らせてくれ」桜庭はそうゆうと藤田にジョイントを渡す。
「そうしてやってくれ、健人も麻衣も本当に良い奴らなんだ」
「麻衣もか、お前が言うんじゃそうなんだろうな」
「ああ」藤田は、懐かしさに感動を覚え、いつもより極上なものに感じるGreenCrackを、深呼吸するかのように吸い込んだ。
「藤田さん!警察が!」突然麻衣がドアを開け入ってきた。
「わかった。桜庭、立てるか。逃げるぞ」藤田はそういって桜庭の腕を肩に回す。
「すまない。下に降りなくても外に出れる裏口がある。そこに案内する」桜庭は言う。
藤田と桜庭が協力しあっている様子に、疑問を抱きながらも麻衣は健人を連れ二人の後を追う。
VIPルームから出て、一番奥の部屋のドアを開けるとさらに奥まった場所に、非常口があった。
「藤田、あそこだ」桜庭は指をさす。
「桜庭、あと少しだ」非常口のドアに手をかけようとした時だった。
「止まれ!」一人の警官の野太い声が部屋に木霊する。
四人の体は一瞬硬直してしまったが「行くぞ!」とゆう桜庭の声で四人全員の体が再度動き出し非常口に飛び込む。
その間も警官はこちらに走ってくる。
警官の手が、健人の服を掴もうと手を伸ばす。
もう指一本分の距離のところで、、、。
「桜庭さん!逃げて下さい!」なんと桜庭の部下たち五人ほどが警官の上に乗しかかり動きを封じたのだ。
「お前たち」桜庭は後ろを振り向きながら手を伸ばす。
「どけえ!」警官は必死に部下たちを引きはがそうとするが部下たちの懸命な働きにより警官は完全に床に伸びてしまった。
「桜庭!しっかりしろ!行くぞ!」藤田は桜庭に喝を入れ、三人を連れて裏口から飛び出した。
外階段を下りる四人。
辺りは月に照らされ、生暖かい風が強く吹いていた。
「もう少し離れよう!」健人が言う。
「みんな、頑張ろう」麻衣もつられてみんなを応援する。
そして四人は、とうとう人気のない公園までたどり着いたのだ。
「ここまで来れば大丈夫だろう」息を切らした藤田が言う。
「そうだな」鼻での呼吸がしずらそうな桜庭が答えた。
「そういえば、なんで桜庭がいるの?」健人が疑問をぶつける。
「藤田さん説明してください」麻衣も藤田をつめる。
藤田は一呼吸置くとこう答えた。
「こいつの間違ってきた道は、俺が責任を持って正す。健人、麻衣、こいつのやったことをどうか許してほしい」藤田は深々と頭を下げる。
「二人とも、本当にもうしわけなか・・・」桜庭の声が突然止まった。
グサッ。
妙な音とともに桜庭が藤田の横で倒れこむと、赤黒い血がどくどくと土をしめらせてゆく。
「あ、、、暗かったから間違えた。まあいいか」鈴木は思わず声を出す。
桜庭を見ると、背中にテーブルナイフが深く突き刺さっていたのだ。
三人は鈴木の顔を一瞬見て驚いた表情をしたが、藤田はすかさず鈴木の腹を力いっぱい蹴り飛ばした。
そして横になり口をパクつかせている桜庭をなんとかしようと、焦り始める。
地面に倒れ込んだ鈴木は、急いで立ち上がると一目散にその場から立ち去り暗闇の中へと消えていった。
「なに?なにがあったの?」健人は母の時のような、濃厚な鉄の臭いを鼻に感じ、嫌な予感がしたのと同時に藤田がいるであろう方へと飛び出す。
その勢いもあってか、健人は血に足を滑らせ頬から首元にかけ血を被ってしまった。
「嘘だろ。藤田さん?藤田さん?大丈夫だよね?」地面に這いつくばりながら、健人の恐怖は心の器に収まりきらなくなりそうだったその時。
「俺は大丈夫だ。だが桜庭が鈴木に刺されて血が止まらないんだ」震えた藤田の声がした。
「桜庭が?とにかく救急車、麻衣!電話!」健人は麻衣にそう伝える。
「分かった!」麻衣はそうゆうとスマホを取り出し電話を掛けた。
「大丈夫だ。今救急車を呼んでるからな」藤田は、顔が白くなってゆく桜庭に向かって懸命に叫ぶ。
「もう、俺は、だめだと思う。悪かったな藤田、おまえのように生きられたらどれだけ幸せだったか。俺は、俺はおまえになりたかったのかもしれない。おまえがいてくれたから、、、」桜庭は黙り込む。
「おまえは、おまえのままでいいんだよ!諦めるなよ!大丈夫だから!」
「はぁ、はぁ、藤田、、、おまえは俺の傍にいてくれたのか?」
「ああ、いたよずっと。八年ぶりに再会した時も実は、怒りの反面、嬉しさもあったんだ。おまえの助けを求める姿に気付いてあげられなくて、本当にすまなかった」
藤田はそうゆうと涙を流した。
「そうか、よかった。俺も弟のところに行けるかな。死んだら会えるんだよな。天国ってあるんだよな。死ぬってなんなんだろうな。藤田、俺、、、」
桜庭は最後になんと言おうとしたのかは分からない。
ただなんとなくだが、藤田にだけはなにを言おうとしたのかが分かった気がしたのだった。
夜明け
救急車のサイレンが徐々に近付いてくる音がする。
藤田は尚も、桜庭の出血を止めようと背中の下部辺りを手で強く押さえていた。
小さなテーブルナイフだが、抜いてしまえばさらに出血が増えるだろう。
両手でグッと押さえるが、藤田の手は血に染まってゆくだけだった。
救急隊員が、担架を担ぎこちらに走ってくる。
藤田は桜庭から離れ立ち上がると、全ての光景がスローモーションに見え、木に反射し、流れる赤い光に囲まれた、その光景を眺めることしかできなかった。
その場で救急隊員によって応急処置が行われるが、桜庭の反応はない。
その姿はまるで、人形に心肺蘇生を施しているかのように見えた。
桜庭への心肺蘇生が続けられる中、水中にいる感覚に陥った藤田は、その場に座り込んでしまう。
・・・・
その後の事はよく覚えていないが、桜庭が救急車で搬送された後、藤田と健人、麻衣は警察署で事情聴取を受けていた。
今回起こった事は、無差別殺人事件として扱われ、鈴木は指名手配をされたようだ。
藤田、健人、麻衣に関しては、今回の事件での関連性は低いとみなされ、一度その日は帰宅することになった。
夜が明け、麻衣をタクシーで送りアパートに着いた藤田と健人は、鉄骨階段の上に髭さんを見つける。
「あれ、髭さんがおまえの部屋の前にいるぞ?」藤田が健人に言う。
「え、こんな早い時間から?うちの前?なにかあったのかな?」健人が首を傾げる。
「さっきの事もう知ってるとか」藤田は言う。
「さすがに早いって」健人はそうゆうと、階段を一段一段上がってゆく。
その姿を発見したのか、髭さん自らが藤田と健人のいる階段の方へと歩いてきた。
「帰ってきた帰ってきた。昨日の夜も来たんだけどおまえら二人ともいないからよ」髭さんは眠い目を擦りながら言う。
「そんなに大事なことなの?」健人が聞く。
「大事だ。実は、おまえのお母さんを殺した犯人が見つかった」髭さんは深刻そうに言う。
「もう見つかったんだ。早かったね」なぜか健人はあまり驚いてはいないようだった。
「なんだよ、おまえもうちょい驚けよ」藤田が言う。
「十分驚いてるさ。ただ感情がぐちゃぐちゃでなにから反応していいか分からないだけ」健人は頭を掻く。
「健人、どうする?場所は突き止めたからいつでも会いに行くことは出来るぞ。どうするかはお前次第になってしまうが」髭さんは言う。
「とにかく今日は休ませて。起きたら髭さんのBarに寄るからさ」健人はそうゆうと大きな欠伸をしながら部屋へと入って行った。
「なんかあったのか?」不思議そうに髭さんが聞いてきた。
「実は・・・」藤田は今日あった出来事を一通り髭さんに話す。
髭さんは時々藤田の肩を擦りながら真剣に話を聞いてくれた。
「そ、そんなことがあったのか。俺が鈴木をお前のとこに向かわせたばかりに。本当にすまない。今日はおまえもぐっすりと寝たほうが良い」髭さんは気を使い背中越しに右手を上げると、鉄骨階段をコツコツと下って行った。
藤田は、部屋に入るとそのまま窓を開け外の空気を感じ、目を瞑った。
今日起きたことは、夢だったのではないか、初めから何かが違っていたのではないか。
自分を責めるにも感情がついてこない。
藤田はベランダに転がるジョイントを偶然見つけ、それを拾い上げた。
ベランダにはローテーブルとソファが二つ置かれている。
たまにここでも吸うことがあったのだ。
ジョイントを見つめながら、最後の桜庭の顔を思い出す。
弔いのつもりで灯した火は、ゆっくりとGreenCrackを香りだたせる。
口元に持ってゆき、一吸い、また一吸いと吹かす。
桜庭のピンチに気付いてあげられなかった。
あいつは俺の知らないところで戦っていたのか。
なんで言ってくれなかった。
俺は自分だけが楽しかったんだ。
天狗になっていた。
後悔ばかりだ。
最後俺が刺されていれば、異変に気付いていれば。
いや、俺はなにも分かっていなかっただけだ。
頭が重い。
ベランダから揺れる雑草を見ていた藤田だが、突然体が重くなってきた。
ソファに座り込み、強烈な吐き気、体の硬直を感じ、思ったように考えられない。
考えようとすると、同時に別の事を考えてしまい、思考が停止、ジョイントを持つ手に自然と力が入り、人差し指と中指でそれを潰してしまった。
火種が床に落ちるが、どうすることもできない。
落ちた火種を見ている目は、動かすことが出来ず徐々に吐き気が強まって、呼吸が荒くなった藤田は落ち着いて深呼吸を始める。
藤田はこの時自分が『BAD』に入ったのだとゆうことに気付いた。
今は落ち着いて水を飲まなければと立ち上がると、その反動で嘔吐してしまった。
こんな状態になったのは久しぶりだ、桜庭の死、それは藤田にとって相当応えたのだろう。
重い頭を支えながら、一歩ずつ台所の方へと歩き蛇口を捻ると浴びるように水を飲んだ。
頭の中では、何度も何度も桜庭との最後の光景が繰り返し、藤田の頭は混乱し、パニックに陥っていた。
限界を感じた藤田は、その場で寝転がり目を瞑ると、気絶するように意識が途切れるのだった。
・・・・
台所で寝ていた藤田は、しばらくして目を覚ました。
「もうお昼過ぎか」藤田は、固い床で寝た結果痛めた腕を擦りながら起き上がると、洗面所に向かい顔を冷水で流す、歯ブラシに歯磨き粉をつけ、入念にゴシゴシと磨く。
鏡の中の自分を見ていると、公園での光景がフラッシュバックされる。
桜庭はもういない。
しっかりと逝けるのだろうか。
藤田は起きた後も、桜庭のそんなことばかりを心配していた。
コンコンコンッ
誰かがドアを叩いている。
「藤田さん」健人だ。
「おう、ちょっと待ってろ」藤田は大きな声で返事をし、吐しゃ物を急いで片付け玄関のドアを開ける。
「お邪魔します。あれ、藤田さん今起きたばかりじゃん」
「そうなんだよ、まだ寝たりないよ。どうした?」藤田は首を押さえながら聞く。
「実は昨日の髭さんの話、実は前にボスに聞いていたんだ。その時は確実に分かっていた訳じゃなかったんだけど、今回の髭さんの話で確実になった」健人も昨日からの疲れが抜けていないようだ。
「まあ入れよ。それで復讐するか、許すかで悩んでるのか?」藤田はズバリ言う。
「簡単に言うとそういうこと。実は俺の母さんを殺した犯人は、個人で盲学校の教師をしているんだって。そのへんじゃ有名らしく、嫌われるような先生でもないらしいし、偶然あの日にお酒が入ってしまって」健人はなにやら考えすぎているようだ。
「でもな、おまえのお母さんを階段から落としておいて、走って逃げたのは事実だぞ?」藤田は言う。
「まぁそうなんだけどさ、初めボスから聞いたときは怒りで震えたよ。やっと見つけたってね。でもそれも、昨日の出来事を経験するまでなんだけど」健人は昨日の出来事を思い出すように顎に手をあてた。
「昨日のことが、考えるきっかけになったってことか」藤田は考え込み、続けて言う。
「俺は実際、なにができたのかな?俺も八年前からずっと桜庭を追ってきた。けど結果がこんな形に終わって。なんだか心の一部に穴が空いたようだよ。恨みや復讐とゆう気持ちがいかに空虚で不必要なものかとゆうことを知らされた」藤田は言う。
「母さんを殺した犯人でも、昼の顔は盲学校の先生なんだもんな。先生を失った子どもたちはどうするのだろう?俺はいったいどうしたらいいんだ」健人は、眉間をつまむ。
少しの沈黙の後、藤田が口を開く。
「許す心が少しでもあるのなら、考える余地はありそうだな」藤田は遠くを見つめる。
「藤田さん、俺GrennCrackを持ってきたんだ。今はこいつの力を借りてみようと思って」健人はポケットからGreenCrackのジョイントを取り出すと、藤田に渡す。
「そうだな、こっちにこいよ」藤田はそうゆうと健人の手を引き、ベランダへとやってきた。
「ソファだ。テーブルもある。なにこの空間」健人はソファに座り込むと、そう呟いた。
「簡易的な場所だけどさ、こうゆうところでガンジャを吸うのも大切なことなんだぜ」藤田は鼻の下を人差し指の背で擦る。
「ガンジャ?」健人が聞く。
「あ、ガンジャってのは、マリファナと同じ意味だよ。まぁ厳密に言うと、ガンジャは『銃でもあり、神でもある』みたいな語源があるらしいんだけど、難しいことは考えなくても良いよ」藤田はそう言ってガンジャを口に咥える。
そして健人も、ガンジャを口に咥えるとほぼ同時に火をつけた。
二人はソファにもたれ、肺の奥深くまでゆっくりとGreenCrackを入れ、10秒ほど溜め込むとさらにゆっくり煙を吐いてゆく。
柵の外に見える景色は、全面が緑で沢山の雑草たちが風に揺られ踊っている。
「藤田さん、俺こうやってベランダでくつろいだことがなかったから、気付かなかったんだけどさ、ここってすごく良い音がするね」健人は耳を澄ました。
「そうか、健人は音から入るんだもんな。どんな風に聴こえるんだ?」
「さらさらとしていて、草同士が優しくぶつかり合ってる感じ。音の加減で今日はどのくらいの風が吹いているのかとかが分かるんだ、心地良いよ。藤田さんはどう感じるの?」
「俺か?俺の場合は、草が揺れている様子を見て風を感じているな。それ以外って言ったら表現するのは、ちょっと難しいな」
「情報がありすぎると大変そうだね。俺らみたいな人はさ、周りの勝手な想像で、不幸だとか、不便だとか、可哀想だとか言われたりするけどさ、他にないものを感じることが出来るし、特別だと思っているんだよね。例えば、今柵の外で揺れている雑草、これは雑草なんかじゃなくて全部大麻かもしれないだろ?」
「あ、、、」藤田はゆっくりと目を閉じた。
耳に神経を集中させ、深呼吸する。
葉の揺れる音を、葉のぶつかる音を一つ一つじっくりと聴いていると鼻にはGreenCrackの香りがし、頭の中で、大麻畑をイメージさせた。
見えているものだけが全てじゃない。
たまには目を瞑って、深く考え整理することが大切なのだ。
「健人、俺もなにか分かった気がするよ」今朝の思考停止状態から問題解決の術を探していた藤田は言う。
「こっちの世界も悪くないだろ?」健人はにやつく。
許す心
「いらっしゃい。よく来たな」珍しく営業中の『Bar Spray』では、髭さんがカウンターの中で、せわしなくシェイカーを振っていた。
夜は案外客が多いようだ。
「遅くなってごめん」健人は謝り、入口のドアを閉める。
「正面の席、空いてるぞ」髭さんが健人に言う。
「ありがとう」健人は両手を前にし、慎重にカウンター前のハイチェアに腰かけた。
「この酒だけ出しちゃうな」髭さんはそうゆうと、振り切ったシェイカーの蓋を開け、カクテルグラスへと注いだ。
健人は、その様子をじっと感じている。
「お待たせしました。『ギムレット』です」髭さんはカクテルを出し終えると、健人の方へ振り向く。
「『ギムレットには早すぎる』でしょ?」健人がぼそりと言う。
「よく知ってるな。レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』お母さんから教わったのか?」髭さんは顎鬚を触る。
「そう。よくお母さんが話してくれた。カクテルにも意味があるのって素敵だよね」
「やっぱりな、健人もなにか飲むか。奢ってやる」
「それなら、髭さんのおすすめのカクテルを作ってほしいな」
「俺のおすすめか・・・」髭さんは少し考えたが、なにかを感じたのか、手が動き始める。
薄い鉄がテーブルに置かれる、シェイカーだろう。
カラカラと氷がシェイカーに入れられる。
シュルシュルとボトルの蓋が開く音がすると、芳醇なテキーラの香りが広がった。
そして次に、柑橘系の香り、ライムの香り。
髭さんは、ストレーナーと呼ばれるシェイカーの中間の蓋を締め、次にトップの蓋を締めると、コンコンと優しくカウンターに打ち付け振り始めた。
シェイカーの中では、酒と氷が混ざり合い、キツいアルコールの度数を柔らかくしてくれる。
健人の耳に届く、氷が溶けシェイカーの内側に液体が打ち付けられる音、音が変わると同時に髭さんの手は止まり、カクテルグラスに注いでゆく。
「マルガリータだ」髭さんはそうゆうと、健人の手にカクテルグラスを持たせる。
「ありがとう。いただきます」健人はグラスを持ち上げた。
縁に口を付けると、塩味を感じる。
塩の味と、テキーラの芳醇な香りと柑橘系のさっぱりとした味が見事に混ざり、舌にまとわりつく。
「美味しい。この塩味は?」健人が聞く。
「ああ、それは『スノースタイル』と言って、カクテルグラスの縁にライムを滑らせ、塩をコーティングしてあるんだよ」髭さんが言う。
「髭さん、お酒作るのうまいんだね」
「下手だと思ってたのかよ!」
「こんなにボロいところだからね、それは仕方ないよ」
「確かにボロいよな、ところで健人、お母さんの件決まったのか?」
健人は少しの間を置いたが、答えは決まっていた。
「髭さん、俺許すことにするよ」マルガリータの香りを嗅ぎながら健人は言う。
「おまえならそう言うと思っていたよ」髭さんは腕を組み、頭を上下させる。
「藤田さんと一緒にいるうちに、俺の中のなにかが変わったのかもしれない。もちろん初めは殺してやりたいと思っていたよ。でも藤田さんが外に連れ出してくれたおかげで、許す心が芽生えた」健人はマルガリータを飲む。
「安心したよ。健人は優しい子だとお母さんから聞いていたけど、その通りだった」安堵の溜息を吐く髭さんは、カウンターに両手を付いた。
「髭さん、俺世界を旅してみようと思って」健人は突然言う。
「世界?藤田と一緒に?」
「いや、一人で」
「一人でか、どこに行くとかは決まっているのか?」
「一応オーストラリアに行ってみようかと」
「オーストラリアか、良いところを選んだな。藤田にも言ってあるんだろう?」
「詳しくは話していないけど、藤田さんもやりたいことがあるみたいだし、ここでお別れかもしれない」健人は寂しそうだ。
「そうか、まあでも一度離れても必ずどこかで再会出来るさ。それが日本かもしれないし、海外のどこかかもしれない。また再会できた日には、お互いの話をじっくりとしてみろよ」
「そうだね、藤田さんにも伝えに行くよ」健人がカクテルを飲み終え、立ち上がろうとした時。
「だとよ、藤田。おまえはどう思う?」髭さんは笑みを含めた声で言う。
「健人がそう決めたのならもちろん応援するよ」
すぐ隣の席から、藤田の声がする。
「なんだよ、藤田さんそこにいたの?」健人は驚き顔を左に向けた。
「ずっといたよ、おまえ全然気付かないのな」藤田はギムレットを傾ける。
「仕方ないだろ、見えないんだからさ!」健人は笑う。
「それで、いつ頃行くんだ?」藤田は健人に聞いた。
「一ヶ月後には行こうと思ってる」
「そうか、それなら最後、派手に稼ぐか。髭さん、お願いがあるんだけど」藤田は申し訳無さそうに髭さんに言う。
「なんだ?」
「今月の家賃、タダにしてください!」髭さんに向かって手を合わせる。
「そうゆうことか。いいぞ、俺から健人への旅立ち祝いだ」髭さんは腕を組む。
「髭さん!ありがとう!」健人はカウンターに前のめりになり大喜びした。
「よかったな、健人」藤田は健人の肩を掴む。
「落ち着いたら帰ってこい、いつでも待ってるからな」髭さんはそう言うと他のお客に呼ばれ二人の前からいなくなった。
旅立ち
一ヶ月が経った。
勢いよく健人の部屋のドアが開く。
ドンドンと床を鳴らし、粗い呼吸が徐々に近づいてきた。
「電気ぐらいつけとけって」真っ暗な部屋に、藤田が入ってきた。
藤田の両手には、大きな黒いボストンバッグがぶら下がっている。
ドスンッとバッグを畳に落とすと、天井から垂れている細い紐を引いた。
部屋全体が明かりに照らされる。
藤田は続けざまに窓のカーテンを勢いよく開けると強烈な外の光が、闇を跳ねのける。
「ごめん、ごめん。だから俺には必要ないの」既に部屋にいた健人が言う。
健人は、散らかった低いテーブルに胡座をかき、なにやら手元を精密に働かせていた。
「準備できてんのか、健人」カーテンを開け放った後、藤田は便所座りで健人の顔を覗く。
「そんなに顔を近づけないでよ、藤田さん。はい、これ」健人は藤田にジョイントを手渡した。
「やっぱり俺より全然巻くのうまいよな」藤田は、健人から受け取ったジョイントを宙に透かして見せた。
「昔から器用だからね」得意げに言う健人は、よしっと膝を叩くと藤田が持ってきたボストンバッグのジッパーを開ける。
中に入っている大量の札束の一つを手に取ると、顔を宙に向け一枚一枚、繊細な手つきで数え始めた。
その様子を見ていた藤田は、口に咥えたGreenCrackに火をつけた。
「おまえも吸っとけよ。日本で吸う最後のガンジャだろ」藤田はそういって健人に渡す。
「そうだね」藤田から受け取った健人は、煙を深く吸い込む。
今日までのことが頭の中で思い出される。
母の死んだあの日から、健人の心は壊れかけていた。
そんなときに偶然やってきた藤田の存在、藤田のおかげで生きる希望を見出すことが出来た。
「藤田さんありがとう」健人はジョイントを藤田に渡しながら言う。
「突然なんだよ」ジョイントを受け取った藤田は、それを深く吸い込む。
「藤田さんがいてくれたから、俺は死なずにいれた」
「初めて見たときのおまえは血だらけだったもんな」
「そうだったっけ?あまり覚えてないや」
「まじかよ、引っ越してきて早々あんなもの見せられて、このアパートにはおかしなやつしかいないんだと確信したよ」
「実際藤田さんもおかしなやつだと思うけどね」
「健人のその態度はずっと変わらないけどな、それでおまえあっちでなにやるつもりなんだ?」
「言ってなかったっけ、俺みたいな人たちを少しでも支援したいと思っててさ、そのためにも人との関わりを広げたいんだ」
「で、オーストラリアを選んだのか?」
「オーストラリアを選んだ理由?それはただ綺麗そうだからだよ、大麻も吸えるし」健人は煙を吹かし藤田に渡す。
「健人おまえ、もっと堅苦しい奴じゃなかったか?」藤田は笑い煙を吹かした。
「藤田さんと一緒に居すぎたんだよ」健人も笑った。
こうして二人で大麻を吸い、笑いあう時間は終わりに近づく。
今日まで短い時間だったが二人の間には固い友情が芽生えた。
藤田も健人も壁にもたれ天井を見つめる。
「楽しかったなぁ」健人が言う。
「そうだな。すげぇ楽しかった」藤田も今とゆう時間を全身で感じる。
しばらくの間思い出に浸っていた二人だったが突然部屋のドアが開き、麻衣が入ってきた。
「二人ともいつまでまったりしてるの!飛行機の時間!」麻衣は二人に喝をいれる。
「もうそんな時間か。健人行ってこい」
「うん。行くよ」
藤田と健人は、立ち上がり健人の部屋の玄関まで歩く。
「あ、そうだ藤田さん」健人がドアノブに手をかけこちらを振り返る。
「ん?なんだ?」藤田は聞き返す。
「いや、やっぱりなんでもない」健人はなにかを言いかけたが、その手でドアを開け部屋から出ていくのだった。
end.