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パンガム伝  作者: のり子
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1.転落と希望


 にわかに風が吹きはじめたある春の日の夕方、安っぽい木の扉はカタガタと、かるがるしい音をたてて揺れた。その扉を丸っこい手が遠慮気味に開ける。手の彼女はパンガムの女神である。彼女はアイに会いに来たのである。

 中はびょうびょうとした雰囲気をもっていた。

 ここはお堂と呼ばれているが、単に何もない部屋であるだけで、ただその奥の壁のところには三メートル近くある、そばへ寄るにも威圧感と妖怪的な恐怖を与える一つの仏像があった。

 アイはワイシャツの上にくたびれきったベスト、ボタンもかけずに腕をとおす。だらしのない格好。その堂の床に靴下も履かないままの裸足であぐらをかいて座っており、目の前に佇む仏像に目もくれないで何やら顎に手を当てて、いかにも考えているようなポーズであった。仏像はその高みから、アイをも含めたこの伽藍堂の広い部屋を一望のもとに見渡して微笑んでいた。

「またここにいたのね……」

 パンガムの女神が言うと、アイは両膝を立て、それを抱き抱えるようにして小さくなって座り、彼女を待った。パンガムの女神はアイの横へ静かに立って、スッと腰をおろした。

「ねえ、アイ」と彼女はそれからかわいらしく息を吸って告げた。「あなたにちょうどいい仕事を見つけてきたの。それはね、アイ、家庭教師っていう仕事で……仕事内容はね……」

「知ってるよ。子どもに勉強を教えるんでしょ」

 と言いつつ彼は膝の中に顔まで埋めてしまった。それでただ乾いた木の床を見ている仕組みである。パンガムの女神は明るい朗らかな声音をたもって続けた。

「ええ、そうだけど……。うん。それでね、レーナル・ナカオさんという方がいるの。上層階に住む方で、彼にはちょうど十四になる娘さんがいるんだけれど、それがシンフォテーアっていう子で、その子の家庭教師に、わたしがあなたを推薦するのよ」

「うん」

「わたしが推薦するから、それはもう決まってしまうんだけれど、アイ、できるよね。わたしはね、アイにはそういう仕事の方が向いてるのかなって思ったの。社会の中に放り込まれるよりまずどこか壁のあるところで閉鎖的に働くの。別にお金がどうこうってわけじゃないのよ。わかるでしょ、わたしがそう思ってるの。でも、アイも誰かと関わりを持った方が、強度のないままじゃいつ行き詰まるのかも、消えてしまうのかもわからないから、わたしはやっぱり心配なの」

「うん。消えてしまうってことはないよ。自ら命をたたない限りはね。でも……けれど、そう言われてみると、確かに、僕は消えてしまってもおかしくない。消えてしまっても、別にいいんだけれどね。困ることってない。そういう性格だし。わかるでしょ。僕は昔から、確固たるものみたいなのが恐ろしくて、苦手なんだ。だから、自分のことも曖昧なままでいたいだけさ。……でも、僕に仕事って言ったかい? さっき……。僕が働き始めるんだね。いつからなの?」

「それは、もう挨拶なら明日からになるんだけど。ごめんね、ちょっと急で。わたしも迷ってたの。アイに伝えるものかどうか」

「できないよ。僕がどうやって働くのさ」

「アイなら、たくさんものを知ってるじゃない。そうだ、その家庭教師の仕事なんだけど、シンフォテーアちゃんは学校にも行くの。じゃあいらないってことじゃなくて、学校では教えないことをアイから教えてもらうの。つまりね、ナカオ氏は宗教とか哲学とか、論理学! そう、こういうのを教えられる人はいないかって探してるのよ。だから本当にアイにぴったりだと思ったのよ。それでね、シンフォテーアちゃんはさっき言ったように学校にも行くから、アイは週に二度ほど、ナカオ家に訪ねてそこでシンフォテーアちゃんに授業をするのよ。思想教養のようなものならあなた、得意でしょ」

「わかった……」

 アイの声はかすれてしまって「った……」の部分は息だけがスッと出て声はなかった。それというのも、彼には自信がなかったからだ。彼は今までに三度も同じようにパンガムの女神から仕事を斡旋してもらっては、そのたびに失敗していた。理由はアイにも十分にはわからなかった。一番はじめはパンケーキ屋さんであった。けれど、その店は一週間足らずで辞めてしまった。アイの胸に言いしれぬ恐ろしさが襲ってきて、部屋から出られなくなったのである。結局その日は休んでしまって、それから彼は五日間というもの寝込んでしまったのである。そして三ヶ月後にこんどは占い師の助手として雑務に携わったが、それも三日限りで辞めてしまった。そしてこの前は羊と一緒に眠る少女を見守る仕事をすることにしたが、それは一日たりとも働けなかった。というのはつまり、最初日からいかなかったのである。

 けれど、毎度そうやってパンガムの女神に仕事をとってきてもらうのは、アイにも申し訳なく思っていた。なぜ彼女がそこまでアイの面倒を見るのか、そのことを彼が考えたことはなかったけれど、それにしたって、三度の不義理がそれ以上の余地はないと彼に思わせたのだ。実際、何度不義理を重ねようがパンガムの女神はアイの世話をやいたであろうが、その会話の間に心の不安と、頭の理屈を戦わせて、アイは最後に頷いた。

「明日の昼前ね、九時ごろには迎えにいくから」

 と言って彼女はでてゆく。最後にアイに手を振ったが、アイはそれを眺めるだけでシカトして、目だけで見送った。いつものことである。

「たしかに哲学や理想のことについてはいくらか詳しくはある」とアイは思った。けれどそれは自分に対する自信であって、行動に対するにはなんの効力も持たない。「相手は十四になったという歳下じゃないか。それならいくらかやっていけるかもしれないぞ」

 いままでの人生において、たしかにアイは歳下の他人に対してはそれなりに会話ができる場面もあった。だから彼はここでは努めてそのことを強調しようと思った。可能性をできるだけ目につく場所に置いておきたかったのである。

 しかし、そうしていても、最終的に襲ってくるのは無力感であった。そしてアイはそろそろ家に帰ろうと思った。

「もうどうにでもなれ。明日のことは、明日になれば、どうにかなる。それで行ってみて、無理なら無理。できたらそれでいいじゃないか。なにも、あとで困るかもしれないことを、いま困ることはない。そうだな。もうこの問題は放っておこうじゃないか。それでいいよ。でも、明日になって逃げ出したらどうしようか。そうなればもう立ち直る術はないかもしれないよ。パンガムの女神だって、いつまでもそう付き合ってくれるわけじゃない。事実、昔よりも接する機会はうんと短く回数も減ってるし、昔はほとんど毎日のように会っていた時期すらあるのに……」

 と、アイの思考は定まらなかった。彼の頭の茫漠の理由は例えば、この日アイは朝からなにも食べてなかったこと。そういう肉体的な飢えが、血を不健康にさせて、頭の働きを散々にするのだろう。こういうふうに頭がばらけたり、次から次に考え事が押し寄せて眠れないときなど彼はよく外へ出てそこらを歩き回るのだが、このときもまた例に漏れずそのまま家に帰ることはしないで、歩き回るのだった。お堂は中層階の中でもほとんど上層階に近いほどの高さにあって、だからアイが自分の家へ帰るには降りて行かなくてはならない。それだから前も見ずに、鬱々と歩きながら、目の前に現れる階段を降りて、また歩いて、曲がって、降りて、進んでを繰り返し、いつしか見慣れない街角まで来た。つまり行き当たりばったりのさらに悪いことに、散逸する意識のままに歩いてきてしまったのだ。自分でふと気がつくと、彼はほとんど下層階のランクまで降りてきていた。ここまで低いところへ来たのは初めてだったが、それに考えを巡らす前に彼の意識はまたぐるぐる思考にのみこまれた。

 とある広い道路を歩いているときだった。ついに完全に太陽が隠れて、空が残りの光だけによって灰青い明かりを保っている時間。夕方と夜のはざまになって、アイはある男にぶつかった。アイは驚いてその場を飛びすさり、慌てて彼の顔を伺うとどうじに頭を下げようとした。けれど相手の男は、やにわにアイの胸を殴りつけ、よろめいたアイのお腹を蹴り上げて、アイの行動を突き飛ばした。そのままアイは欄干にぶつかって崩れるように倒れた。男は寄ってきて、アイの胸ぐらを掴んだ。

 アイは欄干に押さえつけられた。

 アイはグッと唾をのんで視感覚を定める。相手が少年とも青年とも取れない人物だとわかった。同時に相手がそのとき背後から取り出したのはナイフであった。それを彼はアイの首元に突きつけるのを、アイは無抵抗に受け入れるしかできなかった。

「おい……」と相手は言った「いい服着てんじゃねえかクソ野郎……なぁ、何してんだよこんなところで、お前、この辺の人間じゃねえだろ。目でわかるんだよ。怠けた母親に抱かれてる子どもみてえな、とろんとした、(ハア……と彼は一息つく)……くせえ目をしてる。なあ。そうだろ、ここで人にぶつかるなんてのは、よほど周りに注意してねえ、死体みたいに安心しきったうさぎだ。いいや、うさぎだってもっとまともに危険を察知できるはずだ。けれど、お前は、今までの人生、一度だって、今日死ぬなんて考えたことねえだろ。なあ。だからそんな目ができるんだ。今だって、まさか殺しやしねえと、思ってんだろ。……生かしてくれると。……自分がここで死ぬって、信じられるか? そんな嘘みてえな話……そう思ってる目だ。それで俺の心を覗こうとしてる。お前になんか覗ける構造をしてねえよ、頓馬。……なあ、教えてくれ。なぜお前は幸せそうなんだ。なあ、なぜ俺の妹は死んだんだ。知らねえってか……お前がのうのうと飯を食ってたからだよ」

 そのとき、空腹だったアイの腹が鳴った。

「くそっ」と男はナイフを直し、それから胸ぐらを掴んだ手をそのまま押し込んで、アイを下へと突き落とした。アイは欄干から離れ、空中を落ちていった。そして下方の暗闇へ消えるのであった。


 アイが落ちたのは、とあるおじさんの小さな家の中であった。

 上を見ると、自分が作った穴が屋根に見える。この脆い屋根のおかげで助かったのだ。

 おじさんは一人暮らしなのか、狭い部屋に物は少なく、汚れた服が床に固めてある。彼は上半身だけ布団に、下半身は床のまま、うつ伏せで寝ている。まるで寝に行こうと移動する途中に気を失ったみたいであった。アイが音をたてて落ちてきたのにも関わらず、身動きひとつせず息苦しそうな乾いた寝息をたてている。

「あのう」とアイはおじさんの肩を掴んで揺すった。するとおじさんは数分かけて覚醒すると、口を小さくひらいて、そこへ耳を寄せたアイに、

「喉がかわいた……喉がかわいた……」

 と砂漠のような声で言った。

 アイはあたりを見回したが、この家に水道蛇口もなければ、冷蔵庫には飲めるようなものもない。本当に空っぽだった。

 それで彼は、

「探してきますね」と言ってその家を飛び出したのだった。

 薄暗くて、上にも下にもある家々はどれもひしゃげていて、道路には落ちてるゴミカスのほか、砂を踏んだりもした。アイに砂を踏んだ経験は初めてだった。またさっきのように命を狙われることを、無差別的に襲われることを恐れた。そうして近くを巡ってみて、アイはちょうど家からでてきて、壁に設置されたポストを探っている女の子を見つけた。十歳かそこらで、皺だらけの赤いワンピースを着たのが目についたのだ。アイはすぐさま駆け寄って、彼女に飲み物は近くで手に入れられないかと聞いた。女の子はその細い目を大きくして、驚いたふうに口をかたく閉じたが、アイを見てうなずくと家へ入っていった。そしてまもなくしてたっぷり水の入った瓶を持ってでてきた。

「お兄ちゃん、お金持ちの人?」

「いいや、全然お金は持ってないけれど。……ごめんね、そうか。水を頂くんだもんね。でも申し訳ないけれど、いまはなにも持っていないんだ。お金ばかりか、その他のなにも」

 けれど女の子は首をふった。

「いらない」

「そうはいかないよ。絶対にあとで持ってくるから。そうでしょ。このくらいの水の量だったら、五百円くらいでいいかな。これをもってて……」

 アイは何も質になるものを持っていなかったから、代わりにくたびれたベストを脱いで渡した。女の子は緊張した面持ちでそれを受け取って、観察するようにアイを眺めた。「ありがとう」と小さな声で言いながら彼女は瞬きをした。アイには分かっていた。彼女がアイの顔の美しさに見惚れていることが。それで最後に確かめてみるように手を振って去ることにした。アイの気は、どういう理屈か大きくなっていた。不思議と緊張感もなくのびのびと道を歩ける気分であった。アイが手を振りながら去ると、女の子も手を振って返したし、家に入ろうとするかたわら首を後ろに回らせて、いつまでもアイの走り去るのを見ていたのだった。

 アイがおじさんの家へ帰ると、そこに新しく人がいた。

 天然パーマの前髪をかきあげたふうな髪型で、面長な顔の中心には大きな鼻が印象的だった。その鼻の上にこれまた大きな眼鏡を乗せて、鋭すぎる顔をいくぶん親しみやすくしていた。彼は土足のまま家に入り(アイも最初必然的にそうだったが。)彼はおじさんの家の中の冷蔵庫を探っていたが、アイの入ってきたのに気がつくと、立ち上がってアイを迎えた。

「飲み物を持ってきてくれたんだね」

 と彼はアイの腕の中の瓶を見つけて言う。

「はい」

「どうも。彼、死にかけてるんだ」

「知り合いですか」

「どうも」

 彼はアイから瓶を受け取って、自己紹介を始めた。

 テレス・テレスというのが彼の名前だった。いまは二十六歳になるが、物心ついたころからの会話好きで、かつ生意気な性格で、子どもの頃から大人を馬鹿にしたような物言いで、しょっちゅう喋ってばかりいた。そのせいでか、彼の周りにもおしゃべりが集まることもしばしばで、とうとうパンガム内の人間関係ならほとんど知ってるのではないかというほどになったという、とにかく気さくな男である。自慢げでもなく、卑下する風でもなく、当然な事実、歴史的事実を語るかのような口調で彼はすらすら話した。

 彼は親指で大きな眼鏡を押し上げると口を開いて、小鳥のように首をくるくる動かしながら早口に、次々情報を吐く。親指で鼻の横をかくのも癖らしい。とうとう一通り喋り終わると立ち上がって、前に組んだ指を君げ、それから上に伸ばして伸びをした。飄々としたまなざしで、常に手を動かすようなタイプで、それにかわいい恋人もいるらしかった。

 アイは簡単に、自分の名前だけ言って、年齢を聞かれたからそれに答えた。

「十七です」

「若いね。面倒臭いだろ、生きるのが。まあ、そういう時期だってあるさ。というよりもアイ君、ここら辺の人間じゃないだろ」

「ええ、あそこから落ちてきたんです」

「ああ、あれお前がしたのか」

 と二人は屋根の穴を見るのだった。

「それなら、このじじいと同じだな。こいつも落ちてきたのさ。と言っても、お前みたいに物理的に落下したわけじゃない。社会的な転落だ。こんなみすぼらしい格好をしているから信じ難いかもしれないけれど、彼はもともと上層階の生活者だったんだ。だが、落ちてきた。というのも、つまらない女絡みさ。こいつはな、オノーダリョという名前なんだが、若くして、雑貨屋をひらいて成功したんだ。それならまあ、普通に、その調子で頑張れってところなんだが、こいつの強運はそれどころでなかったんだ。というのも、経営者間での交流会というやつに参加して、それは月毎にやっているやつだったらしいが、なんとそこに、ワールドザワールドの女神様がいらしたらしいんだ。すごいだろ、つまりこいつはそのワールドザワールドの女神様に会ったことがあるというわけさ。いや、会ったどころではない。声をかけてもらって、名前も聞かれて、呼ばれたらしいんだ。五十年以上前のことだな。それで一躍時の人。で、若い女の子にも人気が出たらしいんだが、それがこいつの人生の崩壊の初期微動だったのさ。つまり、こいつは生来女にモテるような性質ではなかったんだな。それがいい気になりやがって、とある十五歳の少女が、ワールドザワールドの女神に名前を覚えられているその貴公子に惚れ込んだんだ。こいつの話によれば、そんな子が数え切れないほどいたらしい。それもまあそうで、つまり、上層階も全員が資産家というわけではないから、そういうのを夢に見るんだろうな。彼と結婚したら、もう何年の惨めな思いをしないで済む。自分の子どもたちも、そのまた子どもたちも幸せな人生が送れる。そういう乙女たちには、女神様と同一視して、こいつも神に見えてくるもんだ。だが、その少女に対して、この男はいったんだな。『毎日俺に裸の写真を持ってこい』『百日続いたら妻と別れて結婚してやる』とな。少女は毎日持っていって、こいつに渡して、まぁていよく弄ばれていたんだ。そして、その結末はどうだったと思う。そう意外なことじゃない。バレたんだよ。嫁にな。それも、ちょうど九十九日目だったそうだ。こいつはそれがきっかけに、全てを失い、中層階にすら住めないような醜聞を流され、こんなところまで落ちてきたというわけさ。それでこいつは一部に糞ノ小町と呼ばれてるが、つまりそういうわけなんだ。どうだ……。お前もいい奴を助けたな。善行だよ。なあ、腹は減ってるか? 俺はまだ夕食を食っていないんだ。よかったら一緒に行こう。まだ夕食は食ってないよな」

「ええ、まだです。あぁ、そうだ。空腹なんです。それで空腹のおかげで命が助かったみたいなものです」

「なんだそりゃ。まあいいや。行こう」

 オノダーリョだと分かったそのおじさんは一口水を飲んだだけで、再び眠ってしまった。二人はオノーダリョの家を出た。テレスの先導のもと、アイもついていき夕食を目指すのだった。

「……それが、よくないんです」

 と道中アイは言った。さっきのテレスの言葉に対する返答だったが、テレスはそのことに気づくまでに数秒かかった。

「あのおじさんの家に落ちたのもそれの結果なんですが、」

 とアイは彼がもともと中層階の人間だと説明し、ここへ落ちることになったあの事件について語った。

「なるほどね。でも、お前は何も関係がないんだろ。……そいつさ、そのナイフを持った男? なんの因縁もないやつに、そう怯えることはない。もう会わないさ。たまたまいい服を着て歩いていたから目をつけられたというだけ。……みる限り、中層階の中でも上の方だ。そうだろ。服はよれていて貧乏暮らしらしいが、そもそもの素材もつくりもがここらでは見られないような服装だからね。少し観察する習慣さえあれば、誰にだって気づくよ。……だから、不運だっただけさ。そいつの言ったことだって嘘かもしれん。おおかたここらの話は嘘が多いから信じないほうが得策だぞ。だってそうだろ。会ったばかりの通りすがりの人間にそんなパーソナルな話をすることに、なんのメリットがあるんだ? 本当のこと言ってどうなる。そう言うふうに詰め寄って、懐をまさぐって金でも奪うのが望みだったのさ。持ってなかったんだろ。金をさ。今も持ってないんだな……。まあ、だから口止めか、あるいは顔をちゃんと見られる前に。お前を落とすんだ。そういう論法さ。けれど、お前の分の夕食も俺が払うわけだな。……いいや、それでいい。俺が誘ったんだ」


 その道中、二人の後ろにとある女の子がついて歩いていた。先に気がついたのはテレスだったが、彼は彼女をさして物乞いだと言った。

「たまにいるんだよ。もっと下へ行けば、もっといる。だからこう言うふうに逃げる方法もある。一つ覚えておくんだ」

 とテレスは言って、テレスはひとつかみの金を道路に放った。後ろにいた女の子は驚いたふうに立ち止まってそれらを拾った。

「そうすれば離れてゆく」

 と彼は言ったが、女の子は離れなかった。むしろそれを拾い終わると、二人の方へ走り寄ってきた。そしてお金を返すとき、アイはその顔を見て驚いた。その女の子はまさに、さっき水をもらった家の女の子であった。

「水もない人は、食べ物もないからって……お母さんが……」

 そう言って彼女が差し出すカゴから布を取り去ると、そこにはパンと果物が入っていた。アイは思わず目に涙を浮かべた。カゴを受け取ると、それを大事そうに握りしめるのだった。

「ありがとう……君……名前は?」

「サクラコムギ……」

「サクラコムギちゃんだね。また来るからね。お母さんに、ありがとうって言っといてくれる?」

 サクラコムギは首を大きく頷いて、それから振り返ってパタパタと走って帰っていった。

「オノーダリョさんのところへ、持って帰りましょう」

「食ってからな。まだあのジジイは起きないよ」

 二人がたどり着いたのはすき焼きの食べられるところだった。ちょうど店は繁盛を過ぎたばかりだという時間である。


『ぎゅうぎゅう』というすき焼き屋であった。下層階にしては広い作りで、隙間の多い木の床の上に、法則性なくテーブルが置かれていた。そのどれも真ん中に鍋が置ける広い丸テーブルだった。朱塗の丸太を交互に組んだだけの天井なので、その上の家の床の裏が露出していたが、その丸太から赤い提灯がいくつもぶら下がりそれが目をひく。壁はなく柱だけで外から視線も雑多な光も入ってくるので、明るく賑やかであった。

 二人はまるまるひとつ空いたテーブルに座った。まもなく鍋が運ばれ火がつけられた。若い女性の店員が来るとテレスが全ての注文をすませる。すぐに肉や野菜を盛った皿が運ばれた。

 アイはすき焼きというものを初めて食べた。それは信じられないほど味の混ざった独特な旨さで、彼の胃はそこに白米を欲しはじめるのだった。

「お米と一緒に食べたいです」

「こんなところで米は食えない。知らなかったか、米っていうのは、中層階以上の食い物だ」

「そうなんですね……勿体無い」

 肉も野菜も、どんどん減った。

 新しい卵をテーブルの角で叩いてひびを入れ、皿に中身を出そうとしたそのとき、向こうから内容の聞き取れない怒鳴り声が響いてきた。咄嗟にそちらを向いたアイはよそ見をしたまま卵をひらけたが、それは皿を避けてテーブルへ落ちた。

「気にするな」

 とテレスが言う。

「ここじゃ、こんな感じだよ。どこでも喧嘩が起きているわけじゃないんだけどね。珍しくはない。まあ、さっきそう言ってたが、お前が襲われたのも無理はない。最近犯罪が増えてる。電車も止まってもう二十五年は経つ。煮詰まってるんだ。三日三晩煮詰め続けたシチューみたいにドロドロさ。子どもが、人殺しをするんだ。警察はそれを捕まえなきゃならない。俺の周囲にもあったよ、いじめやら、暴行やら。思うに……とにかくだれか一人ずつ団体から排除していきたいんだ。それで順番に口を聞かないようにして、悪辣な醜聞を垂れ流し、物語をでっち上げるんだ。そういう風に一人一人追い出して、かつ自分のテリトリーは守る。俺だってやってたさ。がきんちょの頃はな。……じゃないと生きていけなかったのさ。そう悪く思うな」

「いいえ、悪く思ったりはしませんよ……ただ」

 アイは口の中のすじっぽい肉を飲み込んだ。ようやくアイに言葉が戻ってきたようだった。胃に入った肉が燃えて、アイの体の血に色が戻った。アイの脳はルービックキューブのようにくるくると回りだした。今まで濡れた水彩絵のようにぼんやりとしていたアイのオーラが、いよいよ彼らしい色に統一されてきたのである。

「ただ……そんなにも暮らしが違うのかと思って……。僕は学校にも行きませんでしたし、——それはただ僕に合わなかったんで、行かなかったんです。小等学校にはほとんど行くものなんでしょうが、僕には親もいませんから。強く通うよう指示する人もいなくて。でもそれで僕にはよかったように思うのですけれど——でもそんなふうないじめや暴力というものとは、接点のない暮らしをしてきたと思うんです。今日そうとも無縁だったのです。本当に、そんなに過激なんですか。あなたの人生もそういう渦の中で、そう言う行動を?」

「まあそう言う境遇だからな。いじめて、いじめられてと言うのは半分日常で、よく見る光景ではあった。でもお前が思っているような過激ではない。そんな場面が見られない景色だっていくらでもある。平穏だとか、幸福だとか。何もここは地獄ではないんだ。ただ階段で少し下がった、経済と常識のちょっとだけ低い場所というだけさ」

「そのことはもっと深く考えるべきじゃないんですか? もっと知らせるべきでしょう。少なくとも、僕は知らなかった。僕の周囲にいた人も、知らないような空気感で暮らしているし。……もっと考えるべきでしょうし、何か対策を取るべきでしょう。だって、苦しみがあるじゃないか。飢える人や、殴られる人がいるんでしょう。いじめたり、いじめられたり……ですか……。現にそういう状況があるのに、何もしないで任せるままにしている。放っておいても、絶対に解決はしないでしょう」

「しないどころか、加速するだろうな」

「それでいい人っているのですか。それで誰が幸せになれるのですか? テレスさんは……」

「俺自身はいじめられたことがない。ないんだ。だからまあ、その居場所にあぐらをかいてるのかもしれない。人の下で働いたこともない。万事が、いいように巡っている。ちなみに、それはなぜだかわかるか。……そんなに面白い答えではないけれど、つまり、頭が切れるからだ。これが、一つの現実でもある。つまり、ここの人間は、一言で言えば、馬鹿なんだ。俺の周りには俺のように考える能力のある人間は一人もいなかった。だから俺はまるで特別変異のようなものさ、特異がられ、それだけに恐れられもした。まだ俺が十二とか三とかの若い頃、グループ同士で争いがあったんだ。それでいついつ、この場所でやり合いましょうと……。俺は中でも一番ひ弱な人間だったんだけどな、……奴ら、敵の動きを予想して見せるだけで尊敬を寄せるんだ。こいつはすげえ……って、まるで神さ。ははは。敵は、あそことあそこの物陰に隠れてる。それとあいつはあそこの一番安全なところにいるだろうって言ったのさ」

「それはどう言うことなんですか? その頭が切れるとか、切れないというのは……」

「アイって言ったな。ふうん……見るだにお前は頭が良さそうだから、想像できないかもしれないが、ここらにいる奴らは、本当に考えない。だから俺の物差しで言えば、お前だって十分頭がいい。……馬鹿だというのは、そのレベルの話なんだ。ご飯の食べ方と、布団に入って寝ることと、性行為の仕方しか知らない。もちろん全員ではない。けれど、脳の使い方がわからないんだ。教わらないのも原因の一つだが、もっと恐ろしいのは、使わなくても生きていけるということだな。食べ物は、落ちてきたりするし。仕事も単純」

「そういうものですか……?」

「ああ。でもおかげで、俺らも楽さ、だいたい働かずに生きてるからな、俺はそう思うようになった。中にはここでの生活を嫌って西へ逃げたり、中には南の農民のところまで行ったりな、そう言う人間もいるが、俺は労働だけはごめんだ。耐えられないね。農民のところへ行ったって、除け者にされて住む場所にも困るに決まってる。奴らは排他的で、自らを神職のように考えて生きている。俺らはヨゴレモノ扱いさ」

「働かないでも生きていけるんですね、ここじゃあ。……上での生活について、どう思いますか」

「俺がか?」

「ええ、はい」

「どうも思わないな」

「話は前に戻りますが、テレスさんの話を聞いて……僕はショックを受けました。というより、見た景色もそうなんです。ここに来るまでも、遠くに見えていたんです。道路で寝ている女の人や、その子どもとか。こういうことってないと思います。つまり、まともじゃないんです。もっとこう、平等と言いますか……上層階に住む人はお金があるんだから、ここでの暮らしを改善してゆくべきです。そう思いませんか。なぜ、こういう風に、上と下でここまでの違いが出るのでしょうか」

「欲に忠実であることが正義である世界になってしまっているからだろうね。そういう話を聞いたことがある。そいつは俺よりもっと——もっと正当な意味で頭のいい、学者のような人間だったが、そいつが言っていたよ。なんでも金でやり取りするだろう。そういう社会の仕組みは、人の物事の判断や、考え方、常識にまで影響を与えるらしいんだが、今の社会は、欲望を肯定している。だから、優しい人、調和を重んじる人は割りを食って不幸になる。上層部は自分たちでルールを作りいい思いをしている。下層部の奴らは考えることをやめているから、それをどうしようとも思わない。つまりお前はここを見て、まともじゃないとか、かわいそうだとか思っているんだろうが、俺はそうは思わない。ここにいるみんなもそんなこと思ってない。ここで暮らしてるし、俺は自分をかわいそうだなんて思えないしな。そうだろ。別に上と下で違いが出たってそれが悪ではない」

「ええ、悪ではないんです」

「じゃあ、何が不満だ」

 アイの脳裏に再生された映像は、ちょうど一年前の記憶であった。

 パンケーキ屋で働いていた時代のこと。

 アイはパンガムの女神に紹介してもらって行った店で最初に店長に会った。

 店はまだ出来上がっていなくて、もともととある老人が持っていた家を買い取って、改装して店を開くことにしたらしいが、工事中であった。ヘルメットをかぶった建造省の男たちが立ち働くそばで、道路にテーブルだけ置いて、そこでアイと店長は面接を行ったのであった。通りすがる人に見られる。人間に慣れていないアイは、はじめ横目で見て通って行く通行人に顔を赤らめたりしていたが、いざ面接が始まると意外にも背を伸ばし、目も美しくなってうまく受け答えをするのだった。

 店長は背の低く頭の薄くなった男だった。独身らしく、服装も最低限といった風でそれほど気をつけていなかった。彼はアイの言葉(そのときは万全に働く心意気であったから、自信を持って思い浮かぶ感情を述べた)を自分の仕事の書類の方を見て聞きそらしながら、質問するときにだけアイの方を見て、ふっと軽く笑って聞いたが、そのうちアイは何を言っても無駄なような気がしてきたのであった。そして最後に、これは店長が誰に対しても、面接の終わりに言っているようであったが、そのように決まり切った口調で彼に言われたことは今でも覚えているのであった。

『私の店で働くにあたって、学んで欲しい事柄が、あるんです。それはね、自分の価値についてです。大体の若い人は、まあ自分も昔そうだったからわかるんだけど、自分の価値を高く見すぎてるんだ。なんでもできると思うのはいいけれどね、それは中学生で卒業しないとさ。私が人生で見てきた中で、人が失敗するときって、決まってるんだ。自己評価と他己評価とに差があるときだね。自己評価が高いけれど、他己評価が低いときさ。まあ逆もあるけれど。……そういうとき人はうまくいかないんだよ。だから君みたいは自己評価が高い人は、こうやって簡単な仕事から始めることで、それを下げて、周りからの評価と合わせて行って欲しいんだ。君にとっては、君は一番大事で、無くすと困るかもしれないけれど、関係ない人にとっては、別になくなっても他の人がいるだろう。ちょっと寂しい話かもしれないけれど、それが社会というものなんだ』

 アイは帰り道に、その言葉を頭の中で繰り返して、考えたのだった。「自分とはいったいそういう存在なのだろうか。——他者とは、そのように自分に槍を向けてくる存在なのか。——そもそも蛸評価ってなんだ。——……もしかして、他者からの評価を言いたかったのか?」

 そもそもがそういう風に始まった仕事だったから、アイにとっては働いていて、何も楽しくない職場であった。アイのする簡単な計算だって店長は信用しきれず計算し直していることもあったし、それをアイにわざと目撃させることもあった。アイはそういう一つ一つに衝撃を受けて、ついには逃げ出してしまったのである。

 アイがそれで学んだのは、店長の言うような自分の小ささと、他者の小ささである。他者とは、今までアイが思っていたほど、——面白くなかった。独自の言葉を持たなければ、うまく会話のできないこともしばしばで、自分が思っていたほど愛の肉体化ではなかったのだ。全てが計算での付き合いで、打算だった。それも各個人がその人のわかる範囲での計算と打算である。

 それがアイの他者論だった

 とはいえ、その時のアイにとっての他者はいつも顔を合わせる店長だったのだが。


「たしかに、こうして見てみると、見られる光景はどれも人間の醜さと屈辱、それに冷笑ばかりです。それにさっきテレスさんは、ここらに住む人間は頭の使い方を知らないと言いましたが、それは中層階にしたって同じです。案外人間って考えていないなと、思うことはつどつどあります。自分の肯定のために、他者を操ろうとしたり、下げようとしたり——」

「そうなのか……同じなのか。それは面白いことを聞いたな……。いいや、割合は違うのこもしれないけれど、とすると、やっぱり色々見ておくべきなんだろうな。けれどたしかに、人間そう時代や状況によって変わらない。……そうだ。そうだな。つまりこう言いたいわけだな。人間っつっても、中身は獣と変わらない。その時に欲しいと思ったままに体を動かしちまう脳を持った化け物だよ。そこに女がいるから抱いてしまうんだろう。元々そうだったものが、資本主義とやらでそれを肯定してしまった以上、それが決定的に、全体に現れ出てきてしまった」

「どうなんですかね」

「そういうことだろう。みんな、自分のためだけに生きている」

「自分が生きるためだと思うんです」

「そうだ。お前のいう通りだ」

 お前のいう通り、と言われたが、アイにはどうも自分の言っていることと、テレスの言っていることがズレているような気がしてならなかった。それはアイとテレスの人生で得てきた経験の違いであろう。テレスは何かを思い出したようで、また話を続けた。

「ああ、嫌な記憶を思い出してしまった。随分前な、俺が、たしか夜中だったか、腹が減って知り合いの家に行こうと思って家を出たんだよ。そこでな、親が子を捨てる現場を見たんだ。子どもだぜ。しかも赤子をよ。自分の子だって、それは母親だったが、そいつも言っていたよ。一歳か、まだ一歳にもなっていない子だった。さすがの俺も問いただしたよ。なぜそんなことをするかってな。なんて言ったと思う? 邪魔だったからだとよ。こいつがいると、人間関係が乱れるとさ。ハハ、自分たちの事情さ。そういうことだろ。まずそれが第一なんだね。まったく愚かだよ、人間ってそうなんだよ。本来は、そうなったら終わりなのさ、壊滅的なんだよ。人が人じゃない。自分の子どもを守るのは、法律でも文化でもなくて、命であること、それ自体だろう。けれど、現代はそういう時代で、そういう人間が暮らす時代さ。あいつが特別悪だったのか。いいや違うね。現状の悪が、あの一つの光景に象徴的に現れているんだ。万事がそういうことの集大成さ。だって、そうなんだよ——百万人以上が住んでいる。人間はこんなに必要ない。全員が思っている。人間はもうこれ以上必要ないってな。だから他者に対して攻撃的になるんだ。減らして、住みよくしたいんだよ。だから競争するし、他者を傷つけるし、子どもを捨てる。この闘争を生き残ったものだけだ、つまり生物的強者が、これからの世界の住人であると言わんばかりにな……」

「でもそうやって生き残った人たちの世界に生きていけますかね。そういうふうな世界観で勝った人たちは次の世界で幸せになれるんですかね」

「どうだろうな。そういう人間だから、ちょうどいい人数になっても、争いをやめないんじゃないか。最後の二人になっても、どっちが生き残るか争うんだよ」

「僕はそういう社会の未来で、人は幸せになれないと思います」

「わかりきってるが、いざ生きてくとなると、明日のことすら考えられないんだよ、人間はね」

 テレスはそれで結論づけた。

 二人のあいだに束の間の静寂がやってきた。二人とも、ラストスパートと言わんばかりに、残りの細切れになった小さな肉と、つゆに浮かぶネギをつかんでは食べていった。

 アイの頭は徐々に冷却されて心地良くなってきた。そのときアイは熱の下がってきた頭を好んだ。そういう脳に、新しい考えが浮かんでくるのを待った。そしてそれは案外待たずして降ってきた。この都市ではまれにある、誰かが捨てた紙ペラが上から降ってくるというあの光景のように、アイの頭に計画が降ってきたのである。

「つまり、でも……。けれど、人間は、別に獣だからといって、悪魔ではないでしょう。いじめることを、好んでやるような性格が本質ではないように思うんです。よしんばそれを愉悦と結びつけておこなっていたとしてもそれは、そう感じるようにしている社会だということだと思うんです」

「つまり、そういう場所での生活や暮らしの色が、人をそれに染めると考えるんだな。俺もそう言ったが……」

「ええ、そうです。だって、僕は、……優しい人を知っています。知り合いは、テレスさんのように多くはないけれど、とても心の綺麗な人を見ることだって少なくない。あるんですよ。いや、僕の場合はむしろそっちの方が多いような気がしますね。僕の周りはみんな、いい人です。優しいなと驚かされてばかりです。それはテレスさんだって同じだと思います。それに何より、テレスさんがそうだと思うんですよ。優しい云々では、また違うんですが、さっき考えなくても生きていけるとおっしゃったじゃないですか、それでもテレスさんは考えて行動をする人ですよね。それには原因があるのですか?」

「生まれつき頭が良かったのだろうね」

「でも、生まれつきにそれほどの差があるとは思わないんです。少しのきっかけとか……いいえ、別にテレスさんを低めたいのではけっしてないです。むしろ逆です。全員が、自発的に賢く生きることができる。そういう社会であれば」

「いいや、頭を大して働かせずに生きてる人間が多いと思うよ」

「なぜそう思うのですか?」

「なぜって……自明だろ。人間、そんなに頭は良くない」

「いいですか。僕の思いついたのはこういうことです。……つまり、制度が悪いんです。こういうふうに、人間がなってしまう、仕組みがあるんです。そうじゃない生き方だってできるし、人間自体がそういう獣というわけではなく。つまりあなたがさっき言った生き残りとか、競争です。そういうことを毎日のつまらない生活の中でし続けることが、つまり人を獣化させるんでしょ。もっと幸せな國づくりだってできるはずです。競争のない世界。それをするためにはどうすればいいんでしょうか」

「何言ってんだ、少年よ」とテレスは堪えきれなくなって笑った。「お前にそんなことができない。なんせ、中層階生活者だからな。政府は常に上層階でやりくりしている。さっき言ったようにな」

「でも……」

 でもそれができるような気がアイにはした。この瞬間の彼には、気概があったし、骨も熱を残して熱いままになって震えていた。体の中に行動の風が吹くのが、自分でも感じられたのだ。今すぐにでも走ったり、飛んだり、つまり体を動かすことができた。

 やっぱりアイは働くのを断ってしまおうと思った。パンガムの女神には悪いが、アイには別に努力する道を見つけた。「そんなことをしている場合ではない」とこの時ばかりは熱い胸に鐘のように響いたのだ。家庭教師なんて狭い範囲での行動に、時間を使っている場合ではない。

「僕が、もっとパンガムを、幸せな場所にするために何かしたい。いいや、したいのではない。そういう社会であるべきなのだ。僕はべきであるとただそう思う。そう感じている。差別なく、弱者なき社会であるべきなのだ。なぜ、心の優しい人間が、おいやられて、苦境に涙を飲まなければならないのだろう」

 アイはとうとう最後になって冷めた肉をつかんで、その一欠片を口に放り込みながら心の中で声高に叫んだのだった。

 見るとテレス・テレスは満足そうに酒を飲んでいた。


 そんなアイとテレスの声も届かないくらい離れた位置に女性が一人ですき焼きを食べていた。

 彼女はタテカワと言って、この店のすぐ裏側に住む三十を過ぎたばかりの女性である。メガネなしの顔を想像できないくらいに、メガネのための顔つきをしている女性で、髪を一つに結んで首の横から垂れさせていた。格好はプリントの入った質のいいティーシャツとジーンズという楽な格好で、足を組んで座るのが癖であった。彼女はちょうどアイを正面から見ることができたが、彼の顔を一眼見た瞬間、驚いて立ち上がった。その目に見覚えがあったのである。アイの美しくかわいい瞳は、彼女を驚かせたのであった。彼女は机に身を乗り出して、何やら熱く語り始めたようであるその少年を凝視した。

 しかし彼女は、すぐにゆっくり腰を下ろしながら、それは勘違いで、ごく似ているだけの他人だと思い直した。第一、自分が知っているあの目の持ち主は、女性である。だから少年だと気づいた今、その思い当たりは無意味なものである。だからもう無視してしまおう。

 だけれど、それから無性にアイに目がいくようになり、彼女は無視しようと決心したそのすぐ後から、チラチラと一口ごとに彼を見た。そういう曖昧な状態に我慢ができない性格の彼女はついに立ち上がって小皿と、野菜の乗った皿を両手にアイの横の席へ移動したのだった。


 とつぜん知らない女性が隣りに座ったとき、アイは驚いた。

 すき焼きを食べ終わり、テレスとの会話もひと段落したころだった。ちょうどテレスはつい先日目撃した女同士のいじめの話をしているときだった。テレスは女性経験のないアイを面白がって、そういう話をしていたのだ。

「あんた、近くで見ると男なのね。……見えないわ」

 と着席早々、タテカワさんは言った。

「テレスさんの知り合いの方ですか?」

 とアイは聞いた。知らない、とテレスは答えた。

「違うの。ちょっと知り合いと目が似ているから話しかけてみただけなの。やっぱり違うと分かったから、もういいんだけどね。……なんの話をしてたの?」

 そう言って会話を続けようとしながら、タテカワさんは三人分の酒を頼んだ。

「話してる途中だった?」

「いいや」

 とテレス。届けられた酒に口をつけながら、目だけは彼女から離さなかった。

「ふうん」

 対するタテカワさんは随分とアイを見ていたけれど、ついにはそれにも飽きたのか、テレスの方も見るようになった。それに合わせてテレスは口を開いた。

「一人で呑んでたのか。男に、振られたばかり……という感じではなさそうだな。……見たところ、恋人を必要としていない風だからな……ん。君も下層階があまり似合わない。うーん。なぜこんなところに一人でいるんだ? 今夜はつくづく変わり者があるまる……」

「確かに、住もうと思えば、中層くらいには住める。けれど生まれ育ったのがここら辺なんだ。愛着なんてつまらないものじゃないけれど、そうだね……肌に合うって感じかな。恋人はいない。正解。まったく、つまらない男しか見ないね、ここら辺ってさ。昔っから変わってない。聞いてくれる? ねえ美少年くん」

「ええ、はい。聞いてます」

「怖がらなくてもいいよ、毒じゃないから。酒って飲んだことない?」

 アイはたしかに耳は二人の方に向けていたが、その目は運ばれてきたグラスの酒に刺さっていた。

「はい。……あの、僕まだ未成年なんです」

「あのね、わたし水道管の管理局で仕事してるんだけどさ」

 テレスにもタテカワさんにも、アイの弱々しい声は届いていなかった。二人とも酒をうまそうに飲んだ。アイは目の前の飲み物をどうしたものかと、一人で煩悶していたが、ついに一口そっと唇の先をつけて吸ってみるのだった。

「この世に生きる男の中で完璧なのなんて一人もいないの。いい、一人もいない。なぜだかわかる?」

「うーん……」

 アイはもうふらふらとしてきていた。と言うのも彼には予想にもしていなかった彼の新たな性質が明らかになったのである。非常に酒に弱いのであった。アイはついに額をテーブルにつけるくらいに頭を沈めながら、まいってしまった。

「あんたもダメね、美少年。答えるのが遅いし」

「すみません」

「謝るなよ。馬鹿だね」

「どういう男がいい男なんですか?」

「どうだと思う?」

「ええっと……頭のいい人……とか」

「ああ……。ないね。頭のいいのって面倒くさいから。自分で頭がいいと思ってるのはそれこそ最悪ね」

 タテカワさんの話はテレスの話に匹敵するくらい、アイにとって刺激的であった。けれどあまりに彼とは住む世界の違う、文化や常識のギャップの多い話だったので、彼には聞いてうなずいたり、わからないところを質問することしかできなかった。

 最初は「すぐに帰る」や「聞かせるほどの話じゃない」と言っていたタテカワさんだったが、アルコールが入ると打って変わって口が回り始めたのだ。アイには、彼女がそのために酒を飲んでいるかのようにも思えた。

 彼女の話を大まかに分けると二つで、仕事が辛いというのと、自分の周囲にいる男たちの中にいい人がいない、という話であった。

 タテカワさんは水道管路管理局で働いている。ここパンガムにおいて水道管路の管理というのは重大な仕事で、崖の中に潜り込んでいるパイプから吸い上げた地下水脈をパンガム中にめぐらせているその管路を維持するのが仕事である。水路の維持は、國民の生活の維持でもある。だから破損箇所が見つかり次第、その場へ行き修理をする。水量を確認したり、水質を調べたり、あるいは消防省とも関係が深く、非常時に対応できるように常に情報を集め控えているのだ。タテカワさんはその65地区本部の管理責任者として働いている。

 さすがのアイもそのくらいの仕事は知っていた。何度かやってきた局員とやりとりをしたことだってあるのだ。けれどその仕事の人と、きちんと面と向かって、こうやって会話をするのは初めてだったし、彼女らしい言葉でその現場のことを聞くのも新鮮だった。

「休みなく働いているんだ……」

 アイは眠くなってきた心のなかで独り言のように言った。

「僕の生活は楽だな……」とも思った。

 アイはただいまの自分の問題と重なる仕事の話題を通してタテカワさんを尊敬したけれど、彼女にとってはそんなことよりもいい男と出会えないことの方が問題らしかった。いつの間にかテレス・テレスは席を立って、外へ出ていた。アイはいつから彼がいないのか気づけなかったが、とにかく随分前からいなかったのはたしかである。そのようであったから、タテカワさんはずっと一人で喋っていたのだ。

「なんで、男ってダメなんだと思う?」

「ダメなんですか? ううん、なんでしょうね。タテカワさんには答えはあるんですか」

「答えはないよ。理由はあると思うけど、それもある種の言い訳ね」

「言い訳ですか……。あの、テレスさん、知りませんか?」

「あぁん? 誰よ、それ」

「さっきまで、もう一人男の人がいたと思うんですけど……」

「ああ、タバコ吸いに行ったわよ。……あんた大丈夫? 顔真っ赤だけど」

 アイは大丈夫ではなかった。実はかなり前から、顔が火にあたるように熱かったし、心臓のパクパクとなる悲痛な音も聞こえていたし、それにずっと気分が悪かった。大量の埃を飲み込んだように、胸の中に不味い雲のようなものが湧いて、喉もいがいがしたのである。

「ねえ、私の話……わかった?」

 またずいぶん喋ってからタテカワさんはアイに聞いた。アイはとりあえず頷いた。

「水飲む? あんた、酒弱いのね。……二口しか飲んでないじゃない」

「……は……」

「は?」

「……吐きそうです」

「ああ、吐くなよ。面倒だし」

 それと同時にテレスが帰ってきた。

「俺はこの後、用事があるんだ」

 とテレスは席につきながら言った。

「ふうん」とタテカワさんは興味なさげに返事をする。

 その時、隣のテーブルで皿の割れる音がした。見てみると酔っ払った男が立ち上がって、店員を殴りつけている。あらあらとテレスもタテカワさんも見ないように目を逸らして酒を飲んだ。アイは目を閉じて、頭を抱えてしまった。そして疲れ切ったように息をついた。吐き気は、波打って彼を襲ったり、束の間遠ざかったりする。彼はすっかり酒に負けてしまって、それによって彼の感性は殻が溶け、ゼリーのような精神がさらけ出しになったようである。その敏感になった感性にこの店の騒音と、男のしゃがれた怒鳴り声と微かなタバコの匂いは触れた。

「テレスさん」と彼は弱く震える声をかけた。「そろそろ出ないですか」

「うん、帰るか」

「はい」

「君が、彼を案内してやってくれるかい。さっき言ったように、俺にはこれから行くところがあるんだ」

 そう言って彼は机に置いてあるカゴをポンと指でつついた。アイはそれを見て、カゴを抱きかかえたがテレスが笑って、「違う違う」と言い、アイからそれを引き剥がした。

「これは俺が持っていく。お前の家はここから遠いだろ。帰って寝ろ」

「それを私が案内? 家まで送ってあげろと」

 タテカワさんは聞いた。

「そうだ。未成年に酒を飲ませたのはお前だろ」

「いいよ……。しょうがない。美少年、立って。早く行くよ。私明日早いのよ」

「はい」

 アイは椅子を引いて立ち上がる。テレスは勘定をしに先に移動していた。アルコールの毒は少しずつ抜けてきたような感覚はあったが、それと同時に眠気が彼を奪おうとしていた。

 それともう一つ。彼の心を占拠する情動があった。それというのは、こういうもので、つまり、アイは本当は早くこの世界から目を背けたかったのだ。その一心で彼は上に行くことを望んだ。

 そろそろ周囲の人間にもうんざりし切ったところだった。咀嚼音どころか嚥下する音までをうるさくたてるものや、何に急かされてるか知らないが(多分何にも急かされてない)急いで物を口に詰め込み、咳き込んでそれをまた出すものや、酒を飲んで大声で話す女や夜遅くだというのに道を歩いている子どもや、赤子の鳴き声など。はじめて下へやってきたアイにはどれも耐えられない音の連続だった。「そりゃあ、人々の普通に喋る声だって大きくなってしまう。今までの静かな生活の足元が、これほどまでに騒々しかったとは。それだけでなく、こんなに不潔だったとは」アイは、別段それらを忌避するのでなかった。そういうものも驚かないように、当たり前に見ようという努力はあったし、それなりにそれも成功していた。アイは生活の違いこそあれ、本質は自分たちと何も変わらないのであり、あくまで一時的にこういう世界が出来上がっていると、そういうふうにだけ思うようにした。けれども、好んで見たい景色ではなかった。いち早く、上へ上がってしまいたかったのも真実である。

「あんたは、どんな暮らしをしてるの?」

 道中、タテカワさんは尋ねた。

「実は明日から、仕事なんです。家庭教師なんですけど、初めてなんです、上層階に行くの。まだ足を踏み入れたこともなくって」

「そうなんだ。まあ、下層階の人間ではないとは思ってたけど、中層階なのね。なんでこんなところにきたの?」

「考え事して歩いていたら、いつの間にか」

「はあ、呑気ねえ」

「すみません」

「なんで謝るのよ。そっか。じゃあ、あれだ、あんた上層階、不安なんでしょ。わたしにね、上層階に知り合いいるのよ。彼女も中層階出身かな? で今上層に暮らしている。ちなみに彼女、巨乳の女の子よ」

「ああ、はい」

「まあ、でも、胸が大きいだけで色気とか全然ないから期待はしないでよ。その子が今暮らしているやっすい下宿があるだけど、多分その子に頼めば、この前、空いてる部屋があるって言ってたから、紹介してもらえると思うよ。毎日中層階からわざわざ階段探していくの大変でしょ。上層階で暮らすんだったら、そうしたほうがいいと思う。見つけてるんなら別だけど」

「そう……してみようかな?」

「どうするの。決めて」

 アイは急かされた。彼は急かされるのは苦手だった。他人が怖いというのの一種に時間の共有が難しいというのもあるのだ。特に歳上のタテカワさんのような女性に、こういうふうに硬い口調で言われると、怒られているような感じがして、兎にも角にもと言った感じで答えを口から出してしまうのであった。

「はい。お願いします」

「紹介して欲しいのね」

「ええ、はい」

「わかった……」

 こういうことで、アイは予定にもなかった上層階での暮らしを自ずから決めてしまった。大体、家庭教師の仕事はしないに賭けたかったのだ。その上、よしんばするにしても、彼は自分の家を今までの賃貸部屋から知り合いの持ち物であるお堂へ移そうと思っていた。そこでの生活がどうなるかだとか、実際的な仕事にかかる道のりの利便さなどまでは考えてなかった。理屈も理由もないなんとなくで、お堂なら中層階の中でも一番上の方なので近いだろうというだけの感覚であったが、とにかくそうだった。

 けれどアイはさっと答えたことによる、うまくやり切ったという高揚感、仕事をし終えた人間の満足感に擬似的に浸ることができた。彼女の期待に応えたろうか。今のは、悪くなかった気がする。と自分を振り返った。それと一緒に足も止まって、先に歩くタテカワさんの遠ざかる背中を見ていたが、ふとタテカワさんも立ち止まった。

「ちなみに、わたし今日しか休みないんだ。明日だと……あんたどう言う予定? 夜の十時集合でもいいかな」

「じゅうじ? 何がですか?」

 アイは幸せそうに微笑んで聞いた。半分夢の中である。

「だから! 友達紹介して部屋に住めるか聞くから、あんた時間空いてるのかって!」

「はいっ、あいてます」

「じゃあ、ここでお別れ。これに乗って中層階まで行けば、大体そこからはわかるでしょ。もう、酔いも抜けてきてるみたいだし」

 と彼女は暗闇に手をついて言った。アイが近づいて見てみると、それはたしかに上下であった。アイはまた頷いた。

「明日の夜10時に、この上下が上層階へ着くところで」

 そう言って彼女と別れるのだった。

 アイはそれに乗って中層階まで上がると、見慣れた場所に出ることができ、そこからは簡単に家に帰ることができた。


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