1-3:ぞんぞんしてきた。
浮邏浮邏と千鳥歩く様。
酒に酔うたる足取りとは如何にも違う。恰も藻掻くよう。一種異樣、遠目でも其れが分かる。
何とも、禍々しい!
「真逆ッ、步軀ではあるまいな!?」
声を荒げる鐵指。
幾度となく戦場を駈け、死線を潜り抜けてきた猛者の彼でさえ声が上擦る。
居並ぶ又七郎に至っては、自慢の得物“轉竿”を滑らす始末。
「ァァァァぁぁぁぁああああ嗚呼噫アアアア゛ッ」
呻聲? 否、いっそ咆吼。まだ随分と距離があるにも関わらず、地鳴りのよう。声にならない壓し潰され濁り濁った不快な怨嗟の如し。
腹の奥底に迄響き、胃酸を逆流させん程の震え。寒疣が立ち、暫し、瞬くを忘れる。額を伝う冷汗は凍る程に。
身の毛が彌立つとは今正に是。迷走神經反射、此処に窮まれり。
直後、鼻を突く腐臭漂う。
其の声、其の臭い、脳天に突き抜ける。本能を直撃する嫌厭、噎せ返る。
斯樣な無樣、本当に病と切り捨て語る事等出来ようものか?
戦場でも見た事がない有樣。惡鬼羅刹が拵えた邪なる泥傀儡。不淨なる人形淨瑠璃に正気を疑う。眩暈にも似た輕い譫妄に囚われる。
見た事がないにも関わらず其れと分かる、步軀、と。
「各々方、落ち着き召され」
二人の前に一歩踏み出す陽之介。張りのある声だが怒鳴る訳でもなく、努めて冷静に制止を促す。
「お二人共、下がっていて下さい。彼奴は僕が成佛します故」
「……な、なにを申すかッ! 吾等も助太刀致さん!!」
「否、此度は觀ていて下さい。彼奴らの遇い方を覺えておく爲にも」
「!? あ、遇い方……」
陽之介が徐に駆け出す。
大刀をすらりと抜き打ち乍ら步軀と覚しき“それ”に接敵。其奴との閒、凡そ――
伍間強。
――遠い!
板敷の屋内にて鎧わぬ兵法家同士の立合であったとしても明らかに遠間。窺う、にしても遠い。偏に、及び腰。
一体、何を観ろと?
「いざ參る! “魁”」
陽之介、大上段に振り被り、大きく右より弧を描くように回り込み乍ら走る。
螺旋を進み、加速しつつ閒を詰め乍ら步軀の左、いや、左奥襟を越え、延髄に鋒を撫で袈裟斬る。
尚も歩を緩めず、步軀の背をして其の右肩背側を大きく通り抜け、更に距離を取って正対。
ぐるり、と一周、步軀の周りを廻り――殘心。
程なく、
――ぼどり、と首落つ。
首と胴とに分かたれた其れは間もなく動きを止め、力無く崩れ落ちる。不気味な呻き声は靜まり返り、只、強烈な屍胺と腐胺、安母尼亞臭が辺りを漂う。
一瞬の静寂の中、陽之介は大きく血振を一度ならず二度迄し、抜身の儘、腰壷に手を回す。
腰に吊した深く濁った暗い天鵞絨色をした茶筒とも花瓶とも知れない長壷。珍しい硝子製、古いものか。
掴み上げ蓋を開け、鋒の上に翳し傾けると、どろっとした葡萄茶色の粘度の高い液体が流れ出で刃を伝う。
払いきれていない步軀の血脂に得体の知れない褐色の粘液性の濁り水が混じり、鋒は不気味な暗褐色に染まる。
「各々方、後程お説き申す故、先に木っ端の類をお集め下され。遺骸を荼毘に付す故」
茫然と眺めていた二人は、きびきびと準備に取りかかっている娘御に従い、言われるが儘従った。
夕刻――
今は只の骸となった步軀を燃やす。
燃え上がる茜色に照らされ、四人の影が長く長く伸びる。
――暫しの沈黙。
合掌し乍ら重々しく陽之介は口を開く。
「今から步軀――否、存未についてお伝え申します」
「ぞ、存未???」
――存未、或いは、存未已。
未だ存えるもの、將亦、未だ存えるだけの存在――
生きているとも死んでいるともつかない中途半端な状態。言葉としての意味合いではなく、正に有るが儘としての“半死半生”。其れが存未。
異国の神に纏わるとされるが委細不明。
古来、吾が国にも死者を蘇生させようと様々な祈祷や呪詛が用いられてきた。
神話には伊耶那美命に逢いに行く為、伊耶那岐命は黄泉國迄向かっている事は誰でも知っている。
使われ方は違うものの、古神道にある布瑠之言「一二三四五六七八九十、布瑠部、由良由良止、布瑠部」と云う祝詞は死者蘇生の言靈とも云われる。
海を越えた明では殭屍と云う動く遺体の話が伝わっている。
存未が如何なる手段を以て生み出されたのか、埋葬の手違いから生じた生存者なのか、偶発的・突発的な不可思議なのか、若しくは只の流行病所以なのかは露知らず。
但し、經驗則から分かっている事が幾つかある。
まず、彼奴等は既に“肉體的”には略死んでいる。稀に“生きている”状態の存未もいるにはいるが、不治であるが故、間もなく生物的な意味合いとして死ぬ。是が半死半生たる所以。
生き死にの判断は、意識の有無で判別出来る。とは云え、三惡道への因果に囚われている為、助け出す事は不可能だと思われる。
彼奴等にとっての死、乃ち完全なる沈默は、筋や腱、経絡の消失。要は、肉が腐れ落ち、白骨化すれば終い。とは云え、動けなくなった其の白骨が、本当に死んでいるのかどうか迄は分からない。単に、動けなくなった状態だけの可能性も棄てがたい。
つまり存未は、肉體の腐敗が進み、其の瓦解が進行すれば放っておいても動けなくなるので、本質的な脅威とはなり得ない。
退治、つまり、動きを止めるのに最も効果的なのが首を斬り落とす方法。同様に、頭部を粉砕しても良い。
何がどう作用しているのかは皆目見当もつかないが、間違いなく絶命する。とは云え、骨自体の生き死に同様、動かない・動けない状態が死亡なのか、単なる休眠状態なのか迄は分からない。
故に荼毘に付す、つまり、炎で焼くのが良い。体液が完全に消え失せる程、カラカラに乾いた状態になれば問題ない。
問題があるとすれば、感染。
存未が呪術由来か病由来かは分からないものの、間違いないのは“存未毒”を宿している事。
この毒素は咬まれるのは勿論、引っ掻かれても、亦、その体液の附着からも感染する。
感染すれば軈て他者も存未となる。
患部を焼くか削ぎ落とすか適切な処置を施すかして存未毒が全身に回る前に未然に防ぐ必要がある。存未毒が回り、一度發症してしまうと治療法がない為、存未化は免れない。
免疫力が高ければ、或いは助かるのかも知れないが、そのような事例を見た事がないので期待しない方が良い。
故郷の、正しくは陽女の故郷だが、下総、上総で汲まれる鹹水から作られたこの沃度丁幾と云う丹藥。滅菌・殺菌効果が強く、消毒も出来る。
陽女しか生成出来ない為、是がない時は酒精、要は強い酒で代用する。
先程、鋒を消毒したものは此の沃度丁幾に甘油を混ぜたもの。
存未を斬った刀に附着した血糊は完全に乾かない限り存未毒が残っている可能性がある為、消毒、乃至は流水で落とぬ限りは鞘に戻してはいけない。従って、何もない時は抜き身の儘にしておくのが良い、と。
距離を取って戦うのは存未毒から身を守る為だとも。
――成る程。
理に適っている――
武家御所へと戻る日の落ちた途次、陽之介の言葉に耳を傾ける鐵指と又七郎は、途方もない話に困惑しつつも熱心に理解を努めた。
只の病人。否、重篤な病に伏す者が夜驚症や夢遊病にも似た徘徊を伴う、其れが步軀、癲癩の仕業だと、そう考えていた。
抑、実際に目にする迄、浮評の域を出ず、夜盗・山賊の類への恐れからなる風説、乃至は土豪による浮沙汰作りとも思っていた。
併し、目の当たりにして、其れが確かに存在し、畏怖を伴う対象である事を確信し、具体的な方策を巡らすに至り、焦燥感に苛まれた。
只、両人は互いに摺り合わせた訳ではないが、妙な蟠りにも似た胸の支えを感じていた。
陽之介による步軀――存未の講釈は、一々尤もだった。
凡そ、語り聞かせてくれた内容は事実であろうし、有りの儘だろう。
だが、対処への詳細・具体性に対し、事態を直視するに至る起因・要因が見受けられない。
道理は通るが芯を食っていない、そんな違和感。
解決策に至る道筋がすっかりと抜け落ちている、そんな奇妙な空白、閒、闇。
彼は、経験則、と云いはしたが、まるで別の何者かによる受け売りのような稀薄さ、薄弱さ。精緻だが念の籠もっていない仏像のような、優美だが感情の籠もっていない詩歌のような、達者だが腑抜けた武芸のような。
張りぼてにも似た空虚さ。
意識とやらを魂に置き換えれば、正に其れ先程聞いた存未宛ら。
――考え過ぎか。
ありもしない噂に付き合わされ、形だけの警邏と思い込んでいたにも関わらず、少なからず衝撃的な事象との邂逅。
恐らくは、昂ぶっているだけなのだろう。
然もありなん――