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パンガム伝  作者: のり子
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2眠たい次の日


 アイの家は一部屋ばかりのたてものである。玄関から入ると短い廊下があって、台所ガニだりにトイレが右にある。廊下の突き当たりの扉を開ければ部屋に入れる。三畳の一部屋。壁際には本が積んであって、本棚も二つあるけれど、その本棚がうもれてしまうくらいに本が増殖してしまっている。普段は丸太みたく包んである布団を広げもせず、大きな枕みたいにして眠る毎日。小さな冷蔵庫と戸棚はとうとう廊下へと押しやられてしまった。その次に廊下へと移動するのは、おそらくアイと布団であろう。最後に本だけがこの部屋に残りそうなくらい、それらは山のように見事に風景に収まっていた。

 この家は、立地もあまり良くなくて、近くに大きな道路はない。徒歩二十分の場所に小さな商店街があって、その通りから建物の隙間にはさまったせまく不安定な、たわむ鉄の階段を注意深く降り、またそれから幾つかの家の屋根を借りて造られた大きく右に曲がりながら下にさがって行く坂道を進むと金網フェンスに囲まれた電波工場がある。その真下がアイの住むアパートのあるところで、また狭い蛇腹折の階段を降りることになるのだ。大家は五十近い女性で、いつも厚い化粧に派手な服を着ている。若い頃に子どもをつくった相手の男は別の女性と結婚したが、彼から定期的に金を取り、その金とアイたちアパートの住人からの少ない家賃で暮らしているらしい。

 そして何より、アイの暮らすこの部屋で、一番印象的なのは、うさぎがいることである。うさぎには名前はなく、アイもパンガムの女神もうさぎのことを、うさぎ、と呼んだ。うさぎは、部屋を自由に転がったり、アイはうさぎのために常にどの扉も開けっぱなしにしているので、廊下やトイレから家のまえの通りで走り回ったり、ぐるぐる回転したり、行き来したりしている。週に一回程度、アイはうさぎと散歩に出かけることにしている。その場合アイはお腹のところに袋のついたワンピースのような服を着て、そこにうさぎを入れて、近くの公園まで歩いて行くのだ。柵に囲まれた公園の小さな人工芝のスペースをうさぎは楽しそうに飛び跳ねる。それを眺めながらアイは本を読んだり、音楽を聴いたりした。


 普段は見るに耐えないほど散らかっているが、パンガムの女神がドアを開けて入ってみると、珍しく片付いていた。それを見て、彼女はアイが不安でよく眠れずに、つい部屋を片付けてしまったのではないかと予想した。それはほとんど正解であった。ほとんどと言うのは、不安もあったが、アイは自発的に、部屋を片付けたのであった。それと言うのは、部屋の中というのは、そっくりそのままその人の頭の中であるという考えをアイは持っている。だから部屋が本で散らかっている時は、アイの頭の中は思想や想念で散らかっているのだと分析した。頭の中が女の子ならば部屋は女の子っぽくなり、空っぽだったら空っぽになり、流行りに敏感であれば流行り物が並ぶ。そう言うものだと思っているので、アイは昨夜、少し頭を落ち着かせようと全ての本を閉じ、隅に片寄せて、窓を開け空気を入れ換えるという部屋の洗浄をしたのである。

 それからおおかたの整頓がすむと、アイは夜中うさぎを撫でながら考えていて、家庭教師になるんじゃなくて、あの小さな子を助けられるようなことをしたいと思うようになった。だからパンガムの女神には悪いが断りたい。そう思うけれど、今までの仕事の失敗でパンガムの女神には散々迷惑をかけたし、生きてゆくためには何かをしなくてはならないと大家のおばさんにも言われたので、その夜に次は絶対に続ける、逃げないと心に誓ったあとであったが、なかなか踏ん切りもつかなかった。

 そうして迎えた朝であった。

 アイは八時には目を覚ました。服も着替え、シャワーを浴びて、朝ごはんを買いに部屋を出ようとしたときパンガムの女神がやってきたのだ。

 もう少し一人でいられると思っていた彼の緊張は高まった。

 パンガムの女神は朝ごはんのサンドイッチと、挨拶に行くための服装を持ってきてくれていた。それはアイの親の持ち物だった古い時代の制服だと説明した。

「その服で行くつもりだったの? だめだめ、シワがよってるじゃない。しかもあなた、そのままっていうのはあまりに技なし。わたしが先月あげたベストも持ってたでしょ。あれはどこ」

「なくなった」

 アイは顔がじわっと熱くなるのを感じた。

「もうなくなったの?」

「うん」

 二人は狭い部屋に膝をぶつけるくらいにして座って、朝食を食べたのだった。アイの部屋の窓からは、日光灯の明かりが入ってきて、本は、それを遮らないよう凹の字に積んであったから、部屋は明るかった。

 アイはサンドイッチをちぎってうさぎにあげた。それからうさぎを抱き上げて、背中を撫でた。それというのも、実は昨夜帰ってきたとき、パジャマ姿の大家さんとのすれ違いざまに、

「あんたのうさぎ、痩せてきたんじゃない?」

 と言われたのが、気にかかっているのだ。

 毎日見ているアイには、そうは見えなかった。

「痩せたかな?」

 と彼はようやく今日初めて口をひらいた。

「昔から細いじゃない」

「違う。うさぎ」

「そう? ちゃんとご飯あげてるでしょ」

「毎日あげてる」

「変わらないけど? 痩せたの?」

「ううん」

 パンガムの女神はじっとうさぎを見てから首を傾げると、そのままストローで野菜ジュースを飲んだ。

 アイはそれでひとまず安心した。うさぎはやっぱり痩せてないようである。部屋はとても静かだった。斜めにさす光に、時間が止まったように浮かぶ埃の粉が、美しく見えるのだった。

 全部を食べ終えたとき、時間はまだ少しあったが、

「そろそろ行きましょうか」

 とパンガムの女神は言った。

「さあ、服を着替えて。わたし外で待ってるから」

 そう言って家を出た。服を渡されたアイはそれをため息まじりに眺めて、よれよれのワイシャツを脱ぐのだった。


「よく眠れた?」

 道中、パンガムの女神は聞いた。いつだって喋ってくれるのはパンガムの女神である。アイはよほど気分がいいか、何か特別話したい話題があるとき以外に話しかけることはめったにない。だから今朝だって、

「うん」

 と答えた。

「でも目玉ちょっと黄色いよ」

「うん」

「いつもは綺麗な白い結膜、それでまんまるな黒目なのに」

「うん」

「ちょっと緊張する? わたしはアイにピッタリな仕事だと思うけどな。でも、緊張するのもわかるわ。わたしだって初日ってすごく緊張するし。それに、何も絶対に受けなきゃいけない仕事ってわけでもないの。この後の挨拶で断ってもいいのよ」

「違うよ。やる気はある」

 とアイはようやく顔を上げた。そして続けるのだった。

「昨日、ある女の人に会ったんだ。それでその人の仕事の話も聞いた、大変な仕事。聞いてるといつの間にか、やる気になったんだ。やる気になったのとは少し違うかもしれない。でもなんだかできるような気はしてきた。と言うより今まで何を怖がっていたんだろう。……死ぬわけでもないのに」

 アイのこの時の心の作用を説明しようと思えば、随分な枚数の紙が必要になっただろう。感情に鎧がつくのと同時に、アイの今までに培ってきた哲学が重なって、仕事をするくらいのことなら、やってみせる。自分に見せつける意味でも。という炎が沸いたのだ。

「大丈夫そうね」

 とパンガムの女神はいつの間にか自分のより高くなったアイの瞳を見てうなずいた。

 誰か他人が頑張っている姿を見て、あるいは自分にはできないと思っていたことを、辛いと言いながらしている人の姿を見て、感化され、活力が湧くというのは誰にだってある心の作用だ。アイはその性格によって、自分の身に起こったことを詳しく説明しないから、パンガムの女神には原因がわからなかったが、とにかく彼が決意したことだけは分かった。パンガムの女神には、そのことが嬉しかったのだ。自分の心配が少しでも彼をいい方向へむけたような気がした。

 二人は上層階まで上がれる上下に乗って移動した。

 それから大きな広場に行き、その脇から伸びる長い階段を登った。二度右に折れて、広い坂道をゆき、レーナル家のあるという地区までやってきたのだった。

 そこは上層階のなかほどに位置するが、アイは初めて空を見た。壁や屋根や廊下の隙間に、一箇所、水色の断片が手のひらほどの大きさで見られた。

 いままで疑問にも思わなかった、自然の光の正体を初めて考えたかもしれない。

 アイが見るのはいつだって人工の、日光灯の光だったが、それが見当たらない時でも、昼間は明るいのである。その正体が分かった。いいや、知ってはいたが、それを現実のものとして見たのは、十七年生きて、初めての経験だった。

 しかしアイは、「空」以上に、周りの街並みに驚いた。どの家も想像する二十倍は大きく、荘厳だった。

 アイの住む家が中層階の中でも特別狭いことは分かっていたが、中層階で見られる一軒家の家々とは比べ物にならなかった。一区画のように広い壁が倒れないか心配だった。下の家六つ分くらいの広さを使って、一軒建てているのである。さらに驚いたのには、家があるだけでなく、家の前にも無駄にスペースがあることだった。

「レーナルさんの家の庭は特に広いのよ。奥さんの夢だったらしいの。驚いたでしょ」

 とパンガムの女神は言った。アイは背伸びをして、門から覗ける庭の景色を眺めた。

 そもそも門すら珍しいのだ。中層階より下はどこも、道路にすぐ壁や扉が面していたし、門という文化もない。跨げるような木製の小さな門くらいなら見たことはあるが。

 そして、庭となれば、なんのためにあるのか想像できなかったが、アイはその小さな世界に憧れを感じた。庭にはどこから運んだのか黒い土も一部、煉瓦に囲われて敷いてあり、そこには花が肩を並べていた。その庭の先に、大きな壁がある。この壁全部が一つの建物の一面だとは、実際目の前にしてもイメージが湧かないくらいだった。


 ひとしきり眺めると、アイはふと冷静になって、一歩だけ門から退いた。

 パンガムの女神は門についているチャイムを押した。

 アイは、胸の奥がすっと空洞になる感覚にたじろいて、姿勢良く待っているパンガムの女神の方を見た。いつの間にか彼女の背丈を越している。アイは悲しくなった。そしてもう一度空を見て、わけもなく孤独に感じるのだった。そんなふうなことを思いながら、腕を組んだり、腰に手をやったりして、家の人が出てくるのを待ったのだった。

 アイは本当の気持ちを何も言えないまま、のこのことついてきてついに到着してしまったことを後悔し始めた。女神と一緒に待つ時間は、一瞬が永遠になるという、現在そのものを感じる時間であった。そしてそれは味わいの悪い、この世で一番邪悪なものだった。この瞬間というのを、とにかく目の前に見るのであったが、二度と体験したくないような時間であった。門の錆や、電柱の影が生々しく目に入ってくる。自分の周囲、全ての方向から流れてくる音。生活や活動の音はアイの一点に意思を持って集まってくるようだった。アイは落ち着かなくなり、キョロキョロと四方八方に首を回しながら、肌がひりつくのを感じて、腕を硬く組んで、小さくなっていた。

 ちょうどその時だった。

 小さな女の子の明るい笑い声が聞こえてきた。それと同時に、

「あら、マイちゃん」

 というパンガムの女神の声も聞こえた。

 アイはそれによって正気を取り戻した。

「アイ。彼女が言っていたシンフォテーアちゃん。アイの受け持つ予定の生徒よ」

 アイが見た方向には、二人の女の子がいた。

 十四歳と九歳の姉妹で、パンガムの女神の方へ駆け寄ってくるのが妹のマイだろう。そしてその数歩うしろを歩いているのが姉のシンフォテーア。

 この時、ある一つの化学反応が起こった。何者にも予想のできない、人間の神秘である。

 それというのは、アイはその一眼でシンフォテーアの美しさに目を奪われたのである。黒髪を後ろで結んでいる彼女は、色気のないポロシャツに、大きめのウィンドブレーカーを着ていた。ちょうど妹との買い物から帰ってきたところだった。一目で無口で控えめであることがわかる雰囲気を纏っており、片手には買い物袋を下げていて、それが彼女には重たいのか微妙に肩ごと左に傾いていた。もう片方の手でさっきまでおてんばな年端もいかない妹を捕まえていたのだろう。急に駆け出した彼女にその手は驚いて、前にひっぱられたまま戸惑い気味に浮かんでいた。色白で、伏し目がちで、アイの姿を見つけるとすぐに体が弱気に沈んでしまい、妹の方へ目を逸らしたのだった。

 実はそのとき、シンフォテーアの方でも、アイを一眼見て、その現実感のないオーラに惹きつけられていた。他の誰とも違う、きっと一千人の群衆の中にいても、ふと目が止まってしまう種の独特なオーラ。それは他人を近寄り難くして、妙な緊張を強いるこわばりかたをしていた。けれど、自我の弱いシンフォテーアにはそれが直感で憧れに見えた。そのあと彼女は、門をくぐって、もう一度後ろを振り返りアイを見たく思ったが、結局その勇気はなく、早々家の中へ隠れてしまった。

 両者とも、恋とまでは行かないまでも、お互いに奇異な感覚に撃たれたのは確かであった。一方、マイちゃんは顔を見たことのあるパンガムの女神の方を見て嬉しそうに笑った。シンフォテーアに連れられて玄関へ歩くさいパンガムの女神が手を振ると喜んで手を振った。アイも手を振って見た。するとそれに気づいたマイはやはり手をふり返してくれた。

 姉妹とすれ違いに、玄関から女性が出てきた。

 彼女はこの家の使用人で、メメ・メーバといった。


 二人は応接室に通された。

 アイとパンガムの女神はソファに座って待たされる。

 二人を案内したこの家の使用人メメ・メーバは奇妙な女性だった。まず服装が変わっていて、折り目正しくきたスーツにエプロンをつけている。常に姿勢正しく、動きも上品で、二人に茶を入れたり、茶菓子を出したりした。パーマをかけたミディアムボブの髪型と、黄色い丸サングラスは顎の小さい顔に似合っていた。丸くセクシーな唇の魅せ方も、彼女は心得ているようだった。とにかくアイには初めて会う雰囲気の女性で、イラストが動いているような感じをうけ、つい見てしまうのであった。

 そういうことを抜きにしても、アイはやはりとても緊張するのだった。

 上層階に触れる経験がないという自覚が、いっそう自信を失わせて、自分の体の形やするべき動作がわからなくなってしまうのである。分刻みに、ちらちらと不安そうにパンガムの女神の方を確認して安心しようと努めた。

「女神はいいな。……こういう場所にも慣れてるだろ。僕は、どうすればいいのか、さっぱりだよ」

 とアイはこぼした。できるだけ、軽い口調で言うようにした。

「何も、別に、考えなくていいのに。そんなに難しいものでも、堅苦しいものでのないのよ。……マナーって案外。知らないと怖がってしまうものかもしれないけれど、もし何かあったら私が伝えるから、アイは自分の落ち着くように振る舞うといいわ。規則じゃないんだから、こだわるほどのものでもないわ。そんな感じですよね、メメさん」

 と最後にパンガムの女神はメメ・メーバに聞いた。メメ・メーバは頷くだけである。

「そういうわけにはいかないよ。きっとね。……失敗するのは僕なんだし。パンガムの女神はそれで失うということがない。僕だけなんだ、この場合ね」

「失うも何も、……何も持ってないわ」

 パンガムの女神は両手を広げてみせた。

「そう言うことじゃないんだよ。もっとこう精神的な何かで、自分の価値とか存在とかさ。君たちは、……だって、生きているだけでいいじゃないか」

「あら、あなたも生きているだけでいいのよ。……何を求めてるのアイ、生きているだけで、私たちはあなたを歓迎するんだから。そうよ、いてくれればいいのよ。そんなに緊張しないで。気楽にしてれば、あなたは普段の身の振り方だって品があって賢くて美しいんだから大丈夫よ。うん。うん。そうでしょ。この場所に見合ってる性質を持ってる。何も心配することはない。レーナルさんもすぐにあなたを認めてくれるわ」

 アイは彼女から少し身をそらすように足を組んだ。それから腕まで組んで、絨毯の模様をじっと見つめた。ようやく少しリラックスした風であった。

「そうだね」

 とアイはつぶやいた。

 イナ・レーナル夫人がやってきた。

「メメどうしたのそのメガネ」

「お嬢様にいただきました」

「あら、マイちゃんね。ちょっとマイ! あの子どこへいったのかしら。あらら、そうだ。女神様、本当に来ていただいて感謝しています。すみません、なんだか、ええ。あのう、ご案内しますね。メメ、行きましょう。行きましょうじゃないや、ここでお話しするのね。そうだわ、ここが応接間よ。あぁ、パンガムの女神さま。この度は本当に一族感謝しております。シンフォテーアのための家庭教師を見つけてくださいまして、本当になんとお礼を言っていいやら。まったく、わたしはもう嬉しいばかりで」

 アイはやってきた夫人にびっくりした。

 右に揺れたり左に揺れたりと落ち着きのない性状と身なりの気品とのギャップ。けれどそれが、彼女の場合は良いように作用しているので、とてもそれが悪印象に転じることはなかった。あるとしたら儀礼を重んじる彼女よりひとまわりだけ年上の女性相手のときくらいであろう。

 見た目はよほど子どものできている年齢には思えないほど若く、声や顔立ちには品があっていかにも上層階育ちであったが、その上層階特有の身の振り方に未だ慣れていないという自信のなさが傍目にもわかった。手を口へ持っていったり、空気を叩くようにして動かしたりするのだ。

 彼女の声は震えていた。喜びに興奮しているようだった。

「よろしくお願いします。メメ、頼んだわよ」

 彼女がそういうとメメ・メーバは軽くお辞儀をし、部屋を出た。

 イナ夫人は向きなおった。

 しかし、パンガムの女神に対してそれほどの畏怖や尊敬があるのだろうか。アイは、世間の、女神に対する偶像視に、かねてより疑問を覚えていた。ともするとおもねったり、ありがたがったりすることが不思議でならなかった。イナ夫人も、アイには過剰に見え、そのことによって、アイは緊張からふっと解かれた。

「改めまして、レーナル・ナカオの妻です。この度はどうもよろしくお願いします。えっと、アイくんですよね」

「はい」

「よろしくお願いしまう。とても聡明そうな方で、ええ。あのうパンガムの女神さま、わたしその実は、あまり詳しくは聞かされてないのです。夫の方が勉強熱心でわたしなんて、何も知らないままこんな風に育ってきてしまって。実際どういう風な教育がアイさんからシンフォの方へほどこされるのか、あまりよくわかってないのです。すみません。パンガムの女神様からの紹介ということですので、もう間違いはないと思われるのですが。夫から確認しておいてくれとだけ頼まれて、何をどう確認すれば良いのやら」

「なるほど、そうですね。彼の能力に関して言えば、申し分ないかと思いますよ。人格的にも、見上げたものとまではまだ言えない部分も正直にはあるのですけど、一般と比べると禁欲的で自己反省にたけ、情操も豊かですから。ただ彼、生まれは尊いんですけど、その、上層階というのが初めてでして。色々不慣れでしょうから、その点には目を瞑ってやってください。礼儀作法などは、わたしの不手際でしたが、それほど詳しくは教えてこなくて。もとより不作法ということは一切ないのですけれども」

「ええ、はい、ありがとうございます。よろしくお願いします、ええ。」

 イナ夫人の声は水で薄めた墨のように弱まって消えていくようである。

 なんだかアイにはつまらない会話だった。それから二十分ほど意見のすり合わせが行われた。それはナカオから聞かされというシンフォテーアに教えるべき科目や、日割りなどの話し合い、それとシンフォテーアの性格についてや、関係のない日常のことも……。

 その間アイにするべき仕事はなく、ただすっと座っているだけで退屈だった。実際的なことはやりながらでも決めていき、とりあえず今は双方が安心することだけでまとまったようであった。

 寝不足の疲労と、朝からの緊張で疲弊した精神。それらがどっとおし寄せた。一秒でも早く帰って、自分の部屋で横になりたい気分であった。突然退屈になったアイの脳を占めたのは、どんよりとした睡気と疲弊だった。

 それともう一つ彼の頭に錨のように腰を下ろし、じっと動かないのはシンフォテーアの面影だった。

 あのすれ違いざまの端麗な顔。小さな口やひかえめな目。なびく髪。もし廊下を通ることはないだろうか、この部屋へ入ってくる理由はないかしら、と彼はほのかに思い何度も扉のほうをボーっと眺めてみた。それは恋に近いような感覚。恋を確かめたい冒険心、ひとときの目の保養を希求する心だった。

「あらそうだわ。もしよければ、第一回のお試しのような感じで授業をしてみてはどうかしら」

「あら良いですね、どう?アイ。さわりだけでも」

「え、ああはい」

 ここで頷いてしまったのには愛の脳裏にシンフォへひかれる引力があったからだ。疲労との天秤は一秒と保たなかった。

「けれどまだなんの用意もしてないのじゃない。まあ、なんとなく勉強以外のことでも話してみるといいかもしれませんね」

 パンガムの女神とイナ夫人はなぜか目を合わせて笑った。

 アイは廊下を歩きながら後悔していた。

「あのタイミングで帰れた」

 と。メメ・メーバは無愛想にシンフォテーアの部屋まで案内した。イナ夫人とパンガムの女神は二人きりで話を続けるらしかった。それはいつもの光景だった。というのは、イナ夫人相手に限らず、パンガムの女神をはじめ、女神という存在は主に、会話をするのが役割なのである。


 シンフォテーアの部屋は淡い色が漂い、絨毯も天国のように柔らかく、刺激が少ないのが特徴だった。帽子が二個、壁にかけてある。戸棚には本が少し並び、お土産が少し置いてあり、筆記用具が少し用意してあった。趣味と思える小物や雑具も少しずつあって、何事も極めるかやらないかの二択で考えるアイには納得できない風景だった。

 机には新品の教科書と名前の書かれたノートが何冊があって、アイが入ると同時にシンフォはそれへ整えて机の隅に積んだ。

 いざ授業を始めてみると家庭教師という職務がそれほど難しいミッションでないことがアイにはわかった。シンフォテーアは、とてもおとなしく、かつ物事の読み込みも悪くないようだった。アイは最初にシンフォテーアがどの範囲までの知識を持っているかと会話形式で確かめてみたが、ほとんど何も知らない。何も知らないけれど、手はじめに学校で使うという数学の教科書をひらかせて、まだみたことのないというその幾つかの問題を解説すると次からは解けるようになった。

「これくらい自分で理解してくれると、ずいぶんすらすらと進むだろう」とアイは予想した。

 シンフォテーアはいきなり予定の哲学ではなく数学をやらされているというのを不思議に思っているようだった。

 彼女の能力に関する安心ともう一つに、この仕事は続けられそうだという希望がアイには灯った。それというのは、女の子の隣を座るささやかな興奮が理由である。それは彼にも意外なことだった。アイは自分にそういう機能があるとはついぞ想像したこともなかった。そういった欲情が、まったく表出されないのは、彼の経験不足と若さ特有の自己制御の過剰さからであったが、ともかくもアイは仕切りに体をのけぞらせて彼女から離れるようにしたり、わざとそっぽを向いたり窓の外をジーッと眺めていたりして、シンフォてーアに対しては微塵の興味をも持っていない風であったが、そうではなかったのである。

 しかしこのことは何もシンフォテーアが彼にとって特別な女性になったことを意味しなかった。

 原因はあまりにアイがこれまで女性と関わってこなかったことにあるのである。

 事実一度彼はシンフォテーアに長文を読ませるつもりで、彼の持参の本(彼はいついかなる時でも、どこへ向かう場合での本を持つ。最低五冊は持つ。それはお守りであり、不安から逃れる鍵なのだ)を読ませる間、一度トイレにたった。手持ち無沙汰と緊張から飲み物を飲みすぎたせいである。それを反省して次からは「水分を口にすることを我慢するように心がけなくては」とも思うのだったが。

 廊下へ出てすぐそこで待っていたメメ・メーバには驚いたが(監視していたのか?)トイレの場所を聞くと、彼女は冷たい声で、指だけを動かして説明した。

 心地よく済ませると、帰りの廊下である部屋の前を通ることになった。

 ガタゴト、と音がなっていて、開けっ放しの扉が気になり中をふと見てみると、ちょうど戸棚の上の箱を取ろうと、イナ夫人が背伸びをして目一杯腕を伸ばしている部屋だった。本人は頑張っているつもりかもしれないが、アイの方から見ると、まったくもって届かないことが明らかだった。

「とりましょうか」

 とアイが部屋へ入り、軽く背伸びをして箱を取った。アルミ製のホコリをかぶった箱であった。

「あら! ありがとう」

 と胸元で笑ったイナ夫人にも、アイは動揺したのだった。

「ええっと、シンフォは?」

「いま、長文を読んでいるところで。僕は、あの、トイレの方に」

「そうですか。あっちですよ」

 と可愛らしい声で、微笑みながら示してくれたのである。

「女神様は、少し用事があるようで」

 と歩き去るアイの背中へ向けて彼女は思い出したように言った。「アイさんの終わる頃には帰ってこられるようです」

「あ、そうですか」

 なかなか帰れないなとアイは心で残念がった。

 そしてお辞儀だけしてシンフォの部屋へ向かった。


 授業を再開。アイは読ませた本の感想を聞いた。シンフォのそれはたどたどしく、要領を得ない。

「感想は特にない感じ?」

 と聞くと彼女は「そうですね」と机の上に視線を泳がせた。

 彼女もまたアイの顔を見れないのは、アイと同じだった。

 アイはその本の続きを読むように指示した。とりあえず今日は授業でもないし、それでいい、面白くなければ好きな本を読めばいいと言った。

 シンフォテーアはアイの物腰が柔らかなことに内心驚いていた。彼の人を寄せつけないオーラからは予想できない。彼は相手の意思を尊重する性格に思えた。それが意外だったのだ。

 アイがそうであるのは事実自然とは違うことであった。もし彼が放ったらかしに育つがあるいは特別な事件が起こらない限りは、自分の意思に忠実で、他人と対抗し、その独自性を強固にする性格を伸ばしていただろう。けれど彼はそうはならなかった。他人の意見の方をまず通してみるようになったのだ。

 それでシンフォの様子を見て、アイは数学の続きをやるよう指示した。シンフォにとってそれはありがたい指示だった。

 さて問題を解くあいだ、廊下でマイの騒がしい足音と笑い声、それを嗜めるイナ夫人の声。それにも動揺せず集中しているシンフォの横顔をこのとき初めて数秒の間眺めることができた。

 とても可愛い。とアイは思った。けれどもアイとは違って彼女はその可愛らしさで何か得をするような経験はそれほどしていないだろう。というのは、アイの持つのは発散性の美であって、彼の美しさは自発的に他人の目を奪う。けれどもシンフォテーアの場合、自ら誇示してゆくような美でなくて、来たものにだけ見せる美、つまり彼女の美しさを発見したものにだけ与える宝物のような美なのである。そこに彼女のひかえめな光があったのだ。

 初回のおためし授業は無事終わった。

「おつかれさま」

「ありがとうございました」

 それ以降の会話はなかった。

 シンフォをひきつれて応接室へ行ってみると、そこには誰もいなかった。

 しばしの沈黙がたったあと、シンフォテーアがアイをのぞき込むようにして、気後れする様子で、

「どうしましょうか。あの、お母さんを探してきます」

「ああ、おねがい」

 シンフォはまるで決死の特攻を向かう前の隊員が隊長に向かってするみたいに頷いた。

 けれど、特攻を行う必要はなく済んだ。すぐにイナ夫人がやってきた。

「あら、アイさん、ご苦労様です。ええっと、応接間で待っておきましょうか。すぐとパンガムの女神様もお帰りになりますので、ええ、もうすぐです。シンフォテーアちゃん、マイがぐずってて、ちょっとお話聞いてきてくれる? ごめんえ」

「いいえ、ぜんぜん行くよ」

「アイさん、お気になさらずに、座ってください。お茶、お持ちしますね。いや、私も待っとこうかしら」

 結局、イナ夫人はメメを呼びつけ、お茶の指示をし、応接間にはアイとイナ夫人が二人きりになるという時間が生じた。

「どうでしかた?」とパンガムの女神。

「あ、大丈夫そう。とても賢い子で、何の問題もなくできると思いました。僕の教師としての能力の方が心配なくらいでしょう」

「そんなことないわ。パンガムの女神様のご紹介ですもの、比べる相手がいないと思ってます」

 語尾にハートをつけるのが似合うような喋り方は、一般に夫人と呼ばれるような人間がすると嫌気の差すような古い甘さがあるものだが、イナ夫人に関してはそれがごく生まれつきの性格でしてしまっているのがわかるだけ、心を落ち着かせる作用があるようだ。そしてアイもまたはじめ緊張で体を前後に揺すったり、髪を手で触りながら受け答えしていたけれど、次第に夫人の空気にふと心臓からピンという金属音がなるような別の緊張に変わって落ち着きなくしていた。


 メメ・メーバがお茶を運んでくるより先に、応接間を覗いた者がいた。

 白く栄養のいい顔がにゅっと出てきた。アイはその顔をすぐにナカオ氏のものだと見てとった。

「エスート君は、今日は来れなかったのかね」

 と言って出てきた彼専用に仕立てられた服は生地もよく皺がない。それにきっと基準以上に肥っている腹も、仕立て人の腕前によって隠れているのだ。趣味のいい紺色のスーツに洒落たメロンのドット絵の柄が入った黄緑のネクタイだった。

「ええ、彼は本日は予定にございませんでしたので。アイさんがいらっしゃいます。以前レーナル様がご要望された通りの人材が見つかりまして。パンガムの女神様からの紹介です」

 そう応えるのは同時にやってきたメメ・メーバ。

「ああ、女神様か。なら間違いなかろう。すまないね、アイくん。給料はそうたくさん出せない。パンガム全体がもう不景気なのでね」

 と彼は鼻に皺を寄せて右目だけ細め、他人が話しかけやすいように訓練された仕草で手を旗のように振って言った。

「そんなこと、ここで言わないで、空気が悪くなる」

 というイナ夫人の言葉に、

「ふん」

 とナカオ氏は機嫌を損ねたらしく、鼻息を出して冷笑した。

「ジョークだよ。真剣に経済学の話をしようと思ったわけじゃない。それに、別にパンガムの景気は悪くなってない。どこをどう切り取ってみるかで経済の見方は変わるんだ。俺は景気がいい、空気は悪くならん。それより馬鹿が知ったように会話に悪込んでくる方が空気が悪くなる。IQがいくつ違うと会話が成り立たないんだったかな」

「すみませんでした」

「トミオの異動が決まりそうだ。東方の勤務だからそこに決まったら安泰だな。いい場所だ」

「そうなんですね」

「ああ、とてもな。これでレーナル一族にも一流が出るわけだ。まいやいやこれは取らぬ狸の皮算用か。とはいえ、近所にはハマベ家もアベ家もそれにダイヤ首相の親戚であるハート家の第二邸宅もある。やっぱりできる人間は違うね。能力を持って生まれた、それだけでもう恵まれているだ。東の第6地区かね。それがどれほどすごいことか想像つくかね、アイくん」

「あ、えっと……いいえ」

「孫の孫まで不自由なく暮らせるだろうな。それも一族に転落をもたらすような無能な不幸者が出ないかぎりは」

「そうですか」

 と最後のアイの相槌も確認しないままレーナル・ナカオはイナ夫人を連れて去った。

(まったく途轍もない気疲れだ)とアイはふと自分のことを思い出して大きなソファに深く背中を預けた。

(早く帰って寝転びたい……)

「お待たせしました」

 とメメ・メーバが茶をおき驚いて姿勢を正した。

「いいですよ、くつろいでもらって。お疲れでしょう」

「……はい」

 力なく頷くとアイは恐る恐る体の力を抜いた。

 それから少ししてパンガムの女神が帰ってきたらしい。イナ夫人が慌てて廊下を走って通り過ぎるのを見た。

「お疲れさん、アイ。疲れたでしょう。全部が全部、普段と違うものね」

 パンガムの女神が応接間へ来て言った最初の言葉はそれだった。

「どうだった? 家庭教師の仕事は、できそう?」

「うん、まあ。僕が教師に向いてたら、苦労はしなさそうだよ」

「じゃあ大丈夫だわ。アイはなんでもできるもの」

「そんなこと、ないけど……」

「アイさんが来てくれてほんとよかったわ。さっきシンフォとちょっと話したんですけど、シンフォの方でも満足していたみたいで。お勉強の心配はもういらないよ、って言ってました。これってつまりアイさんがいれば、心配ないってことでしょう。本当によかった。パンガムの女神様には、もうなんとお礼を言っていいやら」

「いえいえ、そんなそんな。とにかく、気に入ってもらえてよかったです。次回の日程なんですが、16日の夕方でしたっけ」

 パンガムの女神がノートを取り出して確認している。

「はい。夕方の5時ごろに来ていただければ、そこから一時間半」

「おっけいです」

 と決まりかけたその時、再びメメ・メーバがやってきて、

「アイさんに、主人様からのご提案があります。今晩、夕食をご一緒するのはどうかと」

 そう告げたのだった。


「メメが突然あんなことを言ってくるもんですから一体何事かと思いましたよ」

「何事かと思っただって? またお前は何も考えていないからそういうことが言えるんだ。将来のことを気にせずにいられるんだ。アイくんにはそうはいかんはずだ。もちろん私だってそうだ。どうだね、長期的に見れば君の給料にだって関係することだ。何かって学問に必要なのは第一に金というのが悲しい現実だろう」

「そうですかね」

 アイは落ち着いて答えた。

 彼の性格の一つがここで明らかになった。彼は自分から意思決定をし世界を自分の未来を変更してゆくのが苦手なのである。もっぱら世界を受け入れてゆくのが彼の性格だった。誘われた時点で、彼に断る未来はなかった。そういうふうに世界が彼を誘導するのならそれに流されてゆこう、と彼の深層意識にはあるのだろう。だからこの場においても、(それも過ぎれば終わってしまう。その後で家に帰ってゆっくり横になれるんだ)という考えが捏ね上げて、夕食の席に着くことに決まった。

 そしていま、彼が疲労の極みに呆然としているのではなく、むしろ聡明な面持ちをしているのには理由があって、ここへくる前に一度トイレへ立ち寄った。そこで彼は色々と考え直したのである。

(どうせやるなら何もなく時を過ごすのももったいない。疲れるだけ無駄だ。……そうだ、どうせ疲れるなら、自分を高くしておいて疲れよう。つまり今から行われるの僕に対する見極め品評。ナカオ氏はまだ家庭教師を僕に決めかねているんだ。それもそうだ。シンフォテーアのような若い学生に僕のような節操の柔らかい青年代の人間をあてがうなんて非常識だ。さて、だがここで僕がどれほど有能かということを見せつけれれば、あいつの言う安泰。一流への道だ。どの道失敗したところで、もう上層なんかに用があることはないだろう。もともと僕は上層なんかに興味も関心もなかったのだから。……恥ずかしくも何ともない)

 そんなことを考えて冷たい水でくちびるまで洗った彼だけに、開始早々のナカオ氏の発言には驚いた。それと同時にしてやったりな感情がすでに芽をだした。

(やっぱりだ。まだ彼は僕を雇うことに決めていない)

 そして食事は始まった。

 アイが想像していたほど厳かなものでも形式的なものでもなく、彼の想像する一般的な家庭の食事の風景とそれほど変わらない空気がそこにあった。

 ただ異なるのは、そこにアイがいると言うことで、そのアイの底をほじくり出そうとする主人がいると言うことだった。

 アイの思考は冴えた。落ち着いた。

 彼は見事に食卓の舞台の上で舞って魅せた。

 ナカオ氏から質問や議論がアイに飛ぶことをそのつどイナ夫人は嫌がって止めたが、アイはそれに対して見事な受け答えをした。事実アイはとても十七歳かそこらとは思えないくらいの知識を持っていた。それは現実から学んだわけでも、自分の行動に移すことができたわけでもないが、とにかくいろんな話や読書から学んだ知識だった。学術や宗教や思想・哲学に関してはたとえ大人とはいえ彼には敵わない。それほどの知識を持っていたのだ。それはひとえにアイがこれまでの十七年間を一人で、考えることに全ての時間を割いて生きてきたからである。それだけに他者との接触、実際的な行動、現実の理解などが多少遅れていることはアイ自身自覚的であった。しかし、この食事会ではそんなことは俎上に上がらなかった。

 後半は、ナカオ氏も酔っ払ってしまい、アイはずいぶん楽に食事ができた。

「一口飲みたまえ」

「ダメよアイさんはまだ未成年なんですからぁ勧めちゃあ」

「俺が十七の頃にはもう飲んでいた。全然何の問題もない」

「もう時代が違いますよ」

「そうかそうか。そんなんだから、人間が堅苦しくなって、やれ倫理的だとか無能だとか言ってね、自分を苦しめるんだ。俺の若い頃はもっと大らかだった。だから俺たちの世代は十分に活躍できていたんだ。わかるか? アイくん、君はね、知識は蓄えているようだけど、もっと理知に富まないといけないよ。機知に富むか」

「ウィットに富む的なことですか?」

「トム? 誰だね」

「……」

「そこで返さなきゃ、つまらないね」

「ごめんねアイさん」

 口を割って入ってきたイナ夫人と目があった。彼女んはとても申し訳なさそうに彼の表情を覗きこみ、はっと緊張したように息をのんだ。

「最後に、アイくんに聞かせてもらおう。最近、ちょっと話題になったことがあってね。知り合いの息子の話だ。彼はね、小さい頃から真面目で、優秀だったんだ。パンガム大学にも入学できた。そんな彼がこのまえ自殺をしたんだ」

「やめてくださいよ。食事中に」

「いいや、由々しき問題さ。その原因だかなんだか、遺書はなかったけれど、電子日記に日頃の悩みが書いてあったらしい。学校に行きたくない。そればかり書いている。そう言うので人は死ぬんだね。この問題をアイくんはどう読むのかな」

 アイは刹那の間、深く沈黙した。

「僕の単純な考えをまず言うと、時間は過ぎる、と言うのが前提にあるです。多くのものは時間が経てば解決する。悩んでいたことも全て思い出の中に収まる。つまり現実も全部空想になってしまうです。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」とか「色は匂えど散りぬるを」とか、万物は流転するというやつですね。ただ、じゃあ現になぜ悩むのかと言う問題なるとこちらは実際的で、どうもエゴと欲がいつだって問題なような気がするんですよ。仏教はそれらとの付き合いですし。自分がどうとか、自分のものだからとか、自分は今これが欲しい、だとかそういうものに付き合わされているといつまで立ってもつらいんです。自分が幸せにならなくなっていいじゃないですか」

「自分が幸せにならなくていい?」

「なる必要がありますかね。んんー、説明すると長くなるんですが、世界も自分だし、自分も世界だから、みたいな」

「ちょっとよくわからないな」

「えっと、例えばさらに一本のエビフライがあるとします。そこに自分と、もう一人対面して座っているんです。どっちかがエビフライを食べることになるんですけど、二人ともお腹が空いていて食べたいのです。この状況で、全ての人間性の根源が見えると思いますね」

「食べるか譲るか」

「いいえ、僕が考えるに、そのどっちでもないという選択が非常に重要なんです。さっきは自分と他人でしたが、次はこうです。見知らぬAさんと見知らぬBさんの前に一本のエビフライがある。さてあなたはAさんとBさんのどっちがエビフライを食べると言う選択をしますか? ……どうでしょう。どっちでもいいと思うんです。この場合、どっちが食べても同じですから。なのに、その状況に自分が絡んでくると突然どっちでも良くなくなる。ここに初めて悩みが生まれるんです。本来どっちでもいいのに、どっちでも良くないように思ってしまう。自分かそれ以外かで物事を考えてしまうんです。自分のことも見知らぬAさんかBさんかのようにどうでもいい存在だと思えば、悩む必要なんてないんです。相手が食べるなら自分は食べない、相手が食べないのなら自分は食べる、それだけで悩みなんて生じないでしょう。学校に行きたくないと言うのも、自分が、なんです。そことの向き合い方に時間をかける必要がある。その時間をとるために学校を休んでもよかったのでしょうけど。恥ずかしい話、僕は学校に行ったことがないですから。ともかく、どんな理由があろうと、命がなくなることに肯定はできません。悲しいことですし、生きてれば何かあるとだけは絶対に声を大にして言えるのです。『もしそのまま生きていて、結局一つも嬉しいことがなかったらどうだろうか』と言う疑問も出るでしょうが、そんなことは考えなくてもいいのです。それというのは、もし今後、嬉しいことしか起こらなかったらどうしようという考えと一緒ですから」

「なるほど」

 とナカオ氏は眠たそうに言った。

「なるほど。ありがとうよくわかったよ。君のような人を、職業柄ときおり見つけるよ。つまづいて転ばないように気をつけるんだよ」

 少し話しただけで一体どっちがどっちより頭脳が明晰か明らかにわかるような会話がある。不幸なことにこの時の会話がそれだった。最後の一言でアイは大人相手に無謀にも立ち向かって、その子どもっぽさを無意味にもさらけ出して、最後に一つの訓戒でいなすようにその熱を覚まされた、ということを一瞬のうちに自覚してすぐさま恥ずかしくなったのだが、それは彼がまだ若く経験の浅いが故のことで、このとき明らかに自分より相手の方が頭がいいことに打ちひしがれたのは、レーナル・ナカオ氏の方だった。彼は自分が頭脳においてこの若すぎる哲学者に負けたことを周りに勘づかれていないかと冷や汗をかいた。それから妻もパンガムの女神も、それほどの鋭さを持っていないことを思い出し、自分の最後の対応がこれほどまでにないくらい的を射ていたことに満足した。アイの方が反省して顔をして向けている様子が目に入ったのである。

 ここでナカオ氏がアイのことを毛嫌いしたり遠ざけたりしなかったのがアイにとって行幸だった。ナカオ氏はここでもまだ自分の方がこの呑気そうな少年より境遇も半生も恵まれていて、将来も安泰だと言うことを知っていた。

 しかしそれもしょうがないことだった。社会というのは、九十パーセントが生まれで決まるのである。ナカオ氏はアイを見直すと同時に残念に思った。社会は社会のせいで、無限の可能性を消しているのではないだろうか。彼は上層に生まれたばかりに、それほどの特別性もなく暮らし、裕福をしている人をいくらでも知っていた。けれど彼自身がそのうちの一人だとは、彼も気づいていなかった。

 彼は他の上層住民と同じく生まれた時から上層階で育ち、パンガム大学へ通うことも決まっていたうえ、大学でも学生遊業に明け暮れし二年長く滞在したのちに卒業した。その頃から丸くなりはじめた腹の形状はどうにか悪化は防ぎ、一般の中年体系を保っているが、膝を弱くしていた。そのどちらも原因は三年前から通っているジムであった。メメ・メーバに教えられたジムは当時開いたばかりのここらじゃ最新の形式の電動マシンの揃ったジムで、会員番号も数えて三番目であった。それが彼のささやかな自慢でもあるのだ。

 彼はアイとその生き方を真逆にしていると言ってもいい。一通り、恥をかかない程度に学問を修しているが、どれも自己流に深めるということをしたことがなく、学問が本当はそうするものだということすら思い及ばないで生きているのである。アイと出会い、少年が自分には思いも及ばない境涯へ行っているように感じた。たが幸せな彼は一瞬のうちにそれが未踏の大陸ではなく、山の向こうだと言うふうに考えを塗り替えた。この自分を守る認識のすり替えがなければアイは立ち所にナカオ氏に遠ざけられ、そのうちに仕事も無くしていただろう。それをさせなかったのは、中層出身であると言う出自と、アイの怯えた瞳による効果だった。

 ともかく、自らの振る舞いによってアイはようやく悲願の帰宅、そして床に寝転がって気を休めるまでの道筋に光を指すことができた。とはいえ彼はそれを自覚しないでいたのだったが。

「そろそろ暗くなっている。君も帰るべきだね」

 とナカオ氏が発言したのだ。

 アイはすぐにパンガムの女神の方を見たが、引き寄せられるように目が合い、パンガムの女神はそれで初めてアイの精神が疲れ切っていることに気がまわった。

「本日はありがとうございました。イナ夫人もお疲れさま。ええ、皆さんはもうぜひ座ったままで。アイは私が連れて帰りますので、夕食を続けてください。じゃあ今度の予定とかは、私がまた聞きにくるので、アイはこれでね、帰りましょうね。ナカオさん、お仕事応援してます。ええっと弟さんですね。またお話しをしに向かいます。最近暇なので。えへへ。では、今日はお疲れさまでした」

 最後にアイは挨拶をするのを忘れたままリビングを出た。

 玄関の電気がパッとつく。

 パンガムの女神は座って出ないと靴が履けない。その小さな背中から目をそらして、アイは壁にかかった小さな絵画などを見ながら、

「僕待ち合わせがあるから、先に帰っていてよ」

「あら、そうなの。どうして?」

「ちょっと約束があるから」

「わかった。じゃあちょうどいいわ。これから一つ用事があったの。約束って何かしら。レーナル家でのこと?」

 アイは首を振って答えた。パンガムの女神は肩越しに振り返ってそれを見て、

「うん。一人で帰れるのね」とアイの様子をじっくり確認した後、先に靴紐をキュッと結んだ。勢いよく立ち上がってアイに微笑みかける。アイはただ頷いた。それからパンガムの女神はすぐ扉を開けてアイを待たずに行ってしまった。

 アイはゆっくり靴を履いてドアを開けた。庭ではもう門を出ようとする女神がいて、門外に出ると彼女はパタパタと右の方へ走り去った。

 一人で庭を、責任のない兵士の戦地帰りのように疲れと満足とを背負って歩いた。

 帰り際、振り返るとカーテンをずらしてこちらを見送るシンフォを出窓に見つけることができた。アイは挨拶に小さく頭を下げて手を振る。シンフォの頭を下げて、それでカーテンを閉じた。アイはそれだけで嬉しくなったのだった。

 時間はすでに約束の十時を過ぎていた。


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