1-1:歩き軀の影
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「公方様、宰相中将義輝公、昨今世に蔓延る穢に御配慮召され候故、新たに小袖御樣末衆を据え申す。延いては、悉に術持つ者御召抱えられ候。門地門閥貴賤の委細問い申さん故、早々言上有る可く候事」
洛中洛外に高札が掲げられた。
発せられたのは、勘解由小路烏丸室町に造られた二條武衞陣の御構、通称、武家御所より。
室町幕府第十三代征夷大將軍、従三位足利参議左近衛中将源朝臣義輝は京に入り、朽木での幕政体制を本格的に都に移す為、斯波氏の旧武衛陣跡地に新御所普請を命じ、永禄三年、居を移した。
この頃、既に京でも【步軀】が屡々見られ、戰での荒廃、疲弊と共に蒼生を大いに悩ませていた。
父、義晴存命時、步軀等と謂ふものは話題にも上らなかった。
遠い風聞に僅かに漏れ伝わってきた事はあるものの、童向けの御伽噺か市井の取沙汰の類、眉唾物と捨て置かれた。精々、巫覡か坊主が口にする程度。
少なくとも、細川氏、三好氏との戦いに明け暮れていた現実主義者の義輝にとってみれば微塵も興味ない絵空事。
俄には信じ難いその怪異化生の類に意識せざるを得なくなったのは天文末、後奈良天皇は兵革の凶事に端を発する様々な災異を断ち切る為、改元を提案、弘治へと元号を改める旨、義輝に宛てた。
干戈の責は将軍である自らにもあると畏まった義輝ではあったが、協議の書に記された災異の中に、黃泉歸が度々出没する由とあり、無碍にする事が出来なくなった。
朝廷の宣う黃泉歸とは、“癲癩”なる疫病とされ、正に步軀を指す。端的に云い換えれば、往生しない屍、成仏しない仏、蠢く亡骸、存える死人。偏に、亡者と云う。天文末期には各処戦場、特に西国を中心に屡々目撃例が挙げられていた。
これが異形の物怪や合戦場に限られていれば、流言飛語と諫めるだけで事足りる。併し、愈々人里での目撃が聞かれると捨て置けない。
而も、それが山城周辺ともなれば話が違う。間もなく、京でも步軀を見たと云う者が現れる始末。
猶豫がなくなった。
武家御所に移った当初、同朋衆を集め、蘇る仏を如何様にして成仏させるかを検討した。だが、異なる宗門による回向文の違いから統一見解を見出せずにいた。
半井典藥頭瑞策に訊ね聞くと、狂犬咬と云う流行病の一種とし、打ち棄てる他無し、との事。
陰陽頭を代行していた勘解由小路在富にも相談を持ちかけたが、高齢となり後継者問題に頭を悩ませていた在富からは何等具体的な対処法を導き出せなかった。
この頃、在富の嫡子、賀茂在昌は伴天連の加斯帕維列拉による洗礼を受け、吉利支丹になっていた。
義輝は在富から助言を受ける為、在昌に吉利支丹を棄てさせようと維列拉に対し、謁見を許可した。
これが手掛かりとなる。
維列拉曰く、
「癲癩は疫癘の一種と聞き及んでおります。嘗て、秘密の任を担っていたフレイタスの下から三名の死之商人が特効薬を持ち出したと伝え聞いております。私と同じ波爾杜瓦爾人であった、と」
「主等からの伝聞と聞けば鐡炮なら知ってはおるが特効薬とは如何なるか?」
「満剌加式火縄銃は護身用兵として広く使われております。秘匿するような代物では御座いません」
「なに? 知っている事を詳しく申せ」
「残念ながら閣下、私には分かりかねます。只、癲癩は惡魔憑と聞き及んでおります。従いますれば、信心にて是を祓う事も出来ましょう」
「御祓、か……其方の宗旨であれば、其れが叶うと?」
「無論! 我々耶蘇会であれば可能です」
「……相分かった。其方等が以前より望んでおった布教を許そう」
「有難き幸せ、実に斯く有れかし!」
実の処、義輝は全く維列拉の言葉を信用してはいなかった。
にも関わらず、耶蘇教の布教を許したのは、神仏典藥の技で何とかなるのであれば、既に朝廷の力のみで癲癩は治まっている筈だからだ。朝廷に連なる者達であれば僧も神官も薬師も数多くいる。
併し尚、癲癩が広がっているのであれば、朝廷の持ち得ない力が必須。乃ち、耶蘇。故に、許可しただけ。
尤も、朝廷の持ち得ない力はそれだけではない。
それが、武。
宗旨・宗門の違いはあるものの、祓の類が利くのであれば、どの宗派であっても構わない。だが、此処迄の聞取で祓ならざる進言と云えば、瑞策の“打ち棄てる他無し”のみ。
これに維列拉の宗旨、基督を当て嵌め、“斬捨無雙”と諦観を抱くに至る。
そして、小袖御樣末衆と云う腕自慢を募る事にしたのだった。
そう――
――これこそ、二人が日の目を見る切掛であった。